ぬくもり
「……いてえな」
顔をしかめたキースが、蹴られたところを手で押さえた。
ファルはそれを見てちょっとせいせいし、改めて、自分が放り込まれた部屋の中をぐるりと見渡してみた。
広く、そして豪華な部屋だった。もちろん、ファルが今まで寝起きしてきた狭苦しい小屋や、充分に大きいと思った今の部屋とは、比べ物にならない。
壁一面に造りつけられた書棚にはずらりと分厚い本が並び、床には毛足の長い絨毯が敷き詰められている。全体的に落ち着いた色調は、キースの好みなのだろうか。ここが私室なのか、それともただの書斎なのか、そんなことさえファルには判らないのだから、彼の好みなんてものが判ろうはずもないのだが。
繊細な装飾の施された枝付きの燭台は、五本の太い蝋燭と一緒に透明な細いガラスまでがくっついて、キラキラと炎を反射し、輝いていた。
夜中だというのに、こんなにも明るい場所があるのかと、ファルの目からは鱗が落ちそうだ。
「どうした? そんなところに突っ立ってないで、こっちに来い」
痛みが取れたらしいキースが、すたすたと部屋の一角にあるソファに向かって歩き、ファルを振り返って言った。
「…………」
ええー、とファルは困惑して眉を下げた。
自分の足元に目をやってから、再びキースを見やる。
「だって、キース」
「ん?」
「歩くと、綺麗な絨毯が汚れちゃう」
ベッドを降りて、そのままの格好でここまで来たので、ファルは寝間着で、さらに裸足だ。地面の上を直接歩いてきた足裏は、土で汚れてしまっている。部屋に入る前、キースはそれを払い落とすだけの余裕をファルに与えてはくれなかった。つまり現在のファルが室内を移動すると、この絨毯に被害が及ぶ。
「……おまえ、どうして自分が汚れるのはちっとも意に介さないのに、そういうことばっかり気にするんだ?」
キースには首を傾げられてしまったが、ファルに言わせればそれは当然というものである。自分の顔や手は洗えば済むが、馬車の中や絨毯は掃除するのが大変なのだ。無頓着に落とされた灰や、こびりついた泥を、またもとの状態にまで復元することの苦労をよく知っているからこそ、どうしたって気にせざるを得ない。
キースはひとつため息をつくと、またこちらにつかつかと戻ってきて、ひょいと荷物のようにファルを担ぎ上げた。
そのままソファにまで運んでそこに下ろし、膝を曲げてファルの足の裏をぽんぽんと手ではたく。そんなことをしたら結局絨毯が汚れるのは同じなので、ファルはしきりに下を気にしたが、キースのほうは自分が掴んでいる足首にじっと目をやっていた。
「こんなに細くて、人間の体重が支えられるもんなのか……」とぶつぶつ言っているところからして、どうやらそこに、下心などというものはまったく含まれていないらしい。
「裸足で歩いて、痛くなかったか」
「うん。平気だよ」
「今度はちゃんと靴を履いてこい」
「うん?」
今度って、なんだ?
ファルがもの問いたげに見返しても、キースはそれにはまったく構わずにさっさと立ち上がり、今度は部屋の反対側に歩いて行った。
重厚そうなデスクには、大きな紙袋がぽんとひとつだけ置かれてある。それを持ち上げてファルのところまで戻ってきた彼は、ソファの前にあるテーブルの上に、中のものを無造作にぶちまけた。
「わ!」
ファルが短い声を上げてしまったのは、そこから出てきたものがすべて食べ物だったからだ。
ふんわりとした白いパン、薄切り肉が挟まれたサンドイッチ、大きな三角のチーズの塊、瓶に詰められた色とりどりの野菜スティック、まるっとそのままのリンゴ……
そして菓子も大量にあった。棒状に捩じられたキャンディー、まるいキャラメル、箱にぎっちり詰められたクッキー、チョコにパウンドケーキ。
「なるべく匂いのないものを選んだから、温かい食い物はないぞ」
キースはこれらのものをすべて、外の店で購入したようだった。菓子の包み紙には、ファルも聞いたことのある有名店の名前が記されている。キースが一言命じれば、この屋敷の厨房でもすぐに作れるものもあるのに、わざわざ買ってきたということは、使用人たちには知られたくなかったからなのだろう、ということくらいは推測できた。
いろんな店を廻って、なるべく匂いのない食べ物を選び、大きな紙袋に詰め込んで、クライヴやドリスの前を素知らぬ顔して通り過ぎるキースの姿を想像すると、どうにも可笑しい。こっそり買い食いをする子供みたいだ。
「キース、こんなにいっぱい夜食を食べたら、太るんじゃない?」
「おれがこんなものを食うか」
「え、じゃあ」
「おまえが食うんだよ」
決めつけるように言いきって、キースはサンドイッチをファルの手の上に載せた。
「ええー、これ全部?」
「ああ」
「いいの?」
ファルの口は一応ちゃんと許可を求めたが、お腹の虫のほうが、キースの答えを待たずに食べる食べると主張した。このカエルは、いつも勝手にファルの言葉を代弁してしまうから困る。ちょっと赤くなった。
「好きなだけ食べろ」
キースがくくっと喉の奥で笑う。
──あ、笑った。
彼の周りの青色が、ふわりと風にたなびくようにわずかに揺れて、透明度が増した。
「じゃあ、いただきます」
遠慮なくサンドイッチにぱくりと食いついた。一口食べたら、あまりの美味しさに止まらなくなった。こんなに美味しいものを口にするのは、ファルの人生史上、はじめての経験だ。これが最初で最後になるかもしれないので、悔いのないようにたらふく食べておこう。
「……ちゃんと、毎日飯は食ってるか?」
ソファに座ってファルが食べる姿を眺めていたキースが、ぼそりと確認してくる。
そんな心配をされるほど意地汚い食べ方だったかなと少し反省して、口いっぱいにむぐむぐと頬張りながら、ファルはこくこくと頷いた。
「はへへふよ」
「飲み込んでから喋れ」
やれやれと立ち上がり、部屋の隅にあったワゴンの上のティーポットからカップに注いだお茶を、ほら、と手渡してくれる。ものすごく良い香りのするお茶で、飲むのがもったいないくらいだった。
ごくんと口の中のものを飲み込んで、ふう、と息をつく。
「食べてるよ。このお屋敷では、三食ちゃんと出してもらえるから、毎日楽しみだよ」
ただ、他の使用人たちはまだファルのことをまったく信用していないらしくて、彼らと同じテーブルに座ることは許されていない。だから渡されたものを、厨房の隅で立ったままかき込むようにして食べる。それでも、食べられるだけ、ギルノイ屋敷よりずっといい。
「しかしそのわりに、全然肉がついてないな……」
キースがファルの薄い頬っぺたを摘んで引っ張りながら、眉を寄せた。十日かそこらきちんと食べるようになったからと言って、これまでずっと栄養不足だったファルにそんなに簡単に脂肪がつくはずもないのだが、キースは今ひとつ納得出来ないらしい。
その顔を見て、思いついた。
「もしかして、このお屋敷に来てもちっともわたしが変わらないから、今夜こうして食べ物を用意してくれたの?」
ファルが訊ねると、キースはぷいっと顔を背けた。
「……別にそういうわけじゃない」
「そういうわけじないって言ったり、そういうことでいいって言ったり、キースってめんどくさいよね」
「うるさい」
頬を摘んでいた指に力が入る。痛い。
「わたし、てっきり、キースが夜這いにでも来たのかと思ったよ」
「おれが? おまえに? 夜這い?」
「……冗談だもん」
そこまで思いきり真顔になることはないではないか。ファルでもちょっと傷つく。十七歳の女の子なのに。
「キースも一緒に食べようよ」
「おれはいらない」
「好き嫌いはよくないよ?」
「そういうことじゃない」
「キース、苦いものが嫌いだよね」
「…………」
「苦味の多い野菜はよく残してるもんね」
「…………」
「お皿の隅に、ちんまりと避けてあったりするよね」
「…………」
「老けた顔をしてるわりに、子供っぽ……いたたた」
今度は無言で頬をつねられた。
「さすがに、こんなにたくさん、一人では食べられないよ。でも、残しておいても、キースが食べないなら、傷んじゃって捨てられちゃうよね? それを思うともったいなさすぎて、夜も寝られない」
「残った分は、おまえが持って帰って、部屋で食べればいい」
「誰の目があるかわからないから、わたしの部屋に置いておくのは、やめたほうがいいと思う」
「…………」
キースは少し驚いたように目を見開いて、ファルを見た。やっと頬から指が離れていく。
「おまえ──」
何かを言いかけてから、思い直したように口を閉じ、短く息をつく。
「……そうだな。能天気で頭が空っぽで何も考えていないバカな子供のように見えて、ファルは意外と頭が廻るんだったな」
「うん、貶されているようにしか聞こえないね」
ファルが唇を突きだすと、キースがぷっと噴き出した。
しかし、その笑いはすぐに口元から消えた。ソファの背もたれに身体を預け、ゆったりと腕を組む。視線がファルから外れ、ぼんやりと蝋燭の灯りで照らされた中空へと向けられた。
「──おまえの目に、このアストン屋敷はどう見える?」
その問いに、ファルは少し黙って考えた。
「ちょっと、変わってるね」
考えた結果、そうとしか言いようがなかった。キースがわずかに苦笑を浮かべる。
「そうだな。大いに変わってる。奇怪で……歪だ」
独り言のように低い声で呟いてから、再びファルのほうを向く。
「聞かないのか?」
「え、何を?」
「どうして使用人たちが、あんな態度なのか。食事を抜かれたり、暴力を振るわれたりすることはなくても、おまえにとってもこの屋敷は決して居心地のいいところじゃないだろう。一方的におまえをここに連れてきたのはおれだからな、文句を言って問いただす権利はある」
「うーん……」
ファルは首を傾げた。
一応、目があって頭がある以上、疑問くらいはそりゃあるに決まっている。どうしてなのかなと思ったのも、一度や二度じゃない。知りたいという気持ちはもちろんあるが、しかし。
「でも、たとえばわたしが、いろいろ聞いたとして」
「ん?」
「キースはそのすべてに対して、本当のことは答えないよね?」
「…………」
キースは口を噤んだ。
「そんなにあっさり言える内容なら、キースは事前に言ってくれていたと思うし。なんだか入り組んだ事情があるんだろうなー、ってことくらいはわたしでもわかる。だったら、別にいいよ、言わなくて」
「ファル、もしかして、おまえ」
わずかにキースが上体を前方に傾けた。碧の瞳に、鋭い光が宿る。
「……その『色』とやらで、他人の嘘も見抜けるのか」
「んー」
ファルは曖昧な声を出した。誤魔化すつもりはなかったが、肯定と否定、どちらをすればいいのかよく判らなかったのだ。
「わかる時もある。その人が、嘘をつくことに、罪悪感を抱いたり、良心の咎めを感じている場合はね。でも、そういうものがなければ、わからない。色に変化がないから」
そしてこの天界で、まったく色を変えずにぺらぺらと嘘の言葉を口に出す人、というのは本当にたくさんいる。大部分がそうだと言ってもいい。
それについて、特別どうこうとは思わない。ただ、ファル自身が嘘をつく時、果たして色は変わっているのかな、と思うことがあるくらいだ。
ファルには、自分自身の色は見えない。
「便利なのか不便なのか、よくわからん能力だな」
説明を聞いて、キースは呆れるように言った。再び上体を戻して、ソファにもたれる。
「あはは、本当だね。けどキース、わたし、このお屋敷に来たことに、文句なんてないよ。ここはいいお勤め先だと思ってる。キースはわたしを、ギルノイ屋敷から救い出してくれたんでしょ?」
「……そんな美談じゃない」
キースはどこか苦い表情で、目を伏せた。こういう時こそ、「そういうことでいい」と言っておけばいいのになあ、とファルは思う。面倒な人だ。
「そういうことにしておこうよ。嬉しかった、ありがとう。わたし、人から親切にされたことってあんまりないから、こういう時、どう言ったらいいのかよくわからないんだけど、これで合ってるのかな?」
「…………」
ファルの問いに、キースからの答えはなかった。
「──食べろ。おれも食べる」
唐突にキースが手を伸ばして、テーブルの上のパンを取る。「うん」と返事をして、ファルもチョコレートを口に放り込んだ。ねっとりとした甘さが舌の上で溶けていく。
「これ、美味しいね。キースも食べなよ」
「おれは甘いものは好きじゃない」
「そこは子供っぽくないんだね……たっ」
指でおでこを弾かれた。
痛い、と言いながら、へへへと笑う。キースもちぎったパンを口に運びながら、軽く笑った。
誰かとこうして笑い合いながらものを食べるというのは、こんなにも楽しいことなのか、とファルは心の中で呟いた。
はじめて知った。
じじじと燭台の蝋燭が溶けながら炎を立てる音までが、不思議と心地よく聞こえる。
ここは明るいだけでなく、温かい。
***
またこっそりと自分の部屋へと戻るため、ぱんぱんに膨れたお腹を抱えて、ファルは窓枠に手をかけた。その後ろには、顔をしかめたキースが立っている。
「帰りも、おれが一緒に……」
と言いかけたのを、ファルは首を横に振って遮った。
「平気だよ。帰り道はもうわかるし。二人より、一人のほうが目立たないでしょ?」
「誰にも見つからないよう、行けるか」
「うん、大丈夫」
「来るのも?」
「ん?」
目を瞬いて、振り返る。キースは真面目な顔で念を押すように、「一人でここに来られるか?」と訊ねた。
「明後日、同じくらいの時間、誰にも見られないように。おまえ、好きな食べ物はなんだ?」
どうやらキースは、ファルになんとしても肉をつけさせようと目論んでいるらしい。
「秘密の逢引きだね」
「断じて違う」
「だから冗談だと言ってるのに……でも、キース」
ただでさえ、クライヴやドリスが怪しんでいるようなのに、あまり余計なことはしないほうがいいのではないか。彼らはキースが少しでも枠から外れた行動をとると、異常なほどに警戒し、神経を尖らせる。
あれは一体、「誰のため」なのだろう?
「いいんだ」
キースは静かに言って、後ろから長い手を伸ばし、ファルのために窓を開けた。
「……どちらにしろ、猶予は少ししかない」
上体を屈め、ファルの耳元で、囁くように言葉を落とす。息が耳朶に触れて、くすぐったい。
ファルが見返すと、キースはかすかに唇の端を上げた。
「──手の中の小鳥は、すぐに放さなきゃならない、ってことさ」
耳を澄ましてもよく聞こえないくらいの小さな声で、そう呟いた。