雲の上
開けられた扉を通って足を踏み入れた室内は、この家が建てられている場所同様、殺風景な佇まいだった。
唯一目立つ棚の中に並べられた本だけはやたらと数があるものの、他にはこれといって大した家具もなければ、飾りもない。造りはこちらのほうがずっとしっかりしているが、中身のほうは、キースとファルがキノイの里で暮らしていた仮住まいとほとんど変わりなかった。
──いや、むしろ、この家のほうが、ずっと寂しげで、空気がひんやりとしている。
老人は長いことここに住んでいるという話だが、それにしては生活感というものがない。なんというか、家に対する愛着というものが、まったく感じられないのだ。私物で溢れかえっていたニグルの家ほどではないにしろ、同じ場所で日々を過ごす以上、多少なり個人の趣味嗜好が端々に表れるのが普通だろうに、ここにはそういったものが一切見られない。
まるで幽霊が暮らす家のようだな、とキースは思った。
「適当にお座り」
博士はそう言って、二人が動く前にさっさと座り込んだ。剥き出しの木の床は敷物すらなくて冷たく、しかもあまり掃除がされていないようで黒く汚れていたが、お構いなしだ。
キースは黙って腰を下ろしたが、ニグルは少し泣きそうな顔で立ち尽くしたまま下を見て、途方に暮れている。
「まずは、君の話を──おっと」
キースと向かい合った途端口を開きかけ、博士は何かを思い出すように眉を上げた。
「こういう時は、茶でも出すものだったかな。ずいぶん長いこと、家に客を上げることなどなかったから、すっかり忘れてしまった」
どうやら、今まで博士の元を訪ねてきたという人間たちは、家に入れられることもなく、追い払われていたらしい。それとも、彼にとって、それらは「客」だと認識されることはなかった、ということか。
他者との関わりを拒み、ひっそりと隠遁生活を送る老人。
人として生きることをほぼ放棄したようなこの人物が、キースを受け入れる気になったのは、「天人」というたった一言に尽きるのだろう。
天人の何が、彼の心をそんなにも動かしたのか、キースはそれをどうしても知りたかった。
「そこに突っ立ってるお嬢さん、座る気がないのならちょうどいい。ちょっと外に出て、飲み物を調達してきてくれないか」
「え、わ、私が?」
ニグルはいきなり言いつけられて、髪で隠れていないほうの目を白黒させた。
「ここを出てもう少し下っていくと、家がある。そこでもらってきてくれればいい。なにしろ私は滅多に火を起こすこともしないのでね、竈も埃を被って使いものにならないのさ。私一人ならその辺から汲んできた水でもいいが、君らは温かいもののほうがいいだろう。なに、私が沸かした湯を欲しがっていると言えば、用意してくれる」
滅多に火を使わずに、この老人は毎日何をどうやって食べているのかとキースは呆れたが、博士はまったく頓着していなかった。きっと、放っておけば何日も飲まず食わずで過ごして、見かねた近所の住人たちに食事を差し入れられたりしているのだろう。
ニグルは来て早々使いっ走りのようなことをさせられることに不満そうだったが、実際温かい飲み物くらいは欲しかったのか、あるいは、まだこの場所に腰を落ち着ける決心がつかなかったのか、渋々のように外に出ていった。
バタン、と扉が閉じられる。
「……さて、私が話をする前に、君の話を聞いてもいいだろうか」
ニグルが立ち去ると、博士はおもむろにキースのほうに向き直った。
そうか、ニグルを外に出したのは、キースが彼女のことを気にせずに話が出来るようにという意味もあったのだな、と気づく。まだ自分たちのことは何も説明していない状況で、そんな配慮が出来るのだから、博士は噂通り、非常に敏い人物であるようだ。
キースは一旦頷いたものの、それから首を捻った。
「そうだな……どこから話したものか……」
もちろんこちらの事情はある程度話さねばならないだろうと覚悟を決めてはいたが、改めて正面から訊ねられると、どこからどこまでを正直に言ったものか迷う。相手の素性もまったく判らないのに、すべてを曝け出してしまうのは、キースの性格上抵抗があった。
「大体で構わない。君の話せる範囲で」
キースの胸の内を読み取ったように、博士が言い添える。キースを気遣うというより、天界から地界に堕とされるからには、口には出せない複雑な事情があって当然だ、と知っているかのような態度だった。
「──そうだな」
キースは腹を括った。
どういう理由かは判らないが、博士と呼ばれるこの人物が天界のことをある程度認知しているのは間違いないらしい。だとしたら、こちらもそれを前提として話を進めるべきだ。
「おれとファルが会ったのは、あいつが下働きをしていた屋敷の裏庭で……」
自分が天帝の後継者候補のうちの一人であるユアンという青年に仕えていたこと、その主人の下でどんな仕事をしていたかということはすっぱり抜き去って、あとはなるべく率直に、キースは語った。
ファルと出会ったところから、彼女が使用人殺しの罪を着せられて第一級犯罪者として地界に堕とされたこと。一緒に堕ちた自分が、地界に来てみたら子供の姿に変わっていたこと。その後、かつての同僚が地界に堕とされて化け物の姿になり、ファルを捕まえようとしたこと。東の大陸に向かおうとした直前に、クイートと名乗る男に彼女を攫われてしまったこと……
口を動かしながら、だんだん腹立たしくなってきた。
こうして並べてみれば、ファルは何ひとつ悪いことをしていない、という事実を嫌でも再認識してしまう。それなのにどうして彼女ばかりが、散々な目に遭わなければならないのか。あのちっぽけな少女は、いつも誰かに迫害され、追われ、踏みつけられている。
キースがファルを守ろうとするそばから、誰かがするりと手の中から奪い去っていく。
どうして──
「つ」
身の裡に激しい痛みが生じて、キースは短い声を上げた。
じわりと汗が額に滲み、ぎゅっと手を握りしめる。こんな時に、また……
ダメだ、こんなところで獣を解放するわけにはいかない。大きく脈打ちはじめた心臓を宥めるように、キースは必死に自分に向かって言い聞かせた。
湧いてくる憎悪を抑え、気持ちを鎮めないと。
「落ち着きなさい、キース」
静かな声がかけられた。
「黒い心に乗っ取られてしまうと、君は天人の加護を失ってしまうよ。……ファルという娘は、君の濁りない澄んだ色に惹かれたんだ、そうだろう?」
「──……」
がんがん痛む頭に、その声はするりと染み込むように入ってきた。
ああそうだ、最初のうち、おれの周りにあるという「色」のほうばかり見ていたファル。あの無神経さに、何度イラついたことだろう。いつ頃からだっけ、あの蜂蜜色の瞳が、まっすぐおれ自身に向かって笑いかけてくるようになったのは。
おれはまた、あの笑顔が見たいんだ。
苦痛が引いていく。全身からどっと汗を噴き出して、深く長い息を吐いた。手の平で顔を撫ぜ、目の前の人物に目を向ける。
博士は驚いた様子もなく、どこか深い色をたたえた眼差しで、キースをじっと見つめていた。
「大体のところは判った」
淡々とした声でそう言って、頷く。
「では君に聞こう。ファルには、我々にはない特殊な能力がいくつかあったはずだ。そうだね?」
「ああ」
キースは肯定して、ぐいっと汗を拭った。まだ少し呼吸が乱れたままだが、博士はまるで何事もなかったかのような顔をしているので、自分もそうすることにした。
「人の『色』が見えて、動物と意志の疎通が出来て、植物に力を与えられる……」
「その通り」
博士が再び大きく頷く。噂として聞いていた時は、ひどく感情的な性格をしているように思ったが、こうして直に会って話をしてみれば、彼は非常に理性的だった。場所が違えば、講義でも聞いているような気分になっただろう。なるほど、「博士」という通り名は、このあたりから来ているのかもしれない。
「それらが天人の特質であり、彼らにしか持ち得ない力でもある。しかし最も天人を天人たらしめているものが、他にある。それが何か判るかね?」
「…………」
キースは口を引き結んだ。それは自分自身、ずっと考えていたことだ。
天人を天人たらしめているもの。ファルが自覚をしないながらも、発現の兆しを表しはじめていたもの。
ユアンが、ファルなら天界に戻れると考えた理由。
キースに見えた眩い光は、いつも彼女の「背中」にあった。
「──翼を持っている?」
ためらいながら出したその言葉に、博士は「その通り」ともう一度言って、頷いた。
「いいかね、キース。天人は人ではない。いや、正確に言えば、我々を人と呼ぶのなら、天人はそこに含まれない。地上に住む人間とは異なる、まったく別の種族としての生き物だ。その部分を、よくよく心に刻み込んでおきなさい」
***
太古の昔、この世界の生物は、二種類の進化を辿った──のだという。
ひとつは海の魚から。ひとつは空の鳥から。そもそもの元始は小さな小さな同一の生命体から発生したものにしろ、どういう理由でか途中で進化の道は枝分かれをして、それぞれ異なる方向へと進んだ。
似たような形をしているにも関わらず、一方は水から揚がり、陸に出て、移動の手段が二本の足のみという、地上でしか生きられない生物に。そして一方は、手足がありながら、その上背中に翼を持ち、空を自由に舞い飛ぶ生物に。
「翼を持たない者たちは、空を見上げ、どれほど妬ましく羨ましく思っただろうね。自分たちにもあの翼があったらと、そう願わずにはいられなかった。──そしてここで、また生物としての分岐がある」
博士はそこで一度言葉を切り、キースを見た。わずかに上げられた唇が、皮肉に彩られている。
「天人は、負の感情を持たない」
キースはよく意味が判らなかった。眉を寄せて見返すと、博士はますます唇を上げた。
「我々がごく普通に抱いている負の感情──恨み、妬み、嫉み、憎悪、怨嗟、そして破壊衝動。表に出るかどうかは別として、人間ならば持っていて当然のそれらを、天人は生まれつき備えていない、ということだ。空を見上げる立場だった者たちと、地上を見下ろすこともなかった立場だった者たちの違いだな」
軽い調子で説明されたが、それでもよく判らない。強い感情に捉われることがない、という意味なのだろうか。それならファルに会う前のキースだって、そうだった。
「違う」
口に出してはいないのに、キースの疑問を見通したかのように、博士はきっぱりと言った。
「君が考えているようなことではない。そうだな……たとえば、私が君に、『尻尾を振ってみろ』と命令したら、どうするね? 君は困るだろう。尻尾の振り方なんて知らない、そもそも尻尾を持たないのだからと。それと同じさ。天人には、最初から、負の感情というものが存在しないんだ。だから頭では知っていても、それを芯から理解することは出来ない。どんなに酷いことをされても、自分が持つすべてを傷つけられても、天人には誰かを憎むということが出来ない。不可能なんだ」
「…………」
キースは口許に手を当てて、じっと考え込んだ。
誰だって、負の感情というものは、生まれながらにしてあるものではないだろう。成長していく過程で、自然と湧いてきたり、身につけていくものだ。それが存在しないとは、どういうことだろう。
──つまり、恨みや妬みや憎悪などの感情を発生する基盤を、もともと持っていない、ということか?
そう思ったら、冷たいものが腹の底のほうに落ちていくような感覚を覚えた。
もしもそうだというのなら、天人というものはそもそもの精神構造がキースたち人間とは違う、ということだ。翼がある、というだけでなく、根本的に別の生き物である。
ずっと虐げられ、疎外されながら生きてきたファル。自分を押さえつけてきた相手に対して決して恨むようなことを言わなかったのは、彼女自身の性格によるものではなく、そういうものがはなから存在しないためだった、というのか。
「……しかし、それでは」
キースは言いかけて口を噤んだ。
もしも本当に、天人がそういった感情を持たないというのなら、それは、あまりにも。
あまりにも、生物の種として、脆く、弱い。
「そうだ。天人は、優しすぎるゆえに、生物としては脆弱に過ぎた。考えてもみろ、天人の能力──色だけで人の性質を判別し、動物と意志を交わし、植物を育たせる。それらはすべて、誰も傷つけることなく、ただ穏やかに、自分たちを生かすだけのためのものではないか? 天人は、小さな世界で、彼らだけでひっそりと慎ましく静かに暮らしていくことしか出来ない、ひどく弱々しい生き物たちなんだよ」
誰とも争うことなく、ただ、安寧だけを望む種族。
「そして、弱く脆いからこそ、天人は、地上に住む人々に憧れた。生命力が強く、逞しく、時には争いに身を投じても自分が欲しいものは欲しいと求め、地を這ってでもしぶとく前へ進んでいく姿を眩しく感じた。醜く、浅ましく、しかし生き生きと力強い地上の人間たちを、まるでこれ以上なく美しいもののように見ていた。……だから、天人は空に自分たちの国を作る時、地上にあるそれを模倣したんだ」
地上の中央にある、丸い陸地。
天人はそれに似せて、雲の上に彼らの住処を作った。
二層に分かれた世界は、天人の憧憬の象徴でもあったのだ。
「しばらくの間は、何事もなかった。天人は、自分たちだけの静かな暮らしに満足していたんだ。常に美しい花が咲き乱れ、たくさんの緑の植物に囲まれて、動物たちとも仲良く、毎日が凪いだ海のように静かに過ぎていく。まるでそれは、楽園のような世界だったことだろう」
それこそまさに、現在、一般の地界人たちが思い描いているような、神々が住まう「天上の世界」ではなかったか。
しかしそこまで言って、博士は少し、目を伏せた。
「……だが、平和は長く続かなかった」
そうだろうな、とキースも思う。そこに住んでいるのが神々のような強大な力を持った存在でもなければ、そんな楽園が、いつまでも続くはずがない。
誰も傷つかず傷つけず、諍いも嘆きも怒りもなく、ただ穏やかに笑って過ごすだけの、友愛と慈悲だけに満ちた美しい夢のような世界なんて、どこにも存在しない。
たとえあったとしても、そんな世界はきっと変化もなく進歩もなく、あっという間に滅びてしまう。
以前にも考えたことを、胸の中で繰り返した。
「ある日、一人の天人が、地上に降りてきた。きっと、若くて、元気で、好奇心旺盛な娘だったのだろう。地上の人々がどんな風に生活しているのか、見てみたくてたまらなかったのかもしれない。──彼女はそこで、一人の男と出会った」
女神が地上に降りてきて、人間の若者と恋に落ちた。お伽噺の通りに。
「天人はその男に強く惹きつけられた。それを『恋』と呼ぶのかは、定かではないけれども。自分にはないものを相手に見つけた、という意味では、それに近かったのかもしれない。自分にはない……当たり前だ、その男は、およそ人間の負の感情というものを、ひとつにまとめて濃く煮詰めたような人間だったのだから」
生まれた時から天人のみに囲まれて平和に育った娘は、その男が持つ真っ黒な色が何なのか、まったく判らなかった。判らないからこそ浮かんだ、生まれてはじめての恐怖の念を、よく理解できないまま、特別な感情と取り違えた。
「男は、娘にその感情を『恋情』だと思い込ませた。そいつは、心は歪みきっていたものの、容姿はおそろしく整っていたらしい。ひたすら優しい世界で育った世間知らずの天人の娘を一人、自分の意のままに操ることなんて、造作もなかっただろう」
「…………」
キースの頭に、金色の髪と青い目を持つ青年の顔が浮かんだ。
──そう、きっと、造作もなかった。
罪悪感がなければ、どんなに嘘をついてもその人の色は変化がない、とファルは言っていた。おそらくその男の色も、ぴくりとも揺れなかったに違いない。
「言葉巧みに頼み込んで、その男は仲間を連れ、天人の住む世界へと昇った。健気で無知な天人の娘が、一人一人を運んだんだよ。ひと目君の住む美しい世界を見たいから──そんな言葉を真に受けて、自分の翼をボロボロになるまで酷使して。それが、滅びへの一歩になるとも知らずに」
……そして、結果として。
「空の上の世界に到着した男たちは、次々に天人たちを惨殺していった。獣を狩るよりもはるかに楽で、簡単だっただろう。なにしろ相手は、やられてもやり返すことが出来ない……そんな発想すら持たない、赤ん坊同然の、弱い生き物なのだから」
彼らを連れていった娘は、その惨劇を目の当たりにして、どんな気持ちになっただろう。
さっきまで自分に微笑みかけていた男が、それと同じ顔で、家族を、友人を、仲間を殺していく。手を真っ赤な血に染めた男は、もう自分のほうを見もしない。
「殺された天人たちは、どんどん地上に放り落とされた。大地に積み上げられた膨大な数の骸は、人々に怖れられ、そのまま放置されたということだ。そのうち腐った死体から、植物の芽が生え、根が伸び、彼らの身体を苗床にして、木々に成長していった。──それが、現在、『呪われた森』として呼ばれている」
おかしな匂いを発する木々が密集した森。
……あの地に充満した天人たちの血が、人を狂わせるのか。
「──つまり、今、『天界人』と言われているのは」
キースは口を開いたが、そこから出てくる声は我ながらどこかぎこちなかった。
博士が正面からキースを見据える。
「もとは、我々と同じ地界人。空の上に住んでいた天人の大半を殺し、彼らから住む場所も何もかもを搾取した、非道なる略奪者にして侵略者の子孫。──そういうことになるね」
冷たい口調で、きっぱりと言いきった。
***
「…………」
しばらくの間、キースは自分の口に手を当てたまま、黙り込んでいた。
天界に先住していた生物がいた、というところから、薄々は予想していたことではあったはずだ。しかし実際にこの耳で聞くと、すんなりとは呑み下せない。幼少の頃から植え込まれてきた価値観は、そうそう容易に引っくり返せるものではないらしかった。
現在の天界が血生臭い歴史の上に成り立っているというのはともかく、キースは未だに、「天人」というのがどういうものなのかも、よく判っていないのだ。
大体、ファルが天人だというのもまったくピンとこないのに──
そこで今さらのように思いついた。ぱっと顔を上げる。
「……天人ってのは、天人からしか生まれないんだろう?」
「もちろん」
「だったら、今も天界には天人がいるということか?」
「いるね」
あっさりと返ってきた答えに、目を見開く。
キースはユアンの影として、かなり天の一族の中枢に近いところに関わってきた。しかし、そんな存在のことはまったく耳にしたことがない。生き残った天人たちは、みんなファルのように自覚がないまま天界で暮らしている、ということだろうか。
「天人は、今はおそらく、相当に数が少なくなってしまっているだろうね。希少な存在だから、白雲宮で一括管理されていると聞いた」
博士の目に、暗い色が翳す。聞いた? 聞いたって、誰に?
「管理って」
「君があそこでどんな位置にいたとしたって、それを知らなくても無理はないんだ。なにしろそのことは、天界における最大の秘密だからね。知っているのは、天帝と、その直近の者たちに限られる」
では、なぜ、博士はそれを知り得たのか。
「天人たちは、今や天界では、完全に奴隷階級へと成り下がった。労働を強制されるわけではないが、生存も生殖も天帝の管理のもとでしか許されない。ひとつのところに集められ、閉じ込められて、飼われている。……家畜と同じだ」
どこか自嘲気味に吐き捨てる。
家畜と同じようにして飼われる天人、というものを想像して、キースの背中が冷たくなった。
「じゃあ、ファルは」
「おそらく、その管理下から逃げ出した、勇気ある天人がいたのではないかな。身ごもっていたのか、生まれてすぐだったのかは、判らないが。その天人は、一縷の望みを託して、自分の子供を白雲宮の外へと連れ出したのだろう。……たぶんもう、生きてはいまいがね」
しかし、真っ黒な姿で捨てられていた赤ん坊は、追手の目を逃れて、生き延びた。
「天界人として育ってきたファルは、自分が天人だという自覚がない……」
「そうだ。しかし、本能はちゃんと残っている」
呟いたキースに、博士は厳しい目をして言った。
「いいかね、天人の翼は、そこにあるのだ。目には見えなくとも、そこにある。それが実体化するかどうかは、ひとえに本人の意志の力による」
「意志の……力?」
キースは戸惑ったように問い返した。
意志の力もなにも、ファル当人は、自分に翼があるなどとは、夢にも思っていないはずだ。それこそ、見えない尻尾を振ろうと努力できる人間などいないだろう。
そんなことを思ったキースの胸に、博士がまっすぐ伸ばした自分の指を突きつけた。
「君だ。君がこうしてここにいることこそ、その証だ。君は天人に護られていたからこそ、ここにこうして、人間の姿として座っている」
キースの当惑はますます大きくなった。
「護られて?」
「君は見たのだろう。呪われた森の化け物を。遠い昔、この場所から空高くに昇り、天人を追いやって身勝手に繁栄した地界人の末裔たちは、もはや、かの地での暮らしに馴染みすぎて、ここでは生きていけない身体になってしまった」
「どういう……」
「地界と天界で、どれほどの距離があると思う。あの場所とこことは、環境がまるで異なるに決まっている。天人たちの多くを殺してしまったせいで、植物すら思うように育たなくなっているというのに、それが人体にまったく影響を与えないなどということがあろうものか? 侵略者たちの子孫は、もはや故郷である地界では暮らせない。そういう形で、彼らは自分たちのしたことの報いを受けたのだ」
「…………」
もう二度と、故郷には帰れない報い。
「天界人は、地界では、人の形が保てず崩れる」
思わず、息を呑んだ。
「現在の天界人にとって、地界を取り巻く環境、空気、気圧、気温のすべてが、負荷が大きすぎるのだ。その肉体は急激な変化に耐えられず、すぐさま内側から崩壊をはじめ、もとの形を留めることが不可能な状態になってしまう」
化け物となったイーセンが脳裏に浮かんだ。どろりと腐り落ちるように人の形が失われていく身体。目も、耳も、精神までもが、どんどん溶けるように崩れていった。
始祖が天界の礎を築いたと言われたところから、長い長い時間が経過した。その時間は、もともと地界人であった人間たちの身体を、大幅に作り変えてしまったのか。
その肉体は、もはや、地界には適応できない。
……それこそが、呪いではないか。
「ファルという娘は、きっと天人としての本能で君を護ろうとしたのだろう。天人は、天界と地界とを自由に行き来できる者。その天人の加護の力が、今の君を包んでいる。だから君は人としての形を損なわず、保てているのではないかね。……そして、いいかキース、それゆえに君は、憎悪に捉われてはいけない。その感情は、天人の性質と相反するものだ。憎悪の念は、天人の力を削いで、弾いてしまう。加護が消えてしまったら、君は森の化け物と同じものに身を落としてしまうよ」
「…………」
天界から堕ちる時に見えた、光の残像。
つまりあれが、キースを包んでいたファルの「翼」であったわけだ。
そしてその翼が、すなわち、天人の力だと──
「しかしどうして、子供に」
「さて、それなんだがね」
首を傾げるキースに、なぜか、博士は小さくぷっと噴き出した。
「これはもう推測でしかないんだが……どうも君の話を聞く限り、ファルというのは、小柄で非力な、子供のような体格の娘であるらしいね」
「そうだが……」
「堕ちながら、ファルは悟ったのではないかな。自分の力では、到底二十三の男を支えられないと。そりゃあ、焦っただろうとも。彼女は君を助けたかったし、守りたかった。それでこそ、必死に念じていただろうよ」
意味ありげに、キースを上から下まで眺めて、にやりと笑う。
「もっと小さく、もっと軽く、と」
「…………」
だからキースは、ファルの力に合わせて、少年のサイズになった。
本人は、まったくそのことを覚えていないようだが。
「──天人ってのは、そんなことも出来るのか」
呻くように言って、顔を覆った。
天人とは、聞けば聞くほど、規格外な存在のようだ。へらへら笑ってばかりの能天気な子猿にそんな力があるなんて、一体誰が思っただろう。
早く会って、あの頬っぺたをつまんで引っ張ってやりたい、と心の底から思った。




