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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第三部・涯
52/73

降臨



 馬車はしばらく走って、やがて大きな門をくぐった。

 途中から、とある考えに捉われて、せっかく窓から見える街の景色にもあまり目を向ける余裕もないほど落ち着かない気分になっていたファルは、目的地に到着したらしいことに、かえってホッとした。ファルを慮って、ということでは絶対にないだろうが、ずっと口を開かず窓の外を黙って眺めていたクイートも、ようやくこちらを向いて、にこりと笑う。

「さあ、着いた。心の準備はいいかな、ファル」

「もちろんだよ」

 本当のところかなり上擦りそうな気持ちを強引に押さえつけ、ファルは反り返るようにしてクイートを見返し、きっぱりと返事をした。ファルにだって、この男にだけは弱いところを見せたくないという意地がある。

 クイートはぷっと噴き出した。

「その意気だね。なにしろこれから行くところは、まあまあ怖い場所だから」

「ふうん」

 怖いのか、と正直怯みそうになったものの、頑張って顔には出さないようにした。どういう種類の「怖さ」なのか、気にならないといえば嘘になるが、考えてみればファルはこれまで結構いろいろな怖い目に遭っているのだから、それなりに耐性は出来ているはずだ、たぶん。


「……それで、ここはどこ?」


 その質問に答えが返ってくる確率は半々かな、と思いながら聞いてみる。こうして話を続けている間にも馬車は走っていて、未だまったく止まる気配を見せない。

「人に訊ねる前に、自分でまず考えてみようともしないとは、君の頭はまだ空洞のままかい?」

 笑顔でばっさり切り返されて、ファルはうぐと詰まった。本っ当に性格が悪いんだから……と心の中でぶちぶち思いながら、改めて窓の外に目をやる。

 広大な敷地は、非常に美しく整えられていた。ファルが閉じ込められていた塔のあったあの場所とはまた少々趣が異なってはいるが、それでも似ている部分が数多ある。芝の敷き詰められた地面、もう寒いのに花の咲き乱れる庭園は、それだけきっちりと手入れされているという証だ。

 さっき通った門の前には、見慣れた制服を着た男たちが立ちはだかって厳しく通行をチェックしていたようだし、門扉は頑丈そうな鉄製で人の背丈の二倍ほどの高さがあり、しかも二人がかりではないと開けられないくらいに重そうでもあった。


 ──いくらなんでも、個人の邸宅などではないだろう。


 キースに連れられてはじめてアストン屋敷に行った時も、その広さ大きさに驚いたものだが、あれとはまるで規模が違う。そして雰囲気もまったく違う。アストン屋敷があくまでも私的なものなら、こちらはもっと公的なものだ。

 ああ、そう、これと似ているものを思い出した。

 天界から追放される時、はじめて入った、あの建物。

「……天界で言うところの、白雲宮、みたいな?」

 呟くように言うと、クイートが目を細め、拍手でもするかのように、軽く両手を打ち合わせた。

「よく出来ました」

「それはどうも」

 ファルも最近ひねくれてきたのか、クイートに褒められても、厭味にしか聞こえない。ぶすっとしながら返したら、可笑しそうに笑われた。


「ここはリジーの王宮だよ。『金枝宮』と呼ばれている」


「王宮……」

 口の中で繰り返し、馬車の窓からじっと外を見る。白雲宮に天帝がいるように、ここにはリジー国王がいるということか。

 すると、門のところにいた男たちは、王宮の兵ということだろうか。そういえば、天界でファルを捕まえ拘束した白雲宮の兵に似て、揃いも揃って強面で、目つきも悪かった。

 ──と考えたところで、ん? と首を捻る。

 あの制服、ファルがいつも塔から見ていた人たちが着ていたのと、まったく同じものだった。ということは、あちらにいたのもリジーの兵で……ということは、あの場所もまた、個人のものではなくリジーという国家が管理している敷地ということで……

「…………」

 ファルはまじまじと向かいの席に座る男を見つめた。どう見てもふらふらと勝手な行動ばかりしているクイートは、王族だとしても、てっきり傍系に属しているものだとばかり思っていたけれど。

 クイートは、ファルの視線を受けて、くすくすと笑った。

 やっとそこまで辿り着いたか、というような顔をしている。

「君がさっきまでいたのは、『赤の離宮』。リジーには他に、『青の離宮』と『緑の離宮』と呼ばれるものがあるんだけど、赤の離宮は俺の亡き母が国王から賜ったもので、俺もわりと自由に使わせてもらってるんだ」

「……じゃあ、クイートは」

 ファルは口を丸く開けた。

 王族の傍系、どころではない。

「この際だ、改めて自己紹介しよう、ファル」

 クイートはにこやかに笑みながら言った。

「俺の本当の名前は、クィトリス・オ・リジー。リジー国王ヴァルガス・オ・リジーの、四番目の息子だよ」



          ***



 クイートの正式な名前と身分を明かされても、ファルは恐れ入ってやるつもりは毛頭なかった。

 むしろ、ますますムカムカと腹が立った。リジーの第四王子が、誘拐拉致監禁の犯罪者とは。しかも離宮に女の子を閉じ込めて、しゃあしゃあとした顔を続けていられるとは。一体この国の倫理と道徳の観念はどうなっているのだ。そういえばユアンも天帝の四番目の子供、とかキースが言ってなかったか。こっちでもあっちでも、君主の四番目の子は枠から外れなければならないという法則でもあるのか。

「王の息子っていうならねえ──」

「おっと、ファル、お喋りはここまで」

 があがあと文句を言ってやろうと口を開きかけた途端、唇に人差し指を当てたクイートに止められる。ちょうど、馬車がぴたりと停止したところだった。

 憮然としながらも、ファルは口を噤んで我慢した。とにかく、今はもっと追及すべき問題が差し迫っている。この件についてクイートを糾弾するのは後回しだ。

「じゃあファル、これを被ってね」

 隣に置かれた荷物の中をごそごそと探っていたクイートが、頭からすっぽりと隠れてしまいそうなフード付きの黒いマントを、ファルに渡した。ファルだけがそんな格好をするのかと思ったら、どういうわけかクイートも同じものを被りはじめている。

 これでは、外から見ても、誰が誰だか判らない。

 ファルはともかく、どうしてれっきとした王子であるクイートまでが、そんな風にして素性を隠すような真似をしなければならないのだろう。怪訝な顔をして覗き込むと、クイートはフードの下で苦笑した。

「鬱陶しいだろうけど、しばらく我慢しておいで。一応、これが決まりだからね」

 クイートに促されるままその姿で馬車を降りて、ファルは首を傾げた。




 リジーの王宮、金枝宮は、非常に大きくて豪奢な建物だった。

 白く輝く床、壁、そして天井。白雲宮は縦に長かったが、金枝宮は横に広い。建物の中に入っても、ファルはクイートのあとについて、しばらく歩かねばならなかった。

 顔も身体も隠された怪しげな風体の二人組が廊下を歩いているというのに、王宮内の人々は誰一人として誰何の声を上げなかったし、止まらせて顔を確認するということもしなかった。制服を着た兵や、エプロンをつけた女性たちは、誰もがファルたちを認めると、ぴしっと真っ直ぐに立って、深々と頭を下げるだけである。

 彼らはこの怪しい人物がリジーの王子であることを認識しているのかな、とファルは訝った。もしかしてクイートは、塔の外ではいつもこういう格好をしているのだろうか。あるいは、王族は人に姿を見せてはならないという掟でもあるのか。

 艶々と光り輝く廊下を歩いていくうち、事態はさらに奇妙なものになりだした。

 進むにつれて、周囲に人が増え始めたのである。しかも、同じ方向に向かって歩いている彼らも、ファルやクイートと同じ、黒いマントを身につけ、顔を隠している。

 なにこれ、というファルの当惑にはお構いなしで、同じ格好をした人たちはさらに増えていった。黒い集団が、お互いに声を出すこともなく、ただ粛々と歩を進めていく光景は、異様なものとしか映らない。

 ファルは、白雲宮の最深部に連れて行かれた時のことを思い出した。暗い部屋の中にいた処刑の立会人たちは、全員面布をして顔を隠し、これと似たような恰好をしていたっけ。

 ──ひょっとして、これから始まるのは、なにやら恐ろしげな「儀式」なのでは?

 塔の部屋の中で読んでいた本の中に、確かそういうのがあった。生贄を捧げることによって、得体の知れない魔物を呼びだす、というような。それなら、「まあまあ怖い場所」というクイートの言葉も頷ける。


 ……その場合、生贄にされるのは、わたしだったりして。


 思いついた途端、ひやりと悪寒がした。そう考えると、いろいろ符号が合うような気がする。どうしよう。ここはさっさと逃げたほうがいいのか? でもこんなに人がいる状態で、どうやって……

「どうかした? ファル」

 ファルの足取りが突然ぎこちなくなったことに気づいたのか、クイートが上体を屈ませて覗き込んできた。

「……クイート」

「うん?」

「わたしを食べても、たぶん美味しくはないと思う」

 天界にいた頃に比べれば随分と肉付きが良くなったとはいえ、現在のファルはまだ、「太っている」という状態からは程遠い。さては魔物の餌にするつもりで、これまであんな場所に閉じ込めてせっせと食事を与えていたのか、と納得したが、ファルはキースと会う前に自分が食事になってしまうのは真っ平である。

「…………」

 しばらくの無言の後、クイートはぶぶっと勢いよく噴き出した。

「そ……それって、変な意味で言ってるわけじゃないんだよね? いや、そっちの意味でも、俺は君を食べようなんて気は起こらないけど。でも、もっと変な意味で言ってるんだとしたら……ほんとに君って、バ……」

 一応、辺りは憚っているらしいが、クイートは顔を俯かせながらさかんに肩を揺らしている。どうやら本当は爆笑したいところを、懸命に抑えているらしい。近くを歩いている二、三人が、咎めるようにちらちらと彼を見た。

 その拍子にフードの下の顔がわずかに覗いたが、そこにあるのは鼻の下に髭をたくわえた中年男性であったり、顎の尖った女性であったりするようだった。彼らの目はどこか憂鬱そうであるものの、びくびく怯えているわけでも、高揚にぎらぎら輝いているわけでもない。


 マントの上からでも見える彼らの「色」は様々で、緊張しているのか少し刺々しくなってはいるが、ユアンのような黒一色に染まった人は一人もいなかった。


 ふー、と大きく息をついて、クイートはやっと笑いを収めた。

「ファルは面白いことを考えるね」

 ファル本人はちっとも面白くない。さっき、「バ……」と言いかけたのを、ちゃんと聞いたぞ。

「おかしな心配しなくていいよ。君はただ、大人しく黙って、これからの成り行きを見学していてごらん。なにも危険なことはない」

「でも……」

「これからあるのは、そうだな、まあ……『納税のための集まり』、みたいなものかな」

 突然出て来たその単語に、ファルは「はあ?」とぽかんとした。

「納税?」

「こちらは税を納める義務なんて何ひとつないし、あちらもそれに対する見返りは何ひとつとして与えてくれないんだけどね。ただ取られるだけなんて、理不尽と思わない? それに税っていっても、渡すのは金じゃないし」

「お金じゃないって」

「でも大丈夫、税の取り立てに来るのは、決して君や俺を取って食ったりしないから」

「どういう……」

「なにしろ、決して他者を(・・・・・・)傷つけられない生き物(・・・・・・・・・・)だ。むしろ乱暴な性質を持っているのはこちらのほうだからね、それで武器の持ち込みは一切禁止、ということになってるわけ。たとえば誰かが暴走でもして、連中を害したり殺したりしたら、それはそれで困る」

「連中?」

「このおかしな格好はね、どこの国の誰か、ってことがはっきりしないためっていうのとは別に、不祥事の再発防止、って意味合いもあるんだよ。昔はここまでものものしくはなかったらしいけど、四十年ほど前かな、厄介事が起きてね」

「四十年前?」

「ねえファル、目と目が合った瞬間に恋に落ちる、なんてこと、理解できるかい? 俺にはさっぱりさ、物語じゃあるまいし。でも実際、そういうことがあるんだから参るよね。その時も相当大変だったらしいよ、後始末が」

「こ……恋?」

「というわけで、『その場』では、なるべく顔を上げないようにね、ファル。……ま、君の場合は、いくら姿を隠していても無駄だとは思うけど」

「ねえ……」

 クイートはいつものごとく、ファルの疑問はすべて綺麗に聞き流して、すたすたと先へと歩いて行ってしまった。

「──もう!」

 いつかあの足、絶対にもう一度蹴ってやる、と決心しながら、ファルも急ぎ足になってあとを追った。



          ***



 ──そこは、非常に天井の高い、大きな広間だった。

 円柱に囲まれたその部屋の床や壁は白ではなく、薄っすらとした青みを帯びた色だ。どこも曇りなく磨き込まれているためか、透明がかって見える。全面が光を反射して煌めいているので、まるで澄んだ水の中にいるような気分になった。

 しかしその部屋の、もっとも大きな特徴は、異質な形状にある。

 壁が上に向かうにつれ、緩くカーブを描いており、天井部分がアーチ状の半球形になっているのだ。いや、それだけなら、ドーム型屋根ということで、そんなに珍しくはないのかもしれない。しかしこの部屋の場合は、完全なドームと呼ぶには、いささか語弊があった。


 屋根の中央部分、天井の頂上部に、丸い形の開口部があるからだ。


 その穴の向こうには、青い空と白い雲が見える。窓はないので、つまり、そこだけが直接外に繋がっている、ということになる。しかしこれでは、「屋根」として意味がなく、その用途を果たせもしないだろう。雨でも降れば、そのまま部屋の中に被害が及ぶ。

 ファルは一瞬、何か大きな石でも当たって穴が開いてしまったのかと思ったが、それにしてはその円は美しい形に整っていた。どう見ても、人工的に切り取った穴としか思えない。

 採光と換気のための穴なのだろうか。でも。

 ……こういう穴、なんだか見覚えがある。

 考えるまでもなく、すぐに判った。白雲宮の最深部にあった「穴」と酷似しているのである。あちらでは「下」に向かって開いていた穴が、こちらでは「上」に向かって開いている、ということだ。

 白雲宮のあの穴は、地界に罪人を堕とすためのものだった。


 じゃあ、この穴は?


 ファルが茫然とそれを見上げている間に、広間は、続々と入ってきたフードとマントで姿を隠した人間たちに埋められていった。広いのでそれだけ入っても窮屈さは感じないが、ざっと眺めてみたところで、百人以上はいるだろうか。

 彼らはそれぞれひっそりとした動きで、広間の中央を空けるようにして、腰を下ろした。

 腰を下ろすといっても、椅子というものはないので、床にそのまま片膝をつく、という形になる。上位の者に対面するようなその格好で、彼らはひたすら何かを待つ態勢になった。

 クイートにマントの裾を引っ張られ、ファルも同じように片膝をついた。隣のクイートは、顔を伏せ気味にしているので、どんな表情をしているのかまったく判らない。

 さわさわとした、どことなく落ち着きのない空気は、やがてしんとした静寂に変わった。

 後方で扉が閉じられたのか、ゴウン、という重い音がする。


 ──これから、何が起こるのか。


 ファルはそっと周囲を見回してみたが、顔を上げている人間は誰もいなかった。正体不明の集団の中には、どうやら子供も混じっているらしく、時々小さな頭が好奇心に抗えずぴょこっと動いたが、そのたび、近くの誰かの手によって抑え込まれている。

 広間の中央、ぽっかりと空いたその空間には、他の床よりもすこし高い、円座のようなものが造られていた。

 まるでそこに誰かがやって来るのを、ひたすら待っているようだ。しかしその「誰か」は、どこからどうやってそこにやって来るのだろう。部屋に窓はなく、扉はもう閉じられてしまったのに。

 外部と通じているのは、天井に開けられた穴だけ。

 物音ひとつしない。空気がぴんと張りつめる。



 ……少しして、その穴から、ふわりとした何かが落ちてきた。



 いいや、落ちてきた──ではない。降りてきた、というほうが正しい。まるで木の葉が風に揺れるようにゆっくりと、「その人物」は穴の向こうから姿を現した。

 天井の穴から。上から。空から。

 最初は、白い素足が見えた。それから薄い衣に包まれた細い腰。しなやかな身体が、ふわりふわりと静かに下降してくるのを、ファルは息を呑んで、ただ見守るしかなかった。

 女性だ。ファルと同じ蜂蜜色の長い髪が、宙になびいて舞っている。繊細そうな細面はどこか影が差し、長い睫毛に覆われた目は悲しげに伏せられていた。

 見た目は他の人とそう変わりない。森の化け物のような異形ではない。線は細いが、顔も身体も、ごく普通の人間、そのものだ。

 だが。


 彼女の背中には、白い翼がある。


 翼だ。間違いない。後ろに伸ばされたその形状は、明らかに空を飛ぶ鳥が持っているのと同じもの。決して人にはないはずのその翼は、持ち主の意志に従うように、控えめな動きで周りの空気を柔らかく動かしている。

 ファルはそれから目を離せなかった。フードの下から目をいっぱいに見開いて、じっと見入るだけだった。

 びっしょりと噴き出した汗が、血の気の失せた額と頬を伝う。手と足が小刻みに震えはじめて、止まらない。

 息苦しいほどに、何かが身体の内部を締め上げた。

 ……あれ、なに。

 あれは(・・・)なんだ(・・・)



 彼女の首には、鈍い光を放つ、鉄製の太い首輪が付けられている。

 じゃらりとした不気味な音は、その首輪に繋がった、ずっしりと重そうな鎖が発しているものだ。

 首輪に、鎖。

 まるで、罪人そのものではないか。



 女性はそのまま、ふわりと中央の円座に降り立った。

 彼女の足が床に着くと同時に、さあっと翼が消えた。瞬きするほどの間に、翼はその実体を失くし、光の粒子となって空中に拡散して、消えてしまったのだ。足元には、翼から落ちたらしい羽がふわふわと漂っていて、それが夢でも幻でもないことの、唯一の証のように思えるだけだった。


「……みなさま、お揃いでしょうか」


 女性が、決まった口上を読み上げるような、一本調子の声を出した。

 こんなにも無感情さを伴っていなければ、どれほど優しく穏やかだろうと思わずにいられない声だ。彼女の目は依然として伏せられたまま、周りで膝をついている黒い集団のほうに向けられるのを、自ら避けているようでもあった。

「それでは定例どおり、リジー国王から」

 女性の言葉に従い、一人の人物が立ち上がる。フードとマントでどんな外見をしているのかさっぱり判らないが、ではあれがリジーの王、クイートの父親ということか。

 彼はもぞもぞとマントの下から、分厚い書類の束を取り出した。

「我が国では最近、新しく食料となる穀物の栽培に成功しました。品種改良を重ね、痩せた土地でも収穫が可能です。もしも飢饉があっても国民が飢えることがないよう、研究者たちが何度も失敗しながらも、必死に──」

 そこで彼は言葉を切った。顔は見えないものの、声の端々には隠しきれない怒りと悔しさが滲んでいる。ふと隣に目を向けると、床に置かれたクイートの手が、拳になって握られていた。

「……ありがとう。天帝も、お喜びになられるでしょう」

 女性は目の前の国王から目を逸らし、差し出された研究成果を両手で受け取った。

「それでは、次はワンドリア国王」

 また、一人の人物が立ち上がった。




 そのようにして、女性は次々に名指しをしていった。

 呼ばれる国名は、ファルの記憶の中にもある。キースに無理やりのように読まされた、地図に書かれてあった名前ばかりだ。どうやらここにいるのは、地界の国々の、それも君主とその配偶者や子供ばかり、ということらしかった。

 一国の君主が、一人の女性の言葉に唯々諾々と従うのは、おそろしく奇怪な眺めであった。彼らが差し出しているのは、どれも近年開発された技術や、新しく発見された物質についての報告書や研究成果であるようだ。本来ならばそれらは、なによりも他に漏れないよう、細心の注意を払って秘匿しておくべきものであるはずなのに。

 ──納税、とクイートは言った。納める義務もない上に、あちらから何の見返りも与えられないもの。それを取られる、ということは。


 両者は完全に、従属関係にある、ということだ。


 地界の国から差し出されるものは大きなものから小さなものまで多岐に渡ったが、女性はそれについて一言も個人的な感想を述べることはなかった。どんなものであれ、役に立ちそうであれ、まったく不要そうなものであれ、返す言葉はすべて同じだ。

 ──ありがとう。天帝も、お喜びになられるでしょう。

 彼女は機械的に、感情のこもらぬ声で、相手の顔を見もせずに、ただその返事ばかりを繰り返す。壊れた人形のように。

 やがて、最後の一人が終わったらしい。

 足許に積まれた荷物は、嵩があって、しかも非常に重そうだった。彼女はそれを一人で持ち帰るというのだろうか。

 どこへ? 空へ? 天界へ?

「それでは……」

 女性が物憂げな仕草で、ようやく顔を上げた。

 おそらく最後の挨拶をしようとした彼女は、そこでぴたっと動きを止めた。

 能面のようだった表情が、驚愕に占められた。よろりと半歩後ずさり、舌が凍ってしまったかのように口を半ば開けたまま、目を一方向に向けて凝然と立ち尽くす。


 その視線の先には、ファルがいる。


 最初は、ここに王族とは無関係な者が混じっていることがバレたのか、と思った。

 しかしファルはフードを深めに被っていたから、顔を見て取ることは出来なかったはずだ。それが見えなければ、ファルの存在は他の人々と同じ、周囲の黒い集団に埋没した一人でしかない。

 なのに、女性の大きく瞠られた目は、一直線にファルへと向かっている。蒼白になり、口許に当てた指先は震え、激しい衝撃を受けているのが、一目瞭然で判るほどだった。

 そこではっとした。

 ようやく、気づいた。

 彼女には、他の人には(・・・・・)見えないもの(・・・・・・)が見えているのだ。

 ファルと同じだ。たとえここから離れても、黒いマントとフードに包まれたこの集団の中から、ファルは一発でクイートを見つけ出せる。顔や姿は隠せても、その人の色は隠せないからだ。

 ああ……そうか。そういうことなのか。

 ファルは唇を強く引き結ぶ。点でしかなかったあらゆる疑問が、今やっと、線として繋がった。


 この女性にも、人の色が見えている。


 だから、驚いているのだ。

 なぜならそれは、ここにはあるはずのない色だから。

 ファルから見える、その女性の色は金色。夕日を浴びているような、眩いまでの光彩。そんな色、今までにファルは一度も見たことがない。それは、普通の人には決してない色だ。

 ファルには、自分自身の色は見えない。だから判らなかった。

 ──きっと、ファルの周りを覆っているのも、あの金色なのだろう。

 人間ではないものが持つ色。異端の証。

 女性があんなにも驚いているのは、この場にいるはずのない、自分の「同胞」を見つけたからだ。

 ファルはすべてを理解した。

 理解したと同時に、胸が潰れるような悲哀に包まれた。


「……っ」

 目から、涙が落ちる。

 ぽたぽたと滴り落ちる水滴は、床の上にいくつも丸い形の染みを作った。


 自分が変わっているのは前から知っていた。おかしな能力を持っているのも判っていた。けれどそれを気にしたことは、ほとんどなかった。

 だって、それでも自分は人間だと思っていたからだ。少し人と違うところはあっても、人間だと。そう信じていた。疑ったことさえなかった。

 でも、違う。違った。それはファルの大いなる勘違いだった。

 自分は本当は、人ではなかったのだ。

 翼を持ち、首輪と鎖を付けられて、こんなにもはっきりと生殺与奪権を握られ、管理され、それに従うだけの、「飼育されるための動物」でしかなかった。



 ──人ではないファルが、どうしてキースと一緒に生きていけるだろう。





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