その先
天人のことを知っているのは、地界の国々における高位の権力者、それもごく一部に限られるのだと、博士は言った。
「その中でもリジーだと判っているのなら、話は早い。ファルを攫っていったのは、リジーの王族、およびその周辺のうちの誰か、ということだ」
決めつけるような言い方に、ニグルは目を見開き、信じられない、という顔をしている。
「リジー……これかな」
博士が、粗末な部屋には似つかわしくないほどの大きな本棚から、ほとんど探す素振りもなく本や紙をひょいひょいと取り出しはじめた。キースはそれを見るともなしに見ながら、この安普請の家を揺らすように吹きつける、風の音を聞いていた。
海側からやって来る風は、またさらに強さを増したようだった。時々唸るような低い音を出し、茶色い木の葉を舞わせ、この家のガラス窓を殴りつけて、ガタガタと震わせている。
世界の涯に鳴り響く、悲鳴のような風の音。
寒そうだな、とキースは内心で呟いた。あの寂しい墓標のある崖の上から、博士の家にまで戻ってきたのは正解だった。ここだって足許から冷気が伝わってくるほどで別に暖かくはないが、あそこよりはマシだ。
あの場所は、心までも凍えさせる。
ファルは今頃、どうしているだろう。
毎日ちゃんと食べているんだろうか。
寒い思いをしていないと、いいんだが。
「今のリジー国王の名はなんといったか……確か、ヴァルガス・オ・リジーだったかな」
考えるように呟きながら、博士がごそごそと紙を広げてキースに見えるように床の上に置いた。大分皺だらけで端のほうが破れてもいるが、それはリジー国の地図であるらしかった。
「キースが説明してくれた男の容姿からして、国王本人ではあるまいね。かといって、まさか本当に下っ端役人が、国の最高機密に関わっているとも思い難い。考えられるのは、王が完全に信頼している側近、あるいは身内の者……」
博士は顔を上げ、さっきからずっと無表情のままほとんど動きもしないキースに視線を向けた。
「しっかり聞きなさい、キース。君はこれが知りたくて、この辺境の地にまでやって来たのだろう?」
叱咤するような強い語調に、ようやくキースがひとつ瞬きをした。
……しかしその空虚な表情は変わらないままで、博士に向けているのは、ニグルが思わず身震いしてしまうほどの、荒涼とした目つきだった。
「ちゃんと聞いてる」
物憂げな返事は、感情が抜け落ちたように一本調子だ。
博士はわずかに口元を曲げたものの、すぐにニグルのほうへと顔を向けた。
「お嬢さん、君の出身はどこかな」
「え……リ、リジーだけど」
怖いものを見るようにキースの顔をちらちらと窺っていたニグルは、そこから意識を離せることにむしろホッとしたように博士を見返して答えた。
「リジー。だったらちょうどいい。今のリジー王には子供が何人いたかな?」
「七人よ。上からええと……男、男、女、男、男、女、男ね。一人は亡くなられて、王妃の子は第二王子と、第一王女。側妾が三人いて、」
「いや、そこまではいい。いずれにしろ、リジーの王室が昔から穏やかだったためしがないからね。あそこはどういうわけか、どの腹から産まれてもみんな、野心家で、強引な血筋を受け継ぐ。実行力があって、決断力、統率力にも優れているが、ひとつ間違えれば、争乱の種を自ら撒きかねない厄介な性質でもある。……なるほど、そうか」
地図に目を落としながら、歯に衣着せない言い様でリジー王族を批評していた博士は、そこでふと思い出したように、軽く手で膝を打った。
「そういえば、リジー王の息子の中で、一人、変り種がいたな。天人のことを聞きに、一度ここに来たことがあるよ。あまりにも傍若無人な態度だったのでね、怒るのも忘れて、少し話をした。赤茶けた髪の若者だったが……あれが、そうか。確か四番目の息子、と言っていたんじゃなかったかな。生まれた順で言うと、五人目か」
「第四王子は」
ニグルが考えるように眉根を寄せた。
「クィトリス・オ・リジー……『クイート』?」
声を上げ、ぱっとこちらを見返ったが、キースは特別驚いた様子も見せず、床の上の地図に目をやっていた。
「あの男がリジーの王族だとしたら、住んでいるのは王宮か?」
静かな声で、淡々と問う。ニグルは何かを言いかけてから口を噤み、困ったように博士に顔を向けた。
博士は表情を変えないまま、首を傾げた。
「いや……だとしても、王宮内にファルが隠されているとは、考えにくいね。状況から推し量るに、ファルを連れ去ったのは、第四王子の独断であっただろう。そもそもあそこは大体いつでも後継問題で揉めているし、そんな思い切った行動をするのに、リジーの王族内で話し合いや合意があったとは思えない。だとしたら、ファルがいるのは、第四王子自身がある程度自由な裁量で使えて、他の者たちがあまり出入りできないような屋敷か館、そんなようなものではないかな」
「だとしたら、離宮だわ、きっと」
ニグルが興奮を抑えつけるような声で言って、地図を見下ろした。
「王宮とは別に、王族が使用する住まいよ。リジーには三つ離宮があって、王の子を産んだ側妾に、それぞれ与えられる場合が多いの。クィトリス王子の母親も、生前、国王から賜った離宮があったはず」
地図上をニグルの視線がうろうろと彷徨うように移動する。ややあって、彼女の指先がある地点をぴたりと指し示した。
「ここだわ。国王に返していなければ、王子はそのままこの離宮を、彼の住居としているんじゃないかしら」
地図には、「赤の離宮」と記されている。
「──ここに、ファルがいるんだな」
キースはぽつりと呟いて、また口を閉じた。
***
その日は、博士の家に泊めてもらうことになった。
最初は「こんな汚い場所で寝るのか」と気乗りしなさそうだったニグルだが、一旦寝具の中に入ると、あっという間に眠りに落ちてしまった。疲れも溜まっているのだろう、死んだようにぐっすりと寝入っている。
彼女のその寝息を耳に入れながら、キースは窓から外を眺めていた。
風に吹きつけられ、しなって揺れる木々が、白い月明かりに照らされている。窓ガラスを通して射し込んでくる光が、キースの無機質な表情もぼんやりと暗闇に浮かび上がらせた。
「……迷っているのかね?」
背後から、ひそやかに声がかけられる。
キースはそちらを振り返ることなく、首を横に振った。
「ファルのところに行くことについては、迷っていない」
そのことに対する迷いは、キースの中に微塵も存在していない。クイートに彼女を奪われたその日から、キースの心に深く埋め込まれた楔のように、その決意はびくとも動かずそこにある。
ファルは必ず自分の手の中に取り戻す。
──だが。
「でもそれから、どうしたらいいのか判らない」
ようやくファルの居場所が掴めた。そこに行けば、またあの顔が見られるのだろう。そのことに安堵している自分がいるのも、間違いない。……でも。
ファルを取り戻してから、どうすればいい?
天人が地上では暮らせないというのが事実なら、ファルに残されている時間はあと少し。
その短い間だけでも、彼女に何かを与えてやれれば、キースは満足するのだろうか。ほんの束の間、あの娘が安らぎと幸福を得られればそれでいい、と──果たしてそんな風に思えるだろうか。それでキースはファルを失ったその先の、数年、数十年を、過ごしていけるのだろうか。
記憶と思い出だけで、生きていくことが出来るのか?
過去に縛りつけられて、死んだように生きる。それでは、キノイの里の住人たちと同じだ。彼らのようにならないためにファルと一緒にあの忌み地を出ようとしていたのに、まったくなんの意味もない。
二人で「未来」を見つけようと、そう約束したはずなのに──
「その決意に変わりがないのなら、今は進むしかないのではないかな」
静かなその言葉に、キースはようやく後ろを振り返った。
薄っすらとした月光が入るだけの室内の闇の中で、博士は端然と床に坐し、キースに向かって微笑んだ。
「私はシェイラを失った時に、私自身を含め、他のすべてもまた失った。ここにあるのはただの枯れ果てた抜け殻さ。誰からも必要とされず、誰も必要とせず、たった一人で生存を続けているだけの、頑固で哀れな醜い老人だ。私の『生』は、シェイラの亡骸を、天人のことを知りたがる連中に渡さないため自らの手で灰になるまで燃やしたあの瞬間に、終わりを告げた」
博士の顔つきは、外で鳴り続ける風のように乾ききっている。
が、
「……しかし、君たちはまだ、終わっていない」
と続けた声には、力が込められていた。
「君は生きていて、ファルもまた、生きている。君たちの時間はまだ、先へと向かって流れている。君たちがお互いを必要としていて、どちらも諦めなければ、まだ何も、終わってなどいない」
「…………」
キースは無言で博士の顔を見返した。
ほんの数年しか一緒にいられないと判っていても取り戻すのか、と言ったその同じ口で、まだ終わっていない、と背中を押すようなことも言う。理性的で筋道だった考えをするこの人物は、こと天人に関わることについては、大きな矛盾を抱えているようだった。
それとも、そこには彼の願いもまた、含まれているのだろうか。
自分たちとは同じ道を行かないで欲しいと。
……諦めて、終わりにしてしまわないで欲しいと。
「──クイートという男は、何のためにファルを連れて行ったと思う?」
訊ねると、博士は少し考えるように自分の顎を指で撫でた。
「そうだな……まずは、ファルの天人としての能力を覚醒させようとするだろうね。ファルは天人としては、あまりにも未熟で、中途半端だ。自在に翼を実体化させて操れる天人でなければ、天人としての意味がない。おそらくは、そう考えるだろう」
「能力を覚醒……」
どうやって? とキースは考えた。翼を実体化させるのが天人自身の意志によるとするならば、頼んだり脅したりすることに、あまり意味があるとは思えない。ましてや、ファルには自分が天人だという自覚がそもそもないのだし。
もしも、自分がクイートだったら。
空を飛びたい、と本人が思わずにいられないような環境に彼女を置いて、様子を見る。
そうだ、「赤の離宮」がどんな建物で、どういう構造をしているのであれ。
……ファルがいるのは、地上よりもずっと高い場所だ。
「そして、もしもファルが天人として目覚めたなら」
博士は淡々と言葉を続けた。
「ファルを地界側の折衝役にして、なんとか天界と繋ぎをとりたいと考えるだろうね。なにしろ、現在の天界と地界の関係は一方的に過ぎる」
「天界との折衝役……」
キースは眉を寄せて呟いた。
折衝役もなにも、ファルに天帝と渡り合うような真似が出来るはずがない。堂々と天界に向かえば、すぐに捕まって殺されて終わりだ。あの小柄で非力な娘に、一体何をさせようというのか。
不審げな顔をするキースに、博士は真面目な表情で首を横に振った。
「君にはピンとこないかもしれないがね、天界に対して何ひとつ駆け引きもできなかった地界の権力者たちは、これまでにひたすら不満と怒りを溜め込むだけだったのだよ。数百年に渡り、彼らは常に打開策を血眼になって探していた。抑圧されたものも、切迫感も、すでに限界に近いまでに膨れ上がっている。その彼らにとって、ファルの存在は、どれほど大きなものだと思う? 実際に何が出来るのかはともかく、ファルのことが知られたら、一本の細い糸に縋るように、地界中のあらゆる国が手を伸ばしてくるだろう。それくらい、貴重な切り札だ。今のところ、唯一のね」
唯一の切り札。
暗がりの中で、そう言う博士の目が真剣な光を帯びている。首筋の裏側が、ぞわりと粟立つような感じがした。
「じゃあ、もしもファルのことが地界の要人たちに知れ渡ったら」
「狙われるね、間違いなく。私のところに来る連中は何も言っていなかったし、今のところはまだ、噂にもなっていないようだが」
けれどいずれは、知られるかもしれない。その時、どんな混乱が起きるのか。この地界の国々で、いや……
「……地界だけじゃない」
キースは独り言のように呟いて、ひやりとした。
思わず、拳を口許に持っていく。我ながら、自分の頭の回転の遅さに、頭を殴りつけたくなった。
「──天界も」
天帝の直近にいる者──天帝の後継者候補であるユアンは、当然ながら、以前から天人の存在について知っていたはず。彼は、自分が地界へと捨てた娘が、「天界人として育った天人」であったと気がついたのだ。だからこそ、イーセンを地界に堕とし、連れ戻せと命令した。
ユアンはそのことを天帝に報告したのか。
白雲宮は、自分たちの支配から外れた天人が地界にいることを、黙って許容したりしないだろう。
いや、それでなくとも、ユアンが──
あのユアンがどんな行動に出るか、さっぱり判らない。
「…………」
今更ながらに、事態の重大さに冷や汗が滲んだ。ファルが天人としての能力を開花させるかどうか、などということはすでにもう問題ではない。ファルの存在自体が、天界にとっても地界にとっても脅威となりつつある。
「今、ファルがどんな状況にあるのかも判らない。現在の彼女は、君の知る彼女の姿のままではないかもしれない。……それでも君は、行くんだろう?」
「──ああ」
キースはきっぱり言って、拳をぐっと握った。
窓の向こうに目を向けた。そこは依然として、暗闇に覆われている。早く陽が昇って夜明けが来ないかと、焦れるように思った。もはや、一刻の間も惜しい。
先のことは判らない。キースにはまだ、その答えが見つかっていない。ファルに会った時、自分がどんな顔をするのかも、正直、自信がない。
けれど、求める心は今もなお、彼女のほうを向いている。
──進むしかないんだ。
***
翌日、博士に礼を述べて、別れを告げた。
「気をつけて」
家の外で、キースとニグルを見送る博士が出した言葉はそれだけだった。自分が話すべきことはもうすべて話した、というような、穏やかな目をしていた。
「……博士は、大丈夫なのか?」
キースがそう言ったのは、この小さな家でロクに食べもせず、適当な暮らしをしていることについて心配したわけではない。ここまで天人についての知識を持っている地界人が、なんの自衛もせずに引きこもっている現在の状況について、疑問に思ったためだった。
クイートや他の国の人間たちがここを訪れるというのは、短い間とはいえ天人と共に生活したという博士の過去が知られているからなのだろう。むしろ、それで今まで、よく無事だったものだなと感心してしまうほどだ。
「私かね? そりゃ、大丈夫さ。なんにも気にしなくていい」
敏い博士は、ちゃんとキースの言葉の意味を理解したらしい。面白そうに笑って、軽い調子で請け合った。
「なにしろ私を捕縛して、天人のことを喋らせようとしても、絶対に口を開かないからね。私は自分が話したい時、話したい相手にしか話さない。監禁されようが、拷問されようが、同じことだ」
なるほど、とキースは納得した。そもそも、博士自身、自分の生に対してなんの未練も執着もないのだ。こんな人物をどう脅しつけたって、徒労に終わるに決まっている。
「何度か、そんな経験もあったがね。あちらはあちらで、私を殺してしまうわけにもいかないので、いつも渋々、解放してくれたよ」
なにしろ、この地界で天人について詳しいことを知っているのは、博士くらいしかいない。情報は欲しいが、死なせては元も子もない。それで、この場所で生きていくのを見逃す代わりに、天界や天人のことを少しでも教えてくれと、地界の国々の要人たちが頻繁に「客人」として訪れるわけか。
ほとんど腫れ物扱いだ。博士は天人を強奪した罪人であり、同時に、殊勲者でもあると考えられているのかもしれなかった。
「私は私の意志のもとでしか動かない。……そう、そしてそれは、とても重要なことだ。いいかねキース、ファルもまた、ファルの意志によってしか、動かないだろう。力を発現させるのも、その力をどういった形で使うのかも、結局は本人次第、ということだ。どちらの道に進むのであれ、その道を選ぶのを、誰かが無理やり押しつけることは出来ない。どんな苦難があったとしても、それを本人が望んだなら、そちらに行くしかないんだよ」
博士の目が、真っ直ぐにキースを向いた。
「──私は、出来れば君には、彼女を守り、彼女の望みの手助けをする役目を担ってもらえたら、と思っている」
「…………」
キースはそれに対して、肯定も否定もしなかった。
じゃあ、といつものように素っ気なく告げて、踵を返す。進みかけた足を止めて、博士のほうを振り返った。
「博士、あんたの名前、なんていうんだ?」
その問いに、博士はわずかに微笑した。
「私はもう、自分の名も、国も、立場も、すべて捨てた人間だ。好きに呼ぶといい。『博士』などという名も、私がつけたわけではないのだがね」
軽く肩を竦めた博士は、あまりその名を気に入っているわけではなさそうだ。かといって、じゃあどう呼んで欲しいのかと聞いても、答えは返ってこないのだろう。
天人のことを知っているのはごく限られた高位の権力者のみ。だとしたら博士ももとは、どこかの国の王族に属していたとも考えられる。今、目の前にいる人物に、かつての気品や高貴さを見つけることは難しいが。
「私は私さ。今も恋人のことを忘れられない、単なる変わり者の年寄りだよ」
キースは頷いた。
「……この先」
と、ぽつりと言葉を落とし、一旦、口を噤む。
博士に黙って先を促され、再びゆっくりと口を開いた。
「この先、機会があったら、ファルをここに連れて来てもいいか。シェイラのことを、あいつに話してやって欲しい」
「…………」
博士は無言でキースを見返し、やがて、目許を柔らかく細めた。
「──うん。その時は、必ず」
待ってるよ、と小さな声で呟く。
そして、細めた目のまま、眩しそうに青い空を見上げた。
「ああ……だったら、その時までは、死ねないな。『この先』を楽しみにするなんて、シェイラがいなくなってから、はじめてだよ」
斜面になっている道を下りながら、どうやってリジーにまで行くかと考えを巡らせた。
博士からは、リジーの地図、それから、「どうせ使い道がないから」と、いくばくかの金をもらっている。これを元に、いかにして効率的に赤の離宮にまで行けるのか、計画を立てないと。こうなったら、手段は選ばず、少しでも早くリジーに行きたい。下りの道を進みながら、我知らず、どんどん急ぎ足になっているくらいだった。
「……キース」
後ろから声をかけられて、我に返った。そういえば、ニグルのことをすっかり失念していた。自分のペースで動きすぎて、彼女に倒れられても困る。
今のうちに言っておこうと足を止め、後ろを振り返った。
「ニグル、これからはどんどん馬車も使うが、少し無理をするかもしれない。どうしても動けなくなりそうだったら、早めにそう言え。自分の限界くらいはもう判ってるだろ」
「キース……」
一方的な決定に文句が飛んでくるのかと思ったら、ニグルはもう一度名を呼んで、それきり黙りこくってしまった。こちらに向けられる顔は、不服があるというより、どこか妙に恨みがましいような、それでいて泣きそうな、本人にも収拾がついていないような複雑な表情をしていた。
「? なんだ?」
訊ねてみたが、ニグルは何も言わない。ただ、じっと見つめてくるだけだ。髪で隠されていないほうの右目が、わずかに潤んでいる。
「…………」
本能的に、これはまずいな、と察した。すぐさま、彼女にくるっと背を向ける。
見た目こそ子供でも、キースの中身は二十三の男である。女という生き物の、たまに度し難いほどの面倒くささ、訳の判らなさくらいは、知っている。ニグルの言葉の続きを待ったら、これから非常に厄介な局面に立たされることが、ありありと想像できた。
「行くぞ」
一言そう言って、またさっさと足を動かす。
後ろで大きなため息が落とされたが、キースは聞こえないふりをした。




