徴候
「……最近、外を眺めなくなったね」
というクイートの言葉に、ファルは読んでいた本から目を上げた。
クイートはいつものように椅子に座るのではなく、大きな窓を背にして立ち、こちらを向いている。光を背負っているので、その表情はよく見えない。
ファルは彼をちらっと一瞥してから、「そう?」と素っ気なく返して、再び本のほうに視線を落とした。
「以前は、暇さえあればここに立って、窓から外を見ていたよね。それが近頃ではさっぱりだ。どういう心境の変化かな」
「別に。飽きたんだよ。そこからの景色はいつも同じだしね。ここに入れられてから、もう何カ月経ったと思ってるの? 毎日毎日同じものを見続けていたら、そろそろ嫌になってもくるでしょ?」
本に顔を向けたまま返事をしたが、実のところファルの目は、そこに書かれた文字を追ってはいなかった。せっかく本を読むということが大した苦労もなく出来るようになったのに、内容がちっとも頭に入らない。
クイートはもちろんそんなこと、気づいているだろう。小さな息を零してから、軽く手を差し出すようにして上げた。
「ファル、こちらに来てごらん」
ファルはぐっと口を結んだ。目線は頑なに下を向いている。
「……いや」
「いいから、おいで」
口調は柔らかいが、クイートの声には有無を言わせない要請の響きがあった。言い方は違っても、それはほとんど「命令」と変わりない。彼のこんなところを目の当たりにするたび、改めて認識させられる。
この人物は、生まれた時から人の上に立っているのだと。
「…………」
ファルは石のように固まってしばらくじっとしていたが、やがて諦めて、椅子から立ち上がった。こういう時のクイート相手に意地を張り続けていてもしょうがない、というのはよく判っている。
……それに、ファルだってちゃんと自覚はしているのだ。自分の言い訳があまりにも空々しく、中身がない、ということくらい。
塔の上の部屋は狭く、椅子から窓際まではほんの数歩の距離しかない。のろのろとした動きでそこに到達すると、クイートはファルの背中に手を当てて、窓のほうに目を向けさせた。
「よく見てごらん、ファル。君がここで目を塞いでいる間にも、外の時間は進み、世界は廻っているんだよ。一見、変わりはないように見えても、実際には変わらないものなんて存在しない。空の雲も、行き交う人々も、一刻前と同じではあり得ない。常に動き、流れ、変化し続けている」
「…………」
ファルは黙ってガラスを隔てたあちら側の景色に目をやった。
こうしてちゃんと目を向けたのは、ずいぶんと久しぶりだ。クイートの言うとおり、いつの間にか、外は少しずつ以前とは様相を変えていた。
窓を叩く強い風がなくなり、通りを歩く人々は軽装になっている。灰色だった空は青く澄み渡り、陽射しは眩しく暖かい。茶枯れていた木々は緑になって、そこかしこで鮮やかな色の花々を咲かせているのが見えた。
季節が移り変わって、街全体が明るくなったようだった。寒さが厳しい頃は背中を丸めてゆっくりと歩いていた人々の動きも、どこか軽快で朗らかになっている。きっと外に出たら、あちこちで楽しげな笑い声が聞こえるだろう。
金枝宮に行った時から、時間だけが進んでいる。
ファルを置き去りにして。
「君がいつもここから外を眺めていたのは、少しでも外部と繋がっていることを実感したかったからじゃないのかい? この風景と人々の向こうに君が見ていたものは何だった? 君の心が向けられていたのは、『ここではないところ』だったはずだろう?」
「…………」
クイートの問いに、ファルは窓枠にかけていた手をぎゅっと握りしめた。
この窓の向こうにファルが見ていたもの。いつだってファルの心が向いていたところ。
それはずっと、一つしかなかった。
「──もう、キースの許へ帰りたいとは思わない?」
ファルは奥歯を噛みしめ、下を向く。声は出さずに、小さく首を横に振った。
帰りたくない、なんて。
……そんなことを思うはずがないではないか。
だけど。
「……君をあの場に連れて行ったのは、失敗だったかな」
クイートが重いため息と共に、言葉を落とした。いつもの皮肉な調子を含まない、本心から「参ったな」というようなその声に、ファルはますますうな垂れた。
無言で窓から離れ、再び椅子へと戻る。そこに腰かけて、開かれたままの本の上に顔を伏せた。
クイートのため息がもう一つ聞こえた。足音がして、ファルの傍らを通り過ぎ、扉の手前で立ち止まる。
「ファル、俺のやり方が強引なのは重々承知しているよ。君にとってつらいことを強制しているかもしれないこともね。だけど、これだけは判って欲しい。俺たちは──地界の人間は、本当に君を必要としているんだ」
ファルが何も言わず顔も上げないでいると、少しして扉の閉じられる音が耳に届いた。
***
それから数日後、ファルがいる部屋の扉がノックされた。
「ファルさま」
聞こえた声に、ファルは目を見開いた。座り込んでいたベッドの上から急いで飛び降り、駆け寄ると同時に扉が開く。
そこから、懐かしい顔が覗いた。
「エレネさん……!」
今まで押し潰していたいろいろなものが、微笑む彼女を目に入れた途端、一気に弾けた。
そのまま走って勢いよくエレネに抱きつく。温かくしなやかな両腕が、ファルの身体に廻された。
「今まで、申し訳ございませんでした。ゴウグの行き届かないお世話では、さぞご不便なされましたでしょう。これからはまた私がしっかり──あら?」
エレネの優しい声が、途中でいきなり、素っ頓狂に跳ね上がった。「あの、ファルさま、ちょっと」と少し狼狽えたように言って、ファルから身を離す。
まじまじと正面から見つめてくるエレネの顔が、ぽかんとしたようなものになった。
彼女が何をそんなに驚いているのか判らないファルは、当惑しながら彼女を見返すしかない。とりあえず、エレネの動きに被弾の後遺症らしきものがないのを見て取り、ほっとした。
「エレネさん、傷はもう大丈夫?」
「あ、はい……それはもうすっかり大丈夫なのですが……まあ、ファルさま、少し見ない間に……あら、まあ、私、もしかして、今まで大変な勘違いをして、まあ」
まあ、を連発して頬に手を当てるエレネは、どうやら相当混乱しているようだ。ファルは首を傾げた。
勘違い?
「まあ、いやだわ、ゴウグったら……いくら毎日見ていて気づきにくいと言ったって、いくらなんでも……そんなことだから女性に縁がないのよ。いえ、もっと女性を見慣れていれば、すぐに判ったのでしょうけど、それにしても……これだから筋肉バカは……」
ぶつぶつと独り言のように、ゴウグを罵ったりしている。クイートにもファルにも優しいエレネは、同僚のゴウグに対してはわりと容赦がない。ゴウグは結構エレネを憎からず思っているようなのに、少々気の毒だ。
「エレネさん?」
ファルが名を呼ぶと、エレネは我に返ったように目を瞬いた。それからやにわに慌てて両の掌を広げ、まるで押し留めるような仕草をする。
「ちょっと、ちょっとお待ちくださいまし、ファルさま。ファルさまご本人も、まったく自覚されていないんですよね? クイートさまが『会ったらビックリするよ』と意味ありげに仰ってましたけど、やっと判りました。驚くに決まってます、ゴウグったら、何も言わないんですもの。というか、あんな無神経な男にファルさまのお世話をさせたのがやっぱり間違いだったんです。まあ、私ったら今まで、本当に……ちょっと、お待ちくださいね!」
急き込むように口を動かしていたと思ったら、くるりと身を翻し、たった今入ってきたばかりの扉をまた開けて、部屋の外へと飛び出していく。「ゴウグ、ゴウグ、用意してもらいたいものがあるの!」という大声と、バタバタという足音が遠ざかっていった。
ファルは何がなんだかまったく判らず、呆気にとられてその場に立ち尽くした。
しばらくして、エレネが部屋に大きな鏡を運び込んできた。
全身が映りそうな、長くて細い鏡である。そういえばこの部屋には鏡というものがなかったな、とファルもその時になってはじめて気がついた。おそらくそれも、割ったら尖った先端が武器になりかねない、という理由からだろう。
大体、鏡なんてなくたって、ファルが不便を感じたことは一度もない。エレネがいた時は彼女の手によってきちんと身なりが整えられていたし、ファルにはもともと、鏡を覗き込んでめかし込む、という習慣がまったくなかったからだ。
「これ、なに?」
「鏡でございます、ファルさま」
困惑するファルに、エレネはさっきまでのオロオロをすっかりどこかに吹き飛ばして、楽しむような顔をしている。鏡であるのは見れば判るが、その意図については説明してくれるつもりがないらしい。
「さあ、どうぞ、ご自身の目でご確認ください」
ニコニコしながら言われたが、さっぱり意味が判らないのは変わらない。なんだろう、今の自分はよっぽどみっともない格好をしているから見てみろ、ってこと? そういえば、クイートもファルの姿を見て「自覚がないんだ」と笑っていたが。
別にどこも汚れてはいないはずなんだけどな……と思いながら、ファルはおそるおそる鏡に近寄った。服のセンスがない、ということなら、これまで衣装選びに悩むという環境にいなかった点を考慮して、少しくらいは大目に見ていただきたい。
あれこれ考えながら、そうっと、鏡の前に立ってみる。
「…………」
そこに映った自分の全身を眺めて、ようやくすべてが腑に落ちた。
あー、と声を出し、ついでに天を仰ぐ。
窓ガラスにぼんやり映った程度ではよく判らなかったが、こうしてはっきりと鏡で見てみれば一目瞭然だ。クイートも思わせぶりなことを言ってないで、ちゃんと教えてくれればよかったのに。毎日顔を合わせているゴウグ……は、この変化に気づいていないのか。それはそれですごいな。
鏡の向こうでこちらを見返しているのは、黒くて小さくてそこら中が傷だらけの貧相な子供ではない。
身長が伸び、手が伸び、足が伸びた。
蜂蜜色の髪の毛は波打って背中にかかり、あちこちに程よく肉がついて、顔立ちからは幼さが抜けた。
すらりとした身体つきの、どう見ても、「若い娘」。
──これじゃもう、子供のフリは出来ない。
いつの間に、と我ながら呆れてしまう。食べて、寝て、運動して、勉強して、を繰り返すだけの単調な生活が、ここまで身体の成長を促すとは思わなかった。天界で止まっていた分が、ここに来て一気に取り戻されたかのようだ。
「ファルさまは、おいくつなのでしょう」
今までエレネが特にこの質問をしたことがなかったのは、これまでファルが出会った人たちと同様に、最初から「子供だ」という思い込みがあったからなのだろう。しかしどうやらもう、その先入観を持ってもらうのは無理なようだ。
「……十七歳」
ファルは観念して本当の年齢を口にしたが、もはやエレネは、キースのように驚きもしないし、クイートのように笑いもしない。それだけ、違和感のない背格好に育ってしまったのである。子供に見られて便利なことのほうが多かったのになあ、と思うと、残念でならない。
「お洋服も窮屈でしたでしょうに。仰って下されば、いくらでも新しいものをご用意したのですよ」
「そういえばそうだね」
よくよく気づいたら、腕の長さに袖丈が明らかに合っていない。天界では、自分の身の丈にぴったりの服を着るということがそもそも稀だったし、服が窮屈なのも慣れきっていたので、まるで気にならなかった。
そういえばと思って、ちらりと胸元を覗き込んでみる。改めて見てみれば、その部分も多少は発育の傾向があるようだ。ちょっと嬉しい。
「申し訳ございません、ファルさま。はじめから私がちゃんとお聞きしていればよかったのです。配慮が行き届かず、まことに」
「え、ううん、そんな」
いかにも恥じ入るようにエレネに謝罪されて、ファルは急いで手を振った。最初から年齢を聞かれていても、適当に誤魔化していたに決まっているのだから、頭を下げられても困る。
「ですが、ゴウグのような厳つい異性に世話をされて、不快な思いもされたのでは?」
「そんなことないよ。大体、ゴウグさんは、わたしのことを『異性』だなんてこれっぽっちも思ってないだろうし」
「そんな鈍感で繊細さの欠片も持ち合わせていない脳まで筋肉男だから、女性に見向きもされないのですわ」
エレネが遠慮会釈なくぴしゃりと言い放つ。あまり間違っていないだけに、ファルは心の中でこっそりゴウグに同情した。
「すぐに別のご衣裳を用意いたします。それからお茶にいたしましょう。とびきり美味しいお茶をお淹れしますね」
エレネが目を細め、ファルの顔を覗き込む。
穏やかな声、柔らかい笑顔。それを見て、これまで張り詰めていたものが、ようやく緩んでいくような気持ちがした。
どうやら、ファルは自分で思っていた以上に、精神が疲れていたようだ。
小さく息をつく。
「……うん。ありがとう」
***
気を遣ってくれたのだろう、エレネが新しく用意してくれた衣服は、今までのように子供が着るような形ではなく、華やぎと落ち着きが同居したような、少し大人びたものだった。サイズもぴったりだ。
さらりとした手触りの綺麗なワンピースは、どう見ても、安物ではない。はっきり言って、この地界でもかなり高価なほうだろう。ここへは攫われてきたとはいえ、何もしていないのに上等な衣服を与えられることに、罪悪感を抱きながら袖を通す。
豪華な食事も、整えられた環境も、何を見返りとして求めて与えられているのか、今のファルはもう知っている。知っていながら受け取って、それでもなおかつ応じることも突っ撥ねることもしない自分を顧みて、非常に胸が痛かった。
エレネとテーブルに向かい合い、一緒にお茶を飲む。
彼女が淹れてくれたお茶は、じんわりと胸に沁みるように温かく、美味しかった。以前までは何をどう勧めようと食事やお茶に同席してくれなかったエレネが、ファルと同じようにカップを傾けて、笑いかけてくれるためもあるかもしれない。
「……クイートに、何か言われた?」
そう訊ねると、エレネは否定はせずに微笑んだ。
「ファルさまが迷っていらっしゃるようなので、お話し相手になるようにと」
「…………」
迷う……と、心の中で呟く。迷っている、のだろうか、自分は。
「エレネさんは、その……わたしのこと、知ってるの?」
曖昧に問いかけてみれば、エレネは今度は少し困ったように首を傾けた。
「申し訳ございません。実を言えば、詳しいことは何も存じません。クイートさまからは特にご説明がありませんでしたし、その必要もないとのことでしたので。ファルさまはきっと、ご自身の気持ちの整理をつけるために、心の中のあれこれを吐き出す相手がいるのだろう、と……そしてその相手として、自分は力不足だろうからと」
「…………」
ファルが心の中を吐き出す相手。クイートは、エレネがその役目に適任だと考えたのだ。
「わたしがどうしてここにいるか、その理由は知ってる?」
その問いに、エレネは首を横に振った。
それは「あるじの意志」に従っているだけに過ぎない、ということか。クイートに対して絶対的な信頼を置くエレネにとって、彼が話さない以上、自分が知る必要はない、と考えているのだろう。
天界のことも、天人のことも、地界における最大の機密事項となっている、とクイートは言った。だとしたらエレネもゴウグも、そこからして知らない可能性が高い。
「ファルさまはもう、それをご存じなのでしょうか」
「うん……まあね」
エレネに問われて、言葉少なに返す。自然と、目線が下を向いた。
「ご自身で納得された、ということですか」
「納得……うん、まあ、納得はした、かも」
どうしても歯切れが悪くなる。
なぜ、クイートがファルをここに連れて来たのか。その理由は判った。地界と天界の関係を知って、地界の人々が天人の存在を求めているのも判った。事情も、成り行きも、要望の中身も、そこに伴う切羽詰まった感情も、判った。
ただ、ファル自身がどういう結論を出せばいいのかだけが、判らない。
「いろいろなことを、理解はしたんだよ」
「はい」
「自分でも、努力はしてみた」
「はい」
「……だけど、前に進まない」
努力はしてみた、のだ。
自分に翼というものがあるのなら、それはきっとファルの意志によって出せるものなのだろう。そう思って、あれこれ試行錯誤はしてみた。椅子から飛び降りてみたり、背中に力を入れてみたり、空を飛ぶイメージを頭に浮かべてみたり。
……でも、全然、駄目だった。
何をどうやれば、金枝宮に現れたあの天人のように、翼を実体化させることが出来るのか、さっぱり判らない。誰かに教えを乞うわけにもいかないし、自分で考えてもまるで判らない。というか、考えれば考えるほど、判らなくなっていく。本当に自分には、翼なんてものがあるのだろうか?
今までに一度も意識したことがない。自分でも、存在を信じ切れていない。ファルにとって翼を実体化させるなどというのは、目には見えない腕をもう一本出してみろ、という要求を出されるのと同じだ。そんなもの、どうやったら可能だというのか。
「それに、たぶん……怖いんだと思う」
「怖い?」
もしも本当にファルが翼を出せたとして。
その時こそ、自分は人ではない、という決定的な事実を目の前に突きつけられてしまう。
それを怖いと思う自分が、確かにいる。その恐怖心が、無意識のうちにファルをためらわせて、力を出しきるのをセーブしてしまっているのだろう。
ファルが本当に人ではなかったら。
……キースは一体、どう思う?
天界の人々やニグルと同じように、キースもファルを「気味悪い」と思うのだろうか。差し伸べられた手を、引っ込められてしまうのだろうか。
ずっと帰りたいと思っていた場所。それを失ってしまうのが、ファルは心の底から怖い。
だから前へと進めず、後ろへも戻れず、自らを狭い部屋の中に押し込めて、何も見ず、何も聞かずに、閉じこもっている。迷っているのではない、ただ逃げているだけだ。それは判っているけれど。
「本当はね、自分でも嫌なんだよ。こういうの、ガラじゃないしね。天……もとの場所にいた時のわたしは、こんな風にうじうじ悩んだりしなかった」
天界にいた頃のファルは、もっと図太かったし、逞しかった。生きることも、前へ進むことも、怖いと思ったことなんてなかった。それによって失うものが、何もなかったからだ。
何も知らなかったから、いつも笑っていられた。
「それでは、ファルさまは」
エレネが穏やかな声を出した。
「──その頃の自分に戻りたいと思われますか?」
その問いに、ファルは言葉を呑み込んだ。こちらを見つめるエレネと目を合わせ、口許に力を入れる。
少しの間無言で考えたが、その答えが出てくるのは早かった。
「思わない」
あの頃の空っぽな自分に戻りたい、なんて。
露ほども、思わない。
エレネが何度も小さく頷く。
「外見が変わられたのと同様に、ファルさまの内面も変わられた。そのことを、ファルさまは後悔されていないのですよね。今のご自分を肯定して、受け入れている。そうでしょう?」
ファルはこくりと肯った。エレネが口元を綻ばせる。
「でしたら、何も落ち込まれることはないのでは? 時に止まって、迷ったり悩んだりするのは、ちっとも悪いことなどではありません。それだけ、ファルさまの中に、たくさんのものが詰まっているということですもの。それらの中から、何を選び、何を捨て、何を手にするか、じっくりお考えになればよろしいのです」
「…………」
エレネの言葉は、温かいお茶と同じだ。
じわりと胸に沁みて、全身にゆっくり広がる。固くこごってていたファルの心をほぐし、溶かしていく。
「うん……そうだね」
すうっと、目の前の靄が晴れていくような気がした。
天界で何も持たなかった小さなファルは、夢と希望を提示され、自由と選ぶ権利を与えられた。
冷たい蔑みの目の代わりに、不器用な思いやりと、大きな掌のぬくもりをもらった。
共有する喜びと、分かち合う幸福を知り、愛情と、人を憐れむ心を知った。
もしもキースに拒絶されたら、それらはみんな、消えてなくなってしまうのか。いいや、そんなことはないはずだ。
一度手にしたそれらは、ファルの中から決して失われることはない。
──それで、充分ではないか。
「ファルさま」
エレネがそっと呼びかけた。
「……私を助けてくださって、ありがとうございました。静養中、ずっとファルさまにお会いして、お礼を申し上げたいと思っていたのです」
「それは……」
それはファルにとって、礼を言われるようなことではない。ゴウグの時と同じく、返事をするのを躊躇すると、内心を見透かしたかのように、エレネが首を横に振った。
「あの時ファルさまの頭には、おそらくたくさんのことが過ぎったことでしょう。でも他の可能性を跳ね除けて、ファルさまは私を助けてくださることを選んだ。咄嗟のことであろうと、無意識下のことであろうと、それは間違いなくファルさまの意志でした。私は助けられたこの命を、決して無駄にはいたしません。思えば、これまでに何度か死にかけているのに、それでも永らえているのは、私のこの生にも、きっと何か意味があるからなのでしょう」
「意味?」
「ひとつの命が続いたならば、その命が他の何かに影響を及ぼして、多くのものが根底から覆るように変わっていくこともあります。そのようにして、この世界は、人の世は、廻っているのですから」
ファルがあの時扉を閉めたから、現在のエレネがいる。エレネがいることによって、変わるものがある。
今こうして、彼女の存在に救われているファルのように。
「でしたら、ファルさまの思うこと、されること、それらに何ひとつ、無駄なことなどないのでは? ファルさまはファルさまの、心の声に耳を澄まして、それに従われればいいのです」
「わたしの……心」
「クイートさまもそう仰っていました。どこに閉じ込めようと、脅そうと頼もうと、結局、あの子はあの子のしたいようにするしかない、と。ファルさまがご自身で結論をお出しになれば、こちらはそれに従うしかない、だからその時まで待つしかない。どれだけ説得しようが泣き落としをしようが、どうせそんなことは無駄だから──と、まるで愚痴を零されるように」
「クイートが?」
あの男がエレネに向かってボヤくところを、あまり想像できない。思わず問い返すと、エレネは頷いて、くすっと笑った。
「わたしは……」
ファルは呟いて顔を巡らせ、窓の方向へと向けた。
……ガラスの向こうには、どこまでも広がる青空がある。
そして、雲の上と下に分かれた、ふたつの世界がある。そこに生きる、たくさんの人々がいる。
誰もが、ファルと同じように、それぞれの人生を懸命に歩んでいるのだろう。一人一人が、愛して、憎んで、悩んで、怒って、泣いて、足掻いて、笑って、精一杯に。
そこにはちゃんと、喜びがあって涙があって、辛いこともあるけど楽しいことだって数え切れないほど溢れていて、こんなにも彩りと輝きに満ちている。
──大事なのは、「自分がどうしたいか」だ。
キースから与えられたもの。デンがくれたもの。クイートに教わったもの。エレネの、ゴウグの、ニグルの、キノイの里のみんなの、窓の外に暮らす人々の、そしてあの可哀想な天人の中に、見えたもの。
たくさんのものを自分の心に積み重ね、いくつもの命を自分の中に取り込んで、今のファルはここにいる。
ファルが生きていること。生かされていること。
それもまた、何かに繋がってゆくのだろうか。
生命に、人生に、生まれたことに意味があるのなら、今の自分に出来ることは何だろう?




