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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第三部・涯
44/73

知りたいこと



 キノイの里がある忌み地から、境界検問所を抜けて、細長い陸の通路を進み、その先にあったのは、ダガナドという国だった。

 変な名前だな、とキースは思う。今ひとつ発音もしにくい。地界では、人も国も、つけられている名前がどれも馴染みのないものばかりで、違和感を覚えることのほうが多かった。

「そう?」

 キースからすると男のものなのか女のものなのかもよく判らない、「変な名前」を持つニグルは、その意見に、不思議そうに首を傾げただけだった。もともと地界に住む彼女にとっては、それらは何ひとつ変なものでも違和感を覚えるものでもないらしい。まあ、当然と言えば当然だが。

 東の大陸に入って──というより、地界に来て、はじめて見るちゃんとした「国」、ということになる。

 ダガナドは、規模はあまり大きくはないが、キノイの里とは比べ物にならないほど活気に溢れたところだった。とはいえ、里のある中央の陸地そのものが特殊であるらしいので、単純に比較対象にしても意味はないのかもしれない。

 建物はみんながっしりとした頑丈な石造りで、小さいものから大きいものまでいろいろだ。キースが以前住んでいたアストン屋敷の物置小屋くらいの狭い家もあれば、二階建てや三階建ての家もある。その壁がめいめい勝手な色に塗られているものだから、統一性がなくて非常に混沌とした印象を受ける。良く言えば色彩豊かな、悪く言えば雑然とした眺めだ。

 多層階の建物は四角くて、小さな窓が均等に並んでいるだけの殺風景なものが多かった。地界における富裕層はああいう形の住居を好むのかと思ったら、それは逆で、どちらかといえば貧しい人々が住むところなのだとニグルは言った。

 自分の家を購入する余裕がない、またはその必要を感じない人々が、建物の持ち主から部屋を借りるのだという。すると、あの小さな窓の一つか二つ分が個人の「家」というわけか、と別の意味で感嘆した。天界では考えられない。

 なるほど、と納得する。

 ──要するに地界は、キースが想像していたよりもずっと人口が多い、ということなのだ。

 地図で見ているだけでは決して判らなかったことが、こうして目の当たりにすると実感を伴って理解できる。何事も、天界を基準にして考えてはいけない。植え付けられた価値観をゼロにするのは難しいが、出来る限り頭を柔軟にしておかなければ、すぐに息切れしてしまいそうだ。


 人がひしめき合い、あちこちから賑やかな声や音が響き、様々な色の建物がゴタゴタと無秩序に立ち並び、ところどころで瑞々しい緑の木々や鮮やかな花が顔を覗かせ、富める者と貧しい者が入り混じり、誰もが忙しそうに額に汗してせかせかと往来を行き来する──それが、地界。


 もう一度、なるほどと思う。

 どこもかしこも清潔で、建物は白一色で統一され、いつも静かで、鳴り響くのは一日一度の時計台の鐘の音くらい。汚いものを嫌悪して、美しくあることを至上のものとする天界人たちが、地界のことを卑しく醜いと評するのも、無理はない。

 ……きっと、地界人たちから見れば、「清浄な」天界は、まるで死者の国のようで、さぞかし不気味だろうがな、と思って、キースは苦笑した。

 上から見るか、同じ目線に立って見るか。たったそれだけのことで、物事は大きく様相を変える。




 ダガナドで、キースとニグルはまず店に入って衣服を買った。

 ニグルはともかく、キースの麻の上下は、ここでは変に目立ってしまうのだ。あまり裕福には見えない住人でも、そんな格好をしているのは誰もいない。検問所の番人たちを倒し、忌み地を脱走した二人組に追手がかかっているのかどうかは不確かだったが、それでもなるべく周囲から浮かないようにするに越したことはなかった。

 古着屋で適当に地味な服を選ぶのは、あまりニグルの意に沿うものではなかったようだが、それでも着の身着のままでいるよりはマシだったらしい。さっぱりとした服に身を包んでからは、彼女の雰囲気はそれまでよりもずっと和らいだ。

 野天で寝て、湧き水を啜り、獣の肉を貪るような生活から、ようやくまともな文化圏に戻って来られたという安堵も大きかったのだろう。キースに対してあれこれと説明する口調からは、キノイの里にいた時の刺々しさがほとんど抜けていた。

「あれは、馬車鉄道」

「馬車鉄道?」

「線路の上を走る馬車のことよ。決まった場所にしか行けないのが少し難点だけど、道がぬかるんでいても関係ないし、多頭引きだから、大勢の人や荷物も乗せられる。乗り心地も普通の馬車よりずっと快適なの」

 四頭の馬が並んで引いている客車は、確かに普通の馬車よりもずっと大きかった。その馬車は、身分などに関係なく、金を払えば誰でも乗れるらしい。移動や輸送のための手段として考えるなら、非常に合理的だ。

「線路か。面白い発想だな」

「もともとは、鉱山で使うトロッコから来た考えのようね。西の大陸には大きな鉱山があって、盛んに採掘が行われているの。山を掘って、大きな岩石を運ぶためには、レールと車輪のついたトロッコを使わないと大変でしょう?」

「……そうか」

 天界には鉱山どころか山そのものがないのだから、そんな発想が出てくるはずがない。

 いや、天界では馬車鉄道なんてものを、そもそも必要とはしないだろう。天界全体がそんなに広くはないし、住人たちはその中でも狭い範囲内で生活して、そこに大した不便も感じない。

 人が多い、というところから来る知恵。周りの環境に適応させていくための工夫。利便性を求めていく上での発見。文明とは、その地の状況状態、人々の暮らし方や人口層などの条件によって、あらゆる角度に発展していく可能性がある、ということだ。


「…………」

 だったらやっぱり変だよな、とキースは内心で思う。


 天界と地界は、異なるところも多いが、基本的にはよく似ていた。戸惑うことは多少あっても、それはあくまで「多少」というところに留まっている。店に入れば普通に買い物も出来るし、どこに何が売っているのかということも大体判る。売り物の中身も、見慣れないものは多いが、すべてが使途不明などということはない。

 天界の礎を作ったという始祖が地界人であったとしても、環境がまるで違う世界なのだから、その後はまったく別方向に文化文明が進んでいきそうなものではないか。なのにこうして見ると、まるで天界と地界は、同じ向きの平行線を辿って進んでいるかのようだ。お互い、途中で曲がることも逸れることもなく。

 そんなこと、偶然などではあり得ない。



 過去から現在に至るまでずっと、どちらかがどちらかの影響を受け続けている、ということだ。

 ……どちらが、どちらの?



          ***



 地図を見ると、ダガナドからリジーまでは、まだかなりの距離がある。

 そこに到達するまであと二つほど国越えをしなければならず、それらはどちらも小国なのだが、肝心のリジーがやたらと広い。たとえ目的地のリジーに着いたとしても、その広大な国の中でファルという小さな女の子を一人探し出すのは、相当な困難が待ち受けているだろうことは容易に予想できた。

「…………」

 道に立ったまま黙って地図を眺めているキースに、ニグルがもどかしそうに「ねえ、早くリジーに向かいましょうよ」と急かしている。東の大陸まで来たら、もう半分くらいは目的を達したようなものだと彼女は考えているらしかった。

 キースは顔を上げ、ニグルのほうを向いた。

「どうやってリジーに向かうつもりなんだ?」

「え、だから、馬車を使えばいいでしょう? 馬車鉄道はそんなに遠くまで行けるわけじゃないけど、順番に乗り継いでいけばいいわ」

 もうこれ以上足を使って歩くのは御免だ、と思っているのか、ニグルの口から出たのはそんな言葉だった。確かに、徒歩で進んでいては、リジーに着くまで途方もない時間がかかる、というのはキースも判っている。

 とはいえ。

「馬車鉄道ってのは、タダじゃないんだろう?」

「お金なら」

「おれはまだここの物価については詳しくないが、あんたの手待ち分をすべて馬車代に当てたら、リジーに着くまでにすっからかんになるんじゃないか? そうすると寝るのはまた外、食い物もそこらから適当に取ってきたものになると思うが、それでいいのか」

「…………」

 いいわけない、とニグルの顔にははっきりと書いてある。

「必要なのは、とりあえずの資金……と、情報だな」

 呟きながら、キースは顔を巡らせて周囲を見回した。道を行き交う人々や、ガラガラと音を立てて通り過ぎる荷車を眺める。

 馬車鉄道以外にちらほらと道を走っている馬車もあるが、そちらは明らかに二種類に分かれていた。粗末な幌を被せただけの荷物運搬用と、きちんとした四輪の箱型客車がついたものである。

 金を出せば誰でも乗れるが範囲の限られる馬車鉄道とは違い、乗り手の意志で自由に行き先を決められる個別の馬車は、仕事用と富裕者のステータス顕示用のどちらか、ということらしかった。

「ああいうのに乗ってるのは、結構な金持ちなんだろうな」

 キースが指し示す方向に自分も視線を向け、ニグルは頷いた。

 道の先に停まっているのは、小型ではあるが、黒塗りで金の模様の入った、高級客車である。それを引いている黒馬は毛艶もよく、房のついた飾りまでつけて誇らしそうだ。窓にはカーテンがかかっているからどういう人物が乗っているかまでは判らないが、おそらくかなりの上流階級に属しているのだろうと思われた。

 馬車に御者の姿は見えない。降りて、何か用事でもしているのだろうか。操る人間がいなくとも、馬は長い首をゆらゆら揺らすだけで、大人しく出発を待っている。

「そうね、こんな辺鄙な場所には珍しいくらいの立派な馬車ね。この国の偉い人が視察か何かで来ているのかもしれないわね」

「国の偉い人か。だったらちょうどいい」

 ぼそりと独り言のように落とされた言葉に、ニグルが眉を寄せる。

「……ねえ、キース、あんたまさか、あの馬車を襲おうとしてるわけじゃないでしょうね?」

 キースが境界検問所の番人たちをあっという間に無力化させてしまったところを目の当たりにしてから、ニグルはどうも以前とは違う警戒心を抱くようになったらしい。キースに向けているのは、まるで犯罪者を見るような目つきだった。

「まさか」

 キースは無表情で返して、そのまま足を動かした。空気を乱さない動きで、するりと手近な建物の陰に入る。

「ここで待ってろ。……なるべく道の端に寄っていたほうがいい」

 それだけ言って、ニグルが口を開いて声を出す前に、姿を消した。



 不安な気持ちを抱えて、ニグルが言われたとおりその場所で待っていると、しばらくして、騒ぎが起こった。

 最初に聞こえたのは、馬のいななく甲高い声だ。それから人々の悲鳴が上がった。はっとしてそちらに目を向けてみれば、さっきの馬車が、動きはじめているところだった。

 しかしそれは明らかに、尋常な動きではない。馬は前脚を大きく振り上げるようにして疾走し、それを御する者のない客車は、左右に激しく揺られながら引きずられている。

 暴走だ、とニグルの顔から血の気が引いた。

 興奮した馬は、まるで目には見えない何者かと競争をするかのように猛り、こちらに向かって駆けてきていた。あんな大きな馬と客車に撥ねられたら、人なんてひとたまりもない。

 道を歩いていた人が叫びながら入れ乱れ、逃げまどう。ニグルは建物の壁にぴったりくっついて、青くなって震えているのがやっとだった。このあたりの地理にまったく詳しくないニグルには、どちらに逃げていいのかも判らない。

 空気を切り裂くような叫喚、激しい馬の蹄の音と、勢いよく車輪が廻るけたたましい音。砂塵を舞い散らして、暴走車と化した馬車がまっすぐこちらに向かってくる。息を止め、悲鳴を呑み込み、目を固く瞑ろうとした──その瞬間に。

 横手から現れた誰かが、馬車と並んで走り出した。

 周りの人々の叫び声が、一層大きくなった。不安定に揺れながら引きずられる凶暴な車をものともせず、そちらに駆け寄り地を蹴って跳躍し、扉の取っ手に掴んで飛び乗ったのは、どう見ても子供だったからだ。

 その子供は、細い足場を伝い、車の突起部分を手で探りながら、側面の扉から正面の御台へと素早く移動した。その間にも馬は走り続けているというのに、風の抵抗すらほとんど感じさせない動きだった。

 御台にまで到着すると、放置されていた手綱を手に取り、ぐっと握った。

 手綱が引かれ、馬が再びいななきを上げる。

 子供はずっと無表情だった。




 まだ少し興奮状態が収まらないらしく、地面に蹄を打ち鳴らしている馬をキースが宥めていると、真っ青な顔色をした御者が泡を食って駆けつけてきた。

 中年を過ぎた年頃の、丸々と太った御者は、キースに何度も怪我はないかと確認し、近くでへたり込むニグルを保護者と見なしたのか、何度もぺこぺこと頭を下げた。

 馬車に乗せてきた奥方とその令嬢の買い物に付き合うために馬を離れたら、いきなりこの騒ぎが起こっていて、自分も何がなんだか判らない、と泣きそうな顔で言う。とにかく誰も巻き込まれなくてよかったと汗を拭い、改めて礼をしたいと申し出た。

「いやあ、しかし、馬車を止めたのが、こんな年端もいかない少年だったとは……勇敢だが、無謀だよ。下手をしたら、振り落とされて死んでいたんだよ。でもまあ、本当に助かったのだから、説教するのもおかしな話か。もしもこれに奥様とお嬢様が乗っていたらと思うと、身の毛がよだつね。とにかく、一緒に来ておくれ」

 まだ相当混乱しているのか、御者の言葉は支離滅裂だ。

 ようやく大人しくなった馬を引く彼のあとについてキースが歩き出すと、今まで茫然自失していたニグルもまた、我に返ったようにぶるぶると足を震わせながら立ちあがった。

「……ちょっと、キース」

 身を屈め、キースの耳に自分の唇を寄せて、ひそひそ声で話す。

「あんた、一体何したのよ」

「馬車を止めた」

 前を向いたまましれっと答えるキースに、眉を吊り上げる。

「ふざけないで……! あんたの指差した馬車がたまたま暴走するなんてこと、あるわけないじゃないの。なんで馬があんな風にいきなり走り出したのよ」

「さあな」

 キースは素っ気なく言った。

「突然、どこからともなく飛んできた矢が足許の地面に刺さって、驚いたんじゃないか?」

「あ……あんたって人は……」

 ニグルが呻くように絶句したが、キースは無視した。



          ***



 馬車に乗っていたのは、ニグルが言っていた通り、「国の偉い人」だった。

 ただ、その本人ではなく、妻子のほうだ。誰か、ということは伏せられたが、ダガナドの重要な役職に就いている人物で、夫が仕事の間、彼女たちは買い物に出たのだという。

 国の役人が自分の仕事に家族を同行させる、というのが果たして一般的なことなのかは知らないが、そこは興味がないのでどうでもいい。氏名不詳のその夫人は、御者と同じように青い顔をしながら騒ぎを起こしたことと不手際を詫び、よければ一緒に食事をどうか、と訊ねてきた。

「え……」

 咄嗟に断りの言葉を出しかけたニグルよりも先に、キースは「喜んで」と応じた。



「まあ、そう、リジーに?」

 構えの大きな立派な店で、キースとニグル、夫人とその娘でテーブルを囲んで食事をしながら会話をしたが、正直なところ、彼女から大した情報は得られなかった。

 クイートという人物を探していると話しても、首を傾げられただけで終わった。ほとんど期待はしていなかったので、失望はしない。そもそも、クイートというのが本名なのかどうかも定かではないのだし。

 夫人は不躾に人の顔をジロジロと見るようなことはしなかったし、その傷はどうしたのかと詮索してくることもなかったが、ニグルは終始俯きがちで、せっかくのちゃんとした食事もあまり喉を通らないようだった。彼女にとって、見知らぬ人間と面と向かって食事をするのは、苦痛以外の何物でもないらしい。

 キースは普通に食べたが、何を食べてもなんとも思わないのはニグルと同じだ。ファルがいなくなってから、食物はほとんど味がしない。


「ご姉弟だけで旅なんて大変でしょう」

「親がいないので苦労することも多いですが、なんとか」


 ここにファルがいれば、子供の顔でいろいろと聞き出してくれるのだろうが、今のニグルにその役を望むのは無理だと判っている。キースもファルのように上手に子供のフリをすることは出来ないので、「行儀のいい少年」として振る舞うのがせいぜいだ。

 ニグルが下を向きながらキースをちらちらと見ているのは、「そんな話しかたも出来るんじゃないの」と言いたいためらしい。そりゃ出来るに決まっている、二十三歳なのだから。

「お兄さまは、勇気がおありなのね。カダ、もう馬車に乗るのも怖いわ」

 夫人の隣に座る、まだ十歳にならないくらいの年齢の少女が言う。仕立てのよい洋服を着て、器用にナイフとフォークを使いながら、無邪気にキースに尊敬の目を向けてきたが、お兄さまというのは勘弁して欲しいと心底思った。

「もう暴れることはないと思うから、怖がらなくてもいい」

 キースはもちろん、子供というものが得意ではない。こうして本物の子供を前にしてみて、外見的にはそう変わらなくても、やっぱりファルとは違うな、と再認識した。

 ふと、思いつく。


「──怖いなら、馬車に乗っている間、物語でも聞かせてもらうといい」


 そう言うと、カダという少女はキョトンとした。

「ものがたり?」

「御伽話のような他愛のない……そうだな、天から女神が降りてきて、地上の若者と恋をした、なんて話はどうだ?」

 隣のニグルがはっとして、わずかに身じろぎした。

「まあ。カダは今さらそんなお話を聞いて喜ぶほど、子供ではありません」

 カダがぷっと頬を膨らます。母親である夫人が、ホホと笑った。

「この子が小さい頃、さんざん話したものですから。もうこの年齢になると、どの子も聞き飽きて、女神というだけでうんざりしてしまうくらいですね」

「……そうですか」

 すると、その「御伽噺」は、地界にいる誰もが子供のうちに聞かされるものである、ということか。

 夜眠る前に、退屈を持て余す雨の日に、ぐずりだした時に、繰り返し繰り返し、耳に吹きこみ心の中に染み込ませる。


 まるでそうやって、洗脳でもしているかのようじゃないか。

 それはただの物語、あくまで「架空の話」だと。


「もしも女神が本当に降り立ったとして、それはこの世界のどこにだと思う?」

 さりげない調子で訊ねてみると、夫人はまた笑い、カダは「ええー?」と困ったように首を捻った。

「そうねえ……やっぱりリジーかな、大きいものね。うーん……でも、カダにはよくわからない」

 しばらく、うーんうーんと難問を抱えたかのように眉を寄せていたが、不意に思いついたように、ぱっと目を輝かせた。

「そういうことは、『博士』に聞いてみるといいんじゃないかしら」

「博士?」

 問い返すと、今までただ微笑ましそうにキースたちのやり取りを眺めていた夫人が、「あら、まあ」と少し慌てた顔になった。

「カダ、その話は──」

「だってお父さまが言っていたのよ。『博士』はこの世界のあらゆることを知っている、って」

 キースが視線を移すと、夫人はバツが悪そうに首を竦めた。

「ごめんなさいね。この子ったら、父親の話を聞きかじって、すぐに口にしてしまう軽はずみなところがあって」

「博士、というのは?」

 夫人はそれを言っていいのかどうか、少し逡巡しているようだった。

「……ヨレイクの国にいる、少し変わり者の老人のことです。とても博識で、いろんな国の、いろんな立場や身分の方が、そこを訪ねて意見を乞うこともある、という話なんです。でも、どこまで本当なのか……夫も仕事上その『博士』のことは存じておりますが、あまり信じてはいないようです。この世界のあらゆることを、というのはただの皮肉で、実際は占い師やまじない師のようなものではないか、と言っています。あの人物の言うことはそれこそ御伽噺のように、現実離れしていることがあるから、と」

「…………」

 キースは口を噤んだ。

 ヨレイク、というのは東の大陸の中でもさらに東に位置する国だったか。

 リジーからは遠ざかる。しかし。

「なにしろひどく偏屈で、自分の家に引きこもって、滅多に人に会うこともしない、とのことです。何にせよ、普通に暮らしている私たちには、なんの関わりもない人物でしょうけど」

 夫人はそう言って笑い、その話を打ち切った。




 食事を終え、別れを告げる段になると、夫人から謝礼金を貰った。

 親のいない姉弟に同情してくれたのか、手に持った袋はどっしりとした重みがある。ニグルは非難めいた目をしていたが、キースはまったく構わずに受け取った。これでしばらくの間、路銀には困らない。

「お兄さま、ありがとう、さよなら!」

 と手を振るカダたちを見送り、さっさと踵を返す。キースが足を向けるほうを見やって、ニグルは怪訝そうな顔になった。

「キース、どこに行くのよ? そっちは方向が」

「リジーに向かう前に、ヨレイクに行く」

「は?!」

 ニグルは目を剥いて叫んだが、そのまま歩を進めた。


 ファルを見つける前に、知っておかなければいけないことがある。





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