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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第三部・涯
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 ヨレイクは小さな国なので、そこを出るのに時間は大してかからない。

 それから隣国を通って、一旦ダガナドまで戻り、今度は北西の方向へと向かう。ダガナドの隣にある国を抜ければ、その先にあるのが大国リジーだ。

 もちろん距離的には結構あるが、今度の行程には馬車を惜しみなく使おうと考えているから、体力的には楽なものになるはずである。足を使わなければ休憩もとらずに済むので、その分、時間的にも短縮できる。手許の資金が不如意になったら、それはその時考えよう。


 ──という算段のもと再開されたリジーを目的地とする旅なのだが、正直なところ、それは非常に微妙な空気を孕んだものになった。


 なにしろ、ニグルの様子があまりまともではない。

 忌み地から東の大陸に渡って、随分と精神の安定が見られた彼女なのに、日が経つにつれ、どんどん不安定になっていく一方だ。半日ほどむっつりと黙り込んでいたかと思えば、急に陽気になってあれこれとキースに話しかけたり、かと思えばいきなり涙ぐんだり。手に負えないからと放置しておけば、「キースは冷たい」となじるように恨み言を投げつけてきて、すぐに「ごめんなさい」と謝りしゅんとする。

 あれほど野宿を嫌がっていたのに、夜間もキースと離れるのを嫌がり、外で寝るようになった。子供と若い女の二人組というのは変に目立つし、乱暴目的のゴロツキまでが近寄って来たりするため、そのたび労力を使って対応せねばならず、一人で寝場所を確保するよりもかえって手間がかかった。

 本人も、自分自身の気分の浮沈に戸惑って、振り回されているように見える。ニグルは、自分の感情を制御するのが上手なほうではない。彼女の中にある複雑に絡み合った何かが、ほぐされることなくバラバラな方角へと散らばって、どれを捕まえてどれを放せばいいのか自分でも判らない、というようでもあった。


 ……ニグルは心が弱いのだと、再認識せざるを得ない。

 もともと脆かったその土台が、今になってぐらぐらと揺らぎ始めている。これまで重なってきた疲労や負担がそうさせているのかもしれないし、リジーに戻るという段になって再び様々な気持ちがぶり返してきたのかもしれない。

 今のニグルはなんとなく、下手に突けば総崩れになりそうな危うさを感じさせた。


 キースはそこに気づいていたが、特に何もしなかった。

 ニグルがキースの態度のひとつひとつに反応しては一喜一憂し、余計に感情を波立たせる、ということに気づいてからは、何を言われてもなるべく無表情で通し、最低限の返事だけで済ませるようになった。彼女が妙に熱のこもった目で何かを言いかけたら、すぐに背を向けた。

 冷淡に過ぎる、という自覚はある。しかし、ここで下手な真似をすれば、ニグルは全身でこちらに倒れかかってくるだろう。それを支えるつもりもない人間が、手を差し出すようなことは出来ない。

 それに、キースの精神状態も、お世辞にも良好だとは言えなかった。目先のことだけに頭を働かせている間はいいが、ともすれば、博士から聞いた話がぐるぐると胸の中を廻りはじめるからだ。

 ──天人は、地上では長く生きられない。

 三年、という期限が、キースの背中にべったりと張り付いて、早くしろと後ろから焚きつけてくるようだった。気がつけば、前方に視線を据えつけて、黙々と先へと急ぐ自分がいる。そういう時のキースは、固い殻をまとったように外部からの何物をも受け付けない。結果、ますますニグルが思い詰めるような表情になっていく。悪循環である。


 ……ふらふらと揺れ動きながらもギリギリのところでなんとか均衡を保っていた二人の関係性は、ダガナドの国に戻ったあたりで、いよいよ限界を迎えようとしていた。



          ***



 ダガナドに入れば、そこからは馬車鉄道がリジーまで通じている。もちろん、何度か途中で乗り継ぐことはしなければならないわけだが、これまでを思えば比べ物にならないほど楽だ。ダガナドと、その隣のカギリ国を通って、さらにその向こうに、目指すリジーがある。

 キースは可能な限り、馬車鉄道を使おうと考えていた。以前ダガナドを訪れた時に夫人からもらった金と博士からもらった金は、ここに来るまでにもうほとんど底を尽きかけていたが、ニグルに襲いかかってきたゴロツキから撃退ついでに掠め取っておいたものがあるので、懐はわりと潤沢である。どうせろくでもない出所の金だろうから、遠慮なく使うつもりだ。

 どっしりとした重みのあるその袋を手に、キースはしばし考えた。


 ──いっそ、これをそのままニグルに渡して、ここからは別行動、ということにするべきか。


 キースももう、地界での物価の基準がどれくらいかは判っている。これだけの金があれば、古着ではない服を買って、まともな食事をして、道中宿を取りながら、ゆったりとした観光気分でリジーまで行けるはずだ。

 これをすべて渡せばキースはほぼ無一文になるわけだが、それについてはまったく心配していなかった。キースはその気になれば、どんな方法でも金を手に入れられる。もちろん真っ当なやり方ではないが、そんな理由で躊躇するような神経は、あいにく持ち合わせていない。

 正直、この先二人で行動を共にしても、おもにニグルにとって、悪い方向に転がるだけだろう。このままだと、内部に溜まったものが、どんどん膨れて捩れて歪んでいくばかりだ。


「ニグル、この金を渡すから──」

「私を、捨てるつもりなの?」

 後ろを振り返って言いかけた途端、眉を吊り上げたニグルに、叩きつけるように返された。


「…………」

 キースは、その剣幕よりも、出された台詞のほうに当惑した。

 捨てるって何だ。

「以前、ヨレイクに向かう時にも、同じことを言ったわ。私、あの時だって、『キースと一緒に行く』って答えたじゃない。またあの問答を繰り返すつもり? いつもいつもそうやって、キースは私のことを紙屑みたいに扱うのね」

「あの時とは状況が変わったから、もう一度提案しているんだ。ファルの居場所はもう判った。そしてその場所へ、ニグルは行けない。だったら無理をしてまでおれと同じように旅路を急ぐ必要はない、と言っている」

 キースの説明に、ニグルは衝撃を受けたようだった。髪で隠されていないほうの目を大きく見開き、言葉に詰まる。

「い、行けないって」

「赤の離宮ってのは、王族の住まいで、王宮の別棟のようなものなんだろ? だったら、一般人がそう簡単に立ち入れるはずがないのは、ニグルのほうがよく知ってるんじゃないのか? ファルを取り戻すには、非合法な手段で侵入するしかない。おれはそのすべを心得ているし、それを可能にするだけの技術があるが、あんたにはない。だからついて来るのは無理だ、というだけの話だ」

 キースにとっては当然の理屈を淡々と口にする。むしろ、ニグルはそれについてどう考えていたのかと、今さらながら不思議に思うくらいだった。

 境界検問所を抜けた時もそうだが、ニグルにはそもそも、そういう発想が湧かないのかもしれない。自分にとっての常識から外れた行為、というのが頭に浮かばないし、その先に思考を向けることを無意識に遮断してしまう。柔軟性がないというより、そういう育ち方をしてきたのだろう。


 丈夫な箱に囲まれた、小さな世界の中で。

 自分の理解できる事柄だけを理解し、満足して、これからも同じものがずっと続いていくことを疑いもしない日々。


 だからそれがいきなり壊されると、対処の仕方が判らなくて混乱してしまうのだ。突然の事故で顔に傷を負い、婚約を破棄されて、平穏な日常を失った彼女は、どうしたらいいか判らなくなって、混乱しきった状態のまま最悪の道を進んだ。

 そして今もまだ、彼女はその混乱から立ち直れていない。

「ニグル」

「いや!」

 キースが続けようとするのを遮るように、ニグルが悲鳴のような声で叫んだ。

「いや、絶対にいや! 私もキースと一緒に行く!」

 往来を歩く人々が、何事かというように、子供と言い争う女のほうをじろじろと不躾に眺めてくる。いつもなら、他人の目が自分に向けられることを非常に厭うニグルが、この時はそれさえも気にならないように頭を激しく振り続けた。

 まるで、幼い子供が地団駄を踏んで駄々をこねているようだった。

「だからそれは無理だと──」

「だったらキースも行かないで! そうよ、キース一人でどうするつもりなの? 相手はリジーのずっと上の立場にいるのよ、キースだってどうしようもないに決まってる。捕まるかもしれないし、怪我をするかもしれないわ。そんな危険を冒して、どうしようっていうの? ファルならきっと、大事にされてるわよ。だってあの子は、この世界にとって貴重な存在なんだもの。キースの傍にいるより、国の庇護のもとにいたほうが、ずっと安全よ。だったら」

「──見捨てろっていうのか。おれに、ファルを?」

 キースの声が、一気に低く、冷たくなった。ニグルはビクッとして身じろぎし、口を噤んだ。

 目の前の子供から発散される怒気に、顔色を失くす。ぶるぶると唇を震わせ、褐色の瞳にはじわりと涙が浮かんだ。

「……私、キースのことが好き」

 ぽつりと、小さな声でニグルは言った。


 その言葉が外へと滑り落ちた瞬間、彼女の視線がふらりと彷徨うように動いたことに、キースは気づいた。


 そうか、と思う。ニグルの急激な心情の変化の理由が、やっと少しだけ判った気がした。それと同時に、沸き立つように噴出した怒りは、跡形もなく蒸発して消えた。

 大きなため息をつく。

「ニグル、あんたはいろいろ間違えてる。おれはこの通り、子供だし」

「本当は二十三歳なんでしょ。私とそんなに違わないわ」

「…………」

 ニグルの前で自分が出してしまった失言を、今さら後悔したところで手遅れだ。なるほど、その情報を得て、ニグルの暴走はさらに歯止めがかからなくなったか。

「天界では、ちゃんと大人の姿だったんでしょう?」

「……そうだが、今は違う」

「でも、中身は大人。そうでしょう? だったら、ファルより私のほうが釣り合うはずよ。ファルは妹ではないけど、妹のようなもの、なのよね? だってあの子の姿は変わっていないのなら、キースとは違って本当の子供だもの」

「…………」

 キースと博士のやり取りの端々だけを耳に入れていたためか、ニグルは根本的なところで勘違いをしているらしかった。

 ファルはキノイの里でよく「子供のフリ」をしていたから本当の年齢を言っても信じてもらえなさそうだし、天界にいた頃からファルを妹のように見たことなんてないと言えば、変な嗜好を持っていると思われそうだ。

 なんと言えばいいのかキースが考えているうちに、ニグルは名案を思いついたというように晴れ晴れとした顔つきになった。

「そうだ、私と一緒に、私の家に行きましょうよ、キース。父に事情を話せば、何か手を打ってくれるかもしれないわ。侵入なんて考えなくても、もっと穏便な方法だってあるはずよ。もちろん、王族に面会するなんて、すぐには無理だろうけど、順番に人脈を辿っていけば」

 キースは広げた掌を向けて、彼女の口がそれ以上の言葉を出すのを押し留めた。

「──ニグル」

 と名を呼んで、久しぶりに正面から彼女の顔を見る。

 もっと早く忠告しておくべきだった、と思った。ニグルは事の重大性を、あまり理解していない。


「いいか、この先何があっても、天界や天人のことを、無関係な誰かに話したりするな。どうせ言っても信じちゃもらえないだろうが、そんなことを吹聴して廻れば、あんたの身が危なくなる。そのことは、この地界での最大機密事項なんだ」


 ニグルは、キースの厳しい目と口調に気圧されたように、黙り込んだ。

 目線が迷うように動いて、下を向く。

「もともとデンやあんたをこの件に巻き込んだのはおれだ。悪かった」

 キースは判断を誤った。こんなことになるのなら、天界のことを二人に話すべきではなかったのだ。デンとニグルに危険が及ぶようなことになったら、きっとファルも自分を責めるだろう。

「それに、東の大陸に来て、あんたに助けられたのも確かだ。おれ一人だったら、こんなに効率よく調べたり、国を廻ることも出来なかった。感謝している」

 キースにしては珍しいほどの率直な言葉に、ニグルがおそるおそるというように顔を上げる。


「……だけど、それだけだ。おれにとって必要なのは、やっぱりファルなんだ。姿も、年齢も、関係ない」

 キースは静かに言った。


「…………」

 ニグルの瞳の中にあったわずかな期待の色が、みるみる萎む。ぐっと唇を曲げて、俯いた。

 キースは口調を変えずに続けた。

「……そしてあんたにとって最も必要なのは、時間だ。自分の心にちゃんと向き合って、もつれた糸を解き、再び真っ直ぐにするための時間と、そのための努力だ。真っ直ぐにしてみれば、もっとちゃんと、いろいろなものが見えるようになる。そうしたら、今のあんたが間違えてるというのが、判るはずだ」

「私……間違えてなんて」

 目を伏せながら呟いて、ニグルはそこで言葉を切った。宙に向ける眼差しは、間違えてなんていないという反発と、間違えているのだろうかという不安と、間違えるって何だろうという疑問で、ゆらゆらと揺れている。

 ずいぶん長いこと、ニグルはぼうっと立ったまま、その場から動かなかった。彼女が結論を出すまでキースも待った。

 そしてニグルは、ようやく顔を上げた。

「……キース」

「ああ」

「お願いがあるの」

「なんだ」

「聞いてくれる?」

「おれに出来ることなら」

 天界では、他人に対し徹底した無関心で通したキースである。本当に「紙屑のように」思っていたなら、こんな風に説得するような手間はかけない。金だけ置いて、さっさと自分一人でリジーに向かっている。キースにとって、捨てるというのは、そういうことだ。

 キノイの里を出た時とは違う。「自分に出来ることならする」と真摯な気持ちで応じるくらいには、キースだってニグルに対する情がある。

 それに気がついたかどうかは定かではないが、ニグルの片方だけ見える目が、一直線にこちらに向けられた。

「リジーまでは、一緒に行って」

 キースが何かを言いかける前に、素早く言い継いだ。

「わかってる、離宮には行かない。キースがファルを取り戻して、私の前に連れて来てくれるのを、自分の家で待ってる。もう、キースを困らせることも言わないわ。……でも最後に、リジーでの私の用事に、少しだけ付き合って」

「用事?」

 問い返したキースに、ニグルはこっくりと頷いた。


「元の婚約者に会いに行く。キースに、一緒について来てほしい」


 元の、の部分だけ声が弱くなったが、彼女の口調は冷静だった。

 怒りも、興奮もない。

 意外な申し出に、キースは咄嗟にどう返したものか迷った。

「会いに、行くのか」

「ええ。きっと私は、それを乗り越えないと、ずうっと同じところで立ち止まったままなんだわ。自分の心に向き合う前に、彼に向き合わないといけない。そんな気がするの」

「……まだ、早いんじゃないか?」

 キースは慎重に言った。

 どう見ても、ニグルはまだ、その男に関する諸々のことについて、吹っ切れていない。顔を見た途端に過去が甦って逆上する、というパターンもあり得る。そうしたら今度こそ、ニグルは犯罪者になりかねない。

 キースの確認に、ニグルはふっと苦笑気味に唇を上げて、肩を竦めた。

「本当のこと言うと、自分でも、ぜんぜん自信がないの。だから、私がまた馬鹿なことをしそうになったら、キースに止めてもらおうと思って。家族に言えば猛反対されるに決まっているし、こんなことを頼める相手は、キースしかいないんだもの」

 一度、何もかもを捨ててしまったから、と自嘲するように付け足す。

 リジーでのニグルの周りの環境がどんなものであったのかなんて、キースに判るはずがない。しかし、彼女の身に不幸が降りかかった時、親身に寄り添い、苦しみや悲しみを共有してくれる友人でもいたのなら、ニグルは忌み地に行くことなどなかったかもしれない、とは思った。

 キースは口を結んで考えてから、「──わかった」と答えた。



          ***



 馬車鉄道の客車は、普通の馬車と比べて、格段に大きく、広かった。

 長さのある客車内には、ベンチ状の椅子が両側の窓に沿って並び、向かい合わせになるように作りつけられている。片側だけで五人は座れるから、合わせて十人は乗れるということだ。通路の幅は狭いが、人が立てないほどでもないので、詰めればもっと多くの人間を運べるだろう。普通の馬車がせいぜい三、四人しか入らないことを考えれば、移動の手段としてこれほど効率的なものはない。

 客車の車輪は線路の溝の中を廻るので、石などの障害物に煩わされることもないし、振動もほとんどない。他の乗客たちは当たり前のようにお喋りをしていたり目を閉じたりしていたが、思った以上の快適な乗り心地に、キースは大いに感心した。

「これは便利だな」

「そうでしょ? でも、いろいろ問題点もあってね、よく止まってしまったりもするの。そうすると、途中で降ろされて歩かなければならなくなったり、計画が大幅に狂ったりするから、不満も多いのよ」

 まあ、曳いているのは馬という生き物のわけだから、時に不都合が生じるのもやむを得ないことであるのだろう。便利さに慣れると、今度は些細な不便にも我慢がならなくなる。人間とは、貪欲なものだ。

「……そういえば、いずれ、馬で動かさなくても、車が道を走るようになるかも、という話を聞いたことがあるわ」

 思い出したようにニグルが言ったが、キースにはそれはまるで夢物語のようにしか聞こえなかった。

「馬でなければ、どうやって動かすんだ?」

「だからその……別の力で」

「別の力って?」

「……知らないけど」

 ニグルはその話を、ただの噂話として聞きかじっただけらしい。おそらく大して興味もなかったのだろう。恥じ入るように口を濁して、首を竦めた。

「新しい動力か……」

 キースは呟いて、「馬がなくとも走る車」というものに思いを馳せる。もしもそれが事実なら、いずれやって来るその時に、地界は大きな転換期を迎えることになるはずだ。進化し、進歩し、時代の流れも目まぐるしく移り変わっていく。

 もしかして。そうだ、今は想像もつかないが、もしかして。


 いつか、翼がなくても、人は空を飛べるようになるのかもしれない。


 ……その時、天界と地界はどうなるのだろう。

 いや、その時まで待たなくても、そう遠くないうちに、両者の関係が破綻する可能性は、充分にある。

 長いこと地界の知識に依存してきた天界は、もはや自分たちだけでは、変革をもたらすことが出来ない。そして地界はこれ以上、天界に余計な力を持たせたくないと考えている。施しているほうが弱者というのは、どう考えても異常だ。

 しかし、平和に共存していくには、天界は傲慢に振る舞いすぎた。今になって自分たちの優位性を崩したくはないだろう。

 いつまでもこんな歪な形のまま保てていけるはずがない。そのうち、何か決定的な変化が訪れるだろうことは容易に予想できる。


 その「変化」は、果たして、どちらにどれだけの犠牲を伴うのか──


「聞いてる? キース」

 自分の考えに意識を向けていたキースは、隣に座るニグルがむくれたような顔をしていることに気がついた。

「なんだ?」

「もう、やっぱり上の空だったのね。これから、リジーまでどうやって行くかを聞いてるんじゃない」

「だから順に乗り継いでいけばいいんだろ」

「ルートがいくつかあるのよ。リジーのどこを目的地にするかでも変わってくるし。所要時間とか、歩かなきゃならない距離とか、何を優先するかを決めて選ばないと」

 そんなに選択肢があるのか、とちょっと呆れた。必ずしもすべてが、便利になると同時に簡単にもなる、というわけではないらしい。

「ニグルの用事を最優先にして考えればいい。それとも、まずは自分の家に帰るか?」

「…………」

 ニグルはしばらく考えるような顔をしていたが、やがて首を横に振った。

「……ううん。家に帰ると、決心が鈍りそう。リジーに戻ったら最初に彼のところに向かいたいけど、いいかしら」

「ああ」

 返事をしながら、さりげなくニグルの様子を観察した。

 「彼」という呼び方でその人物のことを話に出しても、彼女の表情や口ぶりにさしたる変化はない。キノイの里で、過去のことを口にするたび必ず取り乱していたことを思えば、別人のような落ち着きぶりだ。

 ダガナドに着くまでの道中の不安定さも、すっかり影を潜めている。二人の間に微妙な緊張感が漂うようなこともなくなった。

 これまで胸の中に溜め込み続けていたものを外に出して、多少は楽になったのか。

 ……いや、というより。


 自分が抱いていた感情を、「好き」という言葉にして口に乗せたあの時、実は誰よりもニグル自身が、違和感を覚えたに違いなかった。


 彼女はその違和感の正体を捕まえたがっている。ようやく、外に向けてばかりだった疑問を、自分に向けるようになった。だからきっと、元の婚約者に会おうという気にもなったのだろう。

「ねえ、キースは、女性関係で揉めたことがある?」

「…………」

 ニグルの質問はいつも唐突である。こういう時こそ無表情でいればよかったかもしれないのだが、不意を突かれて、キースは思わずイヤそうな目を向けてしまった。

「なんの話だ」

「だから、大人だった時。修羅場って経験したことがある?」

「なんでそんなことに答えなきゃならないんだ」

「参考までに」

「おれはあんたと違って感情的じゃないし、他人と深く関わるのも好きじゃない」

「いかにもそんな感じよね。けど、その手のことに疎いわけでもなさそうだな、と思って。もしかして、特定の女性と付き合うなんて、したことがないんじゃないの? 適当に、その場限りの相手ばかりを選んでいたとか」

「…………」

 天界でのキースも、大人だった時のキースの姿も知らないわりに、ニグルの言うことはしっかり図星をついている。女の勘というのは侮れない。

 つい口を閉じたら、ニグルは「ははん」と言いたげに出ているほうの目を眇め、唇の端に指を当てた。

「ファルはそのこと、知ってるの?」

 ここでいきなり出てきたその名前に、少々動揺した。

「……関係ないだろ」

「関係はあるでしょ」

 不安定さはなくなったニグルだが、「キースに対して意地悪をしたい気分」ではあるのだな、と悟った。さすがにある程度の時間を一緒に過ごしただけあって、どこを突けばキースがここまで苦々しい表情になるかということを、ちゃんと知っている。女っていうのは、だから厄介なんだ、と舌打ちしたくなった。

「あいつに会う前の話だ」

「意外と、女の子っていうのは、過去を気にするものよ」

「話すつもりなんてないし」

「会った時、私が言っちゃおうかなあ。いろいろと」

「だったら会わせない」

 ちょっとばかりムキになって言うと、ニグルは呆れるような顔をした。

「大人げないわね、キース」

「おれは子供だ、文句あるか」

 仏頂面で言い放って腕を組み、そっぽを向いたら、隣で思いきり噴き出された。


 ニグルがはじめて楽しそうに、声を立てて笑った。





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