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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第三部・涯
38/73

手負いの獣



 ──真っ暗だ、とキースは思った。

 右を向いても左を向いても暗闇ばかり。しかも、ひどく熱かった。まるで燃えたぎる灼熱の穴の中にでも、放り込まれたような感じがした。


 一条の光も射し込まないその場所で、キースは一人きり、ぽつんと立ち尽くしていた。


 そこは真っ暗で、おまけにやたらとうるさかった。耳障りなほどに、風の音が鳴っている。

 びょうびょうという、唸るような風の音。肉体はまったく風を感じず、汗が噴き出るほどだというのに、ただ凶暴なほどの風音だけが耳元で鳴り続けているのだ。まるで、誰かの悲鳴のように。

 どうしてここはこんなにも暗いのだろう、とキースは不思議に思った。

 闇の中でひたすら息を潜めて獲物を狙う、キースはこれまでの人生の三分の一ほどをそうやって過ごしてきた。暗いのはむしろ通常通りで慣れきっているから、恐怖などは微塵もない。あるのはただ、奇妙な違和感だけだった。

 どうしておれは、今もこんなところにいるんだろう?

 キースが暗闇に嵌り込んだ時、必ず差し出された小さな手があったはず。青い空を見て、ここはまるで月も星もない闇夜のようだと思いながら意識を手離した時も。自分自身の裡にある闇に呑み込まれて、人間として生きることを放棄しかけた時も。

 いつだって、乱暴なくらいの力強さで、明るい光の下に引っ張り戻そうとする、誰かの意志があったはずではなかったか。

 キースは確かにそれを手に入れたはずだった。こちらに向かって伸ばされた手を、しっかりと掴んだはずだった。なのにその存在はここにはなく、キースはまた一人で、荒涼とした闇の中に取り残されている。

 どうしてだ。なぜ、あのままにしておいてくれない。なぜ、誰もかれもが邪魔をする。

 キースはただ、あの声を聞いていたいだけ。あの能天気な笑顔を、隣で見ていたいだけなのに。

 どうして、それくらいのちっぽけな望みすら、叶わない?



          ***



「あ」

 目を開けると、すぐ傍らにいた人物が驚いたように口を丸い形にして、短い声を発した。

「キース、気がついたのね? ちょっと待って、すぐにデンを呼んでくるから」

「…………」

 褐色の長い髪で片目を覆い隠した女が、急くように顔を覗き込み、それからあたふたと立ち上がる。キースは無言のまま、彼女がくるりと踵を返して、慌てた声でデンを呼びながら離れていくのを見ていた。

 自分が寝かされているそこは、キノイの里で住居として使っていた狭い家ではなかった。狭さは似たり寄ったりだが、ほとんど何もなかったあちらに比べ、小さいながら家具があり、所狭しとザルやら籠やらが置かれている。それらの中にはみっちりと草が詰め込まれ、家じゅうに青臭い匂いがむわんと充満していた。

 慌ただしい足音が外に出て行くと、しんとした静寂だけが室内に落ちる。


 ──キース、おはよう!


 いつも目覚めると同時にかけられていた陽気な声は、どこからも聞こえてこなかった。

 ファルの存在が、どこにも感じ取れない。それだけのことで、雑多な物に溢れかえった家の中が、やけに寒々しい空気に満たされているような気がする。

 地界に来てから、いつも、手を伸ばせばそこにいた。耳を澄まさなくとも、目を凝らさなくとも、すぐそばで声が聞こえて、笑う顔が見えた。眠っていても、目を開ければ傍らには、安らかな寝息とあどけない寝顔があった。

 近くに、ほんの少し動けばすぐに触れられるほど近くにいて、触れればいつだって、柔らかいぬくもりが伝わってきた。

 ついこの間まで、腕の中にあったはずなのに。


 ……今は、いない。

 どれだけ手を伸ばしても、その先にファルの姿はない。


「キース!」

 バタバタと騒々しい音を立てて、やって来たのはデンだった。ニグルに呼ばれて走ってきたのか、肩で息をして、顔から噴き出る汗を腕で拭っている。気弱そうな小さな目が何度も瞬きをしながらキースを見て、じわりと涙ぐんだ。

「キース、キース、気がついたかい。よ、よかった、お前さん、ここに連れ帰ってから気を失って、それから一日もの間ずっと眠り続けてたんだぞ。高い熱を出して、汗もすごかった。ここにはなにしろロクな医療器具も薬もないし、傷がもとで死んじまうんじゃないかって、ホントに心配したよ」

 よかったよかったと繰り返すデンを見ても、キースは無表情だった。何かを感じる機能が麻痺してしまったかのように、心も感情も動かない。

 まるで、胸の中に、冷たく空虚な穴がぽっかりと開いてしまったようだった。以前ユアンに仕えていた時には、常に口を開けていた穴。ファルと会ってからは塞がれつつあったその穴が、再び穿たれようとしているのを感じていた。

 ──そうか、その穴があったから、天界でのおれはずっと空っぽのままだったんだな、とキースは他人事のように思って、納得した。

 ファルと一緒にいることで、何を入れても残らなかったキースの内部に、少しずつ新たな何かが注がれ補われ、増えていこうとしていたところだった。けれどファルを失った途端、また穴が開いた。せっかく胸の中に留めようとしていたものが、再び抜けて、零れ落ちていく。

 何を見ても聞いても心を素通りしていくのは、きっとそのせいだ。


 夢の中でずっと聞こえ続けていたのは、この穴を通っていく風の音だったか。


 口を引き結んだまま、上体を起こす。

 デンがびっくりしたように制止したが無視した。実際、デンとニグルの声は、ほとんどキースの耳には届いていなかった。

「…………」

 自分の掌で探って確認してみたが、上半身にはどこにも異常は見当たらなかった。しつこく痛みを主張しているのは、右足の大腿部だけだ。麻のズボンを捲ってみれば、そこにはぎっちりと白い包帯が巻かれている。

 実のところ、キースは未だに自分の身に何が起こったか、把握しきれていない。

 クイートとかいうあの男の持っていた小さな鉄の塊が、どのような武器で、どのような形で人に損傷を与えるのか、まったく判っていない。指の動きだけで、何かがあの筒から飛び出したというのは理解したが、いくら動体視力に優れているキースでも、目で確認するのは不可能だった。

「無理に動いてはいけないよ、キース。弾は貫通したとはいえ、決して小さな傷ではないからね。ここにある薬草だけで感染症が防げるのか不安だけども、出血量が少なかったのはまだ幸いだったよ」

「まったく、誘拐だけじゃなく、いきなり子供に銃を向けて撃つなんて、あの男、正気じゃないわ。大陸の役人がこんな非常識な真似をするなんて考えられない。一体、どういうつもりなの」

「…………」

 キースは自分の足に向けていた目を、心配そうなデンと、憤慨しているニグルのほうに向けた。


「──銃、ってなんだ?」


 二人が互いの顔を見合わせたのは、キースの声があまりにも平板で無感情だったからではなく、その問いの内容の意味を捉えかねたためらしかった。

「……なんだ、って?」

 ニグルの反問は、「傷のせいでまだ頭が混乱しているのだろうか」という疑いの目とともに返ってきた。

「あの鉄の筒みたいなのを銃と呼ぶんだろう? それはどういう性能を持った、どんな使い方をする武器なんだ?」

「…………」

 デンとニグルがもう一度顔を見合わせる。二人の表情には、くっきりとした困惑の色が乗っていた。

「……キース、ひょっとして、銃ってものが何か、知らないのかい?」

「知らない」

「まさか。知らないわけないでしょう」

 デンの控えめな質問にすっぱり答えると、ニグルが怒ったような声を出した。たとえば、キースが今目の前にある器に入った水を指して「これは何だ?」と訊ねても、同じ顔で同じ台詞を口にしただろう。

 要するに、それくらい彼らにとっては、「知っていて当たり前のもの」だということだ。

 しかし、本当に。

「……本当に、知らない。天界にはそんなものは存在しなかった」

 ぼそりとそう言うと、今度はデンとニグルの眉が寄った。キースが天界人であるということさえどこまで信じていいのか判らないという状態なのに、その言葉もどう受け取っていいのかと、測りかねているようだった。

「銃が、ない?」

「ないんだ」

 天界における立場からして、キースが知らない武器なんてあるはずがない。なのに、まったく知らない。だとしたらそれは、天界にはそもそも存在しない、ということだ。

 話にも聞いたことがない。書物ででも見かけたことがない。空想上の産物としても、耳にしたことがない。それほどまでに、未知のもの。

 地界にはあって、天界にはないものはいくらでもある。たとえば森。たとえば海。たとえば船。キースはそれらを天界では見たことがなかったが、知識としては知っていた。

 なぜか(・・・)、そういったものは、「常識」として天界人の頭に刷り込まれていたからだ。


 しかし、銃なんて武器のことは、何も知らない。


 ナイフや弓矢なんて比べ物にならないほどの、先進的な武器。

 地界には、天界にはない知識と技術があるのだと、今にして思い知った。

 迂闊だった。可能性として、ほんの少しでも頭に浮かべていなければならないことだったのに、キースはそれを怠った。

 きっと、キノイの里の様子とここにいる人々の暮らし方を見て、そして実際ここで生活して、キースはいつの間にか、思い込んでしまっていたのだろう。

 地界は天界よりも文化文明の水準が劣っている、と。

 ニグルの家の中にあったものを見て、東西の大陸はこことは異なることは認識しても、それが天界よりもずっと進歩しているとは、ほとんど考えもしていなかった。

 侮っていたし、高を括っていた。自分ではそのつもりはなくとも、無意識なところで地界および地界人たちを下に見ていた。あのクイートという男の言う通りだ、救いようがない。


 ……その油断が、取り返しのつかない結果を招いた。


「いや……俺もよう、銃ってのがどういう仕組みで作られているのかなんてことは、よく知らないんだけども。実際、持ったことも、使ったこともねえしなあ。なんていうかその、火薬を使って、弾丸を発射するものだよ。バンって撃ってさ」

 デンのしどろもどろの説明ではまるで何も判らなかったが、銃というものは地界人にとってもそれほど一般的に流通しているものではないらしい、ということくらいは推測できた。

 最小限の動きだけで標的を仕留められるというのなら、それは恐ろしく効率的な、殺傷能力の高い武器なのだろう。誰もが使えてしまっては社会の秩序が崩壊しかねない。おそらく、規制のための法などもあるはずだ。

 じゃあ、あのクイートという男は、それの所持と使用が許される権限を持っている、ということか。

 クイートと名乗った男。今となっては、大陸の役人などという肩書きも本当かどうか怪しい。リジーにいるということ以外は何も判らない。いや、それだって実際のところは判らない。名前も、居場所も、正体も、何もかもが茫洋としている相手。

 その顔は、今も脳裏に灼きついている。

 ファルを荷物のように片手で抱え、連れ去っていく後ろ姿も。

 キースはただそれを見ていることしか出来なかった。

「…………」

 キースの顔からさらに表情が抜けた。碧の瞳が暗く底光りする。また、風の音が聞こえた。

 穴の開いた胸の中に、ぞろりと蠢くものがあった。



 ……誰もかれもが、キースからファルを奪い取る。

 ユアンに、イーセン。今度はどこの誰とも知れない正体不明の男、ときた。

 どいつもこいつも……



「っ!」

 どくん、と大きく心臓が脈打ち、それと同時に、激しい痛みが全身を貫いた。

「ど、どうした、キース?! 傷が痛むのかい?!」

 突然身を伏せたキースに、デンが狼狽した声を上げた。

 片手で胸を押さえて、もう片手で上掛けを破れるほどに握りしめる。全身を切り刻まれるような苦痛に、声を出すことも出来ない。強く力を入れ過ぎて、手の甲に白い線が浮いた。

 足の傷? いいや、違う。痛むのは傷ではなく、キースの内側だ。身の裡にある、どろっとした黒いものが雄叫びを上げて、今にも外に飛び出そうとしているのだ。

 またあの発作。草原地帯で起きたものと同じ。

 ──ダメだ。

 汗の粒をびっしりと顔に浮かべて歯を喰いしばり、キースは必死に自分の中で暴れるものを抑えつけた。

 ダメだ、ここでまた化け物の姿に変わるわけにはいかない。理性を失ったら、そこからは破滅の一途を辿るだけ。そうなればもうその時点で、キースの「未来」は消滅する。

 そんなことになったらダメだ。


 ファルと、約束したんだ。

 いつか二人で笑って暮らせる地を見つけようと。


 そう思った瞬間、ふっと全身を押し潰すような圧力が弱まった。

「……っつ……」

 ──痛みが引いていく。

 は、と息をつく。何度も目を瞬けば、霞む視界が明瞭になりだした。

「キース、大丈夫かい?!」

「……ああ」

 塞がりかけた喉から、なんとか声を引っ張り出した。喘ぐように、短い呼吸を繰り返す。強く拳にして握りしめた手を、ぶるぶると震わせながら、やっとの思いでぎこちなく開いた。

 ──大丈夫。指も爪も、元のままの形状を保っている。

 どっと噴き出した汗が、顔の線を伝ってぼとぼとと流れ落ちた。しかし自分の内側で暴れ狂っていたものは、どうやら動きを止めたようだ。長い息をゆっくり吐き出し、苦痛の波が完全に通り過ぎるのを待つ。

「……おれは……」

 息を整えながら、キースはまだ少し震えている自分の手をじっと見つめた。


「……おれは、『おれ』のままでいないと」

 開いたその手をまたぐっと拳にして、小さな声で呟く。


「な、なんだい? まだつらいかい?」

 背中に分厚い掌を乗せて、デンが戸惑ったように聞いてきたが、キースは黙って首を横に振った。草原地帯でキースが化け物になりかけたところをその目で見ているのに、今はひたすら傷の心配だけをしていて、そのことは頭から放り出されているようだ。

 この気弱でお人好しな男をまた脅かすような事態にならなくてよかった、と思う。

 ……化け物になるのを、止められてよかった。

 そうだ、それは、自分の力で止められるものなのだ。

 どういう理屈でそうなっているのかは、さっぱり判らない。しかし、天界から地界に堕ちて、少年の姿とはいえ人間の形を保っているキースが、化け物に変じようとするのは、どうやら精神的なものが大きく関係しているのは確からしい。


 キースの場合は、憎悪の念。

 それに心が支配されそうになると、身体のほうにも影響が出る。

 ──身も心も、「人間ではないもの」になってしまう。


 一度生じてしまった憎しみという感情は、もう自分の中から消し去るのは無理だろう。これからも、きっかけがあれば「それ」は眠りから覚めて、ここから出せと訴え、吠える。

 自分の中に、獣を飼っているようなものだ。

 現在のキースはもはや獣ではない。しかし己の内部には厄介な獣が棲みついている。獣は傷を負っていて、時にその痛みで激しく暴れ出す。キースは自分自身で、容易く鎖を引きちぎろうとするそいつの手綱を取り、制御していかねばならないのだ。


 キースはキースのままでいて欲しい。

 それが、ファルの願いなら。


「デン、おれはいつになったら歩ける?」

 そう問いかけると、デンは困ったように首を捻った。

「いやあ……俺は医者じゃないんで、正確なところはなんとも……傷が塞がれば、とりあえず動くことは出来るだろうけども、だからってすぐに歩けるとは」

 考えるように言ってから、また不安そうにキースの顔を覗き込む。どこか泣きそうな目をしていた。

「キース……お前さん、ファルを」

「探して、取り戻す。当然だろ」

 素っ気なく返すと、デンは顔をくしゃくしゃに歪めた。きっと、ファルが攫われた件については、この人物なりに心配でたまらないのだろうし、責任を感じてもいるのだろう。

 その心配や責任感が行動に結びつくことはないとしても、キースはデンに対して何かを思うことはない。それは他の誰でもなく、キースがやるべきことだからだ。


 相手がどこの誰でも知ったことか。

 未知の武器なんて関係ない。

 天界人だろうが天人だろうが、どうだっていい。



 ファルは、必ずこの手に取り戻す。





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