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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第三部・涯
47/73



 二日後、クイートが塔の上の部屋にやって来た。

 「やあ、元気?」と、いつもの台詞を口にしながら、いつものように向かいの椅子に腰を下ろす彼の姿を見て、ファルは目を瞬く。

「来たの?」

「来たの、とはご挨拶だね。俺はいつでも、多忙な時間の合間を縫って、なるべく顔を出すようにしているんだけど」

 誘拐犯が拉致した人間に向かって言うには恩着せがましい言い方だが、今さらなのでそこは気にしない。ファルは「うん、だから……」と釈然としない顔で応えて、首を傾げた。

「なんだか今、忙しいらしいって、エレネさんも言ってたから。しばらくここには来ないのかなと思ってたんだけど」

 普段何をしているのか判らないクイートは、忙しい時は本当に忙しいらしくて、十日以上顔を見せないこともザラにある。言葉や顔つきの端々から、他の国に行っていたとか、あまり寝ていないとか、そういうことも垣間見えて、「多忙な合間を縫って」、というのはあながち嘘ではないのだろうとファルも感じ取れていた。

「まあね、ちょっといろいろあって」

 クイートは否定することもせず頷いて、ふー、と大きなため息をついた。彼がそこまで疲労感を隠さないのも珍しくて、ファルは意外に思う。今は部屋を出ているエレネがこの様子を見たら、きっと心配して、あれこれと気遣ったりするに違いない。そしてクイートもそれが判っているから、エレネの前では「いつも通り」の姿を保っているのではないか、と推測できた。

 ファルはもちろん、クイートが疲れていようが大変だろうが、まったく心配もしないし、気遣ったりもしない。意地でも、してやるもんかと思っている。だからこそあちらも、つい愚痴めいたものを洩らしてしまったりするのだろう。

「まったく、考えが浅くて頭の悪い人間ってのは、必要以上に手がかかって困りものだよ。そう思わないかい?」

 大げさに両手を広げて、嘆くように言いながら、意味ありげにちらっとファルを一瞥する。自分に対する皮肉も含まれているというのはすぐに判ったので、ファルはぷいっと横を向いた。一体こんな男のどこがいいのか、エレネの気持ちがまるで理解できない。もっと死ぬほど疲労困憊すればいいのに。

「クイートは性格が悪いから、敵も多そうだもんね」

「言ってくれるね、ファル。性格が悪いっていうのは別に否定しないけど、俺に敵が多いのはそれとはまた無関係な話だよ。性格の良し悪しとは関わりなく、そして俺自身が何をして何をしていないかも関わりなく、俺が生まれた時から、俺に敵対する勢力というのは存在してるんだ」

 回りくどい上に判りにくい言い方ではあるが、クイート自身に敵が多い、というのは事実であるらしい。

 ファルは少し考えてから、「つまり」と口を開いた。

「クイートは、それだけ地位と権力のある家に生まれついた、ということだね。リジーという国の、上のほう、とか。この国は王制らしいから、その一族あたり?」

 その言葉に、クイートがほんのわずか、目を見開く。

 一拍の間を置いて、口角を上げる彼の顔には、面白がるような、そして揶揄するような色が乗っていた。

「……ちょっとは、自分の頭を使って物事を考えられるようになったみたいだね」

「そんな厭味ったらしい口調で言われても、褒められてる気にならない」

「うん、褒めてないから。無知な子供がやっと最初の入口に立ったかと思うと、俺も感慨深い。誰のおかげかな」

「エレネさんのおかげだよ」

 ファルはきっぱりと言いきってから、口を閉じて考えた。


 以前から薄々思っていたことではあったが、この口ぶりだと、クイートは実際にかなり身分の高い人間、それも、リジーの王族という可能性もあるらしい。その中のどういう位置にいるのかは判らないが、ここまで自由気ままに行動できるということは、王族といっても傍系のほうなのかもしれない。

 しかしそれでも、敵対勢力などというものが存在するのか。


「──偉くなればなるほど、人は争わなくちゃいけないものなのかなあ」

 ぽつりと零したのは独り言のつもりだったのだが、クイートは聞き逃さなかった。

「天界でも、上のほうでは、そういうことがあるのかい?」

 さりげない聞き方ではあるものの、こちらに向けられる目は、またあの「観察」する時のものになっている。ファルは口元を引き締め、椅子の上で若干身を引いた。

「あっちでは、わたし、ずっとお屋敷の下働きをして暮らしてた、と言ったでしょ? そんなこと、わかるわけないじゃない」

 注意深く言葉を選びながら、とぼけてみせる。

「今のはえらく実感がこもっているように聞こえたなあ」

「一般論だよ」

「だけど、天界に住んでいた以上、そこを統べる者について知らないはずはないだろう?」

「天帝のことも、白雲宮のことも、わたしにとっては物語の中のものと同じだよ。それについてわたしが知っていることは、大体話したと思うけど」

 何事も与えた分だけ必ず見返りを要求するクイートは、ファルにものを教える代わりにと、天界についての情報を求めた。別にそれを秘密にする必要も義務も感じなかったので、ファルとしても、自分があの世界で見聞きしたことくらいは、さほど拘りなくクイートに話したつもりだ。


 もちろん、一部を除いて。


天の一族(・・・・)のことは、今まで君の口から出てはいないよ。まるで、故意にその部分を避けているみたいにね」

 そしてクイートは、ファルが教えるまでもなく、天界についての基本的な知識くらいはあるようだった。地界にいて、なぜそんなことを知っているのかと驚くような単語が、たまに彼の口から出てくることがある。

「天の一族? 何それ? なにしろわたし、あそこでは学校にも行ってなかったから、あんまりよく知らないんだよね。むしろ、クイートがわたしに教えるくらいのほうがいいかも」

 きょとんとしながら目を真ん丸にしてみせると、クイートは少し口を曲げた。

「ものすごく不愉快だから、バカっぽい子供のフリするの、やめてくれない? あのねファル、そろそろ手の内を晒してくれてもいいんじゃないかな。咎人の森に堕とされるのは、天帝か、天の一族に関わった罪人のみだということは、こちらはもう掴んでいるんだ。君が罪人のしるしを背中につけている以上、それらのうちの何者かとなんらかの繋がりを持っていたことは明らかなんだよ」

「だから、あらぬ罪を着せられたんだってば。普通に働いていたのに、何がなんだかわからないまま地界に堕とされて、理由が知りたいのはわたしのほうだよ」

「じゃああのキースってやつは、なんで一緒に地界についてこられたわけ。罪人処刑の場に、どうやって無関係のやつが入り込めたんだい」

「本当、なんでだろうね。気がついたら、いたんだよ、そこに」

 あながちそれは嘘でもないので、純粋に「不思議だね」という表情になると、クイートはやれやれという調子で肩を竦めた。彼がここまで苦々しい顔つきをすることは滅多にない。この件についてファルから聞き出すのはどうやっても無理であると、そろそろ理解してきたのだろう。

「君はたまに、抜け目がないよね」

「子猿のくせに生意気な、とか思ってる?」

「まったくだ」

 失礼な同意をしてから、クイートは軽く噴き出した。口許に笑みを残しながら、椅子から立ち上がる。

「悪いけど、今日はこれで。本当に忙しくてね、少し立ち寄っただけだから、時間がないんだ」

「そう」

 不得要領気味にファルは返事をした。そこまで時間がないのに、わざわざ何をしに来たのだろう、と思ったのだ。まさか本当に「顔を見せに来ただけ」というわけではあるまい。

「クイート?」

 ファルの呼ぶ声には返事もせず、背中を向けたクイートはそのまま数歩進んだが、ドアの取っ手に手をかけたところで、唐突にくるりと振り向いた。

「ファル、これは忠告というか、警告なんだけど」

「ん?」

 警告?

 クイートはじっとファルに目線を据えつけて、真面目な表情になった。


「──もしも君自身の生命が危険に晒された時には、君は君を救う行動をとってくれて、構わない」


「……はあ?」

 まったく意味が判らず、ぽかんとする。クイートはそれを見てまた何かを言いかけ、それから口を閉じた。珍しい。クイートが、迷っている。

「俺は君に危害を加えるつもりはない。君たちのことは好きじゃないけど、それと俺の信条とはまた別の話だからね。だけど考えが浅くて頭の悪い連中が、みんながみんな俺と同じような考えを抱くと思うほど、俺も楽天家じゃない。そして、そういうやつらに君のことが知られたら、どんな扱いを受けるのかは想像に難くない。俺はそういうのは嫌いなんだ、はっきり言って」

「あの……何を言ってるのか」

 ファルはひたすら戸惑うばかりである。クイートの台詞は、ファルにとってほぼ大部分が理解不能だった。


 クイートが言う、「君たち」。

 それは、ファルとキース、という意味なのか? それとも、天界人、という意味?

 それとも──


「世の中には理屈の通じない馬鹿が多い、ということさ。なるべく手は打っておくし、エレネとゴウグにも慎重にしろと言っておく。だけど、絶対ではない。俺もいろいろ不安定な立場でね、信頼できる手駒もまだ少ない」

「だから……」

「君も、俺のとばっちりで、さらに傷が増えるのは嫌だろう? ということで、君は君を守ることを念頭に置いてくれて構わないよ。じゃあね」

「ちょっと待って」

 クイートは言いたいだけ言うと、ドアを開けてさっさと部屋を出て行ってしまった。

 待てというのに!



          ***



 クイートの不吉な予言というか、危惧が現実化したのは、それから数日が経過してからの夜半のことだ。

 その日もファルはいつものように、ランプの明かりの下で本を読み、判らない単語をひとつずつ拾い出しては紙に書き写しているところだった。これを明日エレネに見せて、教えてもらうのだ。遅々として進まない読書にいささかうんざりしながら、黒く染まったガラス窓の向こうに目を向け、ため息をつく。


 ……キース、今、どこにいるのかなあ。


 胸のうちに湧き上がるのは、そのことばかりだ。

 キノイの里を出て、忌み地と呼ばれるあの中央の陸地も出て、東の大陸まで渡った。ファルが知っているのはそこまでだ。ひょっとしたらクイートはそれ以降の情報も手にしているのかもしれないが、ファルに教えてはくれない。どうやら彼には、キースを追うとか捕まえるとかの発想はないようで、それはホッとしているが、何も判らないというのは時間が経つにつれ不安が増していく一方だった。

 今頃、東の大陸の、どのあたりにいるのだろう。二人で行こうと話していたリジーに、ファルが一足先に到着していることなんて、キースには知りようがないだろう。そうすると、何をどうやって探しているのか、皆目見当もつかない。わたしはここにいるよという合図でも出せたらいいと思うのだが、そんな方法はまったく思いつかなかった。

 頭のいいキースのことだから、きっとどういう方法でか、少しずつ手がかりを見つけながら進んでいるのだろう。飢えたり苛められたりというのも、あまり心配は要らなさそうだ。連れの女というのは何なのか、気になってしょうがないのはまた別の話である。

 ──でも、無理はしている、かもしれない。

 もどかしい。お腹の中に重いものがどんどん溜まっていくような感じがする。こんなところでじっとしている自分が歯痒くて、胸が灼けそうだ。

 諸々のものを、はあー、と深い息にして外に吐き出した、その時だ。


 妙に空気がざわついていることに、気がついた。


「……え?」

 塔の上にあるこの部屋は、どういう目的で造られたのか、非常に防音効果が高い。窓は嵌め殺しで、ドアを閉じれば、外の音や声はほとんどまったく聞こえない。だというのに、地響きのような振動と、ビリビリと空気を震わすような声が耳に届いた。

 誰かの──複数の人間が、大声を上げている。大声……いや、怒声と言ったほうがいいか。次第にそれが近くなってきた。それに伴い、荒い足音も聞こえてくる。

 ドン、ドン、という、何かが破裂するような音も。

 皮膚が粟立った。

 扉一枚を隔てて、異様な緊迫感が膨れ上がっていた。ファルの鼓動が不規則に速まり、足許からじわじわと恐怖心が這い上る。あちら側から聞こえる絶叫のような声が、何が起こっているのか判らなくても、決して良いものではないだろうという確信だけを高めた。

 錠を外す音がして、バンと叩きつけられるようにドアが開く。ファルはびくっと身体を縮めた。

「ファルさま!」

 叫び声を上げて、勢いよく飛び込んできたのはエレネだった。暗い部屋の中でも、はっきりと見て取れるほど、彼女は顔色を失くしていた。

 ドアが開いたことで、殺気立った騒音がひときわ大きくなって、雪崩のごとく流れ込んでくる。無秩序な狂乱の声が、ファルの胸を締め上げてくるようだった。

「エ、エレネさん、どう」

「襲撃です!」

 跳ねかえるような勢いで答えられ、息を呑む。


 襲撃?


「こんな滅茶苦茶なやり方で突っ込んでこられるとは、私どもも想定しておりませんでした。こちらの手落ちです。ゴウグが塔の入口でなんとか敵を食い止めておりますが、そう長くは保ちません。応援が間に合うかどうか──さあファルさま、今のうちにここを出ましょう!」

 エレネに手を取られ、ファルは茫然としたまま頷いた。下のほうから聞こえてくる声の中には、ゴウグの怒鳴り声らしきものもある。

 ……「敵」?

 敵って、それは一体、何者なのだ。何人いて、何の目的で、こんなところに突っ込んできたというのか。

 この高い塔の中に、財宝が保管されているとでも?

 バカな。ここにあるのは、宝などではない。


「──もしかして、わたしが狙われてるの?」

 そう問うと、エレネが下唇をきゅっと噛んだ。


「クイートさまが、大事な『何か』をこの場所に隠されている、ということに気づいた者たちがいるのです。それを自分たちが手にすれば、あるいはクイートさまの急所になるのではないかと考えて、略奪にやって来たのでしょう。なんという、愚かな真似を」

 エレネの口調は本気で憎々しげだった。彼女がこんなにも怒りに燃えた目をしているのを見るのははじめてだ。

「大事な何か……」

 唖然として呟いた。クイートに大事にされたことなど一度もないが、襲撃してきた人間たちは、それを知らないのかもしれない。その「何か」が、こんな小さなみすぼらしい女の子であるなんて。

 つまりこれが、クイートの言っていた「理屈の通じない馬鹿」の仕業であるということか。

 そこで、はっとした。

「エレネさん!」

 大きな声を上げたが、間に合わなかった。ゴウグの手をかいくぐり、上まで登ってきたらしいその男は、手にした黒い鉄の塊のような長いものの先端を、エレネに向けた。

 ゴウン、という耳が痺れるような音が、固い壁と床に反響する。

 赤い火花が筒の先から迸ったと思ったら、次の瞬間には、エレネの胸から真っ赤な血が飛沫を上げて噴出した。

「エレネさん!」

「くっ……」

 呻き声を上げてエレネの身体がよろめく。しかし倒れる寸前で、彼女は踏みとどまり、ぐっと上体を起こした。その右手には、やはり黒い鉄の塊がある。彼女の持つそれは、男のよりも格段に小さかった。

 ガン、とさっきよりも軽い音がする。エレネの手にある物体が立てた音だった。彼女の腕が反動のように曲がって上がるのを、ファルはわけも判らず見ているしかない。ぎゃっと叫んで飛び跳ねた男の腹部から、じわりと赤い液体が染みだすのを見るに至り、ようやく、その鉄の塊が高性能な武器であることに気がついた。

 ガン、ガン、という音が連続して響き、男がその場に倒れた。エレネは大きく肩を上下させながら、ファルのほうを振り向いた。

「ファ……ファルさま、さあ、逃げましょう」

 すっかり血の気の失せた蒼白な顔で、エレネが言う。呼吸が乱れ、びっしょりと汗をかいていた。

 胸のところに置いた手の指の間からは、どんどん血が滲みだしてきている。

「エレネさん、止血を」

「いいから、早く……!」

 そこで言葉を途切れさせ、エレネが不意にくずおれる。意識を失い、ぐにゃりと柔らかくなった身体が、床に沈んで動かなくなった。

「エ」

 エレネさん、と膝を折って名を呼ぼうとしたファルの声も、中途半端なところで止まった。

 階段を駆け上がる新たな足音が耳に入り、背中が冷たくなる。ゴウグ──ではない。巨体の彼ならもっと重い音がするはずだ。

「くそったれが! エレネ、もう一人そっちに行った! 気をつけろ!」

 足音よりもさらに下方から、ゴウグの怒鳴り声が響いてきた。まだ複数の敵を食い止めているのか、そちらはそちらで手が離せない、ということらしい。歯軋りしているような声だった。

 足音が近くなる。

 ファルの心臓が急速に早鐘を打ち始めた。

 どっと噴き出した汗が滴り落ちる。手と足が震えた。気絶しているエレネを凝視する。

 エレネは目を覚まさない。開いたままの扉の傍にも男が倒れている。こちらに向かってくるのは一人。ゴウグは下で戦っていて手が離せない。

 ──今なら。


 今なら(・・・)逃げられる(・・・・・)


 明かりを消し、扉の裏か、その近くの壁にぴったりくっつき、気配を殺して立っていればいいのだ。やって来る敵は、ここに隠されているという「何か」が、小さな女の子であるとは知らない。倒れている男と、同じく倒れているエレネに驚いて、まずはそちらに目が向くだろう。その隙に、ファルはこの場所を離れられる。

 下でゴウグに見つかったとしても、彼もファルを捕まえられるような状態ではないはず。応援とやらが来るまで、ゴウグはたった一人でこの事態に対処しなければならない。敵が複数であるのならなおさら、意識はそちらにのみ集中する。その上にこの闇だ、暗がりに紛れてしまうのはきっと容易い。


 これこそ、ファルが待ち望んでいた好機だ。

 

 ぐっと両手を拳にして握った。迷っている時間はない。足音の主はもうすぐこの場に到着する。実行するのなら、早くしないと。

 そう思うのに、ファルの足は床に縫い付けられたかのように動かなかった。いっぱいに見開かれた目の先にいるのはエレネ。徐々に白っぽくなっていく顔色が、ランプの灯に照らされて蝋のように映った。胸の出血は止める気配を見せない。このままでは間違いなく、失血死してしまうだろう。いや、そうでなくても、上ってきた人間が、またあの鉄の塊を彼女に向けて止めをさしてしまうかもしれない。


 ファルが逃げれば、エレネが死ぬ。


 汗が滝のように流れ出した。鼓動が激しすぎて、息を吸うのも難しい。キースの顔が頭に浮かんだ。そうだ、ファルはクイートに無理やり攫われて、この場所に連れて来られたのだ。エレネとゴウグはクイートの部下。彼らを見捨てて逃げて、何が悪い?

「……っ!」

 ぎゅっと強く目を瞑り、すぐにまた開けた。跳ねるように立ち上がり、扉へと走り寄る。

 そして、閉めた。

 ガチャンと音をさせて重い扉を閉じ、近くにあった椅子や棚を動かして、内側から塞いだ。重量があるから、引きずるだけでも力が要る。歯を喰いしばりながらバリケードを築きあげると、今度はベッドに走り、シーツを剥ぎ取って、思いきり引きちぎった。

「エレネさん、しっかりして」

 声をかけると、エレネが呻いて身じろぎした。傷口に布を押し当て、その端を自分の口に咥えながら、エレネの身体に巻きつけていく。

 ドンドンと扉が外から乱暴に叩かれて、ガタガタと椅子と棚が揺れた。




          ***



 翌日の夕方になって、ようやくクイートが姿を見せた。

 ファルは彼のほうを向きもせず、無言で窓の前に立ち、ガラスの向こうの景色に目をやっていた。

「エレネは一命を取り留めた」

 素っ気ないくらいの声音で、クイートはそう言った。

 ファルは返事をしない。

 しんとした沈黙が室内に流れる。昨夜の喧騒が嘘のようだった。

「ゴウグも傷は負ったが、無事だ。無謀な突撃をしてきた連中の身柄は取り押さえたけど、自分たちは街のゴロツキだと言い張ってる。何か金目のものがないかと思って、無計画に襲ったんだってさ。誰かの指示や命令なんてなかった、だそうだよ。──バカバカしい」

 クイートは鼻で笑うように吐き出したが、ファルはそれにも何も返さなかった。

 どうでもいい。

 陰謀にも、犯人にも、興味がない。


「……どうして、逃げなかったの?」

 しばらくの沈黙を置いてから、クイートが静かな声で、ぽつりと訊ねた。


「…………」

「あの時、君には判ったよね。この機会を逃したら、次はないかもしれないと。君はあんなにもここを出てキースの許に帰りたがっていたし、今もその気持ちは変わっていないんだろう? 俺は、君は君を守ることを念頭に置いて構わない、と言っておいたはずだけど」

「…………」

「君はエレネを助けるために、唯一だったかもしれない好機を自らの手で潰した。それが愚かな行為だと、ちゃんと自覚してる? もしかしたら俺は、そういうことも含めて、エレネやゴウグのような人間を、君の傍に配置したのかもしれない。君のように単純な子供は、いざという時、情に流される。もしもの場合に備えての、計画の一部であったと──」

「……わかってるよ!」

 ファルが叩きつけるように叫んで、くるっと振り返った。

 拳になった両手は、力が込められすぎて、ぶるぶると震えている。歪んだその顔にある蜂蜜色の目からは、ぼとぼとと大粒の涙が溢れだしていた。


「わたしがバカだった、そんなことはわかってる! わたしはあそこでエレネさんを放置して、さっさとこんなところから逃げ出すべきだった! 後悔ならもう死ぬほどしたよ、これで満足?!」


「…………」

 今度口を閉じたのは、クイートのほうだ。

「わたしは……」

 続けようとしたものは、言葉にはならなかった。下を向き、目を閉じる。熱い涙の滴が頬を伝って床に落ちた。

 自分の行動がどれほど愚かだったかなんて、クイートに言われるまでもなく判っている。結局、ファルはまた囚われの身に逆戻りだ。あんなことがあったのだから、これからはもっと警戒が厳重になるだろう。自由を得る最大の機会を、ファルは自分の甘さゆえに壊してしまった。

 キースは今もどこかで、懸命にファルを探しているのかもしれないのに。ファルは、彼のその気持ちさえ踏みにじったも同然だ。

 あれだけ固く決意したつもりだった。けれどファルには、それを貫く覚悟が足りなかった。

 ファルの邪魔をするファルの敵は、ファル自身だった。

 唇を引き結んで立ち尽くすファルの耳に、押し殺したようなため息の音が聞こえた。

「ファル」

「──なに」

 低い声で応えたが、顔は上げなかった。今度はどんな嫌味を投げつけてくるのかと思ったファルに、意外な言葉がかけられる。


「ありがとう」


「…………」

 ぐすっと鼻を啜りながら、ようやく目を上げる。よほどファルが訝しげな表情をしていたせいか、クイートは少し苦笑した。

 いつも彼の「色」を覆っている白い靄──素のままの自分を見せたくないというクイートの性質を表したようなそれが、今はずいぶんと薄くなっている。

「この件に関して、甘かったのは俺のほうだ。君がエレネを救ってくれなければ、俺は俺の不手際のせいで、彼女を永久に失うところだった。礼を言う。ありがとう」

 クイートはそう言って、頭を下げた。ひどく素直に見えるその態度に、ファルは困惑し、そして同時に、安心もした。

 そうか、クイートもちゃんと、エレネのことを大切に思っていたのか。

 ……同じ「上に立つ人間」でも、彼はユアンとは違う。

「俺は相手が誰でも、借りを作るのは好きじゃない。だから俺はこの返礼に、君に対して最大限の譲歩をしようと思う」

「最大限の譲歩?」

「そう」

 クイートは頷いて、まっすぐにファルを見つめた。


君は何者か(・・・・・)。……知りたいだろう?」





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