鳥籠の中
──遥か眼下に広がる景色は、天界のそれと似ているようで、似ていなかった。
もちろんファルの場合、天界ではこんな高い場所にまで上ったことはないので、一概に比べることなど出来はしない。
自分の記憶にある中で「高いところ」といえば、ギルノイ屋敷から買い出しに行かされる店の途中にあった、急勾配の坂の頂上くらいである。あそこから見る眺めと、たとえば白雲宮から見る眺めとは、まったく別のものであるだろう。
今、ファルのすぐ前の透明なガラス窓の向こうにあるのは、ひょっとしたら、その白雲宮のてっぺんから見えるのと似ているのかもしれなかった。
あの世界の真ん中で、上の雲にまで届くというほど高くそびえ立っていた、白雲宮。
天界で使用人として暮らしていた頃のファルには、それはまるで自分に縁のない建物だった。だから、その場所からの眺めなんて、想像してみたこともない。でも、あそこから堕とされる時、もしも下ではなく上に向かっていたら、こんな光景にお目にかかれたのだろうか。
ずっと下のほうに、見渡す限りずらりと立ち並ぶ建物。
ここからだと、あまりにも小さくて、ただ四角い箱を詰め込んだだけのように見える。
キノイの里と違うのは、その建物がみんな天界のように石造りで、しかもあまり隙間もなくぎっちりと建てられている、というところだった。天界と違うのは、それらの家々は白で統一されておらず、賑やかなほど雑多な色に溢れている、というところ。道路は入り組んで曲がったり折れたりし、ところどころ木々の鮮やかな緑色もある。
どこまでも整然としていて静謐で美しい景色が続く天界に比べ、そこはずいぶんと乱雑で、無秩序で、色彩豊かで、その分、活気と生命力が迸るように横溢であるように思えた。
この高さからだと、人は豆粒のように小さくて、その顔や表情を確認するのは非常に難しい。けれど着ている洋服は、天界で人々が身につけていたものとそう大差ないようだ。キノイの里のような、麻袋に穴を開けただけのような恰好をしている人は誰もいない。子供でさえ、きっちりと縫製されたシャツとズボンを着て、元気に駆け回っている。
いいなあ。
小さな小さな、オモチャの人形のような数人の子供が、じゃれ合いながら通りを走っていくのを見下ろして、ファルは心底羨ましくなった。
わたしもああして、あっちの端からこっちの端までを、全力で走りたいよ。
なにしろ現在ファルがいるこの部屋は、さして広くもないのにベッドやらテーブルやらの家具まで揃えられていて、空いているスペースでは前転をしただけでどこかにぶつかる、という有様なのだ。
「…………」
はあー、という苦いため息をつきながら、目線をガラス窓のすぐ下に向けてみれば、そこにはいつも通り、広い庭園らしきものが見えるだけである。
らしきもの、というのは、ファルは未だに、自分がいるこの場所のことをよく把握していないからだ。
現在、ファルは高い高い、とんでもなく高い塔の、いちばん上の部屋の中にいる──らしい。
その塔は、長く連なる頑丈そうな塀で囲まれた、大きな敷地内の一角に建っている──らしい。
敷地の中に、一般の人々は入って来られないようだ。時々、制服を着た厳つい男たちが巡回するように歩き回っているのが見えた。見栄えよく植木が配置され、よく手入れされた花が彩りを添え、下には塀のところまで綺麗に敷き詰められた芝が続いている。
塀を隔てた向こうに、色とりどりの大小の建物がずらりと取り囲むようにして立ち並び、広大な街並みを形成していた。
敷地の全体がどれほどの大きさなのかも、この塔以外にどんな建物があるのかも、ファルには知りようがない。部屋の窓はひとつしかなく、その窓は嵌め殺しになっていて、開閉が出来ないのである。窓から身を乗り出して周囲を見回す、ということが不可能になっているのだ。
毎日毎日、来る日も来る日も、同じ眺め。今の自分がどこにどんな状況にいるのかというのも判然としない。狭い部屋の中ではろくに運動することも出来ず、他にやることもないので、仕方なく窓から外を見ているより他なかった。
窓と同じくひとつしかない扉は、外側から鍵がかけられている。
ガラスを割って脱出してやりたくとも、塔の壁面は上から下まで平滑で、足をかける出っ張りもない。
この高さから飛び降りたら、間違いなく死ぬであろうことは、学も教養もないファルでも判る。
そしてファルはキースに再会できるまで、死ぬつもりなど毛頭ない。
手詰まりである。
「ああー、もう!!」
ファルは癇癪を起こしたように大声で怒鳴って、椅子の脚を思いきり蹴飛ばした。
座ればびっくりするくらいクッションのきいた、豪華で立派で、おまけにどっしりとした重量もあるその椅子は、力のないファルが蹴ったくらいでは揺れもせず、こちらの爪先のほうが痛くなっただけだった。
「……いたい」
と呟きながら、その場にしゃがみ込む。
爪先からは、じんじんとした痺れるような痛みが伝わってきた。靴を脱いだらきっと赤くなっているだろう。
しかし肉体の苦痛は、心の痛みよりもずっとマシだった。前者のほうは、天界でさんざん経験済みだから、慣れている。こんなものは、ちょっと我慢していれば消えてなくなってしまうだけの、取るに足りないものだ。
──でも、心の痛みのほうは、ファルはちっとも慣れていない。
居ても立ってもいられないような焦り、どうにかしなくちゃと追い立てられるような切迫感、時々キリキリと心臓ごと胸を鷲掴みされるような苦しさ。
それらをどうやれば追い払って消してしまえるのか、ファルにはまったく判らなかった。
これは自分でどうにか処理できるものなのか。誰かに聞けば教えてもらえるのか。これまでずっと一人ですべてを背負ってきた身には、背中にどっしりと覆い被さってくるような重みには、ただ途方に暮れてしまうばかりだ。
失いたくないものも、帰る場所も、大事な人も、ずっと知らないままだった。持っているのは自分の身、ただそれひとつだけだった。だからいつも平気でいられた。笑っていられたのだ。
何もなかったファルの心の空白部分に、今はいろんなものが詰まっている。
だから、こんなにも身体の内側が圧迫されて、息をすることすら難しく感じてしまう。
ぐっと歯を喰いしばり、下を向いた。
……キース、今、どうしてる?
***
コンコン、とノックがされ、鍵の外される音がしてから、遠慮がちに扉が開けられた。
「ファルさま……大きな声が聞こえたらしいですけれど、どうかされましたか?」
そこから現れた若い娘が、瞳に心配げな色を乗せて訊ねる。
彼女は、部屋の中にぺったりと座り込んで萎れているファルを見て、一瞬、気の毒そうに眉を下げてから、部屋の中に入ってきた。
ファルの近くまで寄ってくると、膝を折って屈み込む。
首を伸ばして覗き込み、その両手がしっかり靴の先部分を包むように掴んでいるのを見て、自分の手をそっと添えるようにして触れた。
「もしや、転んでしまわれましたか? それとも、どこかにぶつけられましたか? お怪我はございませんでしたか。痛むようなら、薬をお持ちいたしますが」
慮るような声音でかけられる問いには返事をせず、ファルはすぐ間近にある、二十代はじめくらいの娘の顔に目を向けた。
前髪を上げた額は優しい丸みを帯び、頬から顎にかけて柔らかい曲線を辿っている。その目には、こちらを気遣うような温かい光。彼女はファルに対して、いつも丁寧で親切だ。時々、困ったような表情をすることはあるものの、声を荒げたり怒ったりすることは一度もなかった。
きっと、とても穏やかな、母性的な性質を持った女性なのだろう。今まで他人からそんな風に扱われたことのないファルが、戸惑ってしまうほどに。彼女をほんわりと包み込むような周囲の色も、それを肯定している。
それでも、そんな彼女でも、ファルの唯一の願いを決して聞き入れてくれることはなかった。
「……エレネさん」
「何度も申し上げておりますが、どうぞ、エレネ、とそのままお呼びください、ファルさま」
「だったら、わたしにも『さま』をつけるのはやめてくれないかな」
「それは出来かねます。ファルさまは大事なお客人であると、主人から言いつかっておりますので」
おっとりとした物言いだが、そこには断固として翻されることのない強い意志を含んでいる。
ファルはため息をついて、それ以上その問答を続けるのを諦めた。これまでに数えきれないくらい同じやり取りを繰り返し、この件でエレネが絶対に折れることがないのは、イヤというほど承知している。
「その『大事な客』に対して、この扱いはちょっと酷いんじゃない?」
その言葉も、これまでに何度も舌に乗せたものだ。エレネはこの時も今までと同じように、困ったような顔で首を傾げるだけだった。
「いきなり誘拐して、拉致・監禁なんて。お客だっていうなら、もっと普通の招き方を考えてくれてもよかったんじゃない? ここがどこなのかよく判らないけど、そういうやり方が一般的なの? わたし、そういうのは犯罪って呼ぶものだと思ってた。それともこの場所では、法律も何もなくて、無法者ばかりが住んでいるのかな」
本来、ファルは他人に対して、こんな皮肉を尖った口調で投げつけるような性格ではない。エレネが何も言い返すことなく目を伏せたのを見たら、攻撃的な気分は急激に勢いをなくしてしまった。自分がひどく底意地の悪い人間になったように思えてくる。
口を噤んで、再び顔を下に向けた。
──この高い塔の、狭い一室に閉じ込められたまま、すでに何日が経過したのかも定かではない。
閉塞した状況下で、ファルの精神が限界近くまで疲弊していたとしても、それは無理もないことだっただろう。
「……わたしをこんな所まで連れて来た張本人は、何をしてるの?」
ファルに問いかけられ、エレネは控えめに首を横に振った。
「クイートさまのご予定は、私は存じ上げる立場にはないので……」
「わたしをキノイの里から攫ってきて、その後一度も姿を見せないのはどうして?」
「それは、あの、何かとお忙しい方でありますから……」
「事情についても理由についても、なんの説明もない。ただわたしをこんなところに閉じ込めて、エレネさんの『ご主人さま』は一体何がしたいの?」
「……クイートさまのなされることは、私などのような者にはわかりかねます」
「特に理由もなく、わたしをキノイの里から一方的に連れ出したの? わたしは一言も了承した覚えはないよ。今のこの状況にだって、これっぽっちも納得なんてしていない。このまま放っておくつもりなら、今すぐわたしをここから出して。もとの場所に帰して。キースのところに帰して!」
口を動かしているうちに、身体の中を締めつけるものが耐え難いほどに強く膨れ上がった。
跳ねるように立ち上がり、扉のほうへと一直線に突進する。
「ファルさま!」
エレネが驚いて悲鳴じみた声を上げた時にはもう、ファルはすでに扉の取っ手に手をかけているところだった。追いすがるように走ってくるエレネのことは振り返りもせず、そこを開け放って外へと飛び出す。
が、一歩足を踏み出したところで、すぐに後ろ襟首を掴まれた。
「……まったく懲りねえガキだなあ。何度逃げようとしたって無駄だと、いい加減、学んだらどうだ?」
呆れるような、そしてどこか感嘆するような言葉と共に、ふわりと身体が床から浮く。
ファルは首を廻して、自分を何かの荷物のように無造作に持ち上げている男を、じろりと睨みつけた。
「離してよ、ゴウグさん」
「やなこった。これも仕事なんでな。まったくなんで俺がこんなガキのお守りをしなきゃなんないのかねえ」
声の調子と台詞は嘆いているようだが、その顔は完全に面白がっている。ファルはますますムカムカして手足を振り回して暴れたが、ゴウグのみっちりと筋肉のついた鋼のような肉体と強靭な太い腕は、そんなことではびくともしなかった。
「俺はこんなことのために日夜努力して鍛えてきたわけじゃないんだが」
「鍛えすぎて、脳まで筋肉になっちゃったんじゃないの。だからこんな力任せで人を押さえ込むことしか出来ないんでしょ」
ファルが憎まれ口を叩くと、部屋の中でエレネが小さく噴き出した。ゴウグがそちらを苦々しく見てから、さらにファルの身体を持ち上げて自分と同じ目線の高さにし、わざとらしく怖い顔をする。
「あんまり減らず口ばかりだと、後悔することになるぞ? 俺はエレネのように甘くも優しくもないんでな」
「いかにも単純そうだもんね」
ファルはまったく怖じ気づくこともなく、ふんと鼻で息をしながら言い返した。
ゴウグが言っているのが口先だけの脅しだというのは判っている。彼は単細胞なところもあるが、子供(だと思っている相手)に暴力を振るうような人間ではない。まとう色にもそれがよく出ている。
「まあ、ゴウグ、なんということを」
むしろ、その言葉を真に受けたのはエレネのほうだ。血相を変えて部屋から出てくると、ファルを摘み上げているゴウグの前に立って、きっと眉を吊り上げた。
「こんな子供に、そんなことを言うなんて。恥を知りなさい、ゴウグ。お気の毒に、ファルさまが怯えてらっしゃるわ」
別にぜんぜん怯えてはいないが、今もまだ自分を捕らえて離さないぶっとい腕が無性に腹立たしかったので、ファルは憐れっぽく、「エレネさん……」と助けを求めるような目つきをしてみた。
「まあ、まあ、お可哀想に、ファルさま……! ご安心くださいね、私が必ずゴウグからお守りいたしますから。クイートさまだって、そんなことは絶対にお許しになりませんとも」
エレネのきっぱりとした態度に、ゴウグは苦虫を噛んで潰して飲み込んだような顔になった。
「あのなあ、エレネ……言っておくが、このガキは絶対そんな弱っちいタマじゃねえぞ。こっちがちょっとでも隙を見せようものなら、すぐさまそこにつけ込んでくるような、油断のならないやつなんだからな。この間こいつに噛みつかれた腕の痕だって、まだ残ってるくらいだ」
その時の痛みを思い出したのか、ゴウグが顔をしかめる。ファルはまったく手加減なんてしなかったので、相手がゴウグでなければ、それは噛み痕程度では済まなかったかもしれない。
「そこらじゅう殴られたり蹴られたりで、痣だらけだしよ」
ファルがここに連れて来られてからの、苦闘の記録である。
「まあ、大げさな。ゴウグなら、ファルさまのような華奢な手足が当たったところで、痛くも痒くもないでしょうに」
エレネは、死に物狂いの人間がどんな力を発揮するかということを、今ひとつ理解していないらしい。優しい言葉のひとつでももらえるかと期待していたゴウグは、同情どころかますます怒ったようにぷいっと顔を背けられて、失望に肩を落とした。
「……まあ、とにかく、ちっとは大人しくしてろよ、な? 毎度毎度脱走を企てられちゃ、俺もおちおち休んでいられねえ。疲れてきたら、上手いこと力を加減できずに、本当にお前に怪我をさせちまうかもしれないんだから」
それは脅しでも嘘でもないのか、ゴウグは少し真面目な目になってそう忠告した。
本心では、彼もファルを力で押さえつけるような真似はしたくないのだろう。場所が違えば、子供相手に気安く笑って遊んでやるような人間であるのかもしれない。
それでもやっぱり、ゴウグもまた、ファルをキースの許へ帰してはくれないのだ。
ファルは再び、ゴウグの手によって部屋の中へと戻された。部屋から出て行くエレネとゴウグの背中を見ながら、ぎゅうっと拳を握りしめる。
「……クイートって人に会わせて。話をさせて」
これまでさんざん知恵を絞り、必死になってここから逃げだそうと頑張ってきたつもりだが、結局、あの男と顔を合わせて言葉を交わさなければこの状況に変わりはないのだ、ということを悟るしかなかった。
じっと立ち尽くして低い声を出すファルを、ゴウグが振り返る。
「なにしろお忙しい方でな、今はここにはいらっしゃらない。いずれゆっくり説明してくださるだろうから、その時を待ってろ」
「代わりに、あなたたちが説明してくれるのでもいいんだけど」
「悪いが、俺たちも何も聞かされていないんだ。だが、あの方のことだから、必ず理由があるはずだ。何の意味もなく、こんなことをされる方じゃねえよ。それは間違いない」
ゴウグは自信ありげにそう言った。彼の周りの色は、凪いだように静かなままだ。
エレネとゴウグは二人とも、悪い人たちではなかった。どちらかといえば善人寄りの、真っ当な考えを持っている人間に見えた。本当なら、こんな犯罪まがいのことに加担して、平然としていられるような悪辣な性質は持っていないだろう。
しかし、彼らの優先順位は、あくまでもクイートという男がいちばん上にある。それが動かない以上、いくらエレネやゴウグの情に訴えて頼み込んでも無駄なのだ。子供を一室に閉じ込めることの罪悪感や良心の咎めよりも、「主人が決めたことに間違いはない」、という確固たる思いが上回っているのなら、疑問が入り込む余地などない。
そこにあるのは、ドリスやアルマがユアンに対して向けていた、盲目的な崇拝とは違う。
──きっと、揺るぎない信頼、というものだ。
「クイートさまが仰ってたのは、『逃げたくなったら窓から飛んでいけばいい』ってことだけさ」
「…………」
ファルは強く唇を噛みしめた。それは冗談なのか、厭味なのか、区別がつかない。しかしどうであれ、今のこの身には、その言葉はとんでもなく残酷なものにしか聞こえなかった。
「……そんなことが出来たら、とっくにそうしてる」
「だよなあ」
呟くように言うと、ゴウグも同意した。その声には、わずかに憐憫が滲んでいた。
床に視線を向けたファルに、エレネが気を引き立てるように明るい声を出す。
「お疲れでいらっしゃるんですね。もう少ししたら、何か甘いものをお持ちいたします。ファルさま、お好きでしょう?」
ファルはそれには返事をせず、顔も上げなかった。
再び扉が閉じられ、また一人、部屋の中に取り残される。
錠がかけられる音だけが、重く響いた。
***
それからしばらくして、エレネは本当に甘い食べ物を持ってきてくれた。
とろりとした黄金色の蜂蜜がたっぷりとかけられたパンケーキだ。こんがりとした焼き色がついている。まだ温かいようで、ほかほかとした湯気と甘い香りがふんわりと立ち上り、鼻腔をくすぐった。
「さあ、どうぞ、冷めないうちに」
微笑みを浮かべたエレネに勧められて、ファルはフォークを手に取り、パンケーキに突き刺した。
口の中に入れて、押し込むように咀嚼して、喉に流し込む。
──天界にいた頃も、地界に堕ちてからも、ファルにとって食事はなによりの喜びだった。食料が手に入らない状態で、ひもじさに喘ぎ、お腹がいっぱいになるまで食べられたら、どんなに幸せだろうと夢見たこともある。
目の前には、その時でさえ思い描くことも出来なかったくらいの、甘くて、柔らかくて、ふわふわしていて、口の中で溶けていきそうなパンケーキ。キノイの里での素朴な食べ物ともまるで違って、繊細で手が込んでいる。材料だって上等なものを使っているのだろう。こんなにも透き通って純度の高そうな蜂蜜は、天界のお屋敷でだって滅多にお目にかかれない。
草まで食べて空腹をしのいだ身には、もったいないくらいだ。
……なのに、今は、なんにも味がしない。
この場所は、生存していくだけなら、まったく問題がなかった。
三度三度、頼んでもいないのに、豪華過ぎるくらいの食事が出てくる。ファルがあれが食べたいと言えば、エレネは喜んで用意してくれるだろう。
部屋の中には色とりどりの美しい衣服が並べられ、ベッドはアストン屋敷のそれよりも格段に立派。毎日身体を清められて、ファルの手足はもう、どこも汚れたところも黒いところもない。外に出られず、部屋の外には常時見張りが立っている、ということを除けば、それは確かに客人に対しての待遇だ。
誰からも暴力を振るわれることがなく、無視されることも疎外されることもなく、汗水たらして朝から晩まで働かなくてもよく、一日中寝転んでいたって誰にも文句を言われない。
夢の国にいるみたいだ──と、以前のファルなら思ったかもしれない。
「…………」
ファルは黙って、パンケーキを口に詰めては無理やり飲み込む、という行為を機械的に繰り返した。
何も食べずにいたら、それだけ体力が削られる。干乾びて死んでしまっては、キースのところに戻れない。いくら食欲がなくたって、栄養補給は生きていくために不可欠なのだ。
キースが必要としてくれたこの命を、むざむざ放り出すような真似は、ファルには出来ない。
吐きそうになったが、我慢した。何も味のしない食事というのは、こんなにも苦痛であるのかというのを、はじめて思い知る。ひたすら頭を空っぽにして、単調に手を動かすしかなかった。
キースを相手にお喋りをしながら食べていた時は、どんなものだって美味しく感じられたのに。
目からぽろりと零れた透明な滴が、艶々とした輝きを放つ蜂蜜の上に落ちた。




