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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第三部・涯
45/73

道程



 改めて地図で確認してみると、ヨレイクという国は、大陸の東寄りどころではなく、東端に位置していた。

 東の大陸は、大きな逆三角が歪んだような形をしている。西と東と南にそれぞれ頂点を向けた三角形だ。ヨレイクはそのうちの東側の内角部分にあるから、地図上でいうのなら、地界で最も東にある国、ということになる。

 三角形のうちの一つの角に位置するその国は、国自体もまた不格好な三角形をかたどっているようだった。二辺が海に面し、残りの一辺が隣国に接している。もしも何事かが起こって隣国への道が閉ざされたのなら、この国の住人が向かうのはもう海しかない。

 東の大陸の中の、東の小国。地界のいちばん端に、ひっそりと存在しているような国だ。


「──世界の涯、か」


 地図を見ながらぼそりと呟いたら、ニグルが「え? 何か言った?」と訊ねてきたが、キースはそれには答えなかった。

 顔を上げ、彼女のほうを向く。

 リジーに向かう前にヨレイクに行く、と告げて歩き出したキースに、ニグルは文句を言い立てながらもついて来た。説明くらいはしたらどうなの、あんたっていつもそう、と怒りはするが、それでもキースが向かう方向に自分も足を動かしている。

 この旅の始まりからずっとそうだったためか、なんだかんだ言ってもキースのあとについて行動すること自体には、あまり疑問を抱かなくなってしまったようだ。

 感情的だが、依存心も強い。状況を冷静に判断する能力に欠けるという自覚があるからこそ、他人にそれを丸投げして、反発はしながらも従うことで安堵する。彼女の頑固さは、臆病と自信のなさを隠す虚勢の現れだ。

 内心で思っていることをそのまま表に出すのは苦手なようだが、ニグルは基本的には、一般的な若い女性そのものだった。裕福な家庭に生まれ、親の庇護下でぬくぬくと甘えて育てば、きっとこういう娘が出来上がるのだろう。

 別にそれをどうこうとは思わない。ただ、キノイの里のようなところでは、ニグルのような人間はさぞかし精神的負荷が大きかっただろう、というのは推測できる。一時の激情であの地へ入ったものの、実のところ何度も己の軽率さを後悔したのではないだろうか。

 一旦中に入ってしまったら、もう出られない場所。覚悟を決めてからやって来たデンや他の里人たちとは異なり、ニグルはあそこに行ってからはじめて、事の重大さを理解したのかもしれない。

「どうする?」

 足を止め、振り返ったキースが正面切って問いただすと、ニグルは「え」と目を瞬いた。


「ここで別れて、あんたはリジーに帰ったほうがいいんじゃないか?」


「…………」

 ニグルが言葉に詰まる。その考えは、今まで彼女の頭に浮かびもしなかったらしい。

「そうするつもりがあるなら、さっきもらった金を半分渡す。これだけあれば、道中宿を取りながら一人ででもなんとかリジーにまで行けると思う。リジーに行けば、あんたの家があって、親もいるんだろう?」

 ニグルの右目が、迷うようにふらりと揺れた。

 家、親、という単語を聞いて、彼女の脳裏を過ぎったものが何であるかは、キースには判らない。しかし片方だけ見えているその瞳に、怒りでも悲しみでもない、強い感情が浮かんだのは判った。

「でも……だけど、ファルを」

「ファルはおれが見つける。たぶん、そんなに簡単なことではないだろうし、時間もかかる。途中、いろいろと調べないといけないことがあるからな。おれにとっては必要なことだが、あんたにはそうは思えないだろう。なにもこの先までおれに付き合うことはないんだ、ニグル。……忌み地はもう出た。あんたはこの大陸で、普通に暮らしたほうがいい」

 ダガナドの国に入ってから、ニグルの精神は目に見えて安定して落ち着いた。彼女がファルにこだわっていたのは、おそらくキノイの里での生活による疲弊や鬱屈から来るものが大きかったのだろう。その閉塞感から解放されて、本来のニグルを取り戻しつつあるというのなら、これ以上ファルやキースに関わることはない。

 キースと共にファルを奪還するという決意に嘘はなかったとしても、彼女の場合、東の大陸の地を踏んだ時点で、半分以上その意味を失くした、ということだ。


 ニグルはキースとは違う。手離したものは、また手を伸ばせばすぐ届くところにある。

 ファルという小さな存在のことは忘れて、元の人生に戻ることは可能だ。

 だったら、そうすればいい。


「…………」

 ニグルは口を閉じ、顔の左半分を覆う髪の毛を手で弄りだした。その仕草は彼女の癖になっているようだが、今は非常に神経質な動きで、撫でているのか乱しているのかよく判らないくらいだった。

「私……」

 小さな声で呟いて、顔を別方向へと向ける。

 そちらにある馬車鉄道の線路は、直接ではないがリジーのある方角へと伸びている。キースが向かうヨレイクは、あれに乗っては行けない。ニグルがリジーへ戻ると言うのなら、彼女とはこの場所で袂を分かつことになる。

 ニグルはしばらくそちらをじっと見つめてから、再びキースのほうに顔を戻した。

「……私、行くわ」

「リジーへ?」

 キースの問いに、首を横に振る。


「このまま、キースと一緒に行く」


 意外な思いで、キースは彼女を見返した。ニグルの表情には、確かに自分の故郷への愛着が滲み出ていた。てっきり、頷くとばかり予想していたのだが。

 キースの反応を見て、ニグルはわずかに苦笑した。

「そうよね、おかしいわよね。私、自分でもそう思うもの」

 そう言って、もう一度黙り込む。今度の沈黙は迷いのためではなく、自分の中にある複雑な諸々について、少しでも整理をつけようとしているためらしかった。

「──自分でも、よく、わからないわ。本当のことを言うと、どうしてこんなことをしてるのかって、何度も思ったの。こんな大変な思いをして、一体何がしたいのかしら。あの子のこと、私は未だによく知らないのに」

 それはそうだろう。ニグルとファルの接点なんて、ほんの少しのものだった。半病人と、その世話をしただけの、短期間の繋がりでしかなかった。

「だけど、あの子が近くにいた時ね」

 ニグルが手で髪を触りながら続けた。よほど集中して何かを考えているのか、右目はじっと宙に固定されたまま動かない。

「何か……何かを見たような気がするの」

「何かって」

 キースは訊ねたが、ニグルはもどかしげに首を振った。

「わからないわ。あの時は起きていても夢の中にいるようで、ずっとボンヤリしていたし。でも確かに、何かを見た……気がする。ものすごく白くて明るい、何か。一瞬だったけど、その時すうっと心と身体が軽くなった。たぶん、私はもう一度、それを確認したいんだと思う。あの子に会えば、すぐにするりと消えてしまったその『何か』を、今度はもっとちゃんと見ることが出来る。そんな気がするの」

「……何か」

 キースはふと眉を寄せた。

 この台詞、既視感がある。似たようなことを、以前、他でもない自分が口にしなかったか。あれは、そう、天界から地界へ堕ちる時のことをファルと話していて。



 何か……を、見たような気がするんだ。

 白い、何か。



 ……ひょっとして、と内心で呟いて、口を引き結んだ。

 今までキースがファルの背後に見ていた、「光」。

 彼女の心が無垢だから、自分のような人間にはそう見えるのかと思っていたが、もしかしたらそれは、そんな観念的な話として片付けるべきものではなかったのかもしれない。


 あれは実際に、そこに存在するもの(・・・・・・・・・)なのでは?


 人によっては、まったく見ることも感じることも出来ない。いや、きっと、そういう人間のほうが大半なのだろう。天界でも、誰一人として気づかなかったように。

 光、という漠然とした表現でしか言い表せない何か。

 時としてファルの身の裡から発せられる、ひどく清浄で透徹としたもの。


 ──あれこそ、彼女が「天人」であるという証ではなかったか。


「だから、キースと一緒に行くわ。……大体、今、私一人で戻ったところで、きっとまた同じことの繰り返しになるだけだと思うの。裏切りを嘆いて、人を妬んで、怒って、恨んで、罵って、傷つける。私はたぶん、キノイの里に行った時と、何も変わってない」

 自嘲気味の微笑を唇に刻んでから、ニグルはわずかに目を伏せた。

「……それに、私、ファルにまだ謝っていないもの。『気味が悪い』なんて言ってしまったこと」

 キースはニグルの顔を見て、ひとつ短い息を零した。

「わかった」

 そう言って、くるりと踵を返し、また歩き出した。



          ***



 ダガナドの国から、ひたすら東を目指した。

 時には馬車も使ったが、基本的には徒歩の旅だ。出来るだけ、手持ちの金は減らしたくなかった。路銀を増やそうと思えば出来るし、そんなに難しいことでもないのだが、そのたび手間と時間がかかるので、なるべくそれは最小限にしたい。夜はニグルだけ宿に泊まらせて、キースはそのあたりの外で適当に眠った。

 食事は安い店で済ませることが多かったし、質も量も到底満足のいく内容ではなかったはずだが、ニグルが文句を言う回数は、以前と比べてぐんと減った。




 道中、いくつかの図書館に立ち寄った。

 ニグルによると、図書館にもいろいろとランクがあって、一部の特権階級の人間しか立ち入れない図書館もあれば、利用するのに特別な審査を要する専門書のみの図書館などもあるらしい。

 しかし町の中心部にある大きな図書館は、大体誰でも入れるように開放されていることが多かった。ただ外への持ち出しは誰に限らず禁止なので、そこにある本を何かの参考にしたいのなら、頑張って覚えるか自分で書き写すしかない。地界での貧富の差は天界でのそれよりも歴然としていて、貧しい人々は学校にも行けないので、全体の識字率はそんなに高くはないという。

 それでも自ら勉強をしようという意欲のある者は、子供のうちから図書館に通って文字を独学するのだそうだ。最初は意味が判らなくても、必死に写しているうちに自然と覚えていく。そうやって努力で這い上がっていく人間も少なくはない、とニグルは言った。


「ファルにも見習わせてやりたいな」

 広く静かな館内で、一心に書き物をしている子供を見ながら、思わずキースは呟いた。


 現在のキースの姿よりも五つくらいは下だろうに、その男の子は、分厚い本を傍らに置いて、休むことなく手を動かしている。衣服は薄汚れて、髪の毛もボサボサだが、本に向ける目は一途なまでにまっすぐだ。

 隣の席に座るニグルも彼のほうを見やり、恥じ入るように首を竦めた。

「……以前は、私、ああいう人たちのこと馬鹿にしてた。人の生なんてものは生まれた時からもうほとんど決まっているのに、往生際悪くばたばた足掻いて、みっともない、って」

 恵まれた環境に生まれ育ったニグルには、そういう発想のほうが自然だったのかもしれない。今も、子供の周囲には、そちらを見て眉を顰めている大人もちらほらといる。

 天界が決して綺麗なものばかりのところではなかったように、地界にも厳しい現実はある、ということだろう。

 そのことに、キースは失望も落胆もしなかった。むしろ、そうあるのが当然だと思った。天界も地界も、人が暮らす世界である以上。


 誰も傷つかず傷つけず、諍いも嘆きも怒りもなく、ただ穏やかに笑って過ごすだけの、友愛と慈悲だけに満ちた美しい夢のような世界なんて、どこにも存在しない。

 たとえあったとしても、そんな世界はきっと変化もなく進歩もなく、あっという間に滅びてしまう。

 ──キースがファルと一緒に見つけたいのは、そんな場所のことではなかった。


「だけど今のあんたは、そんな風には思わないんだろ」

 机の上に山のように積み上げた本を次々と開きながら、そこに目を落としてキースは素っ気なく言った。

 ニグルが少し驚いたような顔をする。

「え……ええ、それは」

「自分もつらく苦しい思いを味わって、キノイの里に行って、考えが変わったってことだ。何も変わってないとあんたは言ったが、そんなはずがない。……その変化を自分自身が恥と思わないのなら、それでいいんじゃないか?」

「…………」

 ニグルはキースを見てから、男の子のほうに視線を戻した。

「そう……そうね。私、以前は、ひどく傲慢な女だったのかもしれないわね」

「そこは今もそうだがな」

 独り言のようにぽつりと呟かれた言葉に付け加えてやると、ニグルが眉を上げてキースを睨んだ。

「なによ、人が真面目に反省してるのに! あんたって本当に可愛くない!」

 きいきいと怒鳴られたが、可愛いなんて思ってもらわなくて大変結構だ、と思っているキースは本から目を上げもしない。

「……で、この間から、何を調べてるのよ、キース」

 こういう時のキースに何を言っても無駄だというのはさすがに学習したのか、ニグルは机に頬杖をついて、諦めたようにため息をついた。

「いろいろだ」

 短い答えに、軽く肩を竦める。

「寄り道ばかりでじれったくてたまらないけど、それが必要なことだ、って言うんでしょ? あんたの気が済むまでやればいいわよ。どうせ何言ったって聞きゃしないんだから」

 キースはページを繰る手を止めずに頷いた。

「でも少しは説明してよね。いろいろって、たとえば?」

「地界のこと、御伽噺として語られる話のこと、リジーって国のこと」

 もちろん、その各々を詳細に調べていたらキリがない。しかしそれでも最低限の知識くらいは得ておかなければ、リジーの上のほうにいるらしいあの男と対等に渡り合うことなど、到底無理だ。

「それから、銃って武器のこと」

 銃について書かれた本はいくらでも置いてあったので、大体の構造と原理と仕組みは、ある程度理解できた。理解してみれば、そんなに複雑なものではないんだな、ということも納得した。使い方もさほど難しくはないらしい。

 しかし──だからこそ、腑に落ちないこともある。

 銃という武器は、地界で発明されたものだ。考案されてから現在まで、少なくとも数十年という年月が経過した。その間、試行錯誤が繰り返され、次第に軽量、簡略化して、今ではもう片手で扱えるくらいまでに進化している。


 それがなぜ、天界にはまったく存在しない?


 過去から現在に至るまで、どちらかがどちらかの影響を受けているとしたら、天界にだって、銃か、あるいはそれに似た武器があってもいいようなものだ。地界ではすでに、銃だけでなく、銃をもっと大きくしたような砲というものまであるらしい。そちらは武器というより、もはや兵器だ。

 その部分に関してのみ、天界は地界よりもはるかに遅れている。

 天界という小さな世界には必要がなかったから発展しなかった、ということか。

 あるいは、意図的に隠されていた、と考えるべきか。

 ──だったらそれは、誰のどういう意図によるものだ?

「…………」

 キースは自分の顎に手を当てながら、今もまだせっせと勉強を続けている男の子のほうをちらりと一瞥した。



 どれだけ書物を漁っても、「天人」について書かれた記述は、ひとつも見つけられなかった。



         ***



「……ねえ、キースにとっては、ファルはどういう存在なの?」

 ニグルがいきなりそんなことを訊ねてきたのは、ようやく明日にはダガナドの国を出られる、という夜のことだ。

 もうすっかり陽は落ちて、周囲は薄闇に包まれ、立ち並ぶ建物にはそれぞれ明かりが灯っている。

 空には同じく暗色に染まりだした雲がたなびいているが、その切れ目からは小さな星がいくつも顔を出し、輝きを放っていた。忌み地では昼夜問わず、いつも頭上には雲が全体に被さるように覆っていたので、その眺めがもの珍しく見える。

 今夜の寝床はこのあたりでいいかと、小さな公園らしきものを見つけて、キースは木の下に座っていたのだが、今日はなぜかその隣に、ニグルまでが腰を落ち着けてしまっている。

「そろそろ今夜泊まる宿を確保しておかないと、どこも閉まるぞ」

 キースがそう注意喚起しても、ニグルのほうはあまり関心がなさそうに生返事をするだけだ。暗くなった空を見上げ、動き出そうという気配もない。


「ファルは、キースにとって何なの?」

 ニグルは視線を上に向けながら、もう一度同じ問いを繰り返した。


「何ってなんだ」

「その通りの意味だけど。キースはファルのことを、自分にとってどういう存在だと思ってるわけ?」

「なんでいきなりそんな質問をされるのか意味が判らない」

「いいじゃないの、別に」

 ぷいっと顔を背けられた。

「あんたって、ホントにイヤなやつよね。偉そうだし、冷たいし、計算高いし、私のことなんて、そこらを飛ぶ虫のようにしか思ってないんでしょ。そのくせ、なんでも見通してるような高圧的な言い方をして、感じ悪い。私は傲慢な女かも知れないけど、あんただってそうじゃないの。まったく腹立たしいったら、子供のくせに」

 子供じゃないからな、という反論は心の中にしまい込み、キースは黙っていた。

 ニグルのキースに対する人物評は、おおむね正しい。天界でも、大体いつでもキースは周りにそう思われていたし、自分も自分をそういう人間だと思っている。


「──だけど、ファルを相手にしている時だけは、そうじゃなかった。だから、あんたにとって、あの子はどんな存在なのかと思って」


 ぼそりと言ってから、ニグルはここでやっと、上に向けたままだった視線をキースに当てた。

「本当は、妹、なんかじゃないんでしょ」

 さすがにそこは気づかれていたらしい。まあ、ここまで似ていない顔立ちで、いつまでもその肩書きが通用するとも思っていなかったので、別に気にするようなことでもない。デンあたりはまだ信じているのかもしれないが。

「ファルは──」

 言いかけて、そこで言葉が止まった。

 よくよく考えてみれば、自分とファルの関係は今のところ非常に曖昧なものだと気がついたのだ。「これから」のことは約束したが、現時点ではまだ何もないわけだし。いや、この姿とあの姿で何かあったら、それはそれでちょっとどうかという気もする。中身は二十三の男と十七の娘とはいえ。

 キースにとってファルがどんな存在か──説明しようとしたら、おそらく数えきれないほどの言葉が必要になるだろう。しかしそれを口にすれば、声に乗せたそばから、どんどん嘘になっていく気がした。自分の中にあるものを、すべて外に出したいとも思わない。

 かといって、「あんたには関係ない」という一言で、ニグルがすんなり引き下がるとも思えない。


「ファルは、おれの『宝』だ。それでいいか」


 結局、面倒になって、クイートが言っていた言葉をそのまま拝借した。

 ──君は天人の宝。

 それがどんな意味を持っているのか、キースにはまだ判ってはいないのだが。

「……な、なんか、さらっとすごいこと言うのね……」

 大した思惑もなく出したキースの返事はそれなりに破壊力があったようで、ニグルは思いきり鼻白むような表情になって若干身を引いた。

 自分で聞いておきながら、ふうん、と面白くなさそうな声で言って、顔を前方に向ける。

 そのまま、無言の時が続いた。

 どこかで誰かが騒いでいるらしく、複数人の大声や笑いさざめく嬌声がふんわりと風に乗って流れてくる。暗くなってきたからか、この場所から見える通りに歩いている人はほとんどない。

 いくつも灯った部屋の明かりは、外から眺めると、ひどく温かくて平和なものに映った。

「けど」

 不意に、ニグルがぽつりと言った。

「……けど、人の心や気持ちなんて、永遠じゃないわ。今持っているものが、これからもずっと手の中にあるという保証はない。どれだけ愛情を抱いていても、それはいつか失われてしまう。ずっと続くものなんて、どこにもない……」

 声にはほとんど感情がこもっておらず、暗闇にほんのりと浮かび上がる白い横顔はどこか虚ろだ。その分だけ余計に、ニグルの傷の深さを思わせた。

 彼女はまた、左半分の顔を隠した髪に、手で触れている。

「──そうかもな」

 キースは否定せずに、自分もまた暗くなった空を見上げた。


 天界にいた頃のキースにとって、唯一で絶対の存在だった、ユアン・ライリー。

 離れることなんて考えられなかった。そんなことがあるとしたら、それは自分が死ぬ時だけだと確信していた。キース自身それで納得していたし、それでいいんだと疑いもなく思っていた。

 君という人間は、僕のためにだけ存在しているのだから──ユアンのその言葉を、キースはずっと受け入れていたはずだった。

 ……それが今は、もうこんなにも遠い。

 白雲宮の最深部で、キースははっきりとユアンを裏切った。明確な背信行為、鮮やかなまでの翻心だ。

 キースがただひとつ自分の生の拠り所としていたはずの忠誠心は、永遠などではなかった。飼い犬に手を噛まれたあの瞬間、常にキースのあるじであったユアンは、一体何を思っただろう。

 ずっと続くものなんてない。そんなことはキース自身がよく判っている。


 それでも、やっぱり。

 手を伸ばさずには、いられないんだ。


「おれは諦めない。必ず、ファルを見つけ出す」

 自分自身に言い聞かせるようにそう言うと、ニグルはしばらくの無言の後で、「……そう」と静かに頷いた。

「今日は、私もここで寝る。もう今さら、外で寝るのなんて平気よ。あの何もない草原と比べたら、ここはずっとマシだわ」

 急にさばさばした声になってそう言い、背後の幹にもたれて目を閉じる。

 キースは一人夜空に視線を据えつけたまま、ぐっと口を結び続けていた。





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