交錯
リジー王国には、赤の離宮、青の離宮、緑の離宮と呼ばれる、三つの建物がある。
それらの離宮は、金枝宮という名の王宮を中心にして、ほぼ等間隔に配置されている。地図上で三つの離宮を繋ぐように線を引いてみれば、綺麗な三角形を描いているのがはっきり判る。その三角形のちょうど中央に、金枝宮がどっしりと鎮座ましましている、といった具合だ。
「離宮」と呼ばれてはいるが、これらはもともと、王宮を守るための砦として建てられたものなのではないか──とキースは推測した。
外敵からの攻撃を防ぐための建造物だ。王の側妾に与えられる、というのも、そういう意図のもとに続いてきた慣習なのだろう。もっとも、最初に築造された時の目的はどうあれ、現在も砦としての機能が十分に果たされているのかどうかは疑問だが。
赤の離宮には、高い塔があった。
残り二つについては未確認だが、おそらく青と緑の離宮にも、それぞれ同じような塔があるはずだ。その塔は、離宮の敷地の端にあって、大きな窓が外側──王宮の方角とは反対側を向いている。まるで、ここから見ているぞ、と住民や仮想の敵に対して顕示するように。
周辺への監視と牽制。
かなりの高さがある塔は、おそらくはそのために造られたものだ。取りつく島もない無味乾燥な灰色のその建物は、寒々しいほどの非情さをたたえて人々を睥睨し、無言で威嚇しているように見える。
キースは一日かけて、街からその塔を観察した。
その塔にある窓はひとつだけ。そこに、人影がはっきりと現れることはなかった。たまにちらりと何かが動くのは見えたが、なにしろ距離がありすぎるのと、日中は反射する陽の光に邪魔をされて、それが何か識別することが出来ない。人間なのか、それともガラスに映る鳥の影なのか。
陽が落ちて暗くなると、窓の内側で、ぽわりとした明かりが灯った。
間違いなく、人がいるのだ、と断定できたのはその時だった。明かりは室内を動くわけでもなく、控えめに外に光を洩らしているだけである。その「誰か」は、部屋の中を見回るでもなく、窓から外を確認するでもなく、じっとしている、ということだ。
あの塔は現在、本来の目的である、周囲への監視のためには使われていない。少なくとも一人の人間がいて、明かりを必要とするだけの時間をあの場所で過ごしている。
その情報だけで、キースに確信を抱かせるには十分だった。
あそこにはファルがいて、なおかつ彼女は未だ、天人としての能力には目覚めていない。
キノイの里から連れ去られて、もう半年近くが経過している。クイートはさぞ、やきもきしている頃合いだろう。あの男にとって必要なのは、「天人」のファルであって、少し変わった力を持っているだけの子供ではない。
翼を実体化させるのが天人の意志によるのなら、脅迫や暴力を使って強要することに意味はないと、少なくとも馬鹿ではないあの男なら判っている。その代わり、他の手段を使って試行錯誤しているはずだ。
──言い換えれば、そこまでしても覚醒させられないほど、ファルの翼は彼女の中に深く埋没してしまっている。
邪魔をするのは、なんだろう?
天界人として育ってきた過去か。卑小な存在として扱われ続け、培われた無意識の自己否定か。あるいは、恐怖か。
無理もない。今までずっと、自分は天界人だと信じ切っていたのだから。ここに来ていきなり、お前は天人だ、翼を持つ種族だと言われたところで、混乱するばかりだろう。
天界でのファルは赤ん坊の時に捨てられて、それから長いこと、余計者として疎外され、誇りも自尊心も踏みにじられ、何ひとつ与えられず、一人きりで生きてきた。そして地界に来たら来たで、ただ一人の天人だから、翼を出して自分たちのために働けと要求されている。
あまりにも身勝手だ。ファルにはそんなことをしなければならない義理も義務もないというのに。
それでも、恨むことも、憎むことも、出来ない。
天人というのは、なんて可哀想な生き物なのだろう。
夜が明けると、離宮の周囲をぐるりと巡って、大体の位置関係を把握した。
保安対策のためか、離宮の近辺には、高層階の建物があまりない。それでも二階建て程度のものはあったので、そこの屋上に上ってもみた。敷地内に植えてある木々に遮られて、見通しがいいとはお世辞にも言えないが、巡回する兵の姿を確認することは出来た。
もともとの目的が王宮のための砦であるとしても、警備はさほど厳重というわけでもないな、とキースは結論付けた。
白雲宮では、虫一匹の侵入にも神経を尖らせて、それこそ無断で近寄る人間がいようものなら有無を言わさず兵によって殺されていたが、あそこに比べればまだ甘さがある。離宮の門を守る番兵たちは、一応姿勢を正して真っ直ぐ立っているものの、前を通る若い女にいちいち目線を向けるような緊張感のなさだ。まあ、白雲宮が極端だった、とも言えるが。
──どうするかな。
と、キースは自分の顎に手を当てて考えた。
これなら、夜間に忍び込んで塔にまで行き着くのは、さして難しいことではないかもしれない。塔は塔で警備されているのだろうが、大砲などの兵器がいつでも稼働可能な状態で備え付けられている、というわけでもなさそうだ。相手が人間だけであれば、いくらでも無力化のしようはある。
ひそかに侵入して、塔の中にいるファルを取り戻す。
それだけなら、この子供の姿でも可能だと思われた。キースにはそれを実現できる技量がある。ファルを取り戻したら、その手を取ってここから逃げ出すことも出来るだろう。
しかし、それでは、根本的な解決にはならない。
「…………」
キースは顎に当てた手をぐっと握った。
そうだ……それでは意味がない。
今のままのファルでは、状況は前に進めない。
だとしたら必要なものはなんだ? クイートが時間をかけても壊せなかったファルの頑固な殻を、どうやったら打ち破れる? どうすれば、過去も、自意識も、恐怖心をも吹き飛ばして、ファルは自分の力を解放させられる?
そこまで考えて、ひとつの可能性を思いついた。
本人に記憶がないとはいえ、ファルは一度、それをやってのけたはずだ。他ならぬキースを救うために。
──だったら、試してみる価値はある。
背中に括りつけた筒から、弓を取り出した。キノイの里を出る時から、肌身離さず持ち歩いていたものだ。片端を地面に押しつけてぐっと曲げ、素早く弦を張る。それを片手に持ち、誰にも見咎められないように、手近な塀の上に飛び乗った。
身を低くして幅の狭い塀の上をするすると進んでいく。通行人はちらほらいたが、自分の目線よりも上の場所で、猫のようにしなやかに疾走していく子供の姿に気がつく者はいなかった。
塀から塀へ、ある時は植えてある木の枝へと飛び移り、離宮の門前近くまで到達した。すぐ前に別の建物があるので、キースがいるところからは、門番の姿は細い隙間からしか見えない。
二人の兵は、こちらに注意を向けていなかった。目を上げたとしても、建物の影に潜むキースの姿は見えなかっただろう。
距離を目測して片膝をつき、筒の中から、今度は二本の矢を取り出した。一本を口に咥え、一本を指に挟む。
矢を弓につがえ、キリキリと引き絞った。
建物と建物の間から見える兵の腿に、目標を定める。キースの眼が、獲物に狙いをつけた獣のものになった。天界にいた時に、幾度となく経験した感覚が甦ってくる。頭の中がしんと冷えて、周囲の雑音が耳に入らない集中の状態に自分を持っていくのは、キースにとってそんなに難しいことではない。
建物と建物の隙間は細い。だが、矢が一本通れれば充分だ。
指を離す。ひゅん、と飛んでいった矢は、空気を切り裂き、見えない直線を描いて兵へと向かった。
一瞬後、甲高い悲鳴が、耳をつんざくような音量でこだました。
***
エレネは最近、新たな喜びに目覚めてしまったらしい。
ファルのために、次から次へと衣装を用意しては、あれはどうだこれはどうだと、しきりと頭を悩ませている。肝心のファル本人が、「別に裸でなければ服なんてなんでもいい」という適当極まりない考え方をしていると知ってからは、余計に着飾らせたい熱がひどくなった。
「どうでしょう、この色? これならファルさまにも似合いますわ、一度着てみてくださいな」
「ええー、また? もうこれで三度目だよ、エレネさん……」
「これくらいでお疲れになってどうします。まだまだありますのよ」
「ゴウグさんのトレーニングのほうが楽だった……」
「ファルさま、あまりゴウグの言うことを真に受け過ぎないでくださいね。あの男の教える通りにしていたら、腕もお腹も筋肉だらけになってしまいます。ファルさまはもっとふくよかになってもいいくらいなんですから。そうだわ、この形の服なら、髪型はちょっと上げてみたほうがいいかもしれませんね。結って差し上げましょう」
「あ、うん、そろそろこの髪、長くなって邪魔だなと思ってきたところだったんだ。エレネさん、鋏で適当に切っちゃってくれない?」
「まあ! 何を仰っているんですか、ファルさま! よろしいですか、女の髪はそのように『適当に切っちゃって』良いものでは断じてありません!」
油断をすると、説教までが飛んでくる。どうやらエレネは今、「ファルを身も心も十七歳の乙女にする」という妙な使命感に取りつかれているようで、クイートも面白がっているのか、この点に関しては完全に放置状態なのだ。正直言って、閉口している。
「あのね、エレネさん……」
ため息混じりにファルが「もう勘弁して」と懇願しようとした、その時だ。
突如として、叩き壊さんばかりの勢いで扉が開き、険しい顔をしたゴウグが飛び込んできた。
「ファル、エレネ、襲撃だ!」
ファルは一瞬、息を止めた。
──襲撃? また?
エレネが表情にさっと緊張の色を乗せ、手にしていた服を放り出す。咄嗟に庇うようにファルの前に出て、鋭い視線を窓と階段の方向に向けた。
「こんな真っ昼間に、また? 今度は何人なの?」
「一人だ」
その答えに、エレネが目を見開いた。ゴウグも混乱しているのか、髪の毛の中に手を突っ込んで、がしがしと掻きむしっている。
「よくわからねえんだよ。とにかく、侵入者があったことは間違いないらしい。門番の二人と、中にいた兵がもう数人やられた」
「死んだの?」
エレネの問いかけに、ファルは身を竦ませる。前回の襲撃の時の銃声と、流れた血のどす黒い赤を思い出して、心臓が縮むような気持ちになった。
しかしゴウグは首を横に振った。よくよく気づいてみれば、彼の表情は、怒りや驚きとは別に、どこか不可解さに覆われてもいるようにも見える。
「死人は出ていねえ。全員、足を狙われてる。もっと深手を負わせることも止めを刺すことも出来たはずなのに、そうする気はないみたいなんだ」
「なんなの、それ」
エレネも困惑に包まれた。
「一体、何が目的で」
「だからそれがわからねえんだって。情報がまだはっきり伝わって来ねえ。わかっているのは、敵は一人で、獲物は弓矢とナイフらしいってことなんだが」
「弓矢?」
エレネは呆気にとられたが、ファルはびくりと全身を震わせた。
弓矢と、ナイフ?
「銃も持っていないのに、まだ捕まえられないの?」
「どうもおそろしく腕の立つやつらしくて──その姿をちゃんと見たやつもいねえんだよ。黒くて小さな何かが風のように近づいてきたと思ったら、次の瞬間には足をぱっくり切り裂かれてた、なんて話で」
「黒くて小さな、何か? 動物が入り込んだのではないの?」
「動物が門番の腿を矢で貫くかよ。とにかく、そいつが」
「こちらに向かってきているのね? だったらファルさまを別の場所に移したほうが」
「けどよ、前回とは話が違うんだぜ。相手が一人っていうなら、下手に動かさないほうがいいんじゃねえか? そもそも、目的がまるでわからねえ。そんなに腕の立つやつなら、なんだってこんな白昼堂々、わざわざ騒ぎを大きくするような真似をするんだ?」
エレネとゴウグは、意味が判らない、というような顔で互いにまくし立てている。ファルは無言でくるりと身体を廻し、窓へと駆け寄った。
ガラスに両手を当て、下を覗き込む。
鼓動が激しく暴れて、痛いほどだった。
***
キースは自身が放たれた矢のようになって、離宮の敷地内を疾駆した。
目につく兵は手早く動きを封じた。背後からナイフで襲い、駆け寄ってくる足音が聞こえれば、すかさず弓を構えて矢で仕留める。殺さないようにするのは、案外手間だ。血の噴き出る足を押さえて呻く兵の脇を駆け抜けて、ちらりと塔を一瞥した。
いくらなんでも、これだけの騒ぎを起こせば、ファルの元にも伝わっているはず。そうでなければ、わざわざ回り道をしてまで攻撃を仕掛けている甲斐がない。
塔までの距離は遠くなかった。これ以上兵が集まってきても面倒だ。あともう少しで、目指す場所に辿り着く。
──ファルがいるところへ。
足を止め、方向転換した、その瞬間。
後ろから、ガン、という音がした。
聞き覚えのある音だった。キノイの里を出たところで、ファルを抱えたクイートが、黒い塊の引き金を引いた時の音と同じだ。
銃声──と認識すると同時に、左の肩に激痛が走った。
「ぐ……」
よろけたが、足を止めはしなかった。「と、止まれ!」という制止の声と共に、続けてまた、ガン、ガン、と音が響く。
一発は外れたが、一発はキースの右の脇腹を掠った。
撃たれた場所が燃えるような熱を持って苦痛を生じさせる。思わず手で脇腹を押さえたら、ぐっしょりと濡れた感触があった。顔からどっと汗が噴き出してくる。
後ろを振り向き、弓を構える。大きな手で握り潰されるかのような左肩の痛みに、勝手に呻き声が漏れた。弓を固定する左手がぶるぶる震え、滝のように流れる汗で視界が滲んだ。
それでも、なんとか放った矢は銃を向けていた兵に当たった。狙いが逸れて腰の上に当たってしまったが、あれくらいなら死にはしないだろう。
ふらりとした足取りで踵を返す。撃たれた左肩に食い込む背中の筒を外して捨てた。どちらにしろ、もう矢は残っていない。今度銃で撃たれたら、キースにはもう反撃の手立てがない。その前に、塔まで行かなければ。
荒い呼気が脳にまで響く。身体が鉛のように重かった。やっぱり子供の身体は耐久力に乏しい。これ以上出血が続いたら、意識を保っていられるかどうか、自信がなかった。
地面に血の跡を点々と残しながら、キースは塔に向かって進んだ。
***
窓の外で、大きな音がした。
「銃声だ」
ゴウグが荒々しい声を上げ、弾かれたように窓へと走る。強張った顔をガラスにくっつけているファルの隣で、彼もまた下を覗き込んだ。
芝が敷き詰められたその場所に、誰かの姿が見えた。
その人物は、自分の脇腹を手で押さえ、こちらに向かってきていた。身体のあちこちが、真っ赤に染まっている。手の指の間から、そして左の肩からも、血が滴っていた。彼が通ったその後には、染みのような血痕が続いている。
黒い髪をした、十二、三歳くらいの子供。
「子供?!」
ゴウグが目を剥いて叫んだ。
傷を負って進む子供の足取りは明らかに乱れている。彼の後ろから、複数の兵たちが走ってくるのが見えた。「止まれ」と怒鳴る彼らの手には、それぞれ黒光りする銃が握られている。
「あのバカども、子供相手に何をしてる!」
髪を逆立てて怒りの形相になったゴウグが、吠えるように怒声を放つと、床を蹴って駆けだした。扉を開けて、階段を駆け下りる足音が遠ざかる。
状況が掴めず茫然と立ち尽くしていたエレネは、いきなり大音響で室内に轟いた、バン、という音に、飛び上がるようにして驚愕した。どこかから発砲されたのかと慌てて周囲を見回し、その音が窓に立つファルによって出されたものだと知り、目と口を丸くする。
ファルは自分の両の掌で、窓ガラスを思いきり叩きつけていた。
***
──膝がガクガクしはじめた。
左肩と右脇腹から伝わる激痛が、少しずつ思考能力を麻痺させていく。大人の時ならこの程度、まだ耐えられたはずだ。なのに、ひっきりなしに襲い来る悪寒と脱力感で、この身体はもうすでに、限界を訴えている。
くそ、と歯ぎしりして、なんとか足を動かした。もう塔のすぐそばまで来たはずだが、今のキースには、上方を振り仰ぐことも困難になりつつある。自分がどのあたりにいるのか、正確に把握できない。
「止まれと言っている! 止まらんと撃つぞ!」
背後から複数の足音と、大声が聞こえた。それさえ、耳の中を反響して遠く感じる。次に撃たれたらもう動けないということは判っても、避ける体力が残っていなかった。
──ファル。
おれが撃たれる前に、捕まる前に、拘束される前に。
「……っ」
ガクン、と身体が傾いだ。地面に両手と両膝をつく。四つん這いになった途端、大量の汗の滴がボタボタと流れ落ちていった。血の臭気が強く鼻をついて、吐き気がした。
足音が間近まで迫ってくる。しかしもう身体の自由がきかない。心臓が爆発しそうなほど大きく鳴って、がんがんと頭に響いた。喘ぐような呼吸をして、なんとか空気を吸いこむのがやっとだった。
「そのまま動くな。世話かけさせやがって、ガキが」
後ろから銃口を突きつけられた。吐き捨てるような声がして、右の肩が兵の手に掴まれる。気安く触るな、とキースの胸の裡に苛つきが生じた。
……おれの邪魔をするな。
ざわりとした黒い感情が鎌首を上げる。波打つような苦痛は、銃創から来るものなのか、自分の内側から来るものなのか、判別がつかない。手の指先から震えが止まらなくなって、そちらに目をやったら、爪の形が変形しはじめていた。
分厚く尖り、湾曲した爪。
それを見て、キースは苦笑した。まったく、偉そうにニグルのことを「心が弱い」なんて言える立場ではなかった。
キースだって、充分、心が弱い。
すぐにこんな風に、憎悪に乗っ取られそうになるのだから。
あの極限状態で、ファルが自分のことも顧みず、眠っていた力を引き出してまで、キースを人として保とうとしてくれたのに。
それをキース自身が台無しにしてしまったら世話はない。キースの中に住み着いている獣は、いつだって容易く制御の鎖を引きちぎってしまう。
これではダメなのだ。いくら格闘が得意でも、どんな武器を使いこなせても、精神的に弱いままでは、意味がない。自分を蝕んでいくこの黒い感情に立ち向かえる強さを身につけないと。
影ではなく、獣でもなく、キースはキースのまま。
そうでなければ、ファルを守ってやれない。
「立て!」
掴んだ肩を引っ張られた。言われなくても立つさ、と内心で応じながら、力の入らない足を叱咤して上体を起こすと、その途端に激しい眩暈に襲われた。
ぐらりと景色が廻ったと思ったら、次の瞬間には勢いよく地面に倒れていた。苦痛が全身を駆け巡り、暴れ狂っている。意識が朦朧としてきた。
──考えてみれば、変な話だよな。
薄れていく思考で、妙にのんびりとそんなことを考えた。身体のどこにも力が入らず、燃えるように熱い。ほんの少しでも気を抜けば、すぐに気絶するだろうと自分で判った。
ユアンの影として仕えていたキースの前に、たまたま現れた変な女が、天人だったなんて。
ファルが天人でなければ、その後の成り行きはまったく変わっていただろう。そしてまた、キースがユアンの影でなければ、ファルは今も天界で使用人として追い使われていただろう。
キースとファルの出会いから、あの些細な出来事から、今や天界と地界の未来を巻き込んでの、大きなうねりが発生しようとしている。
まるで神というものが、最初からそのために仕組んでいたかのようではないか。
そこまで考えて、ふ、と唇から息を洩らした。笑ったつもりなのだが、乱れきった呼気で、上手くいかない。
……別に、どうだっていい。
運命だろうが、天命だろうが、キースを光の方向に導くのはファルだ。それは間違いない。
神の意志なんてものはどうでもいいが、ファルが自分の意志で進みたいと思う道があるのなら、キースは全力でそれを助けたいと思う。
いつだって、手を差し伸べる。
倒れた態勢のまま、顔を動かして上を向いた。ちょうど真上の位置に、塔の窓がある。ここからはその中までは見えなかった。それでなくとも、目が霞んで視界がぼやけている。
それでもキースは感じた。あそこには必ず、ファルがいる。
ふらふらと不安定に揺れる腕を上げ、手を伸ばした。ガラスの向こうに向かって、真っ直ぐに。
「……来い」
掠れた声で、呟いた。
***
ファルが渾身の力を込めて叩きつけても、ビリビリと振動するだけで、頑丈なガラスはちっとも割れてくれなかった。亀裂すら入らない。
「ファルさま、どうなさったのですか! 落ち着いてください!」
エレネが必死に止めようとするが、ファルはそれを振り払ってガラスを打ちつけ続けた。バンバンという暴力的な音が、室内に響き渡っている。
ファルの目はまったくエレネのほうには向かない。どれだけ大声を出しても、ファルの耳には届かない。歯を喰いしばり、ひたすら拳をガラス窓に向かって振り下ろすだけだ。
「エレネ、邪魔をするな!」
扉が開いて勢いよく踏み込んできたクイートが鋭く制止したのは、ファルではなくエレネのほうだった。
エレネが驚愕の表情で振り返り、「クイートさま! 何を──」と叫ぶのにも構わず、腕を真っ直ぐ前方に伸ばす。
彼が手にしている、黒々とした銃が狙いをつけているのは、明らかにファルの背中だった。
「クイートさま?!」
「ファル、どいて!」
その指示と同時に、ファルの身体が横にずれる。銃声が狭い室内に大きく反響し、発射された弾丸が、ガラスに穴を開けた。その穴を中心にして、蜘蛛の巣のようなひびが入る。
ファルは棚の上に置いてあった、ゴウグから渡された亜鈴を手に取った。両手で持ち上げ、穴の部分目がけて思いきり振り下ろす。
パンッ、という音と共に、ガラスは粉々に砕け散った。
外から一気に風が吹き込んでくる。
強風に煽られた髪をはためかせ、ファルは窓枠に手をかけた。まだ無数に残っている破片が容赦なく掌を突き刺しているのに、ファルの表情は変わらない。エレネのほうが悲鳴を上げた。
「ファルさま、おやめください! 血が──どうなさるつもりなのですか!」
ファルは返事もせず、振り返りもしない。その目はただひたすらに、窓の真下へと向かっている。エレネは心底からの恐怖に襲われた。
手をかけた窓枠に、次は足もかける。裸足だったファルの足裏から流れる赤い血が、壁を伝って滴り落ちた。痛まないはずがないのに、ファルは何の反応もしない。まるで別の人格でも乗り移ったかのように、いつものファルとは表情も、取り巻く空気も違う。
よく怒って文句も言って、寂しげに窓の向こうを眺めていた小さな少女は、そこにはいない。
ファルは身体を持ち上げ、とうとう細い窓枠の上に乗って、すっくと立った。
その行動にも顔つきにも迷いはなかった。エレネから見える横顔は一直線に下へ向けられたまま、動かない。手から、足から、頬からも血を流して、今現在もガラスの破片は深く刺さって彼女を傷つけているというのに。
「な、なにを……」
何をするつもりなのか。
エレネは引き攣った顔で、大きく足を踏み出した。震える手を出し、ファルの服の裾を握って引き留めようとした。どうかやめてください、とその細い身体を引っ張り戻そうとした。
でも──間に合わなかった。
ファルの身体は、エレネの指をすり抜けて、ふわりと前方へと傾いだ。窓の外、空中へと向かって。
足が窓枠から離れる。
「ファルさま!!」
泣き声交じりの絶叫が上がった。
***
キースが薄く目を開けると、白い光に包まれていた。
……光? いいや、違う。
白い翼だ。
すぐ間近にファルの顔がある。柔らかい掌が、自分の頬を優しく撫でていた。キース、と名を呼ぶ声が、耳許で囁かれる。
ファルの翼は、すべての敵から自分を守るかのように大きく広げられていた。
キースは苦労してなんとか手を動かし、輝くその翼にそっと触れた。指の爪はもとの形状に戻っている。
ちゃんと触れる。実体がある。羽根がひらひらと舞っているのまで、しっかり見えた。
これが、天人の翼。
地界に堕ちる時は光としてしか認識していなかったが、こうして目の前で見ると、それは強く惹きつけられずにはいられない吸引力のようなものを備えていた。
透き通るような。まるで光の結晶体のような。明るくて眩しくて、温かい。
キースの「色」ばかりを見ていたファルの気持ちが少しだけ判った。ファルの場合は、この翼がすなわち彼女自身の性質を表している。
──なんて無垢で、愛おしい。
「綺麗だな……」
微笑んでそう言うと、キースは意識を失った。




