血路
断る、とキースは言い続けたが、ニグルも自分の考えを改めることはなかった。
こんなところでいつまでも言い合いをしていても埒が明かないし、第一、時間の無駄だ。出発できる状態になった以上、少しの間も惜しい。この女との馬鹿げた口論のために、貴重な時間を浪費するのは真っ平だった。
「…………」
キースはすべてを拒絶するかのような無感動な顔つきになって、ぱたりと口を閉じると、唐突にくるっと身を反転させて、歩き出した。
「ま、待ってよ!」
ずっと眉を吊り上げ、頑固に「絶対に行く」とばかり繰り返し言い張っていたニグルが、やにわに慌てたようにトランクの持ち手を握り、急いでキースのあとを追う。その声と焦る足音は無論耳に入ったが、キースは無視して足を進めた。
ニグルの乱入で、すっかり唖然としていたデンは、この時になってようやくはっと我に返った。
「き……気をつけてな! キース、無理をしちゃいかんよ! ファルに会ったら、俺が謝っていたと伝えておいてくれな!」
口許に両手を当て、キースの背中に向けて大声を張り上げる。その声を不審に思った隣のネガシや近所の住人たちが、家の入口からそれぞれ顔を覗かせたが、デンはそちらにはまったく構わないで、小さくなっていくキースの後ろ姿をひたすら見つめ続けた。
「待ってるからな! ずっとずーっと、お前たちが帰ってくるのを、待ってるからなあ!」
キースは振り返らなかったし、立ち止まることもしなかったし、返事もしなかった。
ただ、歩きながら、片手を挙げて軽く振った。
それが、キースにとっての最大限の、「謝意」の表し方だった。
デンはその場に立ったまま、迷いない足取りでまっすぐ進むキースと、重そうな荷物を引きずるようにしてその後をついていくニグルを見送った。
二人の姿が、完全に見えなくなるまで、いつまでも。
***
ニグルはそもそも体力のあるほうではないし、どう見ても足の筋力も乏しい。最近はよく外に出るようになって血色も良くなり、動き廻って空腹になるのかきちんと食事も摂るようになったという話だが、ほんの少し前までは家の中に閉じこもってばかりで、ろくに運動もしないという病人同様の生活をしていた。
だからキースは当初、後ろからついてくるその人物のことは、ほとんど気にも留めていなかった。
どうせすぐに諦めて引き返すか、へばって動けなくなるのだろうと。
いくら感情的な性格をしているからといって、一時の気の昂ぶりで行動したって、身体がそれについてこられなければ意味がない。泣き出して助けを求められても、断固としてそれを無視するつもりで、キースは前を向いて足を動かし続けた。
が、案に相違して、ニグルは泣き言を口から出すことはしなかった。「待ってよ」「もう少しゆっくり歩いて」と文句は言うものの、その場にしゃがみ込むことも、やっぱりやめる、と身を翻すこともない。しつこく主張しただけあって、その決心はそうそう簡単には放り出せるものではないらしかった。
二時間、三時間と、距離を進んでいくうち、キースに対する文句の声は、ぜいぜいという喘ぐような呼吸音に変わった。
キースはまったく息を乱しておらず、歩む速度も最初から一定を保っているが、ニグルの足取りは徐々に鈍くなっていく一方だ。振り返ることはしなかったが、はじめのうちはすぐ間近に感じていた気配が、今はすっかり遠ざかっているのが判る。
このままどんどん進み続ければ、すぐに二者間の距離は追いつくことが不可能になるほど広がることは、火を見るよりも明らかだった。
「…………」
キースはようやく、顔を動かしてちらっと後ろを見た。
ニグルは青いというよりは灰色じみた顔色で、全身からびっしょりと汗を噴き出しながら、それでもキースに追いつこうと努力していた。
足がもつれたようなその歩き方では、到底それは困難だというのは明白だったが、決して止まることはしないで動かし続けている。
引きずっている大きなトランクはもはや負担でしかなく、まるで鉄の重しを運んでいるようなものだ。それなのにニグルはそれが自分にとっての唯一の支えであるかのように、手を離すこともしなかった。あれでは、どちらがどちらに縋っているのか判らない。
忙しない呼吸を繰り返し、もう口をきくことも出来ず、よろよろとした足取りは今にも倒れそうなほど覚束ないくらいなのに、目だけはぎらぎらと光を放って前方にいるキースに据えつけている。
彼女の中に居座っているのが幼稚な意地であろうと、もう戻るところはないという追い詰められたような気持ちであろうと、そこにあるのはどうやら本物の決意であるらしいと認めざるを得なかった。
キースはため息をついて、立ち止まった。
目標にしていたキースが止まったことで、ニグルは目に見えて全身で安堵した。ふらふらした歩き方は変わらないが、さっきまでよりも幾分か速度を上げて近づいてくる。
「本当に、この地を出るつもりがあるのか」
普通に会話が出来る距離にまでやって来たところで、キースはそう訊ねた。
汗だくで気息奄々のニグルは、最初、その言葉の意味がよく掴めなかったらしい。肩を大きく上下させて荒い呼吸をしながら、ぽかんとした右目でキースを見返している。
もう一度、同じ問いを投げかけると、ニグルはやっと頷いた。苦しげな息の合間に声を発することが出来ない分、一回では足りないと思ったのか、何度もこくこくと頷いた。
キースに向けているのは、いつものような怒った顔ではない。子供が親に対して「これが欲しいの、一生のお願い」と必死で頼みごとをする時の表情に似ていた。
それを見て、もう一度、大きなため息をつく。
「だったら、まず、その余計な荷物を捨てろ」
キースのすげない命令に、ニグルが驚いたように目を見開く。とんでもない、と言わんばかりに首をぶんぶんと横に振ったが、キースは表情を変えなかった。
「どうせ入っているのは着替えとかそんなもんだろう。言っておくが、これは『旅行』なんかじゃない。あんたが持っているもので、この先役に立つのは金くらいだ。他のものはすべてここに捨てていけ。従わなければ、おれは一人で行く」
「……だ、だって」
まだ整わない息の間から、切れ切れの声を出して、ニグルが泣きそうに顔を歪めた。
きっと内心では、山のような反論の言葉が渦巻いているのだろう。しかし、キースの態度があまりにも取りつく島のないこと、そして実際にキースがその気になればあっさりと自分を見捨てて先に進んでいくだろうことを悟って、ぐっと口を結んだ。
その場にぺたんと座り込んで、ずっと持ち歩いてきたトランクを開ける。キースは彼女の頭越しにそれを覗き込んでみたが、本当にそこに入っているのは必要のないものばかりだった。本や洗面道具まであって、呆れてしまう。
「持っていくのは金と、食い物くらいでいい。どうしてもというなら、薄手の服を二、三枚。全身を覆えるくらいの大きさの布でそいつを包んで、背中に括りつけておけ。もっと動きやすい服はないのか」
「ズボンが……」
「だったらそれに履き替えろ。今あんたが履いている黒いスカートはこれから必要になるかもしれないから、おれがもらう」
「……あんたが着るの?」
「そんな冗談が言えるなら、休憩は要らないな」
冷たく言い返すと、ニグルが「待ってよ! 休ませて!」と悲鳴を上げた。
キースは身体をまっすぐにして周囲を見回し、傘のように枝と葉を広げた木を指で指し示した。
「あの木の影に入って休め。おれは水と、ついでに食料になりそうなものを調達してくる。少し体力が戻ったら、枝を拾って集めておいてくれ」
すぱすぱとした口調のキースの指示にも、ニグルはもう反抗する気力も残っていないようだった。弱々しく頷いて、最小限の荷物だけを手に、のろりと立ち上がる。
この時点で、二人の上下関係はほぼ成立したと言ってもよかった。
***
そういうわけで行動を共にすることになったのだが、正直なところ、キースにとって、ニグルは厄介な荷物以外の何物でもなかった。
外で寝ると言えば冗談じゃないと露骨に嫌な顔をし、暗くなったらなったで獣はいないかと怯えて騒ぐ。ニグルが持ってきたのは保存のきかない食べ物ばかりであったため、量は多かったが、早々に大半を捨て去ることになった。かといって、キースが獲ってきた小動物は、気持ちが悪いとあまり食べたがらない。捌いて肉にする過程は絶対に見ないように固く目を瞑っていたし、焼いたそれは口に入れたものの、半分くらい吐いて戻してしまった。
日中歩くのも、その台詞を言えばキースが見放すことが判っているためか、もう嫌だと口に出すことこそなかったが、やはりどうしてもペースは遅くなり、休みも頻繁に取らねばならなかった。
時間はどんどん経過するが、道程の距離は一向に伸びていかない。キース一人だったら、今頃はもっと進んでいただろうにと思うと、時に苛つきが抑えられなくなるほどだった。
実際、置いていこうかと思ったことは、一度や二度じゃない。
キースにとって、ニグルの存在こそが重しのようなものだった。本当なら走ってでも進みたいところなのに、ニグルがいると、二歩進んでは一歩下がるような有様だ。目的地はあくまで東の大陸だというのに、まだこの陸地からも出られていない。この分では、ファルのところに行けるのは一体いつになるだろう。
起きているとしがみつくようにしてキースにくっついてくるので、疲弊困憊して眠ってしまったニグルを放置して、このまま一人で行こうかという誘惑に駆られたことも何度かあった。
元来キースは非常に冷淡なところがあって、特定の人間以外の他人にはなんの関心も湧かないという人間だったから、たとえそうしてもほとんど罪悪感というものは持たなかったかもしれない。食料と水を残していけば、いくらこの女でも別の里を見つけるくらいまでは生き延びられるだろうし。
むしろ、どうしてそうしないのか、自分でも不思議なほどだった。
ニグルの懸命さに胸を打たれた、わけではもちろんない。キースはこれまでの人生のおかげで、そういう感情がかなり欠如している。共感や同情などは、キースがまったく必要としないものだった。
……共鳴しているとしたら、おそらく、ニグルの心を占めている「ファルという存在」の部分だ。
彼女の場合は、それがすべてではないのだろう。キースにとってのその比重と、ニグルの比重とは、大きくて深い差がある。彼女の心には、他にもまだ、たくさんのものが整理もつかずに同居しているに違いなかった。
でもたぶん、根本的なところで、ニグルがファルに向ける気持ちとキースのそれとは似ている。
きっと、闇にどっぷりと沈み込んでいた者の目に、あの少女はひどく眩しく映るのだろう。真っ暗な中、ぽつんと灯った小さな明かりのように。
どうしても、手を伸ばさずにはいられない光。
そこには打算も思惑もない。自分でも、自分が判らなくて戸惑うほどだ。ニグルもどうしてこんなことをしているのか、どうしてこれほどまでに必死になってファルを見つけ出そうとするのか、言葉にして説明することは出来ないだろう。
自分でも理解できない情念に突き動かされて止まれなくなる、というのは、キース自身、身に染みている。まったくもって、イヤになるほど判っている。だからニグルのことも捨てていくことが出来ないのだ。
黒髪の中に手を突っ込んで掻き回し、はあー、と長い息を吐き出す。
本当に、面倒くさい。まるで赤ん坊のお守りでもしているようだ。ファル相手の時は全然苦にならなかったことが、ニグルだと心底うんざりすることがある。どうしておれが、こんなことをしなきゃならないんだ。
……この苦役の返済はあとでファルにしてもらおう、とキースは考えて、なんとか気分を持ち直した。
必ず行くから、待ってろよ。
***
道中、他の集落を見かけることもあった。
遠目に眺めただけだが、雰囲気はキノイの里と大差なかった。煙が筋を立てて上がっているので、ちゃんと住人もいて、生活しているらしい。
つらい旅路に辟易したニグルがそこに保護を求め、キースとは別れることになるのを少しばかり期待したが、彼女はそんなことは言いださなかった。立ち寄ろう、とも言いださなかった。人の住む集落なら、獣の肉や木の実よりはまだしもまともな食糧があるだろうに、もの欲しげな様子を見せるでもなく、むしろそこから顔を逸らしている。
「……行きたくないのよ。みんな、私のこの顔の傷跡を見て、ああ……っていう目をするでしょ。納得されるのも、憐憫を受けるのもいや」
キースの視線に気づいて、ニグルが苦々しい口調で弁解するように言った。
なるほど。見慣れすぎてすでに意識から飛んでいたが、ニグルは今も髪で隠している顔の傷を、たいそう気に病んでいるらしい。若干性格に被害妄想じみたところもあるが、この地にやって来る人々の背景を思えば、確かに、ニグルのこの傷はあっさりと理解されてしまうだろうというのも納得できた。
ああ、その傷が元でこの地にやって来たんだね──という黙諾は、あるいはあからさまな嘲笑や嫌悪よりも、ニグルの気に障るのかもしれない。
キースはそれならそれで別に構わなかった。他人には不干渉、というのが同じなら、どうせどこの集落に行っても大した情報は望めないに決まっている。それよりも余計な手間を喰ったり、変な疑惑を持たれたりしたら、そちらのほうがずっと厄介だ。
キースはふと思いついて、一旦足を止め、ニグルの顔を見た。
「あんたみたいなのが、よくキノイの里にまで辿り着けたな」
地図を見たり、太陽や影の向きで位置を確認しながら注意深く進んできたから、自分たちが東の大陸寄りに向かっているのは間違いない。進んできた距離から考えて、この地と大陸とを繋ぐ細い通路に到着するのはもう遠くない。
だとしたら、体力のないニグルには、ここらにある集落のほうが、ずっと見つけやすく入りやすかったはずだ。逆に言えば、キノイの里にまで歩いて行けたのなら、その道を遡ることも難しくはないのではないか。キースはなるべく最短距離を選んで進んでいるのだし。
「……馬車に乗せてもらったのよ」
ニグルはキースの疑問に、少し恥じるような仏頂面で応えた。
「馬車?」
問い返すキースに、うんと頷く。
「ほら、例の男が乗ってきたような馬車よ。大陸からの物資を運ぶために、定期的にああいう馬車は境界検問所を通るわ。その馬車はこの地の集落をぐるりと廻るから、それに乗せてもらえば、好きなところで降ろしてもらえる。そうやってこの地に来る人は多いのよ。私は、なるべく大陸から遠いところがよかったから、キノイの里を選んだけれど」
「……へえ」
ニグルの口からはじめて有益な情報が聞けたなと思いながら、キースは返事をした。
境界検問所、か。
「その馬車には、誰でも自由に乗れるのか」
「そこは交渉次第ね。有体に言うと、本当は駄目なことになっているのよ。でも役人にお金を握らせれば、結構あっさりと乗せてもらえる」
そうか、それでニグルは、キノイの里にあの大量の私物を持ち込めたわけだ。どうやってあれだけのものをあそこまで運んだのかと思っていたが、やっと腑に落ちた。
きっと、役人のサービスの度合いも人それぞれなのだろう。握らせる金額次第で、役人の態度も変わる。入るのは自由、とされているのだから、そのあたりはあまりうるさくも厳しくもないということか。
ニグルはもともと裕福な家の娘であったようだし、この地では金なんていくら持っていても意味がなくなるのだから、さぞかし賄賂も大盤振る舞いしたに違いない。
「入る時はそうでも、出る時はそうはいかないんだろうな」
「それはそうね。入る馬車には何人乗っていようが検問所の張り番も何も言わないけど、出る時は他に誰も乗っていないことをしつこく確かめるって聞いたわ」
「検問所の張り番ってのは、何人いるんだ?」
「さあ……正確には知らない。外に立っているのは二人だったけど、検問所の建物の中には交代要員もいるだろうし」
少なく見積もって四人か。もう少し多めの人数を想定しておいたほうがいいかもしれない。
「ねえ……どうやって検問所を通るつもり? そこの張り番たちは、お金を握らせてもそう簡単には見逃してくれないんじゃないかしら」
ここでやっと、ニグルはその難問に気づいたらしい。キースを窺うように見る目には、くっきりとした不安が現れている。
「まあ、それを考えるのは、実際にそこに着いてからだな」
キースは曖昧にそう言って、また歩みを再開させた。
***
予定していたよりも数日単位で超過して、キースとニグルはようやく、忌み地から大陸への通路の目印となる、境界検問所に辿り着いた。
あそこを通れば、その先は東の大陸。目指すリジーは、まだずっと遠い。
現在、あたりは闇が落ちている。この場所に到着するのが暗くなってからになるように、小休止を入れながら調整していた甲斐あって、周囲にはとっぷりとした濃密な夜の気配が充満していた。
地界は天界に比べ、月の光もどこか控えめだ。
大きな岩の裏にひっそりと身を潜ませ、キースとニグルは離れた位置から検問所を窺った。
境界検問所というのは、キノイの里や他の集落に建っていた素朴なものとは比較にならないほどに、頑丈で立派な建物だった。石造りで、ガラスの入った窓もある。扉の前には、大きな篝火が焚かれて、あたりの景色を赤く浮かび上がらせていた。
その検問所の建物の前に一人と、距離を取って正面にもう一人、黒っぽい制服を着た男が立っている。彼らの間は、確かに馬車が通れる程度の幅しかない。
だが、検問所の向こうと、その反対側に建つ男の背後には、高くそそり立つ石の防護壁が続いていた。
つまりこの地と東の大陸へ繋がる細い通路には、がっちりと壁が立ちはだかり、その先を封鎖しているわけなのだった。壁の空いているところに、監視人が立って目を光らせている。無機質な壁は、囚人たちを収容する獄舎を取り囲む塀を思い起こさせた。
想像以上に、厳重だ。
その眺めは、ここに入った人間が元の場所に戻るのを制止するというよりは、まるで「中」のものが「外」に出ていかないように、閉じ込めようとしているようだった。
「……馬車がここに入る時は、当然、あの検問所で通行の許可を得るんだろ?」
視線を前方に向け、声を抑えて訊ねると、ニグルもまた囁くような音量で返してきた。
「そうね、私が乗った馬車の御者は、通行証のようなものを見せていたわ。二枚あったから、御者の分と、役人の分だと思う」
彼女の声は、緊張で硬くなっていた。
「そうか」
返事をしながら、考える。
ここまで警戒が厳重なのだから、それは当然の措置だろう。その通行証には、ここに入る人間の身元証明のようなことが記載されていたはず。そうでなければ、馬車がまたここを出て行く時の確認が出来ない。
「キ、キース、それでこれから、どうするの?」
ニグルがそう言いながら、ぎこちなく首を廻してキースの顔を覗き込んだ。二人して岩の裏にぴったりと張り付いているので、震えるような掠れ声でもよく聞こえるくらいに近い。
ふと、最初に地界に来た時に、こうしてファルと二人で岩の影に隠れて様子を窺いながら、ひそひそと会話を交わしたことを思い出した。
ファルはニグルのように怯えてもいず、しかもその後でさっさと岩から出て行ってしまったが。まさか地界という見知らぬ土地で、いきなり牛の出産に付き合わされる羽目になるとは、キースだって思ってもいなかった。
ファルといると、予想外のことばかりが起きる。
不意に、郷愁にも似た強い気持ちに襲われた。
いきなり胸が締め付けられるように軋んで、息苦しくなる。郷愁なんて、自分には最も遠く離れたものだとばかり思っていたのに、途方もないほどの枯渇感に、眩暈がしそうだった。
胸のあたりの衣服をぐっと握る。
キースは無言で自分の荷の中から、ニグルが出発の時に着ていた黒いスカートを取り出した。それを引き裂き、一枚の布にして、マントのように身体に被る。
「あんたはここでじっとしていろ」
「ど……どうするの」
「張り番のやつらの足の腱を切る」
腰の後ろに括りつけてあるナイフの鞘に手をかけ淡々と言うと、ニグルの顔から暗闇でも判るほどさあっと血の気が引いた。
「あ……足の腱を切る、って」
「気絶させたくとも、おれの今のこの身体じゃ、一人か二人がやっとだからな。その間に他のやつらに逃げだされたら困る。それに、連中も銃というものを持っていたら、おれには防ぐ手段がない。動きを止めておくほうが早いし、確実だ」
「だ、だって、そんな」
「血を見たくなかったら目を閉じておけ。叫び声を聞きたくなかったら耳を塞げ。だがおれが合図をしたら全速力で走って来い。境界を突破したら、今夜のうちには大陸に入る」
「で、でも」
ニグルが何かを言うよりも前に、キースはするりと動いて、闇に溶けるように姿を消した。
監視人の動きを封じるのに、さほど労力は必要としなかった。
立っている男たちには、ほとんど警戒心というものがなかったからだ。一応仕事としてその役目を担ってはいるものの、本音では退屈でしょうがないと思っていたらしい。
大陸を逃げ出して、この忌み地に入るような連中に、脱走するような覇気があるはずもない。事実、これまでだってそんな騒ぎが起きたこともなかったのだろう。
男たちは弛緩しきっていて、闇にまぎれて素早くひそやかに移動する「何か」にはまったく無頓着だった。
大口を開けて欠伸をしていた張り番は、いきなり足に激烈な痛みを感じて悲鳴を上げた。
「な、なんだ? おい、どうした?」
正面にいた男がその声に仰天して駆け寄ってみれば、相方はその場に転がり倒れ、足を押さえて悶絶している。
その指の間から、夜目にも鮮やかな赤い液体が噴き出していると気づいて、口を開きかけた時にはもう、気配を完全に殺したキースが音も立てず背後に忍び寄っていた。
ナイフの白い刃が一閃する。
夜闇の中、次々に甲高い悲鳴がつんざいた。
「──ひと月以上前、ここを通った馬車があったな?」
キースは検問所の建物の中にいた男の首筋にナイフの刃を当てて、そう訊ねた。
眠っていたのか、制服をだらしなく着崩していた男は蒼白になってしゃがみ込み、目の前の子供を凝視している。張り裂けんばかりに目を見開いているのは、今のこの状況が到底信じられないためらしかった。
建物の中には、他に男が二人。どちらも足を押さえて、苦悶にのた打ち回っている。床はその男たちが流した血で真っ赤に染まっていた。
瞬きほどの間にこれだけのことをして、平然と自分にナイフを突きつけているのは、どう見ても十二、三歳の子供だ。
怖れもなければ動揺もない無表情の子供の目には、ただ氷のようにひえびえとした光が宿っているだけで、男が混乱のあまり自分の正気を疑っても無理はなかった。
「な、な、なんなんだ、なんなんだよ、お前」
「質問に答えろ。ひと月以上前にここを通った馬車だ。若い役人が乗っていただろう。そいつはここを通って出る時、女の子を連れていたはずだ。そうだな?」
反問も疑問も許さない、苛烈で厳しい声音だった。
男は芯から震えあがった。そこにいるのは断じて、「子供」などではないと、本能で察したのだ。
「その男は何者だ。どうして検問を通れた。一度忌み地に入った人間は、何があろうと出ることは出来ない、それが決まりなんだろう?」
「お、俺は、そんなの」
「知らないという返事は認めない」
キースの眼の中の炎が強くなって、男はひっと息を呑んだ。
「言え。そいつはどこの誰だ。なぜそんな特例がまかり通る」
「……と、特別許可証を持っていたからだ……!」
自分の首筋にあるナイフの刃に目を据えつけ、恐怖に耐えられなくなった男が息も絶え絶えに絞り出した言葉に、キースは眉を寄せた。
「特別許可証?」
「く、国の──リジーの重要人物だけが持てる、特別許可証だよ! 正式な身分は伏せられていても、それを見せられたら、俺たちは無条件でなんでも受け入れるしかない! 事情や理由を詮索することも許されないんだ! なあ、もういいだろ! 勘弁してくれ!」
男は泣き叫ぶように喚いた。
「リジーの重要人物……」
キースは呟いた。
特に驚きは感じなかった。あの男がただの役人などではないことは、もう見当がついていたことだ。これで、クイートとファルが確かにリジーにいるということがはっきりして、それだけでも収穫と言えた。
リジーへ。
目的地は定まった。
その夜、ふたつの人影が境界を抜けて、東の大陸へと向かった。




