使用人たち
ベッドの寝心地はそりゃもう快適だった。
いつもなら、まだ暗いうちにぱっと目が覚めて、目が覚めると同時に寝床から勢いよく飛び出るようなファルが、ベッドから抜け出るまでに少し時間を必要としたほどである。
ほんの束の間のこととはいえ、枕にすりすりと頬ずりして、寝具の中で両手両足をうーんと伸ばしてみることの気持ちの良さといったらない。新しい発見だ。
くふふとご満悦の笑みを零してから、ベッドから降りて冷たい床に立つ。
アストン屋敷では豪気なことに、ファルのような新入りの下っ端にまで、ちゃんとした寝間着を与えてくれた。さらにおまけに、メイド用の服まで二着も支給してくれた。すごい! これなら、洗濯をして乾かしている間、薄い掛け布を被って震えていなくてもいい。
唯一残念なのは、ファルがこの屋敷に来た時に着ていた煤だらけの服が、ドリスの手によって捨てられてしまったことだ。あれもまだ洗えば十分着られたのに、もったいない。
捨てられた服に未練を滲ませつつ、ファルは寝間着を脱いで、メイド服に着替えた。
黒いワンピースも白いエプロンも、どちらもまだ新品のように綺麗で、緊張する。今まで、ファルに与えられていたものといえば、誰かのお下がりのまたお下がり、という感じで、最初からかなりくたびれたものばかりだった。
寝間着を畳み、ベッドをきちんと整えてから、ファルは意気揚々と部屋を出た。
アストン屋敷では、家畜を飼っていないらしい。
建物は大きいが、住んでいるのはファルを含めて六人というのだから、卵も乳もそんなにたくさんは必要ないのだろう。話し相手がいなくて少しつまらないが、しょうがない。
厨房に入ると、かまどに火を点け、湯を沸かし、簡単に掃除をしてから、朝食の下準備をはじめる。「朝にやるべき仕事」については前日にアルマから聞いているし、することと手順はどこの屋敷もそう大して違いはない。むしろ、人数が少ない分、はるかに楽なくらいだった。
芋の皮をするすると剥いている時、アルマが厨房にやって来た。
ファルを見て、驚いたように目を見開く。
「あ……あんた、もう起きてたの」
「はい。おはようございます」
ファルは普通に挨拶をしたが、アルマはじろりと鋭い目で睨んできただけだった。
「あたしは騙されないからね」
「は?」
きょとんと首を傾げるファルから、アルマはつんとして顔を背けた。そして自分の仕事をはじめようとしたらしいが、大半はもうファルの手によって済んでいる、ということに気づいて、ますます憮然としたように眉を寄せた。
そこに、どすどすという荒い足音がして、ドリスが大声を上げながら顔を見せた。
「アルマ、あの子供はもう起きているの? まだだったら、叩き起こして──」
やりなさい、と言い終える前に、ファルの姿を見つけて口を噤む。
「おはようございます」
ファルは頭を下げたが、これまた憎々しげに睨まれた。
「言っておくけれど、私は絶対に油断なんてしないわ」
「……は?」
再び首を傾げた途端、次の足音と声が聞こえた。
「おい、あのガキはどうしてる? 勝手に屋敷の中をうろちょろしてるようだったら」
料理人のマットは、そこでファルを目に入れ、チッと大きく舌打ちした。今度は挨拶をするヒマもなかった。
「いいか、俺の目は誤魔化されないからな!」
「…………」
三人分の刺々しい視線が向かってきたが、ファルはそれに対してどう返していいのかまったく思いつかない。仕方なく、下を向いて芋の皮剝きを再開した。
手を動かしながら、もう一度、首を傾げる。
──この人たち、一体何と戦ってんの?
***
アストン屋敷での勤め自体は、特に問題はなかった。
おもに使用人たちの態度に奇妙なことが多いところではあったが、それさえ気にしなければ、ギルノイ屋敷よりもずっと居心地のいい働き場所だった。ベッドはあるし、食事だって抜かれたりしない。なにより、ここでは、ファルに手を上げる人がいなかった。
クライヴも、マットも、ドリスも、アルマも、指示と命令以外はファルに口をきかないし、冷ややかな目を向けてはくるが、常に一歩か二歩離れた位置にいて、決してこちらに近寄っては来ないのだ。ただ、じっとファルのことを監視しているような、そんな感じがするだけ。
どうしてそんなにぴりぴりと空気を張り詰めさせてこちらを窺っているのか、ファルにはさっぱり判らないが、幼い頃から大小の暴力に晒され続けてきた身にとって、それくらいは別にどうってことなかった。
──ただ、それよりもよく判らないのは。
彼らのその視線は、ファルだけでなく、キースのほうにも向けられている、ということだ。
使用人が主人を嫌ったり、陰でこそこそ悪口を言ったりするのは判る。ひとつの屋敷という狭い世界における上下関係で、そういう感情が生まれるのはある意味当然だとも思う。言ってはなんだが、ファルのこれまでの経験からして、使用人全員に慕われ敬われている主人、なんてものに巡り会ったことは一度もない。
しかしだからといって、使用人が主人の一挙手一投足を探るような目で見る、なんてこともない。なかった。今までは。
アストン屋敷において、キースはまるで、監獄内の囚人のようだった。使用人の誰もが、上着を着せかけながら、テーブルに食事を並べながら、出ていくのを見送りながら、キースの行動のひとつひとつに目を光らせているのだ。
頭を下げ、丁寧な物腰と口調で受け答えをしているのに、彼らは全身でキースを警戒していた。
ギルノイ屋敷のように、ファルが使用人たちの鬱憤のはけ口にならないのは、ここでの彼らの関心や負の感情が、キースのほうにより強く向いているから、ということなのかもしれない。
キースは気づいていないのかな? そんなはず、ないよね。
屋敷内にいる時のキースは、常に無表情だ。ファルに対してはあんなにお喋りだったのに、その口が開くことはほとんどない。不在であることが多かったが、屋敷で食事をする時もいつも一人。誰かが訪ねてくることも皆無だった。
ファルの腕を見ただけで、口にはしないあれこれを素早く察した敏い性質のキースが、使用人たちが自分を見る目の中に宿る、ひどく冷え冷えとしたものに、気づかないはずはない。
それでも彼は何も言わず、なんの感情も見せず、ただ淡々と日常を送っているように見えた。
「ファル、旦那様が出かけるから、お前も見送りなさい」
ドリスにそう言われて、ファルは運んでいた薪を下ろし、鼻の頭に浮かんだ汗の粒をぐいと拭った。
「はい」
と返事をする。
ギルノイ屋敷では、ファルが当主夫妻の姿を目にすることなど、滅多になかった。裏側の仕事に追われるファルが表に出ていくことがなかった、という理由がひとつ。それから、ファルが大体いつも顔や手を汚しているから、という理由がひとつだ。
それなのに、アストン屋敷では、わりとよくファルはキースの前に出る。いや、出される、と言ったほうが正しいか。クライヴとドリスは、何かしら機会があるたび、ファルを呼びつけ、キースの近くへ行くよう指示をした。
……そして、じっと見つめるのだ。
ファルがキースに向かって何かコンタクトを取ろうとするのではないか、または、キースがファルに対して声をかけるのではないかと。
その時のファルの様子、キースの表情、二人の間にあるかもしれない意思疎通。
それを必ず見つけてやろう、という粘り気のある視線が身体の至るところに張り付く。それを意識しながら、ファルはひたすら頭を下げて、キースと目を合わせないようにした。
だってやっぱり、見てしまえば、顔に何かが出てしまうかもしれない。ファルはキースほど、そこに仮面を乗せるのが上手ではないだろう、という自覚があった。
「いってらっしゃいませ、旦那様」
声をかけても、外へと出ていくキースからの返事はない。
キースもまた、あの日馬車を降りて以降、ファルのことを一切見ようともしなかった。そこに、ファルなんて存在はない、というように、視線がそのまま素通りするだけ。もちろん、言葉だって一言も交わさないままだ。
下げていた頭を上げると、すでに扉を通っていくキースの後ろ姿しか見えない。ドリスとクライヴが、なんとなく不満そうに──そして、少し拍子抜けしたように目を見交わすのも、いつもと同じだ。
もう二度と、キースと以前のようにお喋りすることはないんだろうなあ、と思えば、胸の奥でかすかに何かが音を立てたりもするけれど。
……小さくなっていくキースの後ろ姿を包んでいるのは、やっぱり綺麗な薄い青色だったから、ファルはほっとした。
***
──そうして、ファルがアストン屋敷で働きはじめてから、十日ほど経った頃の夜。
コン、という小さな音で、ファルは目を覚ました。
朝から晩までやることに追われ、横になった途端に熟睡、というほど疲れ果てていたギルノイ屋敷とは違い、この屋敷ではそこまで仕事が立て込んではいない。ファルが先回りしてあれこれやり過ぎるので、眉を逆立てたアルマに「あんた、そうやってあたしから仕事を奪うつもり?!」と怒鳴られたこともあり、仕事と仕事の合間に少し手を止めたりするくらいだ。ファルから見ると、アルマは何かをするたびに、やれ手が汚れたの、やれ汗をかいたのと大騒ぎして洗いに行ってしまうので、余計な時間がかかるのではないかと思うのだが。
とにかくそういうわけで、これまでよりも体力を使わなくなったファルは、その分、眠りの前にうとうととまどろむ余裕が出来た。眠りに落ちる直前、夢と現の間を行ったり来たりするというのは、なんとも心地よいものだ。
だから最初、その音も夢の中で聞いたものかと思った。
コン、と何かがガラスに当たる音。
──小鳥が、嘴の先で窓を叩いてる……
うっとりと曖昧な境界を漂いながら、そんなことを思う。
朝にはまだちょっと早いんじゃないかな。あとでパン屑をあげるから、もう少し寝かせて……
そこで、ぱちっと目を開けた。
ファルの場合、目覚めから覚醒まではほんの一瞬だ。今の音が夢ではないと気づくと、すぐにベッドから出て、窓に向かった。
部屋にひとつだけ付いている北向きの小さな窓は、草も花もない剥き出しの地面に面している。その向こうには、長々と続く屋敷を囲む塀。ファルの部屋は、アストン屋敷のいちばん端に位置しているのだ。
窓ガラスを隔て、真っ白な月に照らされたその場所──いつもなら、ただのぽっかりとした空間しかない場所に、何かがある。
いや、何かが「いる」。
「……ん?」
ファルは暗がりを見据えて目を細めた。
そこにいるのは、間違いなく人だった。月の光を浴びて、静かにまっすぐ立っている、長身の男。
キースだ。
ファルの頭の中は疑問符の洪水になった。
あんなところで何してるんだろ、キース。自分の屋敷の中で、盗人みたいな真似をして。知っていると思うけど、わたしはお金なんて持ってないよ?
窓枠に手をかけたところで、キースが自分の唇に人差し指を当てた。声を出すな、ということらしい。
ファルは頷き、なるべく音を立てないように苦労して、ゆっくりと窓を下から押し上げた。
窓を開けても、キースは何も言わなかった。その代わり、唇から外した人差し指で、今度は左方向を指し示す。
それから、身体の向きを変え、すたすたと歩き出した。
……つまり、ついて来い、ってことだよね?
ファルはそう解釈して、寝間着のまま、窓から地面へと飛び降りた。
時々身を屈めたり、庭木の間をすり抜けるようにして歩きながら、キースは建物の周りをぐるっと回り、ある場所でぴたりと立ち止まった。
建物の白い壁と向かい合うようにして立ち、ちょいちょいとファルに向かって手招きをする。その位置には、ファルの部屋の窓よりも三倍くらい大きな、アーチ形の窓がある。窓は開け放たれており、さわさわと吹く風が中のカーテンをふんわりと揺らしていた。
そこまで近寄っていったファルの両腕の下に、キースが後ろから手を差し入れる。ふわりと足が浮いたかと思ったら、ファルの身体はあっという間にキースによって窓から部屋の中へと放り込まれていた。
キースも窓の桟部分に手をかけると、身軽に自分自身を持ち上げて、すとんと部屋の床に着地する。注意深く窓を閉めてから、くるりとファルを振り返った。
「よし、ここなら声が洩れる気遣いはないから、喋っていいぞ」
「…………」
ファルはちょっと迷ってから、キースのすぐ近くまで歩み寄った。
今は二人きりだから、こう呼んでもいいんだよね?
「キース」
「うん?」
「もう、足は完全に治った?」
「なんだ今さら。そんなもん、もうとっくに治ったに決まってるだろう」
「そう、よかった」
それを聞いて、安心した。
「……心臓が止まるくらい、びっくりしたよ!」
ファルはキースの足を思いきり蹴ってやった。