揺れる心
赤の離宮の建物は、簡単に言えば、上から見て「凹」の形になっている。
その窪みの部分には大きな庭園があって、噴水が設えられていたり、色とりどりの美しい花々が植えられたりしているのだが、それとは別に、建物と渡り廊下で繋がった賓客用の部屋のすぐ傍にも、小さな中庭がある。
正門の反対側、他のどの門からも離れ、敷地のごく奥まった場所に造られたそちらの中庭は、噴水も花もないひっそりとした外観で、しかも非常に人目につきにくい。というより、離宮の主がその気になれば、完全に外部からの視線も出入りも遮断してしまうことが出来るという、奇妙な配置で造られている。
「こんなところに庭があっても、見る人がいないじゃない。意味ないよね?」
と、ファルは不思議がったが、意味がないも何も、最初から「人が入れない」ように設計され造られた中庭なのだろう、とキースは考えていた。もともと離宮は砦としての建造物であったのだろうし、隠したり隠されたりするための通路や空間があちこちにあってもおかしくはない。
現在はそれらがどういった目的で使用されているのか定かではないが、いずれにせよロクでもないことには違いない。賓客を泊まらせる部屋の近くというのも、いかがわしい匂いがぷんぷんする。だが、そういったことを積極的にファルに教えてやる気にはなれなかったので、適当に濁しておくことにした。
──この中庭がどんな理由で造られたにしろ、事を秘密裏に進めたい今現在のキースたちの役には立っている、というのは事実なのだ。
ガン、という発砲音が空気を振動させるように響く。
キースが撃った銃弾は、前方離れた場所にある標的の真ん中よりも、若干外れた位置を貫通した。
手に持つ黒い銃の口からは、白い硝煙が細く揺らめいて立ち昇っている。腕を真っ直ぐ前に突き出した姿勢のまま、キースはかすかに首を傾げた。
「なかなか上手くいかないな」
独り言のつもりで零したら、傍らに立つクイートが「冗談じゃないよ」と苦々しげな顔で呟いた。
「何が上手くいかない、だよ。あのさキース、君、最初にその銃を持ってから、どれだけの時間が経過したと思ってるわけ? ていうか、それを渡して、使用方法と注意点を説明して、じゃあ試しに撃ってみる? ってところも含めて、まだ一時間も経ってないんだよ」
「時間がかかりすぎだな」
むっつりして言うと、クイートが憤然として怒鳴った。
「逆だよ、逆! なんでそんな驚異的に習得するのが早いのさ! 尋常じゃないよ。ほら、ゴウグがさっきから茫然自失して口もきけなくなってる」
クイートが指差した方向に目を向けると、キースに射撃訓練をさせることを徹底的に反対していたゴウグが、半分白目になったような状態で棒立ちになっている。
子供に出来るわけがない、子供に銃なんて持たせるものじゃない、いくら生意気だって子供は子供なんだからそんな危険な真似をさせるわけにはいかない──と、さんざんキースの神経を逆撫でするような台詞を連発してくれた相手なので、もちろん同情心などというものはない。キースはそちらを無視して、再び的のほうに顔を向けた。
「少々特殊な育ち方をしたんでな、武器には慣れてる。どんな種類の武器でも、コツさえ掴めれば、必要なものは大体同じだ」
動体視力に反射神経、集中力、そして勘。筋力や体力はどうしても天界にいた時より劣るが、磨き抜いたそれらは鋭敏なまま残っている。キースは旅の途中で銃の知識も仕入れ、使い方も照準の合わせ方も、一通り頭に入れてある。あとは実際の感覚を身体に叩き込めばいいだけだ。
「特殊な育ち方というと?」
「説明する必要はない」
クイートの問いにすげなく答えて、もう一度引き金を引く。さっきの弾は中央の赤い円から右側を貫いたが、今度はわずかに左側に寄った。
「これは、兵やお前が持っていたものよりも小型なんだろう?」
「女性用だからね」
「サイズが上になるほど、威力も大きくなるのか」
「そりゃそうだ。でも、君には無理だよ。大きな銃は重量があるし、反動も半端じゃない。君でも、自分に出来ることと出来ないことくらいは弁えているよね」
キースはため息をついた。いくらこういったことに適性を備えているとしても、そしてこの地界にある武器の種類が豊富だとしても、自分の肉体が子供のものである以上、おのずと制限が出てくるということだ。
狭い範囲内で、どうやったら最大限に効率よく戦えるのか、よく考えないと。
──天界に行くまでに、出来る限りの準備が必要だ。
「まあ、ファルさま!」
その時、慌てたようなエレネの声が聞こえた。
振り向くと、後方で、先程までキースの射撃を感嘆しながら大人しく見学していたはずのファルが、中庭の端に植えてある背の高い木の幹に両手を廻して、しがみついている姿が目に入った。
靴を脱ぎ捨て、裸足になったファルは、そのまま枝を掴み、窪みに足をかけながら、するすると上に登っていく。間違ってもスカートを履いた年頃の娘がやることではないが、その器用さと身軽さに、キースは思わず感心した。
……外見は綺麗になっても、中身は子猿のままか。
内心で呟くと同時に、クイートがぼそっと「子猿……」と洩らしたので、素早く足を踏みつけてやった。
「いって!」
「あいつをそんな風に呼ぶな」
「絶対、君も今、同じことを思ったよね?」
「おれは口には出していない」
「やっぱり思ったんじゃないか!」
やかましいクイートを放置して、「ファル」と声をかける。ファルがこちらを向いて、にこにこ笑いながら片手を振った。あのバカ、木を登りながら、何やってんだ。
「危ないぞ」
「へいき、へいきー。あのね、この木の上のほうに鳥の巣があってね、そこから卵が落ちちゃったの。お母さん鳥が困ってるから、戻してくる」
言われてみれば、ファルの洋服の袖口付近が、もこりと丸く膨らんでいる。どうやらあの中に鳥の卵があるらしい。
木の上方では、生い茂る葉に隠れて見えないが、確かに鳥の鳴き声と、バサバサという羽音がした。
もちろん、キースの耳には、キイキイという騒がしい声にしか聞こえない。
「──天人っていうのは、不思議な生き物だねえ」
クイートが、ぽつりと小さな声で言った。
「…………」
キースはそれに対して何も答えなかった。その目は、どんどん上へと進んでいくファルから離れない。
エレネが心配そうに両手を組み合わせながら頭上を見上げ、ゴウグまでが「おい、危ないぞ、早く降りてこいって!」とうろたえたような声を出しているのに、ファルは「大丈夫だよ」と、お構いなしだ。あっという間に目標地点に到達したらしく、鳥の羽音が一層大きくなった。
「うん、大丈夫、割れてないよ。これから気をつけて。元気な赤ちゃんが生まれるといいね」
どうやら鳥と話しているらしいファルの声も聞こえてくる。木の葉に遮られて、彼女の姿ははっきりとは見えないのだが、鳥がキイキイと鳴き声を上げてしきりと羽ばたいているためか、ぱらぱらと葉が地面へと降り注いだ。
「大丈夫、大丈夫。うるさくしてごめんね。だけど、あなたにも卵にも、悪いことはしないから」
ファルが宥めるような言い方をしている。さっきから続く銃声は、卵を守って神経質になっている母鳥を、不安にさせていたようだ。さすがにクイートでも、この秘された中庭から、鳥までは排除しきれなかったと見える。
母鳥がファルに何を訴えていたのかは判らない。鳥のほうは、卵の救い手であるファルに対して、害意を抱いたわけではなかっただろう。しかしとにかく、興奮した鳥が広げた羽の一部が、運悪く、ファルの目を掠めてしまった──らしい。
「わ」
驚いたように短い声を上げ、咄嗟に手で目を押さえたファルの身体が、ぐらりと不安定に傾ぐ。エレネが悲鳴を上げ、ゴウグが駆けだした。
一瞬、キースの足も動きかけたが、思い止まった。
ザザザッと葉を揺らして木から落ちた──落ちかけたファルが、すぐに均衡を取り戻し、上体を起こしたのが見えたからだ。
ファルはそのまま、幹から手を離した。
エレネが目を瞠り、ゴウグが息を呑む。クイートでさえ、身じろぎもせずにその場に立ち尽くしている。キースもまた、その光景に目を奪われた。
ファルの背中に光の粒子が集まってくる。強い輝きが後ろへと伸びて、白い翼の形状をとりはじめた。透き通った柔らかな布のような、美しく澄んだ光の結晶体だ。
翼はバサッと音を立てて大きく動き、ファルの身体をふわりと持ち上げた。
あと少しで地面につきそうだった裸足が浮き上がる。空中を、白い羽根が舞った。軽い風を巻き起こし、ファルは飛んだ。その動きは、まるで体重を感じさせない。彼女自身が、風に踊る一枚の花弁のようだった。
ファルは真っ直ぐキースの許へ向かって飛んできた。すぐ間近にまで寄って、白い翼を横へと大きく張り、空中で静止する。キースが銃を腰のベルトに差し込み、両手を差し出すと、ばさりと羽ばたいて、ゆっくりと降りてきた。
──長く伸びた艶のある蜂蜜色の髪の毛が、風になびいて揺れている。
肌は健康的で張りがあり、滑らかで、血色の悪い栄養失調寸前の痩せこけた以前の姿など、もうすでに現在の姿に重ねるのも難しいほどだ。
ややふっくらとした頬には赤味が差しているが、もうそこから幼さはすっかり抜けている。繊細な線が、眩いほどの瑞々しさを伴って、小さな耳元からすっきりとした顎、細い首筋を辿り、形づくっていた。
やわらかな曲線を描く身体は、華奢でありながら弾力までも備えていて、衣服越しとはいえ、離れていた間の彼女の成長を窺わせるに充分足るものがあった。
美しい煌めきを放つ大きな双眸が、こちらに向けられる。
ぞくりとした何ともいえない感覚が、背中を駆け上がった。
キースがファルを抱き上げるような形になっているが、廻した両腕に重みは感じなかった。ほんの少し浮いたまま、滞空しているのだ。
ファルは、どこかぼんやりとした表情をしている。そういえば、翼を出している時は、意識があまり明瞭に働かないと、本人が言っていたっけ。
そういう時の彼女は、魂が抜けているというよりは、地上に生きる人間とは隔絶したような、神秘的な雰囲気をまとっていた。
「おい、ファル!」
慌てて走ってきたゴウグの大声で、ファルは我に返った。はっとしたように瞬きをし、同時に、背中の翼がさあっと周囲の景色に同化するかのように消えていく。すぐさまキースの腕にずしっとした重さが来て、両足に力を入れた。今の身体ではその態勢を維持することは無理なので、なんとか落とさないようにそろりと地面に降ろしてやる。
こちらを向くきょとんとした顔は、いつものファルのものだ。キースはほっとした。
「だ、大丈夫か?!」
ゴウグが焦ったように問いかけたが、ファルはけろりとしている。
「ん? うん、大丈夫だよ? あ、あっちも心配してるみたい。大丈夫だよって言ってくるね」
そう言って、元気よくバタバタと走っていった。その先には、胸に手を当てて硬直したままのエレネが立っている。木の上でキイキイと鳴き声を上げて騒いでいるのは、母親鳥だろう。そちらも心配しているらしい。
「まったく、ヒヤヒヤさせやがる」
腰に手を当てて、ゴウグが深い息を吐き出す。キースがその様子をじっと見ていることに気づいて、「な、なんだよ?」と眉を上げた。
「……お前、クイートの護衛じゃないのか」
「あ? なんだ突然。それがどうした」
「そんなに感情的かつ単細胞で護衛が務まるのか、と聞いている。もう少し自分を抑える訓練をしたらどうだ」
「ああ?!」
キースの冷静な指摘に、感情的かつ単細胞なゴウグはカッとなった。もともと彼は、いろんな意味でキースに対して反感を抱いている。子供に乱暴な真似をするような性格ではないが、この生意気な小さい頭を押さえつけて少し懲らしめてやろうと思ったのか、筋肉に覆われた太い腕が勢いよくキースに向かって伸びてきた。
キースはそれを難なくひょいと避けると、がら空きになったゴウグの脇を通ってするりと背後に廻った。
「お前のような筋肉バカは、力に頼りすぎるんだ。攻撃も単調で大振りになるから、つけ込む隙が出来やすい」
口を動かしながら、ゴウグの左足の膝と踵の中間地点に狙いをつけて蹴りつける。「でっ!」という叫び声を上げたゴウグは、さすがに倒れはしなかったものの、バランスを崩して一歩大きく前に踏み出した。
「この……!」
その格好で、顔を赤くして後ろを振り向く。しかしもちろん、逆方向から移動したキースの姿はもうそこにはない。あ? とゴウグの意識が逸れた瞬間、今度は前面から左の脛に蹴りを入れた。
「ぐあっ!」
同じ部位を前後から痛めつけられ、たまらずゴウグが片膝をつく。そしてすぐに、ぎくりと全身を強張らせ、蒼白になった。
すぐ前に立つ子供が、無表情で自分に銃を突きつけているのを、目にしたからだ。
「力だけじゃ、こんな風に簡単にやられるぞ。正確に相手の急所をつくことを考えて攻撃しろ」
「ぐ……」
ゴウグの青い顔が赤くなり、さらにどす黒くなる。屈辱に身を震わせ、ぎりぎりと歯ぎしりした。
「ちょっとキース、そのへんで勘弁してやってよ」
クイートの取り成すような言葉に被さって、「ゴウグさーん」と、呑気な声が飛んできた。
「こっちにおいでよー。そこにいると、キースに苛められちゃうよー」
ファルが手を振って、ゴウグを呼んでいる。誰が苛めてるんだよとキースは不満げに思ったが、ファルが本当に苛めっ子を咎めるような顔をしているのを見て取って、ふんとそっぽを向いた。面白くない。
「…………」
ゴウグは少々血走った目つきでキースを睨みつけていたが、やがて口を曲げ、のろのろと立ち上がった。
くるりと踵を返し、ファルとエレネのいるほうへと歩いていく。自己嫌悪と怒りを取り違えて噛みついてくるほど単純ではないらしい。自分の足りないところを認め、恥じ入る程度の度量はある、と言い換えたほうがいいか。
ゴウグは背中を丸め、いかにもしょんぼりと両肩を落として足を動かしていた。おいでおいでと手招きするファルは、これから一生懸命、あの大男を励ましたり慰めたりするのだろう。ますます面白くない。
「……けっこう心が狭いよね、君。エレネに対しても素っ気ないらしいし、実はファルがあの二人と仲良くしているのが、気に喰わなくてしょうがないんでしょ」
クイートが呆れたように言った。
「なんの話だ。おれはあいつに自覚を促してやっただけだ」
「自覚ねえ……」
含むような言い方をして上体を曲げ、キースの顔を覗き込む。
「──キース、君は本当のところ、何者なんだい? ファルと違って、体格や骨格は間違いなく子供なのに、君の精神は明らかに大人のものだ。俺は天界のことをよく知っているわけじゃないけど、それでも君のような技術を持った人間は、あちらでもあまり一般的ではないよね? その技術も、かなりの年数の経験を積んで得たものとしか思えない。おまけに、白雲宮のことに詳しく、天の一族とも何か因縁があるらしい、ときた。君は……」
「ファルが話さなかったことを、おれが話すと思うか?」
クイートの台詞が最後までいかないうちにぴしゃりと返すと、やれやれとため息をつかれた。
「まったく、君たち二人は手強いね。ファルなんてあんなにも抜けてるところがあるのに、肝心な部分になると貝のごとく口が堅くなる」
子供のようで、子供じゃない。ファルは以前からそうだった。キースが最初にファルを信頼できると思ったのも、彼女の中に頑丈な芯が入っているのを見つけたからだ。
ファルたちのほうに目をやると、エレネと二人でゴウグを囲み、あれこれと言葉をかけてやっていた。ぽんぽんと大きな背中を叩きながら笑いかけているファルを見て、甘やかしすぎなんじゃないか、とまた不愉快になる。
「リジーは継承争いでよく揉めると聞いたが」
「うん、まあね」
「あんなのが護衛で、よく今まで無事に生きてこられたな」
雲の上にいる天帝の後継者候補たちのことを頭に浮かべながら、キースは言った。影の一族という暗部における争いは別にしても、彼らの周りにはいつも複数の護衛がついていたものだ。ゴウグのような男がその護衛の中にいたら、まず真っ先に粛清の対象として存在を抹消されていただろう。
「そう厳しいこと言わないでよ。正確なことを言うと、ゴウグは俺の部下であって、護衛ってわけじゃないんだ。もちろん護衛の仕事をする時もあるけど、それが主ではない。……んー、側近、っていう表現がいちばん近いかな。いつも俺の近くにいて、俺の仕事を補佐するのが役目」
「あの男が?」
「うん。なんだい、その疑わしそうな目は。ゴウグの良さは、筋肉が発達してる、ってところだけじゃないんだよ」
「確かに、お前への忠誠心は人一倍強そうだ」
「まあね」
「あれなら、お前が危険に遭遇した時、跳ね返すことは出来なくても、勝手にお前を庇って自分のほうが死にそうだな。なんの疑問もなく、喜んで盾になるだろうさ」
「…………」
「そういう人間だから、お前はあいつを側に置いてるのか」
「……あのねえ」
クイートが苦々しい声を出して、キースのほうを向く。本気でイヤそうな顔をしていた。
「そういうことを無表情で淡々と言うの、やめてくれる? それじゃ、俺が悪魔のように血も涙もない冷血人間みたいじゃないか」
「違うのか」
「……違わないけど。確かに俺は、けっこう冷酷なところがあるし、自分の考えを実現させるためにわりと手段を選ばないところもあるけど」
肩を竦めて認めてから、クイートは顔を巡らせ、目線を別の方向へと移した。
そこでは、ファルとエレネが何かを喋りながら盛り上がっている。今しがたまで落ち込んでいたはずのゴウグも、身体を揺すって笑い声を立てていた。本当に単細胞だ。
「でもさ、自分がそういう人間だと判っているから、俺にはあの二人みたいな連中が必要なんだよ。底抜けに単純で、なんの疑いもなく俺を信じて、たとえ自分が死にかけても、また起き上がって俺について来るようなやつらがね。あの二人なら、確かにキースが言ったとおり、俺が危地に陥ったら身を挺してでも助けに来るだろう。たとえ俺が二人を自分の盾にするつもりだったとしても、それでもいいんだと言いきって突っ込んでくるだろう。……だから俺は、あいつらがそんな馬鹿げたことをしないように、つい、立ち止まっちゃうんだよ」
そう言って、少し苦笑した。
「俺は俺の中にどうしようもなく黒いところがあるのを知っているからね、同じような腹黒い人間は要らない。あの二人に足りないところがあるように、俺にも欠けたところがある。俺に欠けているものを、あの二人は持っている。だから近くに置いているし、これからも置き続ける。そういうことさ」
「…………」
キースは黙って、視線を手の中の銃に向けた。
黒光りするその武器は、小さな弾丸ひとつで、呆気なく人の命を奪い取ることが出来る。自分の手が血で汚れることもない。肉を抉る感触もなく、苦しみもがく悲鳴を聞くこともないのだから、格段に罪悪感は軽減されるだろう。キースにとっては扱うのが簡単すぎるくらいの武器。実際撃ってみたら、手応えがなさ過ぎて、拍子抜けするほどだった。
ファルはこれがどうしても好きになれないと言う。実を言えば、キースもそうだ。
もしも天界に銃があったなら、キースの人生は今とは違ったものになっていただろうか。
身体の向きを変え、腕を伸ばす。黒い標的に狙いをつけた。
──もしも、ユアンがクイートのようなあるじであったなら。
いや、もしもキースが、エレネやゴウグのような人間だったなら。
無意味な仮定だとは思う。過去に「もしも」をつけて悔やむほど、キースは感傷的ではない。しかしそれでも、頭を過ぎっていくものがあるのは止めようがなかった。
迷っているわけではない。キースの心はもう決まっている。ファルに手を貸す、というのとはまた別に、キースはキースで、どうしても天界に行かねばならない事情があるからだ。
なるべく早く、確実に。
……天人に会って、話をしなければ。
その過程で、決着をつけなければいけないことがあるのも承知している。そこでキースの内面にブレが生じたら、致命傷になりかねない。相手は、ほんの少しでも隙間があれば、瞬時にそれを見出して入り込む、天性の才能を持っている。強い心を保っていなければ、やられるのはこちらだ。
キースは口を結び、指に力を入れて、引き金を引いた。
鋭い銃声が響く。
発射された弾丸は、赤い円の中央を貫いた。
***
その夜、部屋で二人きりになった途端、早速ファルに昼間のことを叱られた。
広いベッドの上に向かい合って座らされる。ファルは真面目な表情できっちり膝を揃え、これではまるでキースのほうが説教されているようだ。
「ゴウグさん、ものすごく落ち込んでたよ。明日にでもちゃんと仲直りしてね。いい?」
「別に喧嘩をしたわけじゃない」
あの男の自覚を促してやっただけ、と、クイートに対して言ったのと同じ台詞を繰り返すと、ファルは眉を寄せた。
「そうだとしたって、あんな意地悪なやり方しなくても、キースだったらもっと他に穏便な方法がとれたでしょ」
「そこまで親切にしてやる義理はない。能天気なおまえはもう忘れているようだが、あいつら三人は誘拐犯の一味だ」
「まだ根に持ってるの? 今はもう、立場も状況も違うでしょ。わたしたちは天界に行かなきゃいけない。一応付きだけど、クイートたちは同じ目的を持った仲間で、これからいろいろと協力もしてもらわなきゃならないんだから。不必要な悶着を起こしても、お互いにとって良いことなんてないって、キースなら判っているよね?」
キースは、へえ、という顔でファルを見た。
「難しい言葉を知ってるな」
「皮肉は結構です」
つんと顎を上げる。認めるのは癪だが、可愛い。
「そういえば、最近よく本を読んでるよな」
そんなに難しい内容のものではないが、時間が空いた時などに、ちょくちょくファルが本を開いているのを目にする。天界にいた頃、一行目を読んだだけで降参していたことを考えると、驚くべき進歩だ。
「エレネさんとたくさん勉強したんだよ」
ころりと機嫌を直して、ファルがえへへと表情を崩した。ゴウグ同様、ファルも単純なのだ。
離れていた間、ファルはファルで何かを掴もうと、努力していたんだな──とキースは思った。
使用人として朝から晩までこき使われ、その日の糧のことを考えるだけで精一杯、というファルのままであったなら、たとえ自分が天人という種であると知っても、「白雲宮の支配から同胞たちを解放したい」なんて発想は、頭の片隅にも浮かばなかっただろう。
むしろ、その時事実が発覚していたなら、なんの疑問もなく、唯々諾々と奴隷の立場に甘んじることを受け入れたかもしれない。
──白雲宮にいるという天人たちも、そういう感じなのだろうか。
「エレネさんには勉強を見てもらって、ゴウグさんには体を鍛える手伝いをしてもらったの」
ファルの声で、キースは目の前の現実に思考を引き戻した。
「腕にもちょっと筋肉がついたでしょ? これなら、キースをちゃんと天界にまで運べると思う」
「そうだな……」
洋服の袖を捲り、力こぶを作るように腕を曲げるファルを見ながら、少し上の空で返事をする。
キースを抱えて天界まで連れて行くのはファルの役目。そういえば、その問題もあったのだったか。
「翼は天人の力そのもの……」
呟くキースの声は、小さすぎて、ファルの耳には届かなかったようだ。
「手足も伸びたし、胸もばばーんと大きくなったんだよ」
「へえ」
キースはその部分を衣服の上から一瞥して、ものすごく適当な返事をした。確かに多少は発育が見られるが、そんな形容をつけるほどではない。
「あっ、その冷たい目、絶対に信じてないね? 本当だもん! 服の上からだとわからないんだよ。実物はばばんとしてるんだから。見る?」
「うん」
いかにも冗談ですというような顔とからかうような口調がイラッときたので、真顔で頷いたら、ファルがぴたっと動きを止めた。
言葉に詰まり、首筋から額にかけて、がーっと赤くなる。
「…………」
一応、ちゃんと娘らしい羞恥心も身についてはいるらしい。ファルは時々言動があけすけなので、こいつ本当に意味が判ってるのかと疑問に思っていたのだが、少し安心した。
「あ、うん、ごめん、冗談、です」
ファルが手をぶんぶんと振って、座った姿勢のまま、ベッドの上を後ずさっていく。もちろんキースも冗談で返したのだが、意外とその赤く染まった顔が悪くなかったので、真顔を保つことにした。
「別におれは構わないぞ。場所も場所だし」
「え、いや、あの、や、やっぱりこういうのは、キースのような子供には、刺激が強すぎるっていうか」
「誰が子供だ」
逃げる前に素早く手を伸ばして、腕を捕まえた。そのままこちらに引っ張って、ころんと腕の中に入ってきた身体を閉じ込める。
「ま、まだちょっと、早いんじゃないかな? せめて二、三年して、キースがもっと大きくなってからのほうが」
「──……」
キースが口を噤むと、ファルの表情からへらへらした笑いがすっと消えた。不意に引き締まったその顔を見て、こいつはけっこう鋭いところがあるんだったと思い出し、自分の失態に内心で舌打ちした。
「キース?」
何かを読み取ろうとする瞳が、こちらを覗き込む。
キースは表情を変えなかった。何を聞かれても、動揺を表に出すほど間抜けじゃない。しかしファルは、キースが自身ではコントロール出来ない「色」を読む。それを思うと、真っ直ぐに向けられる視線をちゃんと受け止められるのかどうか自信がなかった。
キースはそのまま強引にファルと唇を合わせた。
ファルは驚いたように目を見開いて、それから少し非難するようにキースを見た。こんなやり方で黙らせようとするのか、と言いたいのだろう。しかし拒絶はせずに、静かに目を閉じた。しょうがないから誤魔化されてあげるよ、というように。
キースが隠そうとしているものを、無理に暴こうとはしない。そういえば、こいつはそういう女だった。ずっと前から。
甘く震える吐息に誘われるように、口づけを深めていく。ファルの手が、ぎゅっとキースの衣服の端を掴んで握りしめている。
──と、いきなり、その手がすとんと滑り落ちた。
全身から力が抜け、背中がくにゃりと曲がる。ファルの唇が離れ、キースの肩に小さな頭が倒れこむように乗せられた。
ファルは穏やかな寝息を立てていた。
「ファル?」
声をかけたが、ファルの閉じられた瞼はぴくりとも動かない。こんな時、何度起こしても呼びかけても無駄だということは、キースは嫌というほど経験済みだ。
この強烈な睡魔に捕らわれたら、ファルは自分の力で現に戻って来るまで、何をしても起きない。
キースはぐっと目を瞑って、ファルの身体に両手を廻し、強く抱きしめた。
安らかな寝息が耳元で聞こえる。密着した胸は規則正しく上下して、心臓の動きを伝えている。たった今唇で熱を分け合ったファルの身体は温かい。
でも、いつの日か、それすら感じられなくなる。
いつか……いつだ? ファルは翼を実体化させ、天人としてはっきりと覚醒したあの日から、明らかに睡眠に憑りつかれていた。博士が言っていた三年までは、まだ期間があるはずなのに。
個人差があるのか。それとも、急激に天人として目覚めたのがいけなかったのか。だったら覚醒させずにここから連れ出していれば、ファルはずっと元気でいられたのか。
いや、そうだとしても、どちらにしろ時間の問題だったろう。天界からも地界の国々からも追われるようになったら、遅かれ早かれ限界は来ていた。
いずれ、ファルは眠ったまま、それっきり、目を開けなくなる。
この寝息が聞こえなくなり、心臓の動きも止まり、氷のような骸を抱くことになるのかと思うだけで、胸が冷たくなった。居ても立ってもいられないような焦燥と、心の底からの恐怖に襲われる。
もう一刻の猶予もない。
なんとしても早いうちに、天界に向かわないと。
……たとえそこに、何が待ち受けているのだとしても。




