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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第三部・涯
59/73

波間



 少しして、兵に道を開けさせ、クイートがやって来た。

 意識を失くしたキースの傷を無言で検分し、慎重に自分の肩の上に担いで乗せる。

 そしてそのまま、どこかへ向かってすたすたと歩きだした。ファルも慌てて立ち上がり、彼のあとを追ったが、途中で不意に足が地面を離れ、ふわりと身体が宙に浮いた。

 今度は「飛んだ」わけではなく、ゴウグによって抱き上げられたのだと気づくのに、一拍の間が必要だった。

 どうやら今現在の自分は、半分くらい意識が茫洋としているらしい。頭の中に綿でも詰まっているようで、明瞭に働かないのだ。

 現実世界との間に薄い膜が挟まっているような、変な感じがする。ゴウグの大きな肩の向こうに、兵たちが茫然自失の状態で立ち尽くしているのが見えても、それが何を意味しているのかを捉えることが出来ない。

「ゴウグさん……」

 ぼんやりとした調子で名を呼んだ。

「キースが」

 前方を進んでいくクイートの後ろ姿に手を伸ばし、もがくように動く。思考は混沌が渦を巻き、はっきりとした意志を示せるような状態ではなかったが、キースと引き離されるのではないかという不安がとらせた無意識の行動だった。

 そのファルの身体を力を込めてしっかりと抱き直し、「心配すんな」とゴウグが言った。

 彼の顔も、声も、固く強張ってはいるが、歩く足取りに迷いはない。


「あいつの手当てをしてやらにゃならん。安心しろ、お前だけまた塔の中に閉じ込めるような真似はしねえ、ちゃんと一緒のところに連れて行ってやるからよ。傷だらけのその足じゃ、歩くのはつらいだろ?」


 ファルの手足からはまだ血が滴り、ガラスの細かい破片が刺さっている。じんじんとした痛みはあるが、それも今はどこか遠く感じた。

 キースと一緒のところに、という言葉を聞いて、ファルの身体から力が抜けた。ゴウグが嘘を言うような人間でないのは判っている。分厚い肩にもたれて振動に身を任せると、引き攣ったような表情のゴウグがぶつぶつ呟く声が耳に入ってきた。

「まったく意味がわからねえ……なんだありゃ……夢でも見てるような気分だぜ……」

 麻痺しているファルの心の中に、少しずつその言葉の意味がじわじわと染み込んでいく。ぐらぐらと定まらなかった視界が、ようやくはっきりと見えはじめたような感覚がした。

 ああ、そうか、とやっと自覚する。


 ──わたし、空を飛んだんだ。


 白い翼を実体化させて、あの高い塔のてっぺんから、真下にいたキースの許へ。

 あれほど何度試しても徒労に終わったのに、いざ実際に飛んでみたら、それは呆気ないほどに簡単なことだった。今になると、どうして出来なかったのか、自分でも判らない。

 翼を実体化させるのは、腕を上げて、足を曲げる、その程度のこととなんら変わりなかった。どうすればいいのかと説明することは出来ないが、ファルにとって、空を飛ぶことは、走ったり飛び跳ねたりすることと、まったく違いはなかった。

 背中にあった翼はもう消えている。いや、目に見えないだけで、それはちゃんとそこにある。一度自覚をすれば、ファルにはその存在がはっきりと感じ取れた。

 これからは、いつでも飛べる。ファルはもう、自分の意志で自在に翼を操れる。頭ではなく、身体と心が、そう理解していた。今にして思えば、なぜあんなにも頑なに信じようとしなかったのか、そちらのほうが不思議に思えるほどだった。


 ファルは、天人だ。


 ただ厳然たる事実だけが、そこにある。拒絶も否定も入り込む余地などない。どんなに苦くても、ファルにはそれを呑み下すという選択肢しか残されていなかった。

 ここにいる誰とも違う種族。現在の地界において、ただ一人の異端者。兵たちが恐ろしいものを見るような目をこちらに向けているのも、ゴウグの顔が青くなっているのも、まったく無理のないことなのだ。

「…………」

 ファルは深く息を吐いて、目を閉じた。



          ***



 キースが運ばれたのは、離宮建物の一角にある部屋だった。

 この建物に入ることはもちろん、ちゃんと見るのもはじめてのファルには、それがどういう用途で使われている部屋なのか、よく判らない。しかしとにかく、非常に美しく整えられたところだった。

 床は艶々と輝き、天井は高く、大きな円柱には彫刻が施されている。置いてある家具は、どれも豪華で重厚なものだ。白い壁には大きな絵が飾られ、手の込んだ織りの敷物は一分の歪みもない。

 居間と続きになっている部屋は寝室になっていて、広くふかふかとしたベッドの上に、キースは寝かされた。

 部屋の周囲に人の気配はない。そもそもこの場所は、建物本体とは少し離れて、細い渡り廊下で繋がっていた。最初、クイートの居室なのかとファルは思ったのだが、それにしては私物らしきものが一切置かれていない。

 どこを見渡しても清潔で塵ひとつなく、家具はすべてぴかぴかに磨き込まれてはいるものの、この部屋には生活感というものが完全に欠如していた。日々、誰かが使い、寝起きしている、というわけではなさそうだ。おそらく、普段は使われていない場所なのだろう。


 その部屋に入るとすぐに、一人の老人がせかせかとした足取りで室内に入ってきて、キースの治療をしてくれた。


 「こんな子供に発砲するとは言語道断」と憤慨していたその老人は、手際よく傷の手当てをしながら、「命に別状はない」と断言した。

 ベッドの傍らの椅子に座り、枕元に張り付いていたファルが、ほっと息をつく。

 彼は、キースの治療を終えると、ファルの傷も診てくれた。小さな破片のひとつひとつをピンセットで取り除き、「切り傷からバイ菌が入ったらどうする。バカモノが」とがみがみ小言を落とす。困ってクイートを見ると、余計な口出しをして怒られるのは御免だとばかりに、知らんぷりで横を向いていた。彼も、この老人には頭が上がらないらしい。


「じきに目が覚めるだろうが、絶対に動かすなよ。傷が塞がるまで安静にさせておけ。それからこいつ、栄養が足りとらん。よって血も足りん。出した分は補充しないといかんからな、たらふく食わせてやれ」


 ずけずけとした口調と早口でそう命令すると、また見に来る、と告げて老人は部屋を出ていった。

 医者なのかどうかもよく判らないのだが、気忙しい性格であるのは間違いないようだ。無愛想で、ちょっとおっかないところもあるが、信頼できる人物なのだろうという気はした。

 老人が出て行くと、クイートも腰を上げた。

「じゃあファル、悪いけど、俺もちょっとここを離れるよ。なにしろ早急に対策を考えないといけない事案があるからね」

 え、と目を丸くするゴウグに向かって、「行くよ」と声をかけ、部屋のドアを指し示す。

「お、俺もですか」

「当たり前じゃないか。今、あの場に残っているエレネは、これ以上兵たちの混乱を大きくしないために、きっと孤軍奮闘しているよ。本人も、何がなんだか判らなくて動揺しているだろうにね。早いところ、手助けに行ってやらないと。それに、時間を置けば置くほど、情報が外に漏れる危険性が増す。なんとか最低限に収めておかなきゃ、あとが面倒だ」

 ファルが翼を出して空を飛ぶところを、数人の兵たちに目撃された。彼らが自分で見たものをどう受け止めるかは不明だが、恐慌状態になって騒ぎだしてもおかしくはない。天人のことが最高機密であるのなら、クイートはなんとかしてこの状況を秘密裏に収束せねばならない、ということだ。

「しかし、あの」

 ゴウグが躊躇するように言いかけて、横になっているキースと、その傍らにいるファルにちらっと視線を向けた。

 ここには他に人がいない。見張りもなく二人を放っておいていいのか、と言いたいのだろう。

 クイートは軽く肩を竦めた。

「余計な心配しなくても、キースを動かせないこの状態で、ファルはどこにも行きやしない。キースが目覚めたとしても同じことだ。ただファルを連れ出すつもりだったなら、あんな方法は取らないだろうからね。きっと、彼も俺と話がしたいと思っているはずだよ」

「は、はあ……」

「ゴウグとエレネも、事情が知りたいだろう? まあ、二人にはいずれ遠からず、話すつもりだったんだけど。厄介極まりない道のりになりそうだけど、これからも俺と一緒に進む覚悟はあるかと、以前にも確認したよね」

「は、はい、それはもちろん……しかし」

「それにね」

 困惑しきっているゴウグに、クイートは悪戯っぽく唇の片端を上げた。


「ようやく会えた二人の時間を邪魔するのは、野暮というものだよ、ゴウグ。お前もそろそろ、男女の機微について勉強したほうがいい」


「だ、男女の機微ィ?!」

 悲鳴のような声を上げるゴウグを引き連れ、クイートがドアの取っ手に手をかけた。

 最後に、顔だけ振り返って、にっこり笑う。

「一通り片付いたら、また来るよ。君と話が出来るのを楽しみにしている、とキースに伝えておいて」

 それだけ言い置いて、クイートとゴウグの二人は、部屋から出ていった。

 バタン、とドアが閉じられる。

 しんとした静寂が室内に落ちると同時に、

「……うるせえバーカ」

 という罵り言葉を低く呟き、キースがぱっちりと目を開けた。




「え……」

 起きてたの?! と叫びそうになったところを、キースが人差し指を唇に当てたのを見て、なんとか喉の奥へと押し込めた。

 急いで声音を抑え、ひそひそと囁く。

「い、いつから?」

「ここに寝かされる少し前から」

 じゃあ、治療に入った時には、すでに意識が戻っていたということではないか。ずっと目を閉じて、声も出さずぐったりしていたくせに!

「あの男と話をする前に、おまえと二人になりたいと思っていたんだが、意外と早かったな」

 キースは平然としていた。治療をされている間、まるで目を覚ます気配のなかったキースを見て、どれだけファルの胸が潰れそうになっていたと思っているのだと怒鳴ってやりたかったが、思い止まった。今はそんなことを言っている場合ではない。

「だ……大丈夫なの? キース」

「掠っただけだから、別になんてことない。……それより、おまえこそ大丈夫か。ガラスの破片は間違いなく全部抜いてもらったな? 残っていると厄介だぞ」

 キースの目は、ファルの手と足にぐるぐる巻かれた白い包帯に向かっている。ガラスで切った傷と、銃で撃たれた傷、どちらがより問題か比べるまでもないというのに、「なんてことない」の一言で済ませるキースに、本気で腹が立った。

「なに言ってんの、バカじゃないの。どうしてあんな無茶したの。ここに侵入するだけなら、キースはもっと上手な方法がとれたでしょ? 血だらけのキースを見て、わたしがどんな思いをしたかわかってる? 大体キースはいつも自分のことを考えなさすぎなんだよ。よくもそれでわたしに対してあれこれ言えるよね?」

 結局、文句が口から飛び出してしまった。キースが渋い顔で眉を寄せる。

「そうガミガミ言うな。おれは怪我人だぞ」

「こんな時だけ言い訳にしない!」

 叱りつけてから、ファルはぴたりと口を噤んだ。


 眉が下がり、唇がぐにゃりと曲がる。

 ベッドの掛け布の上にぱたんと顔を突っ伏して、そのまま動かなくなった。


「……ファル?」

 あまりにも長いことそうしていたので、心配になったらしく、キースが名を呼ぶ。ファルはベッドに顔を押しつけたまま、なんとか声を喉から絞り出そうと努力した。

 でも、なかなか上手くいかない。唇がわななき、喉は何かに塞がれているように詰まっている。窓から身を投げた時にはなんの迷いも躊躇いもなかったのに、今になって足許から震えてきた。耳鳴りがして、頭の芯がぎゅっと痛くなる。

 瞼が熱い。

「……った」

 ようやく出てきた声は言葉になっていなかった。うん? とキースが聞き返す。消えてしまいそうなほどの小さく細い声しか出なかったが、もう一度、繰り返した。

「……会いたかった、ずっと」

 しばらく、キースは何も言わなかった。やがて掛け布の下でごそりと身動きする気配があって、温かい何かがファルの頭に乗せられた。

 相変わらず不器用な掌が、それでも優しく髪の毛を梳いている。

「──おれもだ」

 ファルと同じくらいに小さな声が、耳に届いた。



          ***



「顔を上げて見せてくれ、ファル。せっかく久しぶりに会えたんだから」

 キースの言葉に、ファルは乱暴にぐいぐいと腕で拭ってから、顔を上げた。涙の跡で、かなりみっともないことになっているであろうその顔を、キースが横になったまま、じっと見つめてくる。

 その視線を受けたら、急に照れくさくなった。もじもじと落ち着きなく身じろぎする。何もそう、真顔にならなくてもいいのに。

「しばらく見ないうちに、綺麗になったな」

「…………」

 火を噴いたように頬が熱くなる。次いで、よほど傷が痛むのか、とかなり本気で心配になった。銃で撃たれたショックで、いろいろ混乱をきたしているのかもしれない。

「大丈夫? キース」

「何が大丈夫なんだ」

「だってそれ、うわ言でしょ? 気を失う直前もそんなこと言ってたもん」

「おまえ、中身のほうはあまり変わっていないらしいな。あの時のおれに、おまえの顔や姿をじっくり眺める余裕があったと思うか。あれは、おまえの翼に対して言ったんだ」

「…………」

 その瞬間、ファルの心臓がきゅっと縮んだ。

 キースは明確に、おまえの翼、という単語を口にした。彼はあれをきちんと現実だと認識している、ということだ。そしてなおかつ、それを疑問に思っている素振りもない。その口ぶりや顔つきに、ゴウグや兵たちのような驚きと惑乱は見られなかった。

 判っていて、その上で、ああ言ったというのだろうか。


 ──綺麗だな、って?


「……キースは」

 逡巡の後で問いかけようとしたファルを遮るように、キースは「知ってる」ときっぱり言った。

「ここに来るまで、ただ観光していたわけじゃない。たぶん、おまえが知っているのと同じ程度のことは、おれも知ってる。長くなるから、もう少し体力が戻ったらゆっくり話すが、おれはおれで、いろいろあったんだ」

 知ってる? どこまで?

「……わ、わたし」

 ファルの声が震えた。

「天人、なんだって」

「知ってる」

「翼がある生き物なんだって」

「知ってる」

「人ではないんだって」

「おまえは人だよ。天界人や地界人とは違う、というだけだ」

 キースの声はまったく揺らがない。ファルは、キースが何か重大な勘違いをしているのではないかと思った。彼が得た情報にはどこか齟齬があって、それで「天人」についても軽く考えすぎているのではないか。


 ちゃんと理解していたら、こんなことが言えるわけがない。


 ファルが押し黙っていると、小さなため息が落とされた。

「……ファル、自分が天人だということを考えすぎるな。翼があろうとなかろうと、おまえはおまえだ、何も変わりゃしない」

「…………」

 包帯が巻かれた両手を、膝の上でぐっと握り合わせた。

 何も変わらない? キースは何を言っているのだ、そんなことあるはずがないではないか。天界人のファルと、天人のファルとでは、何もかもが変わってくる。

 これから先のことだって──

 自分が置かれている状況を考えて、息が詰まった。天人として覚醒してしまったからには、ファルは否応なく、様々な思惑の入り乱れる渦中に据えられる。そのファルと一緒にいたら、キースも確実にそれに巻き込まれるだろう。キノイの里でのような平穏な生活なんて、再び送れるとは思えない。

 約束を果たせるかどうかだって、判らない。


 ファルが天人でなければ、キースもこんな目に遭わずに済んだ。


「地界に堕ちた時、『出会ったところから後悔しなきゃいけないのか』とおれに言ったのは、おまえだっただろ。──そんな顔をするな」

 キースの右手が動いて、ファルの頬に触れた。手の甲がするりと滑るように撫でていく。

「いつものように能天気に笑っていろ。おれはずっとその顔を見ていたいんだ。そのためなら、なんでもするさ。あの野郎と同じようなことを言うのは癪だが、どんな厄介な道のりであろうと、おまえと一緒に進んでいく覚悟はもう出来てる。おまえはおまえの、行きたい方向へ行け」

「……けど」

「おれは約束を忘れていない。おまえもだろ。だったらそれでいい。おれとおまえが目指すところは同じだ」

「…………」

 力強い声に、ファルはそれ以上の反論は続けられなかった。もっと言わなければならないこと、出さなければいけない言葉はたくさんあっただろうに、声が出てこない。

 口を開いたら、会えなかった期間に胸の中に溜まっていたあらゆるものが、一気に溢れて放出されそうだった。

 せっかく拭ったのに、目からはまたぼとぼとと大粒の涙が零れ落ちている。



 ──ファルは一体、何をしたらいいだろう。

 何をすれば、キースの気持ちにちゃんと応えられるのだろう。いつもこちらに向かって真っ直ぐ差し出される手に、何をもって報いればいいのだろう。



 ファルにはまだ、その答えが出せなかった。それを見つけるのには、もう少し時間が必要になりそうだ。

 でも、せめて今は。

 キースが望むとおりに、笑っていよう。それだけが現在の自分に出来ることであるのなら。

 眉を下げて、涙を落としながら、えへへ、と笑う。相当くしゃくしゃな表情になっていたはずだが、キースもまた目を細めた。

「──以前、ユアンにな」

「え?」

 突然出てきたその名前に驚いたが、キースの声は穏やかで、視線はじっとファルに向けられたままだった。

「ユアンに、言われたことがあるんだ。あれは地界に堕ちるすぐ前くらいだったか……『身体も心も一人前の娘となったファルを、自分の傍に置いておけたらと夢想したことはなかったか』と」

 それは、どんな状況下で出された問いだったのだろう。彼のあるじであったその人物に対する複雑な感情が今もなくなったわけではないだろうに、キースを包む周りの青色は乱れることもなく、澄んでいる。

「おれはその時、バカバカしいと一蹴した。本当に、そんな風に考えたことはなかったからだ。そんなことは、自分が望んではいけないことだとも思っていた。思い描くだけで、罪深いような気がした。だからその時のおれにとって、それはどこまでも、美しいだけの幻、永遠に手の届かない夢でしかなかった」

 でも──と言って、キースは少し笑った。


「その幻が、今、現実になっておれの前にある。おれはもう、あの時の夢に手が届きつつある。背が伸びて、肉もついて、どこから見ても健康的で、綺麗な娘になったファルが、おれのすぐ傍で笑ってる。──後悔なんて、ひとかけらもしていない。おまえと会えたことは、おれの人生の中で最大の幸運だった」


 キースの手が、今度は握り合わされたままのファルの両手の上に置かれた。絡み合った指をそっと解いて、自分の掌と重ねる。

「…………」

 ますます頬が熱くなった。どちらかというと、現在のこの状況のほうが、ファルにとっては夢のようだ。

 しかし、目のやり場に困る。こんな時、どう返せばいいのか、適切な言葉が思いつかない。むしろこんな時に言葉は必要ない、などということはもっと思いつかない。圧倒的に経験値が足りないのだから、仕方ないではないか。

「──えーと」

 赤い顔でしばらく試行錯誤した挙句、ファルはやっと口を開いた。とにかく何か話さないと、恥ずかしくてこの場から逃げ出してしまいそうだ。

「わたし、そんなに変わったかな?」

「ああ」

「クイートなんて、何度もわたしのことを子猿子猿って呼んでいたんだよ」

「最低だな」

 キースは真面目な表情、真面目な声音で、そう言いきった。

 ……が、一瞬、周囲の色が揺れた。


 ん?


「……さては、キースもわたしのこと、内心で子猿って思ってたでしょ」

 低い声で言ったら、真っ直ぐ向かってきていた視線が、ふいっと逸らされた。やっぱりそうか!

「おれは口には出してないぞ」

「思ってたなら同じだよ! しかもその顔、一回や二回じゃないよね? いつ、どんな時に思ったのか、わたしの目をちゃんと見て言ってごらん!」

「バカおまえ、おれは怪我人なんだから──」

 明後日の方向を向こうとするキースの頬をがしっと両手で包み、「こっちを向きなさい」と厳しく尋問していたら、ドアがガチャリと開いて、ゴウグが顔を覗かせた。

「おいファル、お前、メシまだだろ? クイートさまもエレネも、まだちょっと手が空きそうもないんでな、これ……」

 言葉はそこでいきなり途切れて、ゴウグの手から食膳がけたたましい音を立てて滑り落ちた。


 真ん丸に見開かれた目は、ベッド上のキースに抱きつかんばかりに密着し、押し倒して覆い被さっている(ように見える)ファルへと一直線に向かっている。


「……え、だ、男女って、そういう……そ、その年齢で……?」

 今のゴウグが何を誤解し、どんな映像が頭の中を駆け巡っているのか、その赤くなった顔と、ぶるぶる震える肩を見れば、なんとなく想像できる。ファルはその態勢のまま、一応、自分の潔白を主張しようと試みた。

「あの、ゴウグさん……」

 しかし、それはまったく不首尾に終わった。違うんだよ、とまで言う前に、ゴウグはくるっと身を翻し、乱暴にドアを閉めてしまったからである。

「ちくしょおおお~!! 子供のくせにイチャイチャしやがってええ~っっ!!」

 呪詛のような叫び声が、あっという間に遠くなっていく。女の子に縁がないと嘆いてばかりのゴウグは、ファルが思っていた以上に、いろいろと拗らせているらしかった。

「あーあ……」

 ファルはため息をついて、キースのほうに視線を戻した。

 そして、今さらのように気づいた。

 いつの間にか、彼の顔は、ずいぶんとファルの顔のすぐ間近に迫っている。息遣いまでがはっきりと聞こえるほどだ。なるほど、と自分でも納得した。

 ……これじゃ、ゴウグが誤解するのも無理はない。

 無性に可笑しくなって、噴き出してしまう。

 呆れるようにドアのほうに目をやっていたキースも、こちらを向いて、同じように笑いだした。

 静かな室内に、二人分の笑い声が響く。こんな風に笑ったのは、ひどく久しぶりだ。額と額を軽くぶつけるようにしてくっつけたが、今度は恥ずかしさは感じなかった。

 こうして近くにいて笑い合い、触れ合うのは、とても自然なことだと思った。

 別に、何も問題などない。


「……だって、子供じゃないし」

「子供じゃないからな」


 ファルがさらにキースの顔に自分のそれを寄せた。キースの両腕が上げられて、ファルの背中へと廻る。

 二人の唇が重なった。



          ***



 よほど拗ねているのか、ゴウグはその後も姿を現さなかった。部屋の入口にぶちまけられた食膳はファルが片づけたが、固形の食べ物はともかく、飲み物はもうどうしようもない状態だ。

「キース、喉が渇いたでしょ? どうしようかな……部屋を出てもいいのかな」

 部屋自体に鍵はかかっていなかった。勝手に出るな、とも言われていない。しかし、ファルが一人でひょこひょこと外に出て、もしもまた兵などに見つかった場合、どういう口実を立てたらいいのかよく判らない。

 少し様子を見るだけなら、と立ちあがりかけたら、キースがぐっとファルの手を掴んで引っ張った。

 ん? と振り返る。

「喉は渇いてない」

「じゃ、お腹空いてない?」

「空いてない」

「でも、これから」

「痛み止めの薬が効いてきたらしい。眠い」

「あ、そうか。うん、じゃあ、ゆっくり寝てね」

 掛け布を整えてあげようと、捕われたままの手を抜こうとしたら、さらに力が込められて阻止された。

「……?」

 ファルは当惑した。キースが何をしたいのか、よく判らない。

「ここにいろ」

 ぶっきらぼうに言われて、首を傾げる。一人でふらふらしたら危ない、という意味なのだろうか。

「でもたぶん、このあたりに人は立ち入れないようにクイートが手配していると思うから、大丈夫だと思うよ?」

「いいから、ここにいろ」

 ファルの手を握ったまま、キースの瞼が半分くらい下りている。相当、眠気が強いらしい。無理もない、これだけの傷を負って、肉体は切実に休息を必要としているはずだ。

 だったら素直に眠ればいいのに。睡眠中に敵が現れるといけないからファルが見張っていろ、ということなのか?

 それなら別にこうもぎっちり手を握っていなくてもいいのでは……と思いかけて、気がついた。

 あ、そうか。

「……甘えんぼうか」

 つい、ぼそりと心の声を洩らしてしまったら、キースの力がさらに強くなった。痛い痛い、と訴えたが、無視して目を閉じる。

 さほど間を置かず、寝息が聞こえてきた。

 しっかりと手を握ったまま眠りに落ちてしまったキースの顔を、ファルはしげしげと眺めた。

 久しぶりに見るその寝顔は、ずいぶんと頬肉が削げて、以前よりもずっと尖ったものになっていた。姿かたちは少年なのに、そこには、子供らしさとはかけ離れた陰影と、鋭い強靭さだけがある。この半年ほどの間に成長したというのもあるかもしれないが、キノイの里からこの赤の離宮までの旅路は、それだけ過酷なものだったのだろう。


 ファルを探して、見つけて、ここまで来てくれた。


 今になって、胸の奥のほうから込み上げるものがある。上体を傾けて、キースの顔の近くに自分の頭を置いた。

 空いているもう片方の手で、そっと頬に触れた。

 ゆっくりと、大きな息を吐き出す。静かで、穏やかで、ぽかぽかとしたぬくもりが心地いい。自分を包み込む、深い酩酊感に身を委ねた。

 ……ファルだけの幸福が、ここにある。

 規則的に洩れる寝息を耳にしているうちに、自分もうとうとと眠気が差してきた。睡眠はたっぷり取ったはずなのに、おかしいなと怪訝に思う。

 ここに来て、どっと疲労と安堵が押し寄せてきたのだろうか。


 ──ひどく、眠い。


 とろんとしかかった頭で、繋がれた手を意識する。キースの気持ちが判った。目を閉じて、開けた時に、またこの顔が見えなかったらと思うと、不安でたまらないからだ。

 もう、離れたくない。

 自分でも不可解なほどの強烈な眠りの中に引きずり込まれながらファルが祈っていたのは、起きた時にもちゃんとキースがここにいますように、ということだけだった。





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