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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第三部・涯
56/73



 カギリとの国境を抜けた途端、周囲を取り巻く景色が一変した。

 ひしめくように立ち並ぶ建物がどれも大きく立派になり、どこを見渡しても、道がきちんと綺麗に整備されている。ダガナドも活気に溢れて賑やかな国だと思ったが、正直、こことは比べ物にならない。色彩も鮮やかなまでにはっきりしており、他の国は随分くすんでいたんだなと実感させられた。

 広い通りは構えの大きな店が軒を並べ、大勢の人が行き交って、喚声や嬌声などが空中を乱れ飛んでいる。


 ──これが、大国リジー。


 面積が広く、人口も多いこの国は、実際、他国よりずっと豊かでもあるのだろう。

 建物の造りもしっかりしているし、五階建てや六階建てのものまであって、しかもそれらは美々しく装飾が施されていたりする。取り立てて生活に必要のないものがあるということは、それだけこの国に余裕があるという証だ。

 キノイの里を出てから思っていたよりも長い時間を経て、ようやく足を踏み入れることが出来たその地で、キースは改めて周囲を見回した。

「リジーの王族は大体いつも継承問題で揉めていると博士は言っていたが、そのゴタゴタに政治を巻き込ませるほど愚かではないということだな」

 リジーがよく統治されているようなのは、この国の住人たちの顔つきを見れば判る。いくら側近などを優秀な人材で固めていても、肝心の君主が無能だったら、どこかに不安そうな影や苛つきが覗くものだろう。

 ニグルは少し誇らしそうに頷いた。

「リジーの王は王たり得る者がなる、と言われているのよ。他の国ではいちばん上の男子が王を継ぐことが多いけど、リジーではむしろ、長男が王になることのほうが稀ね。先に生まれた人間が、後に生まれた人間よりも、才能を持っているとは限らないから。互いに競わせて、最も優秀な子が王になると、昔から決められているわ」

「へえ……」

 その説明に、キースは低い声で呟いた。

 なるほど。そんなやり方が踏襲されているから、この国の王子たちは常に争っていなければならないわけだ、と納得する。

 確かに、才ある者、優秀な者が王位を継げば、国民にはありがたいことだろう。しかし生まれ落ちたその瞬間から強制的に争いの渦中に放り込まれて、その結果、蹴落とされ脱落するかもしれない他の王位継承者たちにとっては、たまったものではないのではないか。

 そしてその話は、嫌でも白雲宮のことをキースに思い起こさせた。素直に最初から長子相続と決めていれば、そもそも「影の一族」なんてものも必要なかっただろうにと、何度思ったことか判らない。このリジーでも、あのような血生臭い継承争いが繰り広げられているのかと考えると、かなりうんざりした。


 ──クイートという男も、自分が王位に就くことを願っているのか。


 もともと腹立たしい対象でしかなかったが、少々個人的に複雑な感情も絡んで、なおさら嫌いになりそうだ。

 ファルを攫ったのも、その争いを優位にするための手段のひとつだったというのなら、絶対に許さない。殺しはしなくても、手足の二、三本は永久に使いものにならなくしてやろう。

 キースが内心で物騒な計画を立てていることにはまるで気づかず、ニグルはそわそわと落ち着かない足取りで、次の馬車鉄道の乗り場を地図で探していた。


「あともう少しで、彼のいるところに着くわ。ねえキース、どうしよう?」

 歩きながら今さらなことを言いだして、困惑しきった目を向けてくる。


「どうしようと言われてもな……」

 キースとしては、それくらいしか答えようがない。「あともう少し」といっても、まだようやくリジーに入ったところなのだから、その男がいる場所まで、三日か四日はかかるのだ。今からこの調子では先が思いやられる。

「そうだわ、会う前に、もうちょっと身なりを整えたいんだけど、いいかしら。だってこの格好じゃ、あんまり」

 ニグルが情けなさそうに眉を下げて、自分を見下ろす。古着屋で揃えた衣服は、ヨレイクあたりでは周りと同化して目立つことはなかったが、リジーでは少々浮いていた。

「好きにしろ」

 繊細な女心などは到底理解できないキースだが、若い娘が勇気を振り絞って自分を捨てた男の前に出て行くのに、いかにもみすぼらしい服を着ていくのは耐えられない、という気持ちくらいは判らないでもない。

「馬車鉄道の代金だけを残してくれたら、あとはいくらでも使って構わない」

 そう言って、金の入った袋を放り投げるようにして渡す。ここに来るまでの間に少なくはなってしまったが、見栄が張れる程度の衣服を買うことくらいは出来るだろう。

 それに、今はもう、身を切るような厳しい寒さは和らぎはじめている。そんなに分厚い衣装を何枚も買い込む必要もない。

「会ったら、何を言えばいいと思う?」

「だから、なぜおれに聞く。言いたいことなら、いくらでもあるだろ」

「いざとなると、思いつかないんだもの」

「そうやって整理をつける前に突進していくから、毎回思っていることと言うこととが食い違うんだ」

「なによ偉そうに。じゃあキースは、ファルと会ったら、まずなんて言うつもりなの?」

「…………」

「ほーら思いつかない」

 ニグルは「私の気持ちがわかったか」とでも言うように、忌々しいまでに得意げな顔をした。キースとニグルとでは、境遇も状況もまったく異なるのに、すっかり同類扱いだ。

 キースはため息をついた。


「……あんたの場合、とにかくたまには素直になってみたらどうだ」


 ニグルがきょとんとする。

「素直にって」

「自分の思ったこと、感じたこと、それをそのまま口に出してみればいい。本当は、そいつに対して、怒ったり責めたりする前に、言ってやりたいことがあったんじゃないのか」

「──言ってやりたい、こと」

 ニグルは少し呆けるような表情になった。視線がふわりと浮き上がる。

 何を言えばいいのか、ではなく、何を言いたいのか。

 その違いに、彼女は今はじめて気づいたようだった。

「事故で顔に大きな傷を負って、悲しかったんだろ。その男があっさりあんたを捨てて他の女に乗り替えたことに、深く傷ついたんじゃないのか。自分がどれだけつらく苦しい思いをしたのかということを、ちゃんとそいつに伝えたのか?」

「…………」

「恨んだり呪ったりは後回しだ。どちらにどれだけの非があるかの比較もどうだっていい。自分が不幸になった分、他のやつらはもっと不幸になればいいなんて考えていると、どんどん泥沼に嵌るだけだぞ。あんたは一度どん底まで落ちた。それからもがいて足掻いて、ようやくここまで自分の力で這い上がってきたんだ。自信を持って、堂々と渡り合え」

「…………」

 しばらく黙り込んでから、ニグルはこくんと頷いた。



          ***



 それからの道中、ニグルはあまり喋りもせず、一人じっと考えることが多くなった。

 その表情にも、片方出ているだけの目にも、暗い翳りはないようだったので、キースは何も言わずに放っておくことにした。幸い、旅路は順調で、彼女の思考の邪魔をするものは何もない。

 自分を見つめ直し、相手と向き合うための心の準備をする。

 きっと、そういう時間が、今のニグルには必要なのだ。




 三日かけて着いた先は、リジーの中央近くの閑静な高級住宅地だった。

 高層階の建物もあれば、一軒家もある。人口が多いためか敷地はさほど広くないが、ひとつの土地に一戸を構えるということ自体が、おそらく裕福さの表れということなのだろう。

 これまでの過酷な旅ですっかりやつれてしまったが、きちんとした衣服に改めたニグルは、そのような場所でもほとんど違和感がなかった。やはり、ここが本来彼女がいるべきところ、ということか。緊張した面持ちではあるものの、浮き足立つような様子もなく、目指す家へと向かって歩いている。

「ほら、キース、あそこの通りを入って──」

 ニグルが指で道順を示してみせたが、その先を続ける必要はなかった。


「……ニグル?」

 と、背後から、声がかけられたからだ。


 驚いた顔で、ニグルがぱっと後ろを振り向く。そこには、彼女よりもさらに驚愕を露わにして目を見開く男が立っていた。

 その傍らには、ニグルとそう年齢の変わらない若い女性が寄り添っている。こちらは驚きよりも怯えを顔に乗せて、さっと男の背に隠れた。

 ──行くまでもなかったか。

 そう思い、キースはそっと後ろに下がって距離を取る。男女の修羅場に立ち会う趣味はないのだが、これがニグルの最後の頼みというのなら仕方ない。ニグルが男の首を絞め出したりしたらいつでも止められる位置で、しかしあまり彼らの視界には入らないように、キースは自らの気配を消した。


 ……まあ、今のニグルを見る限り、あまり心配は要らないと思うが。


「ニグル……君、戻ってきたのか」

 男は見た目こそ甘い顔立ちをしているものの、言ってはなんだがひょろりと痩せた、いかにも頼りなさそうな人物だった。こういうのが好みなのか、と勝手な感想を内心で呟いて、ちらりとニグルのほうを窺う。

「…………」

 ニグルはその場に立ち尽くしていたが、特に高揚も興奮もその顔には見当たらない。むしろどこか気の抜けたような顔つきで、目の前に立つ男女をまじまじと見つめている。初対面の人間を相手にする時でも、もうちょっとなにかしらの反応はしそうだと思えるほどだった。

「え、と……お久しぶり、バルディ」

 ようやくその口から出てきた言葉も、場違いなくらいに緊迫感を感じさせない。男のほうも戸惑っていたが、ニグルのほうがもっと戸惑っているような顔をしていた。

 これまで彼女が心の中に溜めてきた、渦巻く感情、どろりと濁った憎しみ、積み上げてきた暗い情念、そういったものが、いざこの時になって、一気に霧散してしまったように、そこには純粋な驚きばかりがある。


 一言で言えば、拍子抜け。

 今のニグルが男に向ける目には、はっきりとそう書いてあるようだった。


 バルディと呼ばれた男は、驚愕から覚めると、はっと我に返ったように、自分の後ろにいる若い女を庇うような仕草をした。その動きに、女もまた力を得たように、ぐっと男の腕を強く掴む。器用なことに、彼女の目には、怯えと共に、敵愾心と優越感とが、同時に浮かんでいる。

「…………」

 二人の無神経ともとれる動きにも、ニグルは怒りを見せなかった。というより、彼らの行動に、少し困惑しているようでもあった。それはそれだけ、現在のニグルの中に、彼らを攻撃する意図がまったくないということを示してもいた。

「あ、あら……ごめんなさい、ぼうっとして」

 ニグルが頬に手を当て、ぱちぱちと目を瞬く。その手がひどく荒れて、青白い頬からは随分肉が削げていることに、普通だったらすぐに気づくはずだと思うのだが、男は警戒心を解こうとはしない。

 こいつは結局自分のことにしか意識を向けられないんだなと、キースは呆れた。


 ニグルが一途な恋心を捧げるような価値もない。


「……そんなに怖がらなくても、別に取って食べたりしないわ」

 ニグルの態度と口調は落ち着いていた。過剰な反応を見せる男女と対比して、その言葉は皮肉のようにも聞こえる。これまで自分を傷つけてきた二人に向ける瞳は、揺れてもいない。

 真っ直ぐバルディを見据えて、彼女は口を開いた。

「今日はね、ちゃんと別れを言いにきたのよ」

 その言葉は、迷うことなく外に出てきた。ほんのこの間まで、どう言おうと悩んでいたのが別人だったかのように、すっきりとした顔をしている。

「別れ……?」

 バルディはニグルの変化についていけず、ただ混乱しているようだ。

「ええ。いろいろ騒がせたけど、婚約は白紙に戻しましょう、バルディ。私、やっとわかったの」

「わかったって……」

 怪訝そうに眉を寄せる男に向けて、ニグルは頷いた。


「──私に、あなたなんて、必要ないってこと」

 さらりと痛烈な台詞を吐いて、微笑する。


 バルディと女が揃って顔色を変え、絶句した。特に男の表情には、隠しきれない恥辱の色が浮かんだ。

 着ているものや雰囲気からして、このバルディという男も、ニグルと似たような裕福な家でぬくぬくと甘やかされて育った人間なのだろう。傷物となった婚約者をぽいっと捨てて、他の女にすぐ乗り替えるあたり、傲慢で自己中心的な性格がよく表れている。

 そういう人物にとって、自分が捨てたと思っていた相手に捨てられるというのは、根拠もなく築かれたプライドを粉砕するに足る出来事であったらしい。

「な……」

 目許を赤らめた男が何かを言おうとしたが、ニグルは構わず言い継いだ。

「あなたは、私にとって、記憶と思い出の中にだけいればいい存在だったのよ。私に向かって、綺麗だ、美しい、愛してると、何度も熱烈な言葉をかけてくれたわね? そのあなたはもういないけれど、思い出として心の引き出しにしまっておくわ。私のこれからの人生に、今のあなたはもう要らない。私、それがよくわかった。もうあなたに縛られるのなんて、真っ平」


 そう言いながら、ニグルは顔の右半分を覆っていた髪の毛を、自らの手で払い上げた。


 そこにある無残な傷跡に、バルディが表情を歪める。女が「やだ……気味が悪い」と呟いて、おぞましそうに後ずさった。

 ニグルはふたつの目で、女のほうを見た。

「私も以前、そう言ってしまったことがあるわ。そのことを、ずっと後悔している。今の私が後悔しているのは、それだけよ。それがどんなに心ない言葉か、私は自分でもよく知っていたはずなのにね。『こんな気味の悪い顔の女と一生を共にすることは出来ない』とバルディに言われて、深く傷ついたのは、私自身だったのに」

 ニグルは自分の胸に手を当て、静かに言った。バルディが目を逸らす。

「私、ずっと、悲しかった。つらかった。苦しかった。……でも、きっと、私も悪かったんだわ。バルディの愛情と優しさが、私の外見だけに向けられていることにも気づかなかった。自分の内面が、それを向けられる価値もないほど薄っぺらく軽い、ということも知らなかった」

 ニグルは少し苦笑したが、それは今までの自嘲を含む笑い方とは違っていた。



「──私、もう一度、やり直したい。今度は、過去ではなく、未来を見たい」

 そう言って、目線を前に向ける。

 その瞳にはすでに、茫然としている二人の姿は映っていない。

 ここに来るまでに様々なことを見て経験して考えて、ニグルは博士とは違う結論に、自分で辿り着いたのだ。



「それだけ言いたかったの。じゃあね」

 くるりと身を翻す。一方的に言うだけ言って、ニグルは男にも女にも、返事を求めなかった。

「ま、待て、ニグル……!」

 バルディがニグルの肩を掴もうと手を伸ばす。罵倒しようとしたのか、何かを言い返してやりたかったのか、目的は判らない。本人も、よく判っていなかったかもしれない。しかしその乱暴なまでの勢いと、吊り上がった眉を見るに、少なくとも、謝罪や激励ではないだろうと、キースには判断がついた。

 なので、男の手がニグルに届く前に、閃光のような速さで背後に廻り、膝裏を鋭く蹴りつけてやった。

「ぎゃっ!」

 みっともない悲鳴を上げて、バルディが地面に両膝と両手を突き、四つん這いになる。すかさず腹部を下から靴先で蹴り上げたら、呆気なく仰向けになって転がった。起き上がる暇を与えず、左の肩を思いきり上から踏みつける。

 かなり力は抜いたし、急所にはダメージを与えていない。小さな動物を相手にする時よりもずっと加減をしたくらいだ。それなのにバルディは目玉をひん剥いた恐怖の表情になり、蹴られた腹部を押さえながら、のた打ち回るようにして助けを求めた。

「うるさい。肩の骨をへし折られたくなきゃ、静かにしろ」

 あまりにもぎゃあぎゃあとやかましく喚くので、低い声で言って、足に体重をかける。

 子供の姿ながら、その眼にある非情な光を見つけたのか、バルディは蒼白になってぴたりと黙った。


「聞いての通りだ。今後一切、ニグルには関わらないと、今この場で誓え。少しでも余計な真似をしてニグルの人生の邪魔をしたら、その顔に、ニグルと同じ傷をつける。一筋の差異もなく」


 キースの口調に、威嚇の響きはない。そこにはただ、断固とした決意だけがある。無表情のまま、冷然と出されるその言葉に、バルディはひっと息を呑んだ。

 さっきまで、男の後ろに隠れていただけの女が、がたがたと震えている。キースはそちらを醒めた目つきでちらりと一瞥した。

「その時は、新しい恋人がどういう対応をするのか見ものだな。せいぜい、真実の愛とやらを貫けばいいさ」

 自分がニグルに対してした仕打ちを思い出したのか、バルディはびっしょりと脂汗を流し、必死にこくこくと首を動かした。

「わ、わかった」

「誓うな?」

「誓う! 絶対にニグルの邪魔をするようなことはしない! 謝るから! 頼む!」

 とうとう泣き叫びはじめた男を、二人の女が無言で見つめている。

 どちらの目からも、いろんなものが急速に抜け落ちていくようなのが、手に取るように判った。バルディはこの先、顔の傷がなくても恋人を失う羽目になりそうだが、そこまではキースの知ったことではない。

「この際だ、ニグル、別れの記念に腕の一本でも貰っておくか?」

「要らない」

 ニグルはばっさりと断って、噴き出した。



          ***



「なんだか、あんなに悩んでいたのが嘘みたい」

 元の婚約者のところから、今度はニグル自身の家に向かいながら、彼女は自分でも意外だというようにそう言った。

 その場所までは、徒歩で一時間ほどかかるのだという。鉄道ではない馬車もいくらでも通りを走っているからそちらを頼めば早いのだが、ニグルが何も言わずに率先して歩き出したので、キースも特に異議は挟まなかった。

 以前のニグルなら間違いなく疲れた疲れたと泣きそうになっていただろうが、現在の彼女の歩みは一定で、乱れもない。

「本当はね、すごく怖くてたまらなかった。泣くかもしれないし、怒るかもしれないし、髪を振り乱して掴みかかるかもしれないって、びくびくしてた。手も足も、ずっと震えてたのよ」

「そうか」

 知ってた、とは言わずに、キースは素っ気なく応じた。

「……だけど変ね、あの人の顔を見た途端、すーっと頭が冷えてきちゃって。私がずっと好きだったのは、こんな人だったかしらって不思議に思うくらいだった。一歩か二歩、後ろに下がって、改めて見てみたような感じ。……そして改めて見てみたら、あの人、今まで私の頭の中に住んでいた男性よりも、ずいぶん落ちるのよねえ」

 わりと残酷なことを、ニグルは邪気のない顔で言い放った。

「私ったら、あの人のことを美化しすぎていたのかしら」

「別にそういうわけじゃないだろう。あの男が変わったわけでもない。ニグルのほうが変わったから、あいつを見る目も変わった。それだけのことさ」

 キースの淡々とした言葉に、ニグルは口を閉じ、目を宙へと向けた。

「……そうね」

 呟いて、指でそっと顔の傷に触れる。彼女の髪の毛は、もう前に垂らされることはなく、後ろに流されたままだ。

「私、ずっと、物がよく見えてなかったのね。ただでさえ視野が狭い考え方しか出来なかったのに、片方の目まで隠して、なおさらたくさんのものが見えないままだった。……きっとずっと前から、答は自分の中にあったのに、それさえ見つけられていなかった」

 それから唐突に、くるりとキースのほうを向く。


「──私、ファルになりたかった」


 キースが無言で見返すと、彼女は少し笑った。

「ファルのようになりたかった、じゃなくて、ファルになりたかった。あんな風に、いつも笑って、素直で、よく働いて、誰にでも簡単に手を差し伸べたかった。姿がどうであろうと構わないと言いきってくれる人に守られて、ずっと変わらない想いを向けられたかった。……たぶん私、キースがこちらを向いてくれたら、ファルになれるような気がしたんだと思う」

「…………」

 少し黙ってから、キースはゆっくりと口を開いた。

「ファルはファルで、ニグルはニグルだろう」

「そうよね……本当に、そう」

 ニグルは何かを噛みしめるようにしみじみとした口調で言って、何度も頷いた。

「私はファルになんてなれないわ。私は私にしかなれないの。当たり前よね。キースの言った通りだわ。確かに私、間違えてた」

 おそらく、これまでのニグルは、誰よりも彼女自身が自分のことを恥じていたのだろう。憤懣も、嫌悪も、憎しみも、他人に向ければ向けるだけ、それは自分へと跳ね返る。ニグルは自分のことが許せず、認められず、いつも拒んでいた。

 だからこそファルに拘り、キースに対する執着を見せた。

「……ファルに会いたい。今なら、あの子とも笑って話が出来る」

 ニグルがぽつりと呟いた。

 今になってようやく、彼女は自分のことを赦し、受け入れようとしているのかもしれない。




 その家の門が見えてきたあたりで、ニグルは「ここでいい」と言った。

「私の頼みを聞いてくれてありがとう、キース。あなたはもう、あなたの行くべきところへ行って」

 キースはニグルを見てから、ちらっとその家のほうに視線を向けた。

 平屋建ての家には、そんなに大きくはないが、ちゃんと庭もついていた。多層階の建物が立ち並ぶ区画では見られなかった眺めだ。このリジーでは、珍しいくらいかもしれない。それだけ金銭的なゆとりがあるということなのだろう。

 鉄柵の門扉の向こうでは、一人の婦人がせっせと植えてある花の手入れをしている。

 ……そういえば、ファルが咲かせたニグルの鉢植えの花はどうなったんだっけ、とキースは関係のないことを考えた。

 ニグルにはもう必要のないものだろうが、せっかく枯れかけていたところを息を吹き返したのだから、デンあたりに世話をされて元気になっているといいのだが。

 狭い鉢植えから、広い大地へと場所を変えて。

 この地上に根を張り、陽の光を浴びて、栄養をたくさん吸いあげ、他の何にも遠慮することなく、葉と茎を思いきり伸ばして、また愛らしい花を咲かせられるといい。

 どうしてこんなことを今になって考えているんだろう。

「…………」

 ああ、そうか、と思い出した。

 キースが願っていたのは、ずっとそればかりだったからだ。

 いつだって答は、自分の中にある。


 ──おれは、そうやって生きるファルを、ずっと隣で見ていたい。


 そこに三年や五年なんて期限は要らない。

 天人がこの地で長く生きられないというのなら、なんとしても生きられるすべを探し出すまでだ。

 たとえ細く頼りなくとも、未来へと繋げられる道はどこかにあるはず。



「キース、ファルを必ず取り戻して、一緒に会いに来てね。私、ファルにちゃんと謝りたいの。言いたいこともいっぱいある」

「……あいつとここに来るまでには、少し、時間がかかるかもしれないぞ」

 表情はいつもとあまり変わらないものの、その声になにがしかの決意を感じ取ったらしい。ニグルは何かを訊ねかけたが、結局やめて、目を細めた。

「いいわ、いつまでも待ってる。待ってるから、必ずよ、キース」

 そう言って、右手を差し出す。キースは一瞬何のことか判らなかったが、ようやく気づいて、自分の右手をそこに重ねた。ニグルの細い指に、ぎゅっと力が込められる。

 キースの人生において、他人と握手なんてほとんどしたことがない。変な感じだ。

「私ね、これからもっと勉強をしようと思う。あまりにも自分が知らなさすぎることが判って、少々癪だもの。自分のこと、他の人のこと、この世界のこと。知らないって、恥ずかしいことよね。だから頑張ってたくさん勉強するわ。私、今度こそちゃんと生きたい。二人に会う時までに、もうちょっと自分のことが好きになれるよう、努力する」

「……今のままでも、充分、好きになれるだろ」

 ぼそりと落としたキースの言葉に、ニグルは目を見開いた。

 口元を綻ばせて、嬉しそうに笑う。

「ありがとう、キース。──キースのことが好きだって言ったの、嘘だったわけじゃないのよ」

 両目に涙を滲ませて、小さな声でそれだけ言うと、ニグルはぱっと背中を向けた。閉じられた門へと向かって一直線に駆けていく後ろ姿は、もう振り返ることはない。

 花の手入れをしていた婦人が駆け寄ってくる足音に気づき、不審そうに顔を上げた。

 その目が驚愕に占められる。口を開け、震える両手で自分の頬を包んだ。

「ニグル……! ニグルなの?! 帰ってきてくれたのね……?! まあ、なんてこと……! まあ、まあ……!」

 後半は泣き声になって崩れた。手に持っていた鋏も花も放り出し、門を開けるため走り出す。

 親子がしっかりと互いに抱き合うところまで見届けて、キースはその場を立ち去った。



 ──赤の離宮へ。

 そこに、ファルがいる。





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