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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第三部・涯
48/73

示す者



 ダガナドを出て、その隣国を通り、ヨレイクに近づくにつれ、少しずつ、「博士」と呼ばれる謎の人物についての噂を拾えるようになった。

 まず、かなりの老齢であるらしい。そして、その通り名から推測できるように、非常に博識だという。ひとつの学問に精通しているというわけではなく、生活の知恵のようなことから、政治経済、天文学など、幅広い範囲において造詣が深い、ということであるようだ。

 彼はいつの間にか、ひっそりとヨレイクの国の片隅に住み着いた。いつ、どこからやって来たのかは、誰も知らない。あまりにも静かな暮らしぶりで、気がついたらそこにいた、という感じであったらしい。

 そんな風だからその地の住人たちとの親交もほぼなかったのだが、ある年、悪天候が続いて農作物の収穫が少なくなり、飢えに喘ぐ住人たちを見かねてか、効率的な作付けの仕方や土壌の改良のやり方などを教えた。半信半疑ながら住人たちがその通りにしてみると、痩せていた土地が見違えるように作物を実らせ、彼らを驚かせたという。

 それがはじまりで、以来、かの人物の許へは、様々な人間が教えを請うために集まってくるようになった。

 この話からだと、「博士」という人物に対して、賢者か何かのような崇高なイメージを抱いてしまいそうだが、実際は、ものすごく偏屈で頑固なじいさん、という評判のほうが高い。

 ダガナドで会った夫人が、「自分の家に引きこもって、滅多に人に会うこともしない」と話していたが、それはほとんど事実に近いようである。粗末な家に一人で暮らし、訪れる者がいたとしても、一目見て気に入らなければ家から出て来もせず、言葉を交わしもしないというのだから、相当だ。

 特に身分の高い人間が嫌いらしく、見るからに金のかかった衣服などを着てふんぞり返っているような輩が近づくと、嫌悪感を剥き出しにして物を投げてきたりすることもある。

 それでもなぜか誰にも咎められず、捕まるようなこともない。「博士」に面会を求める者の中には、顔を隠した怪しげな人物や、護衛らしきものを連れた明らかに「偉い人」が混じっていることもあるが、彼らを叩きだすような真似をしても、罪に問われるようなことは一切ないという。

 聞けば聞くほど不思議な人物で、ニグルなどは「本当にそんな人に会いに行くの?」と腰が引け気味だったが、キースはそれらの話のひとつひとつを耳に入れるたび、会いたいという欲求が強まる一方だった。


 ──その「博士」なら、キースのこれまでの疑問に解答を示してくれるのではないか。


 どうしても、そう思わずにいられない。

 地界に蔓延したお伽噺のこと。天界と地界の奇妙に繋がった関係のこと。

 そして、天人のこと。

 無論、その人物に会っても、まったくの空振りに終わる可能性もある。地界において学問を修めるというのは一種の特権でもあるようだから、周囲が大げさに持ち上げているだけのことなのかもしれない。多種多様の書物に目を通し、優秀な頭脳を持っていたとしても、それだけでは天界のことなどは知りようがない。

 しかしそれでも、キースの勘が、その人物には何かがあると疼き続けている。

 膨らむ期待を少々苦労して押さえつけながら、キースはニグルを連れ、ヨレイクへの道を辿った。



          ***



 東へ進むに従い、周囲の景色も変わりはじめた。

 ダガナドで立ち並んでいたような建物は少なくなり、その少ない建物のどれもが、小さくて狭い。多層階の住宅もあるにはあるが、二階か三階建てがやっとというところ。それらの外見も色が褪せて、見るからに古ぼけて寂しげだ。

 ダガナドよりも人口が少ない、ということもあろうが、大きな建物を新しく作ったり作り直したりという資金力が、ずっと乏しいのだなということが窺えた。

 ダガナドにはあった馬車鉄道もこちらのほうにまでは通じておらず、人々は徒歩か、荷馬車のようなものに乗り合わせて移動するしかない。店もだんだん少なくなり、活気もあまりなくなって、国によってこうも違いがあるのかと、天界という一国家のことしか知らないキースは意外に思った。

 貧しい国と富める国、という差異があるのなら、貧しい国は富める国からなんらかの庇護を受けねばやっていけないだろう。であれば、各国の力関係というものも当然存在するはず。その大小によって、国のトップの発言力にも影響が出てくる。地界の国々は、どういう関係性で成り立っているのだろう。

 そこのところをニグルに聞いてみても、彼女の答えはいささか曖昧だった。

 地界において、おもに力を持っているのは、リジー、ワンドリア、ガルドという三つの大国であるというが、政治的なことはよくわからない、と困惑したように言う。小国同士で小競り合いのようなことは稀にあるものの、大国同士で争うようなことは今までになかったのだそうだ。

 今までに、一度も? と確認してみても、たぶん、となんとも心許ない返事が返ってくるだけである。長い歴史の中で、一度も揉め事なく複数の国家が共存できるのかとキースはかなり疑問だったが、ニグルはそういったことはあまり学校でも習わないのだと、言い訳をするように話した。

「習わない? 自国の歴史をか」

「そりゃあ、習うけど。でも、せいぜい二、三百年くらいの間に起こった出来事くらいよ。それよりも昔のことを知っても、意味がないでしょう?」

「…………」

 そういうものか? とキースは首を捻る。

 歴史というのはそもそも、国の成り立ちからはじめるものではないのだろうか。天界では、学校にも行っていないファルのような人間は別として、人々は子供の頃から、始祖と天の一族がいかに苦労して基礎を作りあげたかということを、みっちり教え込まれるものだが。

 そこまで内心で呟いて、思い直した。


 ……いや、しかしそれも、今となってはどこまで信用できるのか判ったもんじゃないわけか。


 天界は始祖と天の一族が築いた、と言われていたが、その始祖も天の一族も、もともとは地界人であったという可能性がある。

 地界に住んでいた人間が、どういう手段でか天に別の世界を作った。本当にそうであったなら、本来、「天界の歴史」とは、そこから始まるはずだ。

 それが正当な方法で(・・・・・・)作ったもの(・・・・・)であるのなら。

 始祖と天の一族が天界の基礎を作るよりも以前に、そこに先住していた生物があった、などとは、歴史のどこにも記されていない。始祖たちは、まるで最初から天界に存在していたかのように教えられたし、地界は穢れに満ちた場所だとも伝えられていて、そこに疑問を抱く者もいなかった。


 歴史は、権力者によって、いくらでも恣意的に変えられる、ということだ。

 天界でも、地界でも。


 無言で思考を巡らせるキースをちらちらと見ながら、ニグルがためらいがちに口を開いた。

「あの……図書館に行ってみれば、もっとちゃんと判ると思うけど。探してみる?」

「いや」

 キースは首を横に振った。これからそういうものを探すとなると、また時間と手間を喰うことになる。あったとしても、この小さな国では、さほど中身も期待できない。それよりは、目的地に向かうことを優先したかった。


 ……それに、天界同様、地界の歴史も歪められているとしたら、どれだけ調べても意味があるとは思えない。


 ニグルがしゅんとしたように、顔を俯かせた。

「ごめんなさい。私、今まで、そういうものに興味を持ったことがなくて」

 恥じるように目を伏せている。これまでにはなかったその反応に、キースは少しばかり怪訝そうに眉を寄せた。

 東の大陸に入ってから精神の落ち着きを取り戻したニグルは、ダガナドを出たあたりから、妙に従順さを覗かせるようになった。以前までの頑なな依怙地さが影を潜め、怒ったり神経を尖らせることも少なくなり、その代わり、時折こうして、キースにおもねるようなことを口にしたり、態度に出したりする。


 ……考えてみれば、その変化が見られるようになったのは、夜空の下、「ファルはキースにとってどういう存在か」という話をした後くらいから、ではなかったか。


 ここでキースに見放されたらどうしたらいいか判らない、と不安に思っているのだろうか。それも非常に今さらのような気がするが。まあ、そもそもニグルは情緒不安定なところがあったし、キースには理解し難い思考をするので、深く考えることもないのかもしれない。

「構わない」

 それら諸々を顔には出さないまま胸の中にしまって、キースはいつものように素っ気なく返したのだが、ニグルはますますしょんぼりと肩を落とした。

「私って、ファルよりもずっと年上なのに、何も知らないのね。誇りと自尊心ばかり高かったけど、実際は何も身についてなんていなかった。今さらになって思い知らされるわ」

「それを言うならファルだって何も知らない。なにしろあいつは、生きていくのに知恵は必要でも知識は要らない、と本気で考えているようなやつだからな」

 キースとしては思ったことをそのまま率直に言葉にしただけなのだが、ニグルが「そうなの?」とぱっと嬉しそうに目を輝かせたのを見て、少々当惑して口を噤んだ。

 ……別に、ニグルを慰めるためにファルを貶した、というつもりはまったくなかったのだが。

「じゃ、私だって、ファルよりもキースの役に立てる可能性はあるわけよね?」

「いや……」

「そうよね、この世界のことなら、私は間違いなくファルよりも詳しいんだもの。さあ、先を急ぎましょうよ、キース」

「…………」

 急に元気になって足取り軽く歩き出すニグルの背中を見ながら、キースはなんとなく嫌な予感を覚えた。


 ──以前の姿ならともかく、現在のおれはどこからどう見ても子供だし、まさかそんなことはないと思うんだけど。


 どうも、面倒な状況になりかけているような気がしてならない。

 やっぱり連れてくるんじゃなかった、と何度目かの後悔をして、キースはため息をつきながら歩を進めた。



          ***



 ようやく国境を越え、足を踏み入れたヨレイクの地は、さらに寂しげな景観が広がっていた。

 かなり寒くなってきた現在、鮮やかな緑だった木々はどれも茶色くなり、かさかさとした枯れ葉を冷たい風に舞わせている。見渡す限り高層の建物というものはなく、背の低い小さな家々が、互いに肩を寄せ合うようにして密集して建てられていた。

 道を行く人々は、襟巻の中に顔まで埋めるようにして、忙しそうにせかせかと早足で立ち歩いている。たまに見かける馬車は、荷を乗せたらそれでおしまいというサイズばかりで、人間を乗せることはないようだった。

 聞けば、東の小国ヨレイクは、せっかく国の大部分が海に面しているというのに、港というものがないらしい。海側は高地となっていて入り江というものがなく、また、大きな岩が露出しているため船も近寄れないのだそうだ。地形さえ整っていれば、港町として大いに栄えることも可能だっただろうに。

 世界の端にあるヨレイクは、豊富な資源の宝庫である海を指をくわえながらただ見ていることしか出来ない、という悲哀を、どこか全体的に漂わせているような国だった。




 「博士」について訊ねると、居場所はあっさりと判明した。

 どうやら、ヨレイク国内ではかなり有名な人物であるらしい。別の国からも訪ねてくる人間がいるというのだから、それも当然かもしれない。同じようなことを何度か経験しているのか、その場所までの道のりを説明する住人の話し方は、やけに物慣れていた。

 彼が暮らす家は、ヨレイクの国の中でもさらに東の端にあるという。この国は海に近づくに従い上に向かって傾斜がついていくので、男が指差す方向は、ここよりもずっと高い位置にあった。

「まあ、会ってくれるかどうかは、わからないけどねえ」

 と、男は笑いながらそう付け加えた。そこへ向かおうとする訪問客が、子供と若い女という珍しい組み合わせなので、面白がっているようだった。

「せいぜい、怒らせないように気をつけな。なにしろあのじいさん、相手が金持ちでもお偉いさんでも、自分が気に入らないとなりゃ、ため息のひとつでも出すのは惜しい、っていう偏屈さだからな。……その点、あんたたちの場合は、身なりで追っ払われることはないだろうけど」

 キースとニグルの格好をまじまじと見て、また笑う。ニグルは悔しそうに顔を逸らしたが、キースは特になんとも思わなかった。それに言わせてもらえば、古着屋で揃えた自分たちの衣服と、笑っている男の衣服は、質といい見た目といい、さして違いがあるわけではない。

「この世のことは大体なんでも知っている、と聞いたが」

「さあ、そりゃどうかねえ」

 農作業をしていた男は、のほほんとした調子でそう言って、鍬を手にしながら目を細めた。

 「博士」と呼ばれる人物が住んでいるという方向に、顔を巡らせる。

「いろんなことに詳しいのは間違いないと思うよ。あの人の教えに従って、助かっていることも多数ある。だからありがたくは思っているがね。……けどねえ、この世のことをなんでも、ってのはちょっと大げさじゃないかねえ」

 男にとって、その人物は、「物知りな年寄り」程度の評価でしかないらしい。それが冷静な意見なのか、それとも男の無知によるものなのかは、まだなんとも判別し難かった。

「たまに、変なことを言ったりするっていうし。少し耄碌してるのかもしれないね。実際に頭はいいんだろうけど、狂人と紙一重っていうんじゃあ、その話もどこまで信用していいもんだか」

「変なこと?」

 世間話をするようにのんびりと口を動かしていた男は、キースの鋭い声に、少し驚いたように目を瞬いた。

「変なことっていうのは、たとえば?」

「なんだい、気になるかい? まあ、その年頃だと、いろいろ知りたがっても無理はないかな。いやあ、本当にうわ言みたいなことさ。時々、熱に浮かされたように同じことばかりを繰り返すんだそうだ」

 子供に言い聞かせるように、男は笑みを浮かべて言った。

「雲にも届く白い塔には、腐った化け物が棲みついている、と」

 キースは一瞬、息を止めた。


 雲にも届く白い塔。

 ──白雲宮(・・・)


「天に住んでいるのは神なんかじゃなくて、どこまでも薄汚れた、卑怯な悪人ばかりだ、なんてね」

 そういうことを、ものすごく怒った顔で、恨みを込めて、罵るように吐き捨てるんだそうだよ、何度も、何度もね──男はそう続けて、ボケかけた老人は困ったものだねとでも言うように、軽く笑った。



          ***



 そこからの行程は、かなり気の急いたものになった。

 今まではなるべく挟むようにしていた休みも省略しがちになり、暗くなっても先へと進むことがたびたびあった。

 体力のないニグルには相当きついだろうと思って、一人で引き返すか、どこかで待っていろと何度も言ったのに、まったく聞き入れる素振りがない。呼吸を乱してふらふらしながら、それでも無言でキースについて来る姿を見ると、複雑な気分になる。

 もともと親切にしたつもりも、優しくしたつもりも、一切なかった。しかし冷淡に突き放そうとすればするほど、ニグルはかえって、離れまいという意志を露わにする。だったらもう、キースとしても、知らぬ振りを決め込むしかない。

 ──他にどうしたらいいというのだ。

 今は近くにいるのがキースだけ、ということもあるだろう。疲労もあるだろうし、依存心の強い性格だし、長期間に及ぶ旅路で精神的におかしな方向に曲がってしまっても無理はない。故郷のリジーに行けば、また正常な心が働いて、キースのことなんてすぐにそこから追い払ってしまうに違いない。

 とりあえず、現在はそれどころではないと、キースは気持ちを切り替えることにした。

 まずは、最初の大きな足掛かりに辿り着くこと。ニグルのことなどは二の次、三の次である。

「…………」

 前を向いてひたすら足を動かしながら、なぜか頭に浮かんだのは、ムッとしたように頬を膨らませるファルの顔だった。

 勝手についてきたのはニグルのほうで、おれのせいじゃない、と弁明したくなる。

 ──なんだか非常に、理不尽だ。




 強行軍で進んできた甲斐あって、思ったよりも早く、キースとニグルは目指す場所に到着した。

 外観は、ひどく粗末な建物だった。建物というより、これはもう、小屋と呼んだほうがいいだろう。石造りの家が多い東の大陸で、珍しく木材で建てられている。キノイの里のものよりはずっとしっかりしているが、不思議と懐かしいような感じがした。

 その家はしんと静まり返っていた。見たところ、周辺には他に住宅がない。地面には雑草が生え、石が転がり、囲むようにして木が無造作に立つ殺風景な場所に、一軒だけぽつんと建っている。いかにも、人付き合いの悪い人物が好んで住みそうなところではあった。

 高い場所にあるからか、吹き渡る風がひどく冷たい。その風に乗って、耳慣れない水音のようなものが聞こえてくる。心をするりと撫ぜては、すぐに離れていくような音だった。

「海が近いのね」

 ニグルのその言葉で、キースもようやく気がついた。今までに見たことがなかったから、それが岩に当たって砕ける波音だとは判らなかったのだ。

 ──世界の涯とは、こんなにも物悲しいものか。

 どこか荒涼としたその地に建つ小さな家は、扉を叩いても、声をかけても、なんの反応もなかった。中からは、ことりとも物音がしない。

「留守なんじゃない?」

 ニグルが首を傾げる。一瞬、キースもそう考えた。高齢だということだし、中で死んでるんじゃあるまいなと、無遠慮なことも頭を過ぎった。いや──しかし。


 人の気配はあるな。


 片目を眇めて神経を研ぎ澄ませば、ちゃんと嗅ぎ分けられた。子供の姿になったとはいえ、それすら出来なくなるほど、キースは鋭敏さを失ってはいない。この家には間違いなく誰かがいて、しかも中から訪問者たちの様子をじっと窺っている。

 そこにいるのは子供と若い女。はなから、相手にするつもりがない、ということか。

 ……だったら、あちらから、出てきてもらうしかない。

 拳に力を込めて、ドン、と扉を強く叩きつける。

「『博士』、あんたの話が聞きたくて来た。おれはキース。天界人だ(・・・・)

 その瞬間、家の中の空気が張り詰めたのが判った。この声はちゃんとあちらに届いている。そして、中にいる人物は、この言葉の意味を理解している。

 キースも身の裡を緊張させた。一体、「博士」というのは何者だ。天界のことも、白雲宮のことも知っていて、なおかつそれらを恨んでいるという。


 ひょっとして、彼も地界に堕とされた天界人なのか?


 しばらく息詰まるような沈黙が続き、やがてゆっくりと、扉が内側から開けられた。

 そこに立っていたのは、顔が無数の皺で覆われ、髪も髭も真っ白になった、一人の老人だった。

 粗末な衣服に身を包み、頬がこけるほどに痩せ細った姿は、博士や賢者というより、仙人を思い起こさせる。

 驚いたように見開かれ、キースを凝視する目には、耄碌しているなどとは微塵も思わせない、冴え冴えとした理知の光が輝いていた。

「……天界人、だと? お前が?」

 声が掠れているのは、加齢のためというより、驚愕が大きいためらしい。キースの頭のてっぺんからつま先まで、疑惑を含んだ視線が這い回った。

「バカな」

 ぼそりと唇から言葉が落ちる。

姿が変わっていない(・・・・・・・・・)。天界人なら、お前はなぜ化け物にならなかった?」

「姿なら、変わった」

 キースは素早く言葉を返した。この老人に、再び扉を閉めさせるわけにはいかない。正直、後ろにいるニグルのことも、頭から吹っ飛んでいた。

「こんな見た目だが、おれは本当は二十三歳だ。天界から地界に来て、大人から子供に姿が変わったんだ」

 老人がまた目を見開く。背後から、「え、に、二十三?」と、ニグルの茫然とした声が聞こえたが、ほとんどキースの耳には入らなかった。

「大人から、子供へ……そんなこと、あるはずが」

 老人は眉根を寄せ、戸惑うように呟いた。

 それを見て、キースは少し失望した。この反応を見る限り、「なんでも知っている」と言われた人物でも、キースが子供の姿になってしまったことの理由は判らない、ということか。

「おれは、ファルという娘と一緒に地界に堕ちた。ファルは天界にいた頃そのまま、何も姿が変わっていない。ある男が彼女を攫っていって、おれはその行方を捜している。少しでも手がかりが欲しいんだ」

「娘……」

「ファルを攫った男は言っていた。──彼女は、『天人』という存在だと」


 その途端、老人の身体が雷に打たれたかのように、ビクッと激しく動いた。


 ずっと猜疑心に満ちたまま、大きく開かれていた目が、行き場を見失ったようにふらりと彷徨い、伏せられる。

 がくがくと動くだけで声を発しない口許に、細く萎びた手が当てられた。キースは、彼のその手と、床に着いている足が、大きく震えていることに気づいた。

「……博士?」

 閉じられたふたつの目から、ぽろりぽろりと涙の粒が零れ落ちていく。手で押さえた口からは、苦悶の呻きが漏れた。頑固で偏屈な老人と言われていた人物が、キースの目の前で、身を振り絞るようにして慟哭していた。

「──キース、といったか」

 長くも短くも思われる時間が過ぎ、老人はようやく顔を上げた。顔一面にまだ泣き濡れた跡が残っているのに、彼はそれを拭うこともしなかった。きっと、自分が流した涙を恥ずかしいものだとは思っていないのだろう。その姿には、どこか子供のような純粋さがあった。

「入りなさい」

 扉を大きく開けて、「博士」は言った。落ち着いた、静かな声だった。

「話してあげるよ、キース。私は君に、多少の助言を与えられると思う。……君がそのファルという天人の娘を守りたいというのであれば、私は必ず、君の味方になろう」





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