胎動
薄っすらと目を開けると、ファルはベッドの中にいた。
弾力のあるマットと、さらりとしたシーツ、軽いのに暖かい掛け布の感触が気持ちいい。こんなにも穏やかな目覚めは久しぶりだなあ、と夢うつつのままうっとりと思い、ふわふわの枕に頬ずりをする。まだ半分くらい目を閉じた状態で、そろそろ起きないとね、と自分に言い聞かせるように胸の中で呟いた。
早く起きたって塔の中の一室ではさほどやることはないのだが、ぐずぐずしているとゴウグが食事を持ってきてしまうかもしれない。いや待て、そういえば回復したエレネが復帰したのだったか。だったら彼女が起こしに来て……いや、というか、今って、朝だったっけ……?
そこで覚醒した。
ぱっちりと目を見開き、がばっと勢いよく身を起こす。
ファルは確かにベッドの上にいて、その隣では、上半身を起こしたキースが、こちらに目をやっていた。
「あれっ?!」
素っ頓狂な声を出し、キースを見て、自分を見下ろす。
そして窓の方向に顔を向けて、心底、驚いた。
この部屋に入った時、時刻はまだ昼前くらいだったはず。それなのに現在、燦々と射し入っていたはずの陽はすっかり翳り、すでに室内を赤い色に染め上げようとしているではないか。
「わたし、寝てた?!」
いや、眠ってしまったことは自覚がある。寝入ったキースの顔を見ていたら、やけに強烈な眠気に襲われて、「ちょっとだけ」のつもりで、椅子に座りながらベッドの端に顔を突っ伏して目を閉じた。そこまではファルだって、自分でちゃんと覚えているのだ。
しかし、ほんの数分まどろむ程度だと思っていたその睡眠に、ファルは数時間を費やしていたことになる。
うたた寝どころではなく、熟睡だ。ファルは首筋まで赤くなった。
「ご、ごめんね、キース」
ベッドの傍らで寝こけていた自分が、いつの間にかベッドの中にいるということは、先に目を覚ましたキースが、不自由な態勢でぐうぐうと眠り続けているファルを気遣って、抱き上げるか引っ張り上げるかしてくれたのだろう。子供の身体、しかも肩と脇腹に傷を負った彼に、その作業は相当な負担であっただろうことは想像に難くない。
「……いや」
恥ずかしくて顔も上げられないでいるファルの上に落ちてくるキースの声は、奇妙に固かった。やっぱり呆れているのだろうと思えば、ファルはますます恥じ入る一方である。
「お、起こしてくれたらよかったのに」
「……声は、かけたんだがな」
「そうなの?!」
キースの返事に、さらに仰天した。
ファルは天界にいた時も、地界に来てからも、自分の数少ない取り柄として、寝起きの良さが挙げられると思っていた。キノイの里にいた時だって、塔の中に閉じ込められていた時だって、いつまでもいぎたなく眠りにしがみつくことなど、一度もなかったというのに。
声をかけられても起きられないなんて、どれほど深く寝入っていたのか。
変だなあと思いつつ、情けなさで首を竦めているファルのすぐ近くで、キースが息を吸い込む気配がした。
「──眠いのか?」
その問いかけは、ずいぶんと低い声で出された。
え? とファルは顔を上げた。
伝わってくる緊張感と、問いの内容が、あまりにもかけ離れていて戸惑う。なぜか、空気までが張り詰めているような気がした。
キースの顔からは、表情というものが抜けていた。眠る前には笑っていたはずなのに、今はひどく大きな感情が、彼の内側を支配しているようだった。
キースはそれを、外には出さずに押し込めようとしている。だからこそこんなにも無感情で、硬い石のような目をしているのだろう。
ファルには、キースが自分の中だけで片付けようとしている、その激しい懊悩の正体が、まったく掴めない。
──もしかして、怒っている、のかな?
看病する側の人間が寝ていたことを怒るような性格ではないから、攫われたファルがろくに睡眠もとれないほどの劣悪な環境に置かれていたのではないか、とキースは考えているのかもしれない。
特にクイートを庇う気はないが、事実と反することはやはりきちんと訂正すべきだと思って、ファルはぶんぶんと首を横に振った。
「あのね、睡眠不足ってわけでは、ぜんぜんないんだよ。昨日の夜も早くに寝たし。なのにどうしてかな、よくわからないけど、なんだか急に眠くなっちゃって。たぶん、キースと会えて、安心したからだと思う」
ファル自身にも、それくらいしか理由が思いつかない。きっと、塔の中で過ごした間は精神的に不安定な状態だったから、自分では睡眠をとったつもりでいても、実際はずっと浅い眠りが続いていたのだろう。キースと再会できたことで、そのツケが今になってどっと押し寄せてきたのだ。
「…………」
ファルの言葉を聞いても、キースの強張ったような無表情に変化はなかった。こちらをじっと見つめてくる碧の瞳はどこか焦燥の色を浮かべて、何かに耐えているようにも見える。
「ど……どうしたの、キース。傷が痛む?」
絶対安静だと言われていたのに、ファルのために無理をしたせいだろうかと思うと、申し訳なさで身が縮みそうだ。
眉を下げながら、キースに向かって手を伸ばす。
その手が突然ぐっと掴まれて、強く引っ張られた。
バランスを失って前に倒れかかった身体を引き寄せられ、そのまま抱きしめられる。
背中に廻った腕に力が入るのを感じて、ファルは困惑した。
「キース?」
小さな声で名を呼んでみるが、返事はない。自分の肩にキースの尖った顎が乗せられているので、彼の顔を見ることも出来なかった。
キースは無言でファルを抱きしめ続けている。まるで、ファルが空に飛んで行こうとするのを、必死に引き留めてでもいるかのようだ。ようやく会えて、自分たちを引き離すものは今ここには存在しないというのに、彼をそんな行動に駆り立てている理由に見当がつかないファルは、なんと言葉を続けていいのかも判らない。
どこにも行かないよ、と答える代わりに、そっとキースの背中を撫でた。
***
夕闇が濃くなってきた頃、クイートがエレネとゴウグを連れて、部屋に入ってきた。
エレネとゴウグのそれぞれの手に食膳があるのを見て、ファルはほっとした。自分はともかく、キースにはそろそろ食べ物と飲み物の補給が必要だろうと思っていたのだ。部屋を出て行こうとすると、そのたびキースに「ここにいろ」と止められるし、困っていたところだった。
「待たせて悪かったね」
ファルの表情を読み取ったかのように、クイートがぷっと軽く噴き出す。この人物のこういうところ、ファルはもう慣れてしまってなんとも思わないが、キースはそうではないようで、全身から発される空気がたちまち険悪になった。
それに気づいているのかいないのか、クイートは素知らぬ顔で、ゴウグにてきぱきと指示を出す。ベッドの上に小さなテーブル、そしてファルのためのテーブルと椅子が用意され、今までファルが座っていたベッドの傍らの椅子には、クイート自身が腰かけた。
「お腹が空かれましたでしょう、ファルさま。さあ、どうぞ」
エレネは、湯気の立つ食事をファルとキースの前に置くと、にこやかに微笑んだ。
「…………」
ファルは口を噤み、ちらっと彼女を見上げる。
あの時、ゴウグだけではなくエレネだって、ファルが翼を出して飛んだところをはっきりとその目で見ていたはずだ。しかしこちらを見返す彼女の顔に、取り立てて怯えや嫌悪は見られない。クイートは、彼らにどこまで話して、どのように説明したのだろう。
しかし少なくとも、これから話す内容を、彼らに隠すつもりはないらしい。エレネとゴウグの二人は支度を整えると、壁際まで退がって並び立ち、そこで大人しく耳を傾ける態勢になった。
「──さて、時間が惜しい。食べながらでもいいから、俺と話をしてもらえるかな」
クイートはそう言ったが、キースはすぐ前にある膳に、まったく手をつける様子を見せない。黙ったままクイートに冷たい視線を向けるだけのキースに、腕を組んで立っているゴウグが何かを言いたそうに口をもごもごさせた。
「いや、君が怒るのもよく判るんだけどね」
クイートが苦笑して、人差し指で顎の先をこりこりと掻く。
「でもとにかく、ここは穏便に話し合おうじゃないか。君にもそのつもりがあるだろうと俺は踏んでいるんだけどな、キース? 君は頭が廻るし、腕も立つ。今は何が互いにとって必要なのか、その判断くらいは出来るだろう?」
クイートの話し方は、基本的に上から目線で、相変わらず厭味ったらしい。きっとクイートはいつも、故意にこういう物言いをして、それに対する反応から他人を見極める、というやり方をしているのだろう。無礼なのは生まれつきだとしても。
しかしファルのように単純な人間はともかく、キースのようなタイプには、その方法はどう考えても失敗だ。
キースは怒るでもなく言い返すでもなく、ただ氷のような冷気を伴う目で見返すだけだった。こころもち室内の気温も低くなって、寒いくらいである。いつまで経っても居心地の悪い沈黙が続くので、クイートの微笑をかたどる口許も、徐々に引き攣りつつあった。
「まず謝罪を受けないと気が済まないかい? 別にいいけど、俺に頭を下げさせたら、それなりの代価は払ってもらうよ。そちらに言い分や文句が山ほどあるように、俺には俺の曲げられない信念や事情ってものがある。それよりも、まずは一旦遺恨を捨てて、人間関係をゼロから構築してみないかい? 友好的に、握手から、とかさ」
「…………」
わりと身勝手なことを堂々と言いながら差し出されたクイートの右手を、キースは愛想のない目つきで睨みつけている。
しかしやがて、ベッドの上に置かれたままだったキースの手が動いた。
クイートが意外そうに、目を瞠る。
なんだ、素直なところもあるんだねと言いたげに、笑いながらこちらを向くクイートに、ファルは少し複雑な気分で口を開いた。
「あのね、クイート」
「ん?」
「キースはこう見えて……」
「いてててて!!」
「……けっこう根に持つ性格だよって……言おうと思ったけど、遅かったか……」
ファルはため息をついた。
握手を求めて差し伸べられたクイートの右手の親指を掴んで握り、キースはそれをぐぐぐとあらぬ方向に曲げている。
無表情のままだが、かなり容赦ない力でやっているようだ。「ちょっと待った! 折れる!」と訴えるクイートの声に本気の焦りが込められていることに気づいて、ゴウグがようやく驚いたように、「おい!」と大声を出した。
指を折ろうとまでは思っていなかったのか、キースはそこで手を離したが、
「指一本で音を上げるなんて、銃に頼らなきゃこの程度か」
と唇を上げて嘲笑した。
クイートはカチンときたらしい。
「……ずいぶん幼稚な意趣返しだなあ。そんなにもファルを目の前で掻っ攫われて悔しかったかい」
「なんならあの時の礼を今しても構わないんだがな。いくら怪我人でも、お前を地面に叩きつけるなんて、あっという間に出来るぞ。謝罪くらいで、おれの気が済むと思うなよ」
「へえ……てっきり依存しているのはファルのほうだと思っていたけど、なんのことはない、執着しているのは君のほうだったというわけだ。俺はファルを塔の中に閉じ込めたけど、君はファルを自分の手の中だけに閉じ込めておこうとする。そういうの、共依存と呼ぶって、知ってるかい? 重くて不健康だよね」
「そんなことくらい、おれが知らないとでも思うのか。おれたちの関係が共依存だとしても、それをお前に責められる筋合いなんてカケラもない。そうやって他人を型に嵌めることで人心を掌握しようとしているんだとしたら、呆れるくらいヘタクソだな。リジー王族の程度が知れる。あと十年くらい修行したらどうだ」
「…………」
クイートが眉を寄せ、唇を曲げた。
苦々しく顔をしかめ、ファルを見る。その口から出た「ファル……」という声には、気のせいか、助けを求めるような響きが混じっていた。
「キースって、無口そうに見えて、めちゃくちゃ口が廻るんだね」
「クイートには言ってなかったっけ?」
「聞いてないよ……あのさ、ファルには悪いけど」
「うん?」
「俺、こいつ、キライ」
「……うん」
たぶん間違いなく、キースもクイートのことが嫌いだと思うよ。
という言葉は呑み込んで、ファルはもうひとつ、ため息を落とした。
***
──そんな調子で、非常に刺々しい雰囲気の中ではじまった会見だったが、多少は鬱憤が晴れたのか、キースはそれ以降手を出すようなことはしなかったし、クイートの厭味っぽい口調も大分控えめになった。
キースは、クイートに訊ねられるまま、キノイの里を出てから、どういう経路を辿ってここに来たのかということを、淡々と語った。必要なこと以外は話さないので、その旅がどんなに厳しく大変なものだったのか、ファルには想像することしか出来ない。
この遠大な距離を、キースはずっと一人で進んできたのかと思うと、胸に詰まるものがある。
……ん? 一人?
「そういえば、キース」
声をかけると、クイートのほうを向いていたキースが、こちらを振り返った。
「キースが忌み地を出た時、もう一人、若い女の人が一緒にいたって聞いたけど」
「…………」
「誰?」
「…………」
キースは一拍黙った後で、「ニグル」とぽつりと言った。
「ニグルさん?」
「おまえを探すため東の大陸に向かおうとしたおれに、ニグルがついてきたんだ」
「なんで?」
「いろいろ事情があって……あとで話す」
「ふうん。それで、ずっと、二人で?」
「……成り行きでな。ニグルの家もリジーにあるって言うし」
「へえー。朝も夜も、二人で一緒に。半年もの間、ずっと。ふうーん」
「言っておくが、別に後ろめたいことなんて何ひとつないぞ」
「後ろめたいことがないなら、どうしてわたしから目を逸らすのかな」
「──あのさあ、ファル」
ここで、少しうんざりしたように、クイートが割って入った。
「痴話喧嘩はあとでゆっくりやってくれない? とりあえず今はこちらの話を優先させてもらえないかな」
「…………」
ファルがむっつりして口を閉じると、キースは小さく息をついた。どう見ても、ほっとしている。猛烈に面白くない。あとでじっくり聞き出してやろう。
壁際に立つゴウグが、「痴話喧嘩って、おかしくねえか、子供同士で」とぶつぶつ言っているが、クイートもエレネも聞き流した。
「──で、君はヨレイクで博士と呼ばれる人物に会い、話を聞いたと」
改めて話の筋を戻したクイートに、キースが頷く。
ファルも気を取り直して、最東端の国の片隅に一人で住むという、その老人に思いを馳せた。
天人の娘と恋に落ち、手に手を取って逃げ出して結ばれたという人物。彼が愛した天人とは、どんな女性だったのだろう。大事な人のために、同胞のいないこの地界で生きる決心をした時、彼女はどんなことを思ったのだろう。
いつか、話を聞いてみたい。
「博士なら、俺も会ったことがあるけどね。えらく偏屈な人で、天人のことを少し教えてくれただけで、すぐに追い出された」
クイートが苦笑気味に言う。
「でも、同じような立場であるキースには、もう少し詳しい話をしたのかな。この地界で天人と一緒に暮らすなんて貴重な経験をした唯一の存在だっていうのに、あの通り、自分がその気にならなきゃ何も語らない人だから、天人については未だ謎のほうが多いんだ。博士は君に、何を教えてくれた?」
興味津々に身を乗り出してクイートは訊ねたが、キースは「別に」と素っ気なかった。
「おれが聞いたのは、おもに昔話と、天界と地界の関係についての概要だ。それはお前もよく知ってる内容だろうから、改めて話すようなことはない。天人のことも同様だ」
「博士の恋人だった天人について、何か話さなかったかい?」
「なにも。そのことは誰にも話したくないようだった」
「やっぱりね。君でもそうか」
クイートは残念そうに息を吐き出し、椅子の背もたれに体重をかけた。博士という人物は、その天人のことになると必ず口を閉ざしてしまう、というのが定説になっているようだ。キースなら例外かと期待したものの、やはり同じだと判って、失望と同時に、諦め交じりの納得もしているらしかった。
──でも。
キースの周りの色は、一瞬、揺れた。
ニグルのことを話していた時は、多少気まずそうでも、彼の色は微塵も揺れなかった。なのに、今は揺れた。
キースの口調は平板なまま、表情だって変わらない。眉も目も、まったく動かない。人を見抜く目に長けているクイートでさえ気づかないほど、外側からは何も、何ひとつとして、彼の中で波打つものがあることなんて判らない。
けれど、確かに。
「…………」
ファルはそれに気づいたが、顔にも態度にも出さなかった。どうしてなのか、理由は判らない。でも。
……キースの色が揺れたこと、そしてファルがそれに気づいたことを、キースにも、クイートにも、誰にも知られてはならない、ような気がした。
「こちらの事情は、もうファルから聞いたかい?」
クイートに訊ねられて、キースが「詳しいことは、まだ」と首を振る。クイートは少し考えるような顔をしてから、
「──それなら」
と椅子から立ち上がった。
「まずは、ファルの口から直接、聞いたほうがいいね。今の君に無理をさせてもいけないし、俺たちはこれで失礼するよ。どちらにしろ、傷が癒えるまではまだ時間がかかるだろうから、そう急ぐ必要はない。……かといってまあ、そんなにゆっくりもしていられないんだけど」
最後の言葉は、呟くように付け足された。
「ここに滞在している間は、俺の力が及ぶ限り、責任を持って君たちを保護しよう。誰にも、手出しも口出しもさせない。ただ、いつまでも猶予があるわけでもないことだけは、覚えておいてほしい。──現在の状況は、そんなに呑気に静観していられるものでもないんだ」
「わかった」
キースが頷く。
「ファルの話を聞いて、俺の話も聞いて、それから二人で結論をだしてくれ。俺は強引な性格をしているけど、この件に関して、無理強いも、強要もするつもりはない。でも、これは脅しではなく、他の連中も俺と同じように考えるとは限らない」
「だろうな」
「ここは賓客を泊まらせる部屋でね、しばらくは使う予定のない場所だから、好きなように寛いでくれて構わない。事情を知らない人間には近寄らせないし、もちろん兵も配置しない。何か用事があれば、部屋の入口にある鈴を鳴らしてくれ。渡り廊下の手前までと、中庭までなら、自由に出ても、誰にも見られないように手配する。えーと……あとは何か言っておくことはあったかな」
クイートは首を傾げて言ってから、思い出したようにファルを見た。
「そういえば、ファル、君はどうする?」
ファルはきょとんとした。
「どうするって?」
「見ての通り、この部屋、ベッドが一つしかないんだよね。だけど、キースと離れて眠るのは嫌だろう? もう一つ、運ばせようか? それともソファで」
「あ、大丈夫。このベッド広いし、キースと一緒に」
ファルが最後まで言い終わらないうちに、「ダメだダメだダメだ!」と大音量で反対された。誰にって、ゴウグにである。
「そんなことが許されるか! たとえ子供同士でもなあ、男と女が、お、お、同じ寝床でなんて」
「……でも、キノイの里ではいつも隣で」
「いかーん! キノイの里の連中が許しても俺は許さん!」
「ただ寝るだけだよ」
「ああ?! ねねね寝るだと?! お前なに言ってんだ?!」
「……だからそういう意味じゃなくてね」
「おれは構わない。ファル、こっちに来い」
「構えよ! お前もなに平然とした顔してんだよ! ガキのくせに生意気な!」
「──というわけだから、ファル、あとでもう一つベッドを運ばせる。ゴウグの精神の安定のためにも、清らかな夜を迎えてくれ」
ふー、とため息をつきながら、耳を両手で塞いだクイートが言った。今のキースの身体で、清らかではない夜を迎えるほうが難しいのではないのかなとファルは思ったが、これ以上ゴウグを興奮させても確かに面倒くさそうなので、「わかった……」と渋々返事をした。
「それでは、失礼いたします、ファルさま」
まだ騒いでいるゴウグを無視して、エレネが淑やかに一礼する。彼女に対し口を開きかけ、また閉じたファルに向かって、微笑んだ。
「──お話は、クイートさまから伺いました。驚きましたが、クイートさまのお言葉を、ゴウグも私も疑うことなどいたしません」
それから、真っ直ぐにファルを見る。
「ファルさまが塔の窓から飛び降りた時、心臓が止まるかと思いました。ファルさまが生きておられるのがあの翼のおかげだというのなら、私は感謝の気持ちでいっぱいです。……ファルさまが天人で、本当によかった」
しみじみとした口調でそう言うと、にこっと笑い、エレネはゴウグを引きずるようにして、部屋を出ていった。
***
夜になって、ゴウグは本当にベッドを部屋に運び込んできた。
結構な大きさのものなのに、一人で持ち上げてここまで来たらしい。力自慢のゴウグでも、さすがに赤い顔をし、ふうふう言って、大変そうだった。なにもそこまでしなくても……と、思わずにいられない。
ゴウグはそのベッドを、寝室ではなく、わざわざ続きになっている居間のほうに設置した。しかも、寝室とは反対方向の壁にぴったりと寄せる形でだ。部屋と部屋の間に、鍵付きの扉を据えつけたほうがいいんじゃないかと言い出すに及んで、さすがに心配になってくる。本当に、誰か彼女になってくれる人が見つかるといいのだが。
ここで寝ずの番をしてもいいぞと言うゴウグをやっとの思いで部屋から追いだし、やれやれと息をつく。
それから、部屋の端に置かれたベッドを見た。
──あれはあれで、寝心地は悪くなさそうだし、別にいいんだけど。
「キース、そっちに行ってもいい?」
そう聞くと、キースが動いて、スペースを空けてくれた。嬉しくなって、いそいそと駆け寄り、その隣へと潜り込む。明日の朝、ゴウグが来る前に起きていれば問題ないだろう。
ベッドは広かった。少年姿のキースと、手足が伸びたファルの二人で寝てもまだ余裕がある。これなら、寝返りを打ってキースの傷口にぶつかることもない。
キースの熱が残っていて、シーツはぬくぬくと温かかった。消毒薬の匂いと一緒に、キースの匂いもする。ころんと身体ごと横向きになれば、すぐそこにはキースの顔がある。
ついつい、顔が綻んでしまうのが抑えきれない。
「……なんでそんなに笑ってんだ」
「なんか、気持ち良くて。キースの隣で寝るのって、久しぶりだよね。すごく落ち着く」
「それも複雑だな。もう少し警戒してもいいんだぞ」
「だって今のキースじゃ、ゴウグさんが心配してるようなことは、まだ機能的に……いたたたた」
頬っぺたを指で摘んで引っ張られた。これも久しぶりだ。
やっぱり笑ってしまう。さすがに大人の時のキースであったら、ファルも隣に寝てまったく平常心でいられるわけではないだろうが、この姿の時は、ただひたすら安心と幸福感だけがあった。
「わたしも少しは成長したみたいだし、あとはキースがもっと大きくなればいいんだよね。五、六年待てばいいんでしょ?」
「…………」
以前話していたことを思い出して言うと、キースはぷつりと黙ってしまった。あれ、さすがにこの台詞は若い娘として問題があったかな、と口を噤む。そういえば、エレネに勧められた「物語」に出てくる女の子は、こういうことを口にしなかった気がする。ファルは反省した。
「ね、キース」
「……ん」
「ここに来るまでのこと、もっと話してくれる?」
「さっきのじゃ足りなかったか?」
「たくさん省略したことがあったでしょ。ニグルさんのこととか」
「……おまえ、やっぱりなんか変なこと考えてるだろ」
「べつに?」
キースは大きく息を吐き出してから、真上に視線を向けた。テーブルの上に置かれた燭台の灯りがぼんやりと室内を照らし、白い天井では蝋燭の炎の影がゆらゆらと揺れている。
ほんの少し間を置いてから、キースはぽつぽつと話し出した。
旅の途中で、彼が見たこと、聞いたこと、感じたこと。
通った国々、馬車鉄道、ダガナドで出会った母と娘、図書館で懸命に学んでいた少年、海の広さ、世界の涯に立っていた墓標、それを独りで守り続ける博士。
──そして、ようやく自分自身と向き合うことが出来るようになったニグル。
「……答えはずっと前から自分の中にあったんだと、言っていた。ただ、見つけられないだけだった、と」
キースが静かな声で言う。ファルは彼と同じように天井に目を向け、「うん……」と返事をした。
見つからないだけ、気づかないだけで、答えは自分の中に。
「ニグルさんが変われたのは、キースが近くにいたからなんだね」
「おれは何もしてない」
「何もしてなくても、キースはニグルさんに何かをあげたんだよ、きっと。ニグルさんも、キースに何かをくれた。だからキースも、変わったんだね。キース、前はもっと周囲のものを弾くような雰囲気があったもん」
「…………」
キースが窺うようにファルを見る。ファルの声にも表情にも不機嫌そうなものがなく、ただ穏やかなことに、少し訝しそうな顔をした。
もちろん、長いことキースの近くにいて、キースを変えたのがファルではないことが、少し悔しいような気持ちはある。キースとニグルの間に、決して口には出されないものがあったのだろうなというのも察せられて、ひどく寂しいような気もするけれど。
──でも、おそらくそうやって、人は人に影響を与えたり受けたりしながら、生きていくものだから。
「……おれが変わったとしたら、ファルがいたからだ」
キースはそう言ってくれたが、ファルはちょっと笑うだけにした。
そういう面は、確かにあるのかもしれない。ファルだって、天界にいた時から変われたのは、なによりキースがいたことが大きかった。
でもきっと、それだけじゃない。人は一人では生きられないけれど、二人だけでも生きられない。無数の人々が、どこかで繋がり、離れたり結ばれたりして、世界は廻っている。
自分に出来ることをして。
「明日、また話をしようね、キース。……今度はわたしが、ここで何をしていたか、何を考えたか、聞いてね」
今、天界でも地界でも、大きなうねりが起きて、たくさんのものを呑み込もうとしている。巻き込まれるのは止められないだろう。こうしている間にも、様々な事情と思惑とが絡み合い、底のほうでファルの知り得ない何かが不気味に蠢いている。今こんなにも静かなのは、もうすぐそれが一気に噴出して、激しい嵐がやって来るからだ。
だったらその吹きつける風の中で、自分は何が出来て、何をしたいのかを考えよう。
キースが一緒にいるから、きっと大丈夫だ。ファルはちゃんと立っていられる。びょうびょうと唸るように巻く大風に、立ち向かう勇気が持てる。
「──ああ」
掛け布の下でキースが動く気配がした。しかしその時にはもう、ファルの意識は闇のほうへ沈もうとしていた。
あれだけ寝たのに、まだ眠いなんて、どういうことなのだろう。
暴力的なまでの力で、ぐいぐいと引っ張られているような感じがする。違和感を覚えても、ファルはそれに抗えない。目を閉じると、急速に、夢と現の境界が曖昧になった。
「……ファル」
指がするりと顎の線を辿り、囁き声が耳元に落とされる。くすぐったい。でも、もう、瞼が開かない。
「まだ……行くなよ」
頬に柔らかい感触があったと思ったら、次の瞬間には、ファルはすとんと眠りについていた。




