アストン屋敷
馬車が門を抜けて、ゆっくりと小道を進む。
十を数えたあたりで、屋敷の建物が見えてきた。これまたギルノイ屋敷に比べると、とんでもない大きさだ。もっとも、ファルは上流階級の格付けにはまったく詳しくないし、野菜ひとつの値段についての高い低いくらいは知っていても、屋敷の大小の基準なんてものはさっぱりなので、あくまで、「ファルの目から見て」とんでもなく大きい、ということだが。
建物の正面玄関らしき場所の前で止まった馬車の扉が、外側から丁寧に開けられた。
扉を開いて頭を下げているのは、さっき門のところで出迎えをしていた老年の男性だった。門からここまで、馬車と一緒に歩いてきたらしい。
「おかえりなさいませ、旦那様」
彼は、馬車から降り立ったキースに、きっちりと折り目正しい口調でもう一度同じことを言ったが、続いてちょこちょこと降りたファルを目にして、ぎょっとした顔になった。
「旦那様、この子供は」
ファルの姿が、いかにもみすぼらしく、しかもおまけに煤で黒く汚れてもいたため、さすがに客ではないと判断したのだろう、戸惑ったように問いかける。
すでに玄関扉に向かってステップに足をかけていたキースは、ちらりと無表情で彼を一瞥した。
「道端で拾った。使ってやれ」
「は……」
素っ気ない返答に、老年の男性の顔に乗っていた困惑が増す。あるじと子供の両方を見比べて、また何か口に出しかけたが、キースのほうはさっさとメイドらしき女性の開けた扉を通って、建物の中に入ってしまった後だった。
バタンと扉が閉じられる。馬車は御者に操られて、またどこかへと去っていった。
馬の蹄の音と、ガラガラという音が遠ざかる。
メイドはキースに続いて中に入っていったので、しんとした静けさの中、残されたのは男性とファルだけだ。
少しの間、閉じられた扉を見つめていた男性は、小さなため息をついて、ようやくファルのほうを向いた。
じろじろと不躾に眺めまわして、くっきりと眉を寄せる。その顔からは、すでに驚きが消えて、ただ訝しさと警戒心のみが現れているように見えた。そしてそういう表情をすると、それまでぴっちりと隙なく身にまとっていた従順な空気が霧散して、ぴりぴりと張り詰めたものが剥き出しになった。
ファルは黙って彼の視線に晒されながら、その変化に少し違和感を覚えて、内心で首を傾げた。
主人とそれ以外の前で態度が豹変する人間、というのはいくらでもいるけれど──この男性の場合は、それとはなんだかちょっと違うような気がしたからだ。しかし、どう違うのかと訊ねられても、明確な答えはファル自身にも出せない。
それに、この色。
こんなにも複雑に、数多の色が混じり合って濁っているのも、珍しい。
「──旦那様に、道端で拾われただと?」
「はい」
猜疑心に満ちた口調で問われて、ファルは大人しく頷いた。
まあ、拾われたことは間違いないよね、と心の中で呟く。道端かギルノイ屋敷か、という点において、ファルにしてみればその双方に大した差異はない。
「一体どんな気まぐれで、こんな貧弱な子供を……憐憫の情をもよおしたとでもいうのか? あの男に、そんな人間らしさがあるとは、とても……」
あの男、って。
ぶつぶつと呟かれた言葉を耳にして、ファルは顔には出さずに少しびっくりした。
すごい言い方だなあ。ギルノイ屋敷でも、主人夫妻に対してそんな呼称を用いる使用人はいなかった。あの口の悪い料理人でさえ、「あんなに甘いものばかり食うから豚みたいに肥えるんだ」と悪態をついても、奥様を「あの女」などと呼んだことはなかったのに。
キースって、そんなに嫌われるタイプかなあ?
「お前、旦那様に拾われる前は、何をしていたんだね」
ぎろりとした目を向けて訊ねられ、ファルは、えーと、と考えた。
キースの説明に反論しないこと、余計なことは言わないこと、か。うん、でも、だからってずっと黙秘しているわけにもいかないし、ここは適当に答えておけばいいのかな。
「下働きをしておりましたが、いきなり辞めさせられまして」
それは別に嘘じゃない。
「それで路頭に迷っていたのか」
「はい」
男性は再びファルをまじまじ見つめてから、ふんと鼻で息を吐いて口を曲げ、渋い表情になった。どうやら、現在のファルの恰好は、「路頭に迷っていた」説に異論を唱える材料にはなり得なかったらしい。むしろ、納得させてしまうくらいの威力はあったらしい。それはそれでちょっと複雑だ。
「……どこの馬の骨とも知れない者をこの場所に入れるのは気が進まないが、仕方ない。来なさい」
くるりと身を翻して歩き出す男性のあとについて、ファルは屋敷の裏手に廻った。
足を動かしながら、ふと顔を巡らせる。すると、庭に植えられた木々の向こうに、そびえ立つ白亜の建物が見えた。
──白雲宮。
じゃあここは、ギルノイ屋敷よりもずっと中央寄りにあるのか、ということをようやく理解する。坂の上から眺めた景色の中に、きっとここも入っていたのだろう。
ファルはその建物にまっすぐ視線を向けた。
白雲宮は、遠くから見ても、近くから見ても、美しい建物だった。天帝がお住まいになられているというだけあって、威厳があり、神々しく輝いているようだ。
でも。
……まるで、このお屋敷をじっと見下ろしているみたい。
なぜか、そんなことを思った。
***
アストン屋敷の裏庭は、ギルノイ屋敷のそれよりは、まだしもきちんと手入れがされていた。
「表側が美しければ、見えない裏側はどうでもいい」と考えがちな上流階級には珍しい。旦那様と呼ばれていたということは、キースがきっとこの屋敷の当主なのだろうから、彼の指示によって掃除がされているのだろうか。
と考えて、ファルはこっそりと笑ってしまった。キースがギルノイ夫人のように、あれこれと口やかましく使用人に指図しているところなんて、想像もつかない。
男性に呼ばれて集まった使用人は三人。話を聞いて、彼らは揃って目を丸くした。
一斉に、疑惑の目がファルに向かって注がれる。「変なのが紛れ込んできた」というよりは、もっと棘と警戒心が露わな目つき顔つきに、ファルはまたもう一度、さっきの違和感を引っ張り戻すことになった。
……なんだか、おかしな感じ。
もしもここにいるのがファルではなかったら、それを「異様な感じ」と表現したかもしれない。
しかし基本的に、考えたって判らないことは考えない、という主義のファルは、そこでとっととその違和感をほっぽり出して、ぺこりとお辞儀をした。
「ファルと申します。よろしくお願いします」
自己紹介をしても、あちら側からは何か返事があるわけでもない。天界人は、「汚れた外見」に対して、目には見えないもの扱いをして無視をする、ということがよくあるが、彼らの目は逆に、ファルの上から下までを舐めまわすようにして離れないので、なんとも落ち着かなかった。
「私はこの屋敷の家令をしている、クライヴだ」
老年の男性が名乗った。
「はい」
「それからこれが料理人のマット、メイドのドリスと、アルマ」
「はい」
大概の料理人がそうであるように、お腹の部分の存在感が大きいふくよかな身体つきをした、四十代くらいの男性。それから、厳しい顔つきでファルを睨みつけている、五十代くらいの痩せぎすな女性。さっき、玄関扉を開けていたメイドは彼女だ。そして、二十代後半くらいの吊り目がちな女性。
クライヴ、マット、ドリス、アルマ。
ファルはそれぞれの顔を見て、なんとか名前を覚えようと努力した。キースの時もそうだが、ファルは他人の顔と名前についての記憶を持続させておくのが、あまり得意ではない。
──特に、この四人。
どういうわけだか、身体の周囲を取り巻く色が、そっくりだ。
ファルの目にしか見えない色は、その人の性質を表す。人の顔や性格が千差万別であるように、人の持つ色だって、一人一人違うのが普通だ。よく似ていることはあっても、濃淡や出方など、必ずどこかは異なっているものなのに。
四人の場合、色も出方もほとんど同じに見える。クライヴと名乗った家令のように、いろんな色がここまで混ざって濁っているのも珍しいと思ったが、それとそっくりなのが他に三人もいたとは。
同じ色が、これまた同じように無数の針を突き立てているかのごとく、つけつけと尖っている。近くにいると、正直、どれが誰の色だか見分けがつかないくらいだ。
「どういうことなんですか。ユアン様の許しもなく、勝手にこんな……」
ドリスという名の中年女性が、咎めるようにひそひそと声を低めて、クライヴに向かって文句を言った。
ユアン?
また新しい名前が増えてしまった、とファルは慌てて頭の中の帳面にその名を書きつけた。もともと容量がそんなに多くはないので、もうそろそろ飽和状態になりそうだ。
「もちろん、この件はご報告するとも。しかしとりあえずはここに置いておかねば、しょうがない。一応、あれがこの屋敷における我々の主人なのだからな」
クライヴが言い聞かせるようにそう言っても、ドリスはまだ不満そうだった。「あれ」ってもしかして、キースのことかな。
「そんなこと冗談でも口にしないでくださいよ。私の主人はユアン様ただお一人です」
頑なな口調でそう言った瞬間、ドリスの色が少し変わった。
誰のことを思っているのか、頬をわずかに紅潮させ、うっとりとしたように口許を綻ばせたドリス。通常、喜ぶ時には、人の色は明るくなるはずだ。
なのに──
さらに、濁っている。
「……?」
ファルは目をぱちくりさせた。どうしてこうも、顔つきや口調と、色が一致しないのだろう。こんなこと、今までになかった。
しかしその変化は一瞬で、ドリスはまた元通りの色と愛想のない表情に戻った。
胡散臭そうに顔をしかめながらファルを見て、ため息をつく。
「……まあ、しょうがないわ。ユアン様のご指示が何かあるまで、ここで面倒を見ましょう」
彼女の険しい目は、面倒を見ましょう、というより、見張っていましょう、と言っているかのようだった。
「ええと……ファル」
「はい」
「お前、なにが出来るの」
「下働きのやることでしたら、一通り、経験済みです。野菜の下ごしらえ、家畜の世話、掃除、洗濯、草むしり……」
指を折りながらひとつずつ読み上げるように口にしていくと、アルマという若いほうのメイドの目が嬉しそうに輝いた。どうやら、それらは今まで、彼女の仕事であったらしい。
周囲を取り巻く色が、ほわっと明るくなる。
うん、やっぱりこうだよね。さっきのはなんだったんだろう。見間違いかな?
「要するに、『汚れ仕事全般』、ということね」
ドリスが一言でまとめた。ファルを見下ろす目には、かなり露骨な軽蔑と嫌悪が浮かんでいるが、慣れっこなので気にしない。
「はい、そうです」
きっぱりと返事をしたら、ドリスは鼻白むような顔になった。
「……この屋敷にはこの屋敷のやり方があります。アルマに教わって、早く覚えてちょうだい」
「はい」
返事をしてから、さっきから気になっていたことを、聞いてみる。
「あの……他の使用人の人たちは、お仕事中ですか」
ギルノイ屋敷でさえ、使用人はファルを含めて八人いた。こんな広い屋敷だと、一体何人いるのか見当もつかない。これから順番に顔を合わせていくのだろうが、果たして名前が覚えきれるのか、ファルにはちっとも自信がなかった。
「この屋敷の使用人は、これで全部だ」
クライヴにこともなげに答えられて、ファルは驚いた。
たったの四人? この大きなお屋敷で?
「他に、通いの庭師と御者もいるが、あの者たちはいわば『部外者』だ。世話をするのは旦那様一人だし、それも不在のことが多いから、この人数で充分事足りる。私たちの仕事は、この屋敷をしっかり管理し、完璧に維持することである。お前もそう心得るように」
クライヴの言い方は、重要なのはあくまでも「この屋敷」であって、「人」ではない、というように聞こえた。
***
アストン屋敷では、使用人一人ずつに、一部屋が与えられるのだという。
入ったばかりのファルも例外ではないと聞いて、びっくりした。これまでいろんなところを見てきたが、こんなにも待遇のいい屋敷ははじめてだ。キースはずいぶんと気前のいい当主らしい。あんまり、好かれていないようだけど。
案内された部屋を見て、さらにびっくりした。部屋には、ベッドだけではなく、小さな椅子と机、衣装棚までがある。未だかつて、こんな豪華な環境で寝起きしたことがあっただろうか、いいやない。
「荷物を置いたら、まずはとにかく、その顔を洗いなさいよね。あたし、そんな汚いナリをした子供の近くに寄るのもイヤよ」
とアルマが言い捨てて、部屋を出ていく。
どうやら、クライヴをはじめとした使用人たちはみんな、ファルのことを、キースと同じように「十二、三くらいの子供」と疑いもせず信じ込んでいるようだった。年齢については聞かれていないし、わざわざ訂正する必要も感じないので、別にいいかと思うことにする。
余計なことは言わない、という約束だ。
そんなことよりも現在、ファルの心を占めているものがある。
ベッド! うわー、ベッドだよ! わたし、ここで寝ていいんだよね?!
ファルはキャッホーとベッドの上に勢いよく飛び乗った。こんなにもちゃんとしたところで寝るのなんて、何年ぶりだろう? ああ、もう今から夜が楽しみだ。
今夜のことを考えて、心をウキウキと弾ませた。
「早く陽が暮れないかなあー」
──どんな状況になっても、どんなに判らないことばかりであっても、ファルは決して、不安や怖れを抱いたりはしないのだ。
何も持っていないから。
何も失うものがないから。
……ファルはそもそも、「幸福な状態」を知らないから。