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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第三部・涯
61/73

王の器



 緩やかに穏やかに、時間は流れていった。

 誰にも手出しも口出しもさせない、と請け負ったクイートの言葉どおり、キースは静かな環境で、傷の療養に専念することが出来た。

 姿を見せるのはクイート、エレネ、ゴウグといういつもの面子と、一日一度は必ず様子を見に来るお説教好きの老人くらい。それ以外は誰もこの部屋に入ってくることはなかったし、窓から見かけるようなこともなかった。

 渡り廊下で繋がった離宮のほうでは数多くの使用人が働いているのだろうし、もちろん兵たちもいるのだろうが、その存在をまったく感じさせない静かさだ。外部でどんな騒ぎが起こっていようと、それがこちらにまで伝わるようなことは一切なかった。

 クイートは性格はあまり良くないかもしれないが、約束を違えることはしない。今はそれに目一杯甘えることにして、ファルとキースは束の間の平穏を噛みしめるように、そして、離れていた空白を埋めるかのように、二人の時間をゆっくりと過ごした。



          ***



「ふむ、順調に回復しとる」

 キースの傷を診た老人が満足そうに出したその言葉に、ファルは安堵の息を零した。

 何かとガミガミ小言を落とす口やかましい人物ではあるが、キースによると、医者としての腕は確かであるらしい。その人がそう言うのなら、本当にもう大丈夫なのだろう。

 ファルは彼に名前を聞いたのだが、ジロリと睨まれて、「わしの名なんぞ覚えなくて構わん」と言われてしまったので、それについては未だに知らないままだ。いろいろ不便で困るので、とりあえず、「先生」と呼ぶようにしている。

 厳密に言うと、先生は正式な医師ではないのだそうだ。離宮における侍医のようなものなのかなとファルは考えていたのだが、そういうわけでもないという。「なんでも屋みたいなもんだ」という先生の説明では、謎はますます深まる一方である。


「あのガキは昔から、厄介事が起こるとすぐに、わしに押しつけてくるんだ」

 先生が忌々しそうに言う「あのガキ」とは、どうやらクイートのことであるらしい。


 一応仮にもリジー国の王子にその呼称はいかがなものかと思うのだが、先生は気にも留めていない。クイートが幼い頃から近くにいて、迷惑をかけられっぱなしだったとぶつぶつ続けたが、結局のところ、詳細はさっぱりだ。

「子供の時からいけすかないガキだったが、成長するにつれて手に負えなくなってきた。エレネやゴウグのようなやつらを傍に置いているところを見るに、自分のことをちったあ知っているようだから、その分、あれの父親や兄弟よりはマシだがな。お前らも気をつけるんだぞ。あいつが王になったりしたら、リジーを途方もなく栄えさせて稀代の名君と呼ばれるか、あるいは草も生えないほど跡形もなく滅ぼすかのどちらかだ」

 先生は怒ったような顔をしてそう言ったが、大体いつもそういう顔の人なので、出している言葉が本気か冗談かの見極めがつかない。


「──あと十日ほどで傷が塞がるだろう。そうしたら動いてもいい。動けるようになったら、ここから逃げだす算段でも考えろ。エレネとゴウグにはもうなにを言っても手遅れだが、あのガキに付き合ってると身がもたないぞ。いいな?」

 先生は、キースの肩の包帯を巻き終えると、自分の治療道具を素早くまとめながら、厳めしい顔つきでそんな忠告をした。


「まったく、お前ら二人して、いつまでも痩せっぽっちな身体をしおって。もっと飯を食わんか。足りないなら量を増やしてもらえ。どうせあのガキの懐から出とる金だ、遠慮せずにじゃんじゃん遣ってしまえ。わしは昔、えらい貧乏人でな。その時を思い出すから、細っこい女子供は好かん」

 昔はどうか知らないが、今はずいぶんお腹周りに貫録のついた先生は、ぶくぶくと太った女性と子供がお好みであるらしい。天界にいた頃のファルを見たら、もっと怒られていただろう。

「たくさん食って、たくさん寝ろ。今のお前らがするべきことと言えば、それだけだ。余計なことは考えんでいい。いいか、わかったな、じゃあまた来る」

 最後まで早口で叱りつけるように言ってから、先生は来た時と同様、風のように去っていった。いつものことながら、返事をするヒマもない。

 ファルとキースは互いの目を見交わして、同時に軽く噴き出した。


 ──あと、十日。



          ***



 エレネは相変わらず、身の回りの世話をするため、ちょくちょく部屋にやって来る。

 身の回りの世話といっても、キースがファル以外の他人に手を出されることを断固として拒否するため、おもに二人分の食事や着替え、シーツの替えなどを運ぶことが仕事だ。

 手持無沙汰のファルがせっせと掃除ばかりするので、部屋はどこもかしこもぴかぴかで、何もすることのないエレネは、お茶の時間に腰を下ろしてお喋りしていくのが日課となっている。

 エレネとはほとんど喋らないキースに対しては、どういう態度を取っていいのか今ひとつ決めかねているようだが、ファルへの接し方は以前と何も変わらない。いつも優しく朗らかに微笑み、話してくれる。

 ある日、どうしても気になったので、ファルは彼女に訊ねてみることにした。


「……エレネさんは、わたしが天人だと知って、どう思ったの?」


 エレネはひとつ瞬きをしてから、ファルのことを見返して、手にしていたカップを静かにソーサーに置いた。

「ではお聞きしますが、私がそれを知ってどう思うであろうと、ファルさまは思われたのですか?」

 クイートのように持って回った言い方をするのは、エレネにしてはあまりないことだ。ファルはちょっともじもじして、首を縮めた。

「やっぱり……気味が悪いとか、怖いとか、そう思うんじゃないかなって。だってエレネさんは、クイートに教わるまで、天人っていう存在のことも知らなかったんでしょ? そういう未知の生物に対して、まず怖れの感情が湧くのは、普通のことだと思う」

「……そうですね……」

 エレネは小さく呟いて、視線を宙に投げた。そうやって、彼女の中にあるものをどうやって外に出そうかと、整理しているようだった。

「正直に申しますと、ファルさま」

 エレネの顔が再び、正面切ってファルへと向かう。

「ファルさまが空を飛んだ時、私は自分の目を疑いました。ファルさまが窓から身を投げたという現実から目を背けたいばかりに、都合のいい夢でも見ているのではないか、とも思いました。自分の意識がはっきりしていると判ってからも、すぐには信じられませんでした」

 ファルは頷いた。それはそうだろうと、心から思う。あの時、ゴウグだって似たようなことを言っていた。


「──でも、怖い、とは思いませんでした」


 それを聞いて、おそらくファルは自分で意識せずとも、一瞬眉を寄せてしまったのだろう。「信じられませんか」と言って、エレネが思わずというように、笑い出した。

「クイートさまからお聞きしましたが、ファルさまは以前、他の天人と会われたそうですね?」

「え……うん。会ったというか、見ていただけだけど」

 金枝宮での出来事は、すでにもうキースにも話してある。ベッドにいるキースは、ただ黙って二人のやり取りに耳を傾けていた。

「ファルさまはどう思われたのでしょう? まだ覚醒していなかったその時のファルさまにとって、その天人も未知の生物であったはず。気味が悪い、怖い、と思われましたか?」

「…………」

 ファルはその時のことを思い出して考えた。はじめて天人を見た時、あの翼を目の当たりにして、自分はどう思ったのだったっけ。ただひたすら混乱していたことばかりが、印象に残っている。

 改めて考えてみれば、怖いという気持ちは確かにあったけれど、それはおもに、自分自身に対してのものだったような気がする。もしかしたら自分が彼女のような「人ではないもの」であるのではないか、という怯え。

 ──そして、首に巻きついていた太い首輪と鎖。天人がそれに象徴されるような、「隷属し飼育される生き物」であったという事実と、彼女らを管理する立場にいる者への、根元的な怖れだ。


 あの時、ファルには見えたのだ。

 その首輪と鎖の影にあるもの。天人の上に主人として君臨して、彼女らを迫害し、その生を搾り取ろうとする、傲慢で尊大で不気味な「誰か」の存在が。

 それがファルに、恐怖心と、とめどない震えをもたらした。


「……あの人のことを怖いとは、思わなかった」

 天人の女性に対しては、憐れだと思いこそすれ、嫌悪感は一切、持たなかった。ファルが首を横に振って否定すると、エレネはにっこりした。

「そうでしょう。あの輝く白い翼は、人に恐怖を与えるようなものではございません。──いいえ、それも正直ではありませんね。ひょっとしたら、あの時翼を出して空を飛んだのがファルさまでなければ、私はどう思ったのか、しかとは判りません。何も知らなければ、天人というものを、受け入れられなかったかもしれません。ですけど」

 エレネが手を出し、テーブルの上にあったファルの手の上にそっと乗せた。

「私はファルさまがどういう方なのか存じていますから、天人であったと知っても、怖いだなんて思いませんでした。翼があってもなくても、ファルさまはファルさまですから」

 エレネの台詞は、キースが出したものとほぼ同じだった。ベッドのほうに視線を向けてみれば、キースは黙ったまま、ちょっと面白くなさそうに口を結んでいる。

「……言っておくが、同じ言葉でも、重みが違うからな」

 どうやら、エレネに対して、少々対抗意識を燃やしているらしい。キースはたまに、大人げない。

「…………」

 ファルは自分の手の上に重ねられたエレネの細い手に目を戻して、大きく息を吐き出した。

 キースにもそうだったが、こんな時、なんと返していいのかよく判らない。


 胸の中に溢れてくる温かな感情があることを、どうすれば彼らに伝えることが出来るのだろう?


「ファルさま、この世の中において怖いのは、そういうものではありません」

 エレネの手に力が込められる。顔を上げると、彼女は表情を引き締めていた。

「本当に怖いのは、人間の奥底にある欲望なのです。私は幼い頃から、人の醜いところをたくさん見てまいりました。真に恐ろしいのは、己の欲を制御できない人間だということを、私はよく知っております。──よろしいですか、ファルさま。どうしても、どうやっても、救いようがないもの、というのが、この世の中にはあるのですよ。どうかそれを、忘れないでくださいまし」




          ***



 もうベッドから出てもいい、と先生から許可が下りた日、部屋に顔を出したクイートに、キースが「話をしよう」と切り出した。

 クイートの表情が真面目なものになった。これまでどれだけ話をしても、決して結論を急かすようなことは言わなかった彼だが、きっとこの時をずっと待っていたのだろう。

 寝室を出て、三人で隣の居間へと移る。キースの動作も歩きも滑らかで、今の今までベッドに縛りつけられていた怪我人であったことを窺わせない。さてはこっそり身体を動かしていたんじゃないか、とファルは疑った。

 ずっと同じ部屋にいたとはいえ、キースと違って自由に動けるファルは、外の空気を吸いに中庭に出たこともあったし、渡り廊下をうろうろしたこともある。四六時中監視していたわけではないのだから、ファルの目が離れた隙に、キースが勝手に運動していたとしても不思議はなかった。


 それに大体、最近の二人は、睡眠時間も違う。


 キノイの里にいた時は、キースを起こすのはファルの役目であったのはずなのに、ここでは完全にそれが逆転していた。

 朝目覚めるとキースはすでに起きているし、日中うっかりファルが昼寝してしまっても、キースがそれに付き合うことはない。ファルが寝ている時にキースが何をしていても、当然ながら判りようがない。

 悔しいやら恥ずかしいやら。ここに来てからのファルはよほど怠惰な生活をしていたのかと、キースは思っているのではなかろうか。自分で言うのもなんだが、塔の上の部屋で、ファルはかなり規則正しい毎日を送っていたはずだ。

 再会した初日のように、長時間眠り込んでしまうことはない。朝もエレネかゴウグが来る前には、起きられている。日がな一日うつらうつらしている、というわけでもない。


 ──でも、不意に。

 なぜか、急激な眠気に襲われることが、たまにある。


 何もしていない時、本を読んでいる時、というのならまだ判る。しかしその眠気は、時間帯も状況も関係なく、いきなりやって来る。

 たとえば、キースと話している時に。食事をしている時に。室内の高価そうな家具を緊張しながら磨いている時に。

 どう考えても、眠くなるなんてありっこない、と思うような時に、ふと気がつくと瞼が半分くらい下りているのだ。しょっちゅうあるわけではないが、無視できないような頻度で、ぱたっと寝てしまうことがある。いくらファル自身が気を張っていても、いつの間にか手を伸ばしてきた睡魔に捕まって、闇の中へと引きずり込まれている。


 わたし、もしかして、自覚がないだけで、調子が悪いのかな?


 何度かそんなことがあったものだから、ファルが不安になるのも無理はないだろう。

 しかし先生には、「お前はちいと細っこいが、どう見てもこれ以上ない健康体だ」とお墨付きをもらったし、食欲がなくなるということもまったくない。むしろ、キースと再び一緒に食事がとれるようになってから、口に入れるものすべてが美味しく思えて、食物摂取量は増加の一途を辿っている。

 体調にも変化はない。ただ、時々猛烈に眠くなる、というだけだ。そんな病気、ファルは今まで一度も耳にしたことがない。だとしたらやっぱり、キースが傍にいるという安心感が、ファルに眠気を催させるのか。

 けれど──


「ファル? どうかしたかい?」

 クイートに声をかけられて、はっと我に返った。

 居間のテーブルを挟んで、クイートがファルの顔を覗き込んでいる。ソファの隣に座るキースもこちらを見ていて、ファルは慌てて手を振った。

「あ、ごめん、ちょっとぼんやりしてた。なんでもない」

 クイートは「やれやれ、君はいつも呑気でいいね」と呆れたように肩を竦めたが、キースの視線はなかなかファルから離れない。



 ……そう、この目だ。

 心配そうな。何かを危惧するかのような。苦しいのをじっと押さえつけているかのような。

 ファルが朝起きる時、昼間ふと寝入ってしまった時、目を開けると、必ずすぐそばにキースのこの顔がある。

 そして、ファルが起きたのを確認して、ようやくほっとしたように息をつくのだ。最初の時以外、ファルはキースが眠っているのを見たことがない。彼はちゃんと睡眠をとっているのだろうか。

 もしかすると、ファルが寝ている時、キースはいつもそのすぐ近くで、じっと待っているだけなのかもしれない。

 ファルが起きて、目を開け、「おはよう、キース」と笑いかけるのを。

 ──どうして?



「まずは、お前の話を聞きたいんだが」

 キースの視線がようやくファルから外れ、向かいに腰かけるクイートへと向かった。ファルは内心のあれこれを下のほうへと沈め、同じようにそちらに目を向ける。

「いいよ。何が知りたい? ファルに話したようなことは、もうほとんど君にも話したはずだけど」

 いつものようにクイートは軽い口調で答えたが、キースはにこりともしない。

「……お前は、何を望んでいるんだ?」

 その問いに、クイートは一瞬、口を噤んだ。

「いやだな、それについては話したはずだけど。ファルに地界側の天人となって欲しい、って」

「それは『手段』だろ。おれが言っているのは、お前が最終的に、天界とこの地界をどうしたいと思っているのか、ということだ。天界と地界との間で、友好的な関係が築ければそれでいいのか?……そんなわけないよな」

「…………」

 そんなわけがない、と決めつけるキースの言葉を、クイートは否定しなかった。

 しばらく黙って、ソファの背にゆったりと身を預ける。組んだ足の膝の上に手を置いて、とん、と指で叩く仕草をした。

「あのね、キース、ファル」

 ややあって、クイートが口を開いた。

 彼がこちらに向ける眼差しは、今までのどんな時よりも、得体が知れないように映った。


「──俺は、我慢が出来ないんだよ。天界に押さえつけられている地界の現状も。吸い上げるだけ吸い上げて、大きな顔でのさばっている天界人も。文句は言いながら、何ひとつとして有効な対策も取れず、目の前の日々を平穏に過ごすことで見ないフリをしようとしている地界人も。誇りも自尊心もなげうって、奴隷の立場に甘んじて諦めきったような目をしている弱い天人も。……すべてに、我慢がならない」


 クイートの声が、普段よりも一段階ほど低くなった。底のほうで強い光を放つ瞳に、ファルの背中が冷たくなる。

「ファルの翼を使って、何をしようとしていたんだ? まさか、本気で天界と地界の仲介役にしようと思っていたわけじゃないんだろ」

「まさかね」

 淡々としたキースの問いかけに、クイートも唇の端を上げて返した。

 ファルは困惑した。キースとクイートは何の話をしているのだろう。二人の間に流れる空気は、どこまでもひんやりとしていて、軋む音さえ聞こえてきそうなほどだった。

「他のやつらはそう考えるかもしれないけどね。でも、そんな希望も期待もバカげてる。あっちにとっちゃ、ファルは力なき小さな天人だ。話をするまでもなく殺して、それで終わりさ。そうだろう?」

「その通りだな。じゃあ?」

 クイートはひとつ息を吐き出した。


「……ファルが自在に飛べるようになったら、俺を天界に連れて行ってほしいと頼むつもりだった」


 クイートの言葉に、ファルは驚いたが、キースは微塵も驚く様子は見せなかった。腕を組んでクイートを見返す彼の目は、鋭く険しい。

「天界に行ってどうする? ファルの代わりに天帝に会って、リジーの王子として直談判でもするつもりだったか? もう地界には干渉しないでくれと。あるいは、天帝を銃で撃って一矢報いるか? そこまでめでたい頭をしてはないだろう」

「まさかね」

 クイートはもう一度言ってから、ファルのほうをちらりと一瞥し、口を閉じた。

「天人として覚醒したファルを上手いこと言いくるめて、天界まで自分を連れていかせる。着いた先は白雲宮だ。そこにいるのは天帝だけじゃない。お前は、何をしようとしてたんだ?」

 キースに追及されて、クイートは自嘲気味に唇を歪ませ、視線を下に落とした。


「──白雲宮にいる天人を(・・・・・・・・・)すべて殺す(・・・・・)


「クイート!」

 思わず、ファルは大声を上げていた。顔から血の気が引いている。クイートは目だけを上げて、ファルを見た。

 その顔に、いつもの笑みは欠片もない。

「天界と地界を行き来できるのは天人だけだ。天人がいなくなれば、天界人は地界に関与する手立てを失う。だったら天人をすべて根絶やしにしてしまうのがいちばん確実じゃないか。天人は、弱すぎるがゆえに、空の上に無法者の楽園を作り出してしまったんだ。そして今も、罪人の片棒を担いでいる。彼らはそろそろ、その罪を自ら贖う頃合いだよ、そうは思わないかい?」

「そんな──」

 感情の抜け落ちた、まったく温度のない声に、ファルは眩暈がした。


 クイートまで、あの可哀想な天人たちを、家畜のように「処分」しようというのか。


「数百年前に起きた出来事の再来だな。今度はリジーの王子が、虐殺した天人の血で天界と地界を染め上げようというわけだ」

 キースが皮肉っぽく言ったが、クイートの表情は変わらない。

 二人の剣呑な視線が宙で絡み合う。ぴんと糸を張ったような、一触即発のその雰囲気の中で──


「……でも、無理だ」

 キースがあっさり断言すると、クイートはふっと口から息を噴き出した。


 急に、その場の張り詰めた空気が緩んだ。

 キースの目つきから険しさがなくなって、クイートもおかしそうにくくっと喉の奥で笑いだす。ついていけないファルは、ただオロオロするばかりだ。

「安心しろ、ファル。この男にそんなことは出来やしない。心情的、性格的に出来ない、という話じゃなく、単純に能力が足りないんだ」

「の、能力って」

「こいつは、おれに指一本捻られたくらいで、みっともなく悲鳴を上げて助けを求めるような男だぞ」

「……うん、なんか、ちょっぴり悪意を感じる言い方だけど、そうだね」

「そんなやつが、あの警戒の厳しい白雲宮に潜入して、おれでさえ知らない場所に隠されている天人を探し出し、手にかけるなんてこと、出来ると思うか? こいつが言っているのは、ただの絵空事に過ぎない」

 すげなく言いきるキースにぽかんとして、ファルはクイートに顔を向けた。彼はちょっとバツが悪そうに、赤茶けた髪を自分の手で掻き回している。


「……ま、そういうこと。勘違いはしないで欲しいんだけど、天人を根絶やしに、っていうのは確かに本気で計画を立てていた。でも、その計画が実行可能かと考えた場合、残念ながら俺には不可能だと判断せざるを得なかった、ということさ。一か八かに懸けて簡単に捨てていいような命は、俺は持ち合わせていないしね」


 ファルは混乱してきた。クイートが何を言っているのか、よく判らない。

「おまえには理解できないことだろうから、考えなくていい。こいつの物事の基準は、一般的な常識で測る善悪なんかじゃないんだ」

「……ごめん、わかんない」

「うん、ファルには判らないほうがいいよ」

 キースが放り投げるように言い、クイートはニコニコしている。ファルはエレネに心の底から同情した。こんな訳の判らない人間があるじでは、さぞ大変なことだろう。

「とにかく、そういうわけでさ」

「何がそういうわけ?」

「そういうわけで、俺の望みは究極的にはそれ。だけど現在の時点では、無理だと自覚もしている。そこを踏まえた上で、君たちはどういう結論を出したのか、聞いてもいい?」

「話が噛み合わない……!」

 ファルは頭を抱えて呻いたが、キースのほうは、特に噛み合わないとは思っていないようだった。

 少し無言で考えてから、再び問いかける。

「……もしも、本当に天界からの干渉がなくなったとして」

「ん?」

「その場合、この地界は荒れるだろうな。それは判っているか?」

 クイートはまた笑みを消して、キースの顔を見た。

「──判ってる」

 キースは無表情で容赦なく続けた。


「天界に押さえつけられている、とお前は言うが、それがあるから、これまで地界では大きな争いがなかった、という側面もあるんだろう? 天界に知識を取られることがなくなり、上からの脅威が消え失せたとなったら、地界の国と国はそれぞれ自分たちの利権をめぐって、遠慮なく諍いを始めるぞ。武器や兵器も、これまで止まっていた分、飛躍的に進化するはずだ。地界ではあちこちで戦争が勃発し、目覚ましく発展を遂げた兵器が幅を利かせて、多くの人間が傷つけられ、死んでいく。略奪も、占領も、侵略も、今度はこの地界で起きる。争いの結果、消えていく国だってあるだろう。このリジーだって例外じゃない。お前は、それでいいのか」


「…………」

 その口から紡がれる、突き放すような声音に、ファルの身体が震えだす。足許から冷気が忍び寄った。

 キースの言葉を杞憂だと笑い飛ばすことは、誰にも出来ない。クイートにもだ。笑えるとしたら、それはとんでもなく甘ったれた思い上がりだ、とキースは冷淡に判断するだろう。

「……それでもね、キース、ファル」

 しかしクイートは、静かに口を開いた。


「それがこの世界の、本来あるべき姿だというのなら、それでいいと、俺は思うんだよ。長い間、地界は天界に搾取されて縮こまってきた。本当なら、ここはもっと早くに、新しい時代を迎えていただろうにね。なぜ、何のために、こんな風に窮屈な思いをしなきゃならない? 地界の人たちは、数百年もの時間を無駄にした。もう充分だ。いい加減、俺はうんざりだよ。確かに争いはあるかもしれないが、手を取り合って進むこともあるかもしれない。それが可能性というものだ。際限なく広がっていく希望の形というものを、俺はどうしてもこの目で見たい。浅ましく醜くとも、この地界に生きるすべての人間が、好きなように手を伸ばして生きる権利があるんだ。……たとえそれが、自らを崖っぷちに追い込むような道だとしても」



 その時、常にクイートの周りを包んでいた、白い靄のようなものが晴れた。

 まるで地界そのもののような、生気に漲る原色ばかりの、鮮やかな色彩が現れる。

 ……それは彼の、苛烈なまでの、強い意志の色だ。

 何を犠牲にしても、どんなことをしても、クイートは必ず自分の意思を貫き、切り拓こうとするだろう。

 先生が言っていたことを思い出した。

 クイートが王になったら、リジーを途方もなく栄えさせて稀代の名君と呼ばれるか、あるいは草も生えないほど跡形もなく滅ぼすか──

 ファルには理解できないし、それが良いか悪いかは判らないが、クイートは確かに、王たる器量を持った人物なのかもしれなかった。



「…………」

 キースは無言でクイートを見つめていたが、やがて顔を動かして、ファルのほうに目を向けた。

 小さく頷かれて、ファルも頷き返す。キースはクイートを認めた。ここから先は、おまえの口から話せ、ということだ。

 ファルとキースの二人で話し合い、出した結論を。

「あのね、クイート」

 ファルはクイートの顔に視線を当てた。

「本当のこと言って、わたしは、地界のために、とか、地界に住む人たちのために、っていう風には考えられないよ。天界では、ずっと自分のためにしか生きてこなかった。そんな大きなもののために働けって言われても、まるで実感が湧かないし、その気にもなれない。デンさんや、ニグルさんや、キノイの里のみんな、それにエレネさんやゴウグさん、個人的には、つらい思いをしてもらいたくない人たちはこの地界にいるけど、その人たちのために、わたしに何が出来るのかは、まだよくわからない」

「……うん」

 クイートは表情を変えずにそれを聞いていたが、瞳には隠しきれない失望の色が浮かんだ。

「でも、誰かに押さえつけられたまま生きていくのは不自然だって、わたしも思う」

 天界で、ファルはいつも頭を低くすることを要求されていた。物心ついた時からずっとそうだったから、疑問も持たなかったけれど、それはやっぱり、ファルの心をぎゅっと握り潰してしまう行為だった。

 頭を上げて、目を真っ直ぐ前へと向けてみれば、心はこんなにも広がり、楽になれる。

 この世界に暮らすみんなが、そうやって生きられればいい。

 そこだけは、ファルはクイートに同意できる。


「だからわたしは、自分のしたいことをする」


 今の──周囲の人々からいろいろなものを与えられた今のファルの、したいこと。ファルにしか出来ないこと。他の人たちの事情も思惑も、その先のことも、とりあえず棚に上げて考えた時、ファルの頭に浮かんだのはそれだけだった。

 何かが何かに繋がって、他の何かを動かし、何かを変える。人は、この世界を廻す大きな力の、ほんの一部分に過ぎない。小さなものが膨大に積み重なって、ようやく大きなものを動かす力になっていくのだ。

 天界で一人で生きていたファルが、今ここにこうしていることに意味があるとしたら、そういうことなのではないかと思った。

「──君のしたいこと、というと」

 怪訝そうに問い返すクイートに、ファルは迷わず、口を開いた。


「白雲宮にいる天人のみんなを、自由にしてあげたい」


「…………」

 クイートは絶句した。それは彼の想像の範囲外の答えであったらしい。

「あの重そうな首輪と鎖を外して、白雲宮という牢獄から解き放つ。翼を広げて、好きなように空を舞えるように。笑えるように。わたしは、白雲宮と天帝の支配から、天人たちを救いだしたいの」

「そしてそれは、お前の望みとも重なることだろう?」

 キースが付け加えた。

「殺すんじゃなくて、解放するんだ。白雲宮から天人たちを救出し、天界人たちの手の届かないところへと逃がしてやる。翼のない天界人たちは、一旦逃げ出した天人を追って捕まえることは出来ない。結果的に、天帝および天界は、地界に干渉する手立てを失う。──これなら、いいんだろ?」

 クイートが自分の拳を口許に持っていった。ぐっと握られた拳が、細かく震えている。彼らしくもなく、興奮しているようだった。

「……でも、それは」

「もちろん、お前じゃ無理だ。他の誰でも無理だ。……でも、おれなら不可能じゃない」

「君が?」

 キースが頷いた。

「おれは白雲宮の内部にはある程度、通じている。あそこの警備がどうなっているのかも、その警備をどうかわして侵入すればいいのかも。そのための技術も身についてる。……天帝と、その直近の人間についても、よく知っている」

 静かな口調に乱れはなかったが、最後の部分を口にする時だけ、キースの視線がほんの少しだけ下を向く。

 けれどすぐに顔を上げて、彼はきっぱりと言いきった。


「ファルと一緒に天界に行くのは、おれだ」





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