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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第三部・涯
53/73

はぐれ鳥



 女性が言葉を切ったまま沈黙を続けたためか、次第にその場に居心地の悪い雰囲気が流れ始めた。

 そこかしこで黒いマントがもぞもぞと身動きし、伏せていた顔を上げる人々も出てくる。フードの下から覗く彼らの表情には、困惑と疑問ばかりが乗っていた。

 女性もそのことに気づいたらしい。はっとしたように瞬きし、すぐにファルから顔を逸らした。こちらから見えるその横顔は、まだ固く強張って、青白い。

「そ──それでは、これで失礼いたします」

 消えそうなほどの声でそう言って、女性は積み上げられた荷物を両手に持ち上げた。相当重いのだろう、細い腕は撓み、頼りなさげな身体がまるで悲鳴を上げるように軋んでいるのが見て取れるほどだ。

 荷物を抱えた女性は下を向いて、動きを停止させた。

 ……少しして、彼女の背中が白く光りはじめた。

 いや、違う。正確には、光っているのは背後の空間だ。肩甲骨の下あたり、その場所の「何もないところ」が輝き出している。まるで、さっき拡散して消えた光の粒子が、再び戻ってきたかのように。

 淡い光の結晶体は少しずつ強くなり、より大きくなっていく。光と光が集まり、繋がり、凝縮して、ひとつの形をとりはじめる。カーテンが引かれていくように、さあっと光の帯が長く後ろへ伸びて──


 白い光は、白い翼へと変化した。


 ファルは茫然とそれを眺めていた。

 何か言うべきこと、聞くべきことがあったかもしれないのに、思考がまったく働かない。この時ファルの頭の中を占めていたのは、洪水のように押し寄せる混乱と、恐怖と、胸の中から溢れ出る、正体不明の感情だけだった。

 身も心も持っていかれそうな、強烈な感情に圧倒されそうだ。ファルは確かに怯えていたけれど、また同時に、ひどく悲しくもあった。自分が人ではなかったという衝撃とは別に、目の前の翼を持つ生き物に対して、限りない憐憫をも覚えていた。

 可哀想に、可哀想に。

 なぜそんな首輪と鎖に縛られていなければならないのか。本当なら、背中にあるその翼で、どこにでも自由に行けるはずなのに。

 どうしてそんな暗い目をして、笑顔を失くして、生気の抜けた顔で、ただ同じ言葉を単調に繰り返しているだけなの?

「…………」

 女性はもうファルのほうを見なかった。結ばれた唇は震え、眉も苦しげに寄せられているが、頑なにその目線はこちらに戻ってはこない。

 今やはっきりと実体化した翼が、ばさりと音を立てて、大きく羽ばたいた。

 行ってしまう。

 ファルが口を開きかけた、その時。


「──天界では」

 女性が下を向いたまま、ぽつりと言葉を発した。


 周囲を取り囲む集団の間に、さっと当惑が広がった。彼らは彼らで、女性の様子に何か只ならぬものを感じているらしかった。

「天界では、もうすぐ、大きな変化が訪れようとしています。私たちは詳しいことを知る立場にはありません。……ですが、それはきっと、良い変化ではないでしょう」

 ざわりとした動揺が波打つように伝わってくる。その動揺が、女性の台詞の中身に対してのものなのか、いきなりそんなことを言いだした彼女の真意を測りかねたためなのか、ファルには判別がつかない。

「あるいは、未曽有の事態が起こり得ることも考えられます。それが地界にどのような影響を及ぼすのか、予想できません。心の準備をしておかれたほうがよろしいかと思います。ただ、あまりあちらを刺激されぬよう──私が言えるのは、それくらいです」

 その場を包む動揺が、さらに大きくなった。フードで隠しているにも関わらず、隣の誰かと顔を見合わせるような人も出てきている。不安と焦燥がじわじわと広間内に充満していくようだった。

「それは、どういう──」

 輪の中心近くにいた人物が、腰を上げかけた。あの声は、リジー国王だ。彼の声にも、突然の注意喚起に対する、驚きと疑念が明確に表れている。

 しかし女性はそちらに顔を向けず、再びばさりと翼を動かした。風が起こり、白い羽根が躍るように宙を舞う。

 広がる翼の向こうで、一瞬、その視線がファルの目を射抜いた。


天界に関わってはだめ(・・・・・・・・・・)


 ひそやかに、だがきっぱりとそう告げて、女性は上を向いた。

 足がふわりと円座から浮き上がり、身体がゆっくりと上昇していく。翼が大きく上下しているのは、それだけ負担が大きいということなのかもしれない。羽ばたきのたびに、たくさんの羽根が抜け落ちて空中を乱れ飛ぶのは、あまりにも痛々しい眺めだった。

 思わず立ち上がりそうになったファルのマントを掴み、隣のクイートが制止する。そちらを見返ると、彼はフードの下で、「ダメだよ、あっちの気遣いを無にする気かい?」と小さく口を動かしていた。

 ファルは唇を噛みしめ、天井の穴を抜けて徐々に遠くなっていくその姿を、黙って見送るしかなかった。




 羽音が完全に聞こえなくなり、空へと昇った女性が見えなくなると、広間の中はざわめきに満たされた。

 どの人物も、周りに困惑と不安の色をまとわせ、問いに返せる相手を探すかのように、うろうろと顔を動かしたり、空を見上げたりしている。中には、フードを取り去って、「なんだあれは、今のはどういう意味だ」と声高に疑問を発している男性もいた。

「……やれやれ、みんな浮き足立ってるね。だけど、これはこれで都合がいい。さあファル、行くよ」

 クイートが小声で言って、ファルの肩を抱きながら足早に歩きだす。彼が目を向けている方向を見てみると、入り乱れる人の群れの向こうに、明らかに誰かを探している様子の人物がいた。半分くらいフードから出てしまっている顔は、苛立たしげな表情をして、きょろきょろと目線を動かしている。

 クイートがくすっと笑った。

「あれ、俺の父親」

「リジー国王?」

 まだ狼狽の抜けきらないファルが、それでも驚いて問い返した。

「もしかして、クイートを探してるんじゃないの?」

「もしかしなくても、そうだよ。だけど俺は会いたくないんだ。こういう時、この格好は本当に便利だよね」

 クイートは楽しそうに言いながら足を動かし、黒いマントの集団に紛れるようにして素早く移動した。

「会いたくないって……」

「今はまだ、あれこれと面倒な説明をしたくない。それに、あの人に見つかると、他にもいろいろ見つかっちゃうかもしれないだろう?」

「見つかったらまずいの?」

「そりゃそうだね。いきなり襲いかかってきて、人のものを掠め取っていこうなんていう盗賊の親玉みたいな人間とは、あまり話なんてしたくないのは当然じゃないか」

 その言葉に、ファルは目を見開いた。

「塔を襲撃してきた人が、ここにいるの?」

「うん。実行犯ではないけどね。証拠もないから、本人はぬけぬけとしてるけど」

「そ、そんな危険な人が、ここに紛れ込んでるのなら、兵の人たちに教えて捕まえてもらったほうがいいんじゃない? この場所には、他にも偉い人がたくさんいるみたいだし」

「そうしたいのは山々なんだけど、証拠がないんだって。証拠がなけりゃ、兵が自国の王子を捕まえることなんて出来ないでしょ?」

 え、と今度は口も開けた。

「自国の、王子って」

「俺の兄なんだけどねえ。頭が悪い上に権力はあるって、最悪だよ。そう思わない?」

 クイートはくすくす笑いながら言ったが、前方に向けた目はまったく笑っていなかった。



          ***



 ぽんと放り込まれるように馬車に乗せられて、ファルとクイートは帰途を辿った。

 ファルは半分以上、放心状態だった。椅子に腰かけて、来た時と同じように窓から流れる景色を眺めても、ガラガラと車輪が廻る音を耳に入れても、それらは心を素通りしていく。目まぐるしく動く状況に追い立てられて、今はすっかり、頭と精神が麻痺してしまっていた。

「今度は、俺を叩きのめして逃げようとは思わないのかな」

 からかうように声をかけられて、のろのろと前に座るクイートに目を移す。

 逃げる? と少しぼんやり考えてから、ああそうだ、自分はそればかりを考えていたんだった、と思い出した。

 あの部屋から逃げ出して、キースの許に帰るのだと。

 ……でも。

 固かったはずのその決意が、今は妙に、遠く感じる。

「クイート」

 名を呼んで、真っ直ぐに目を合わせた。

「もう、話してくれるんでしょう?」

 クイートの口許から笑みが消える。「そうだね」と言うと、彼もまた表情を改め、姿勢を正して正面からファルを向いた。

「……あの人は、なに?」

「天人だよ」

「天人──」

 躊躇なく返ってきた言葉を、口の中でもう一度呟く。

 天界人とも、地界人とも、違う名前。

 別種の生き物(・・・・・・)

 クイートは真面目な顔つきのまま、続けて言った。

「君もまた、天人だ。ファル」

「…………」

 ファルは黙って頷いた。

 頷いた拍子に、ぽとりと目から涙が落ちた。




 馬車が赤の離宮に到着すると、門前でゴウグが待機していた。

「ご無事で」

 クイートを見て、ほっとしたように表情を緩める。心配していたのは、ファルと二人だけにさせることなどではないのだろう。父にも兄にも全幅の信頼を寄せられないというクイートの日常は、ファルには想像もつかないほど、危険が隣り合わせに存在しているのかもしれない。

 ファルは馬車を降りると、前にクイート、後ろにゴウグに挟まれるようにして、塔のほうへと戻った。行きも通った小道を歩き、木々の間を通り抜ける。

 ファルは何も言わず、周りを見ることもなく、ただ前だけを向いて、大人しく足を動かした。

 塔へ入れば、また元の囚われ人に逆戻り。

 それは判っていても、もう、なんとも思わなかった。




 長い螺旋階段を上り、塔のてっぺんの部屋に、クイートと共に入る。

 ゴウグはちらちらとファルの顔を見ては何かを言いたそうに口をもぐもぐさせていたが、クイートに合図をされると、結局何も言わずに頭を下げて部屋の外へと出ていった。扉の閉じられる音だけが、重苦しく響く。

 クイートが椅子に座り、向かいの椅子を指し示す。ファルはそれに黙って従った。

「──さて、ファル。その目で見てもらった通り、この世界には、地界人とも天界人とも違う、人の形をした『天人』という種族が存在している。それは理解したかい?」

 テーブルの上に肘を置き、顎の下で手を組みながら、ゆっくりとした調子で出されたクイートの言葉に、ファルはこくりと頷いた。

 ……確かに、クイートは正しい。きっと、いくら口で説明されても、それだけでは、ファルは理解も出来なければ、納得も出来なかった。まさか、と一蹴して、それで終わりだっただろう。

 世の中には、実際に見てみなければわからないこと、というものがどうしてもあるのだ。

「天人は、自分たちが住む小さな世界を雲の上に作った。それが天界。だけど現在、天界で大きな顔をして暮らしているのは、天人ではない。君たちが言う『天界人』というのはね、天人から何もかもを奪い取ってそのままあの地を占領してしまった、侵略者たちのことを指すんだよ」

 そうして、クイートは淡々と話しはじめた。



          ***



 天界において始祖と呼ばれる男、そして天の一族として敬われる五家の先祖たち、彼らがした行為の顛末を聞かされて、ファルの顔からは血の気が引いた。

 剣で斬られ、槍で突き刺され、矢を射かけられ、火だるまにされ、次々に殺戮されていったという天人たちの姿を思い浮かべ、身体が小刻みに震えだす。翼をもがれ、踏みにじられ、無数の羽根が散乱し、地面が真っ赤な血で染まった光景は、どんなに恐ろしいものであっただろう。なすすべもなく家族や友人を殺され、自分の命も奪われ、骸を地上へと投げ捨てられた天人たちの無念は、どれほど大きかったことか。

「どうして……そんな酷いこと」

 掠れそうな声で問いかけると、クイートは首を傾げた。

「どうしてだろう。なにしろ昔のことなんでね、その元凶となった男については、詳しいことはほとんど伝わっていないんだ。ただ……これは俺の推測だけど」

 考えるように、視線を横に流す。

「そいつはきっとね、おそろしく自信家で、強欲で、傲慢な男だったんだろうね。確かに、普通の人間の数十倍は、頭も良くて容姿も整って、人を転がすすべに長けていたんだろうと思うよ。こういう言い方はあまり好きじゃないけど、相当なカリスマ性も備えていたはずだ。本人も、自分は他人よりもずっと優れているという自覚があっただろうし、自分に出来ないことなんてないと信じてもいたかもしれない。──そういう、膨れ上がって肥大化した自尊心を持った人間にとってね、たぶんその現実は、我慢がならないものだったんじゃないかな」

「なにが?」

 問い返すファルの目を見つめて、クイートは静かに言った。


「自分を見下ろす者がいる、ということが」


「……?」

 ファルはその答えに当惑するばかりだった。

 よく、意味が判らない。

 だって、相手は翼を持っているのだから、暮らす場が異なるのは当然のことではないか。ファルはただの一度だって、空を飛ぶ鳥に対して、「自分を見下ろしている」なんて思ったことはない。

 クイートは苦笑した。

「君には理解できないよね。まあ……残念ながら、俺には少し、理解できる部分もある。だからって俺は、自分が見下ろす立場に取って代わってすべてをひれ伏させてやろう、なんて愚かなことは考えないけど。つまりそれは、羨望と嫉妬と劣等感の裏返しなんだよ。その男は天人とは真逆の性質をしていた。そういう意味では、そいつは誰よりも『人間らしい』人間だった。だからこそ、心の底から憧れて、心の底から憎んでもいたんだろうね」

「……?」

 当惑する一方のファルにちょっと笑って、クイートは話の舵を切り直した。

「ま、君にこんなことを言っても仕方ない。……とにかくそういうわけで、無害だった天人たちは追いやられ、十分害のある者が支配するようになった天界は、地界にとっては厄介な存在でしかなくなったわけだ」

「厄介な存在……」

「君も見ただろう? 現在の天界はああして天人を使い、地界から利益だけを吸収していく。雲の上の小さな世界で、天界人たちが大した努力もせずにのうのうと暮らしていられるのは、地上の人々が血反吐を出すほど苦労し、時間をかけて築き上げていったものを──知恵を、技術を、発見を、すべて何もしないで搾取して、自分たちのものにしているからだ」

 クイートの目に宿る皮肉の色合いが強くなった。


「今の地界は、まるっきり、天界の『属国』だ。そうは思わないかい?」


 あまり素直に感情を出すことのないクイートが、吐き捨てるような口調で言う。隠しきれない怒りは、驕慢な振る舞いをする天界に対するものなのか、奪われる立場に甘んじる不甲斐ない地界に対するものなのか。

「でも……どうして?」

 ファルにはどうしても判らなかった。なぜ、地界の人々は、そのように天界の言うがまま、黙って従う必要があるのだろう。天界人はこちらとあちらを行き来するすべは持たず、使者としてやって来る天人は、あんなにも弱々しく儚げな、か細い女性ただ一人だというのに。

 不思議そうに問い返すファルを見て、クイートがやれやれと肩を竦める。

「世の中のみんながみんな、君のようにボンヤリしているといいんだけどね。……もう少しよく考えてごらん、ファル。位置的に、地界は天界に従属せざるを得ない。天界は、その気になれば、地界に大損害を与えることが可能だからだ」

「大損害って、でも、こんなに離れてるのに」

「離れているから、こちらからはあちらに攻撃できない、ということさ。しかしあちらからはいくらでも出来る。──たとえば、ちょっと想像してみて」

 クイートの目が鋭く細められた。


「もしも、天から毒の雨が降ってきたら? もしも、罹ったらあっという間に死に至るような、治療法のない疫病患者が大量に空からばら撒かれたら? もしも、百人や千人もの天界人が一気に堕とされて、咎人の森に収まりきらず、化け物になって人々を襲ったら?」


「…………」

 ファルは言葉を失った。

「その場合、地上にいる人間には、防ぐ手段がない。人々は恐慌状態に陥り、膨大な死者が出るだろう。その気になれば、他にもいくらだって考えつくよ。君の顔色をさらに失くさせるような、残酷なやり口がね」

 考えるだけで、ぞっとした。

 もしも天界がそんな方法を取った場合、いちばん犠牲になるのは、天界の真下にある忌み地に暮らす住人たち──デンたちではないか。クイートは仮定の形で話したとはいえ、どれもすべて、現在の天界にとって実現可能なことばかりだ。

 そうか、だから。


 だからあの中央の陸地は、地界のあらゆる国から放置されているのか。

 いざという時、いつでも切り捨てられる(・・・・・・・)ように。


「そんな……」

 ファルは顔を歪め、呟いた。

 東西の大陸から弾かれるようにしてあの地に向かった人々は、自分たちがそんな危険な状況に置かれているなんて、頭を掠めたこともないだろう。

 デンも、他の人たちも、寂しさを抱えながら、「ここでしか生きられない」という悲壮な決意を立てている人たちばかりなのに。

「自らの頭の上に、何をしでかすか判らない生き物たちが住んでいるなんて知ったら、地界は大混乱だよ。下手をしたら、自暴自棄になるやつだって出てくるだろう。だから天界のことは、地界のごく一部、限られた上層部にいる者たちしか知らない最大機密事項になっている。数百年前に起きた実際の出来事を都合よく作り替え、お伽噺として広めたのは、最も知られたくないところを隠すためだ。真実は、すべてを覆うより、一部を見せたほうがかえって安全だからね」

 地上に舞い降りた女神と若者の恋物語。その裏に残虐な事実が潜んでいることも知らず、地界の子供たちはそのお伽噺を聞きながら、安らかな眠りに就いているのか。

 そこで、はっと気づいた。

「だから……天界人は、銃というものを知らないの?」

 クイートが首を縦に振る。

「その通り。何も知らない赤ん坊に、武器なんて与えられないのと同じさ。どんな使い方をするかわかったもんじゃないからね。いくら天界人が能無しばかりでも、銃の知識を知れば、そこから大砲を作りだすのは容易い。あんな場所から、射程距離の長い爆弾でも撃ち込まれてごらんよ、地界はすぐに壊滅させられる」

 背筋の冷えるようなことをさらりと言って、クイートは難しい顔つきになった。

 トン、と指でテーブルを叩く。

「……だけど、いつまで隠しおおせるのかは、正直、不透明だね。銃云々の問題だけじゃないんだ。これからこの世界は、もっと発展していくだろう。新しい動力も開発されつつある。近い将来、馬なんて使わずとも、人々は長距離を移動することが出来るようになるよ。進歩は止めようがない。それに気づいた天界が要求を出してきた時、果たしてどうなるのか……」

 クイートは呟くように言って、手で額を押さえ、目を伏せた。

 もしかしたら来るかもしれないその時、地界は天界の要求を撥ねつけられるのか。自分たちの首を絞めることになるだけの知識を、そう易々と渡すことは出来ない。けれど、渡さない場合、あちらがどのような行動に出るのか読み切れない。

 地界は今、岐路に立たされている。


「──クイートは、わたしに何をさせたいの」

 ファルは静かな声で訊ねた。


「うん。やっと、君にその話が出来る」

 クイートが顔を上げる。彼の目には、今までに見せなかった切実なものがあった。

「天界は、天人を使者として地界に干渉することが可能だ。だけど地界から天界に接触することは出来ない。俺たちは何をどう頑張っても、あの場所まで行けないんだ。今日、天人が思わせぶりなことを言ってたけど、あの言葉の意味を確認することすら、こちらには出来ないんだよ」

 だから、ただ従属するだけ。取り上げられるのを見ているだけ。こちらからは打つ手が何もないという事実に、クイートは、リジー国王は、地界の国の君主たちは、どれほど悔しくもどかしい思いをしてきただろう。

「今のところ、君だけが唯一の希望なんだ、ファル」

 クイートが真っ直ぐファルを見据えて言った。


「どうか、地界側の天人(・・・・・・)として、働いてくれないか。天界に頭を押さえつけられた今のままじゃ、地界の先行きは不安定に過ぎる。地界に住む人々のため、地界の未来のために、君の翼を使って欲しいんだ」


 ファルは口を噤んで彼を見返した。

「……でも、わたしは翼なんて、どうやって出せばいいのか判らない。そもそも、そんなものがあるのかどうかも」

「あるよ」

 クイートはファルの言葉を遮るようにして言いきった。

「君には間違いなく、翼がある。キースがその証拠だ。ただ、君には天人としての自覚がない。今まで育ってきた過程で、自己認識と自己評価も著しく低い。それらに阻害されて、力を顕現させられていないだけなんだ。その気になれば、君は翼を実体化させて、飛ぶことが出来るはずだよ、必ず」

「…………」

 ファルはそっとため息をついた。

 ──小さくて、真っ黒で、いつでも自分のことしか考えなかった、痩せっぽっちの女の子が、「地界の人々と、未来のために働け」だって。

 何百万、何千万の人が住んでいる地界の、唯一の希望だって。

 ……それはこの細い手、細い足には、少し重すぎやしないか。

 自分一人の手に余る。けれど、誰に助けを求めていいのかも、もはや判らない。

 だってキースは「人」で、ファルは「人ではないもの」だ。こればかりはキースだって答えを差し出せないに決まっている。

 ファルとキースの間には、壊すことも崩すことも出来ない壁があることに、気づいてしまった。

 あの可哀想な女性のような同胞もいない、この地界において、ファルだけが異端なのだ。

 キースに向かって手を伸ばしていいのかも判らない。心の支えが消えて、自分がどこにどう進んでいいのかも見失いつつある。



 ファルは今こそ、世界にただ一人きり、ぽつんと立ち尽くしていた。





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