別れの日
「化け物が森から出てきた」という騒動が起きてから四日も経つと、キノイの里には以前のような静けさが戻ってきた。
最初のうちは何かにつけてビクビクし、大きな物音でも聞こえようものなら飛び上がって家の中に駆け込んだり、里を出て草原のほうにまで足を向けようという気にはならなかったらしい里人たちも、現在ではかなり元の状態にまで落ち着きはじめている。
実際に化け物の姿を見たのはキースたち以外にはデンとニグルだけであるし、その二人は詳細を他の連中に語りたがらないということもあって、そこまで恐怖心が根付かなかった、という理由が大きいのだろう。
それに現実問題として、いつまでもその状態のままでは、日常生活に様々な困難が生じる、という理由ももちろんある。基本的に自給自足で成り立つこのキノイの里では、労働の面でも物資の面でも、あまり余裕というものはない。
というわけで、多少ぎこちないながらも、里にはまたひっそりとした時間が戻りつつあった。ここでは他人に対しては不干渉不介入が原則なので、キースとファルにもあれこれと問いただしてくるような住人はいない。
デンはスーリオには成り行きを説明したが、キースたちが天界人であるという話まではしていないようだ。ニグルに至っては、すっかりだんまりを決め込んでいて、他の里人に限らず、ファルに会っても、すぐにぷいっと顔を背けてしまうのだという。
「多い時は一日に五回くらい顔を合わせるんだよ。それだけ外に出られるんだから、ニグルさんだいぶ体調がよくなったんだねー」
と安心したように言うファルは、どうしてそんなに不自然なほど頻繁に顔を合わせるのか、という理由までは気が廻らないらしい。
ニグルというのはいろいろと面倒くさい女だな……とそれを聞いてキースは思ったのだが、黙っていることにした。
どちらにしろもうすぐ、この里とも住人たちとも別れることになるのだし。
必要最低限の荷物はなんとか揃えられたが、東の大陸に渡るためにどういう経路を辿ればいいか、という点が未だ判然としない。
この小さな陸地には、キノイの里以外にも集落がいくつかあるということだが、どこにどのような集落があるのかということはさっぱりだ。地図には何も記載がないし、誰に聞いても「よく判らない」という答えが返ってくるだけである。
どうやら東西の大陸から逃げるようにしてこの地にやって来た人たちは、それぞれ適当にふらふらと彷徨い歩き、自分の住む場所を決めるらしい。おそらくは、途中で力尽きて倒れたり死んでしまった人間も多くいるのだろう。スーリオがキースとファルに対して「ここに来られて運が良かった」と言ったのは、あながち間違いではなかったのだ。
入るのはいいが出られない、入るのならあとのことは自分でなんとかしろ、と。
いくらここがどの国にも属さないとはいえ、あまりにも冷淡な仕打ちだな、と思う。
──それにやっぱり、不可解だ。
この土地は肥沃だし、資源も豊富にある。そういうところを単なる「ゴミ捨て場」扱いにして、放置とは。いくつかの国家が並び立っているのなら、そこには必ず争いだってあるはず。この地を所有したいと手を伸ばしてくる国はひとつもないというのだろうか。
触れてはいけない、関わるな、とでも言うように。
……この陸地自体が禁忌とされているのなら、その理由はなんだろう?
地図を眺めながらそんなことを考えていた時、入口の扉が勢いよく開けられた。
「キース!」
と、そこから顔を覗かせたファルが、大きな目をさらに真ん丸にして叫ぶ。
「どうした?」
肩で息をしているのを見るに、どうやらここまで走ってきたらしい。まだ捻った足が完治したわけじゃないのに──と思いながら立ち上がると、ファルが目と同じように大きく口を開けた。
「馬車が来たよ!」
「……なに?」
眉を寄せる。このキノイの里には、牛はいるが馬はいない。生活のほとんどを里とその周辺だけで賄っているので、必要がないからだろう。馬がいれば長距離の移動が楽だなと考えて、キースも探してみたのだが、一頭もいなかった。
それが、「馬車」?
「あのね、東の大陸から来たんだって。食べ物とか、布とか、苗とか、道具とか、たくさん荷物を乗せて、この場所全域をぐるっと廻ってるんだって。大陸のお役人さんていう人が一緒に来ていて、今、スーリオさんと話をしてるよ」
「すぐ行く」
素早く応じて、キースはファルと共に家を出た。
ニグルが以前、「最低限の生活必需品くらいはあちこちから施されている」と言っていたが、それらを運んできたということか。確かに、それすらなければこの土地における死者はもっと多くなる。いくらここがどこからも見捨てられているとはいえ、勝手に滅びろとまでは思われていないようだ。
ギリギリのところで存続できる程度を保ちたい──というのが、東西の大陸の国々の総意、なのだろうか。
しかし何にしろ、これはまたとない絶好の機会だ。上手くすれば、この里では手に入らない、生きた情報が得られる。なにしろキースたちはまだ、それについてはほとんど真っ白、という状況なのだから。
ファルの頬が興奮したように赤味を帯びているのも納得だ。キースは彼女が走りださないよう気にかけつつ、自分自身も少々早足になりながらスーリオの家へと向かった。
***
馬車の周りには、すでに里の住人たちがわらわらと集まっていた。
好奇心というよりは、単純に荷台の中に入っているものの中身を早く知りたい、ということのようだ。野次馬のように他の連中とわいわい騒ぐということはしないものの、今か今かとそこが開けられるのを待っている。彼らにとってはそれくらい、切実なものだということなのだろう。
二頭引きの荷車は、かなりの大きさだった。そして馬も、これに比べたら天界の馬はみんな貧相だと思わざるを得ないなと思うくらいに体格ががっちりしている。茶色の毛並みは陽の光に照らされて艶々と輝いており、栄養状態が良いのが見て取れた。
「おまえもあれくらい肉がつくといいんだがな」
ポロリと洩れた呟きは、しっかりファルの耳に届いてしまったらしい。
「あのね、いくらなんでも馬と比べないでくれる? わたし、キースの好みがよくわからないよ。ああいうむっちりとしたお尻がいいってこと? さすがにあそこまではちょっと」
「おまえこそ何か誤解してないか。おれはただ、今にも折れそうなその細い手足がなんとかならないかと思ってるだけだ」
「そのわりに目がいつも一定の場所に向かうよね」
「それは単に、判断の基準として」
「そういうところがデリカシーに欠けるって話だよ!」
ぼそぼそとくだらないことを言い合いながら、二人で馬車の向こうに目をやる。
スーリオの家の前で、彼と話している人物がいた。荷台の前には御者がちゃんと座っているから、それとはまた別の役目を負っているのだろう。
大陸の役人、とファルは言っていたのだったか。それにしては若い。それとも、これは下っ端の仕事、とでも決まっているのか。
どう見ても、二十代半ばくらいの青年。
こちらからは横顔しか見えないが、赤茶けた短髪と高い鼻、スーリオと言葉を交わしながら動かす口許には、明るい笑みが浮かんでいる。身なりは小ざっぱりとしているが、立ち姿はすらりと真っ直ぐで、どこか凛とした佇まいを感じさせた。
……と、キースがそこまで観察したところで、不意に男がこちらを向いた。
その瞬間、ぴりっとキースの肌に痺れるような緊張が走った。
口には変わらず笑いを残しながら、男の目は一直線に射抜くようにしてキースとファルに据えられている。刹那、その双眸に冷静で理知的な、測るような光が宿ったのをキースは見逃さなかった。
スーリオに顔を向け、一言二言会話をしてから、男はこちらに向かって歩いてきた。
キースがすぐ近くにある細い腕を掴んだのは、ほぼ無意識の行動だ。ファルが驚いたようにこちらを振り返るのを視界の隅に入れたが、キースの視線は男に向かったまま動かなかった。
「──やあ、君たちが化け物退治をしたという、勇敢な子供たち?」
明朗快活、としか表現のしようがない笑顔で、男は言った。
きっとスーリオから話を聞いたのだろう。化け物を弓矢で倒したのはキース、というデンの説明を、キースも特に否定しなかった。だから里人たちは今もそれを信じて疑っていないはず。
なのに。
なんだってこいつの目は、ずっとファルのほうにばかり向けられてやがる?
「驚いたね、森から化け物が出てくるなんて、前代未聞だよ。しかもそれをやっつけたのが、こんな小さな子供たちだとは。……まったく、来た甲斐があったというものだ」
最後の言葉は、独り言のように男の口から滑り落ちた。
ファルのほうに向けられていた目が細められる。普通に笑っている分にはひどく若く見える外見が、そういうことをすると一気に年齢不詳な雰囲気を醸し出した。なんだこいつは、と舌打ちしたいような気分で、キースは男の視線を遮るようにファルの前に出た。
男の視線がようやくこちらに移される。キースの頭から足までを不躾と言ってもいいほどの遠慮のなさで見回してから、男は唇の片端を上げた。
「なるほど。すると、君が……か」
意図的に音量が下げられたらしい部分は聞こえなかった。しかしこちらを注視する男の目の中に、間違いなく面白がっている色と、珍しい生き物を検分するような色が同時にあるのを見て取って、苛つきが込み上げる。
互いに睨み合うようにして向き合うキースと男に、ファルは戸惑っているようだった。男のほうを見上げ、そのまま瞬きもせずにじっとしている。
きっと、この男の「色」を見ているのだろう──とキースが思うと同時に、男が笑みをたたえながら口を開いた。
「俺は何色だい?」
キースが息を呑む。ファルがびくっと身体を揺らした。
「え……あ、あの」
動揺をそのまま顔に出しているファルを見て、男の唇の角度がさらに上がった。カマをかけられた、と気づいたところでもう手遅れだ。すぐさま、ファルの腕を強引に引っ張り、キースは踵を返した。
すたすたと歩を進めても、後ろから引き留める声はない。ただ、いつまでも視線が追ってくるようで、背中にじわりと汗をかいた。
──あいつは一体、何者だ。
***
家に戻ると、ガンと音を立てて乱暴に扉を閉め、キースはファルのほうを向いた。
「ファル、すぐにキノイの里を出るぞ」
いきなりの宣言に、ファルが目を白黒させて、「え……えっと」とどもりながらキースを見返す。
「す、すぐ?」
「そう」
「でも、まだ……」
「準備万端という状態には程遠いが、それでもここにいるよりはマシだ」
吐き捨てるように言ってから、ファルが困惑しきった表情をしているのに気づき、口を噤む。
それから、ぼそりと言葉を落とした。
「……イヤな感じがするんだ」
あの男が何者なのか、どうしてファルの能力のことを知っているのか、不明な点は数々あるが、それを究明したいという欲よりも、嫌な予感のほうが上回った。
ぞわぞわとした冷気が背中を這い上っていくような気持ち悪さだ。勘、と言ってしまえばそれまでだが、キースは今までの経験から、そういうものが時にひどく重要な役割を果たすことを知っている。
「今、すぐ?」
「いや、少なくとも、あいつらが里を出ていくまでは待つ。もしもこれからあの男がここに来ようが、何らかの働きかけをしてこようが、おまえは絶対に出ていくなよ」
「う……うん」
キースの厳しい口調と剣幕に押されているのか、ファルは何も反論することなく、こっくりと頷いた。
「あの人……」
ぽつりと呟いて、目線を中空に浮かせる。男のことを思い出しているのか、ぼんやりとした調子の声だった。
キースも息を吐いて、気持ちを落ち着かせるように努めた。頭に血を昇らせては、判断を誤るもとだ。
こんな時は、敢えて思考を別方向に逸らすに限る。声音を普段のものに戻して、改めてファルに問いかけた。
「──あいつは、どんな『色』だった?」
ファルが考えるように眉根を寄せる。
「ん……いろんな色が混ざってた。赤とか、濃紺とか、深緑とか。どれもはっきりした色だったから、きっとものすごく、意志の強い人なんだと思う」
意志の強い人、か。それは決して良い方向に向くものだとは限らないが。
「でも、全体的にその色に薄く靄がかかってる感じ。うーんと、なんていうか、『本当の自分』を見せたくない、って思ってるのかな」
「本当の自分ね……」
正直なところ、キースはあの男の内面などにはまったく興味が湧かない。知りたいのはファルにとって脅威となるような人物なのか、自分たちに敵対するような立場にいるのか、ということなのだが、ファルに見える「色」はそこまで判別することは出来ないらしい。便利なのか不便なのか。
「とにかく、あいつらも一応役目をもってここに来たのなら、いつまでもキノイの里にだけ留まっているわけにもいかないだろう。出て行かなきゃ、なんとか隙を見つけてこちらのほうが先に里を出るまでだ。……本当は、おまえがもっと自由に動けるようになるのを待ちたかったんだが」
「うん、平気だよ。全速力で走ることはまだ無理かもしれないけど」
じゃあ、今のうちに荷造りしようか、とあっけらかんと言ってファルが動き出す。なんでどうしてと質問攻めにされたり、嫌だ嫌だとゴネられないのは楽でいいが、いつものことながらあっさりしすぎていて、キースのほうが拍子抜けしそうだ。
本当に何も考えてないんだな──と呆れたように思いかけてから、いや、と考え直した。
もしかしたらそれだけ、キースのことを信用している、ということなのかもしれない。
「……ファル」
「うん、なに?」
呼び止めてはみたが、それからどうしよう、としばし悩んだ。目の前に立っているこの女の頭に手を置いてぐしゃぐしゃに撫ぜてやりたい気分なのだが、身長的に難しい。出来ないことはないが、その絵ヅラは、なんともいえず間が抜けている。
結局、中途半端なところで止まってしまったキースの手を、ファルがぎゅっと握って、にこっと笑った。
……うん。これはこれで、いいか。
***
しかしキースの予想に反して、馬車はあっさりとキノイの里を出ていった。
下ろしていった荷を分け合うことで大わらわな住人たちに確認してみたが、御者もあの男も里人たちに別れを告げて、間違いなく去っていった、とのことだった。
考えすぎだったか……?
安堵と不審で半々、という気分で訝しむ。必ず何かしらの接触はあるだろうと踏んでいたのに、男があの後、家にやって来ることもなかった。
とはいえ、全面的に安心できるものでもない。この土地を廻ってまたここに戻ってくる、というのも大いに考えられる。いずれにしろ、あの正体不明の男が、このまま二度と姿を見せなくなる、というのはキースにはどうも信じがたかった。
やっぱり早めに里を出ていくに越したことはない。
里の住人たちに知られたら何かと厄介なので、キースとファルは何も言わずに出ていくことに決めていた。大きな荷物を持っているところを見咎められないように、夕闇が落ちてから発とうと二人で話し合う。最初からいきなり野宿になるわけだが、仕方ない。
道行きは決して楽なものではなく、不安要素も数えきれないほどあるのだけれど。
……それでも、道の先にあるのは、暗いものばかりではないはずだ。
すっかり荷物をまとめて、あとはもう陽が落ちるのを待つばかり、という頃になって、ファルがそわそわしはじめた。
「あの、キース」
「ん?」
「……デンさんには、ちゃんとお別れを言ってきてもいい?」
「…………」
そういえば、アストン屋敷に連れて行く時も、同じようなことを言われたな、となにがし懐かしい気持ちで思い出す。家畜とデンを同じように考えてはいけないかもしれないが、どちらもファルにとっては貴重な存在だということなのだろう。
そういう相手に黙って立ち去るのは苦痛だ、と考えるのは理解できる。ファルの周囲にそんな存在がほとんどいなかった分、比重が重くなるのも当然だ。
「……きっと、引き留められるぞ」
デンにとってキースとファルは、得体のしれない天界人であろうと、まだ「子供」なのである。デンは必死になって止めようとするだろう。それが容易に想像できるから、デンにも言わないでおこうと思っていたのだが。
「説明して、説得するよ。わたしたち、『未来』を見つけに行くんだよ、って」
ファルはしっかりした口調で言いきった。それがファルなりの誠意の示し方であるというのなら、キースにはもう言うことはない。
「ニグルさんのところには、行かないほうがいいよね。わたしたちがいなくなったら、もっと元気になるかな」
こいつ、まだそんな風に思ってるのか。別にいいけど。
「……じゃ、行って来い。おれも後から行く」
自分がいると、デンは言いたいことも言えないかもしれない。そう思って、キースは言った。
「うん。じゃあ、いってきます」
「転ばないようにな」
「子供に見えても、子供じゃないよ!」
笑いながら片手を挙げて、ファルは外に出ていった。
***
しばらくして、そろそろ自分も行くかと腰を上げた。
ファルの「説得」は首尾よく進んだのか、気になるところである。今まさに愁嘆場の真っ最中だったら、どうするのが一番いいのだろう。間に入るか、見守るか。キースもデンには世話になったと思っているので一言くらいは礼を言いたいが、果たしてそんなヒマがあるだろうか。
そんなことを思いながら家を出て、数歩進んだところで。
向かう先から、ものすごい勢いで誰かがこちらに走ってくるのが見えた。
「ニグル?」
ファルが化け物に襲われている、という一報を聞いた時のニグルもこんな形相で駆けだしていたな、と思い返す。この人物は大抵、言うことと行動とが一致していないので、ファルの誤解も解けないままなのだろう。一目見れば、すぐに判ると思うのに。こんな風に顔の傷を隠すことも忘れるほど髪を振り乱して走るのは、誰のためなのかって──
そこで、さあっと心臓が冷えた。
地面を蹴って、走り出す。ニグルがこちらに向かってくるより数倍の速さで駆け寄り、「どうした」と鋭い声を出した。
「キ、キース、た、大変、なの。ファル、あの子、あの子が……」
喘ぐニグルは真っ青だった。このところ外を出歩くことが多くなり、それに伴って食事も摂るようになったというニグルが、また以前のような顔色に戻って、眦に涙を溜めている。
「ファルがどうした」
「さ、攫われた……!」
それを聞いて、一瞬、身体が硬直した。
攫われた?
「誰に。いつ」
「わ、わからない。デンのところに行ったら、デンが気を失っていて。どうしたの何があったのって慌てて揺り起こしたら、やっと目を覚まして、『ファルが連れて行かれた』って……死に物狂いで止めようとしたけど、ダメだったって。デンはもうすっかり取り乱していて、泣いて叫ぶばかりで、何がなんだかわからない。け、けど、ファルが誰かに──」
最後まで聞く前に、キースは反転して再び走り出した。
里を出て、草原に入る手前で、男を見つけた。
今日の昼間、馬車に乗ってきた若い男。出ていくふりをして、どこかで機会を窺っていたということか。ここまで性急な行動に出るとは思わなかったキースが迂闊だったのだ。
男はどうやら、その場所でわざわざキースが来るのを待っていたらしかった。すらりと立って笑みを浮かべるその姿には、焦燥のカケラも見いだせない。
いかにも力のなさそうな細身なのに、片方の腕だけで軽々とファルを抱えている。
「ファル!」
怒鳴るようにして名を呼んだが、くったりと身体を折り曲げているファルの反応はなかった。薬か何かの手段で、意識を失わされたのだろう。
「そいつを離せ。さもないと……」
家から持ってきた弓に矢をつがえ、キースは無表情で言った。猛獣のような眼光で放たれる威圧感は凄まじいものだったが、男はさして気にする様子もない。
「その矢で俺と勝負するかい? 化け物をやっつけたくらいなんだから、君の腕は確かなのかもしれないけど」
軽やかに言いながら、「何か」をキースに向けた。
「矢とコレと、どっちが早いかな」
「……?」
キースにはそれが何であるのか判らなかった。小さな頃から一通りの武器を目にし、習熟してきたはずのキースでさえ、はじめて見るものだった。男の言葉からしてそれが武器であることは推測がつくが、どのような形で使用され、攻撃してくるものなのか、さっぱり判らない。
黒々とした、鉄の塊……に、見えるもの。
小さな穴が、こちらに向けられている。
男がくすりと笑った。
「知らないんだ、やっぱりね。東の大陸でも西の大陸でも、これを知らないのは生まれたての赤ん坊くらいさ。実際に見たことはなくても、手に取ったことはなくても、これが『銃』だってことは、みんな知ってる」
「……銃」
はじめて、耳にする名前。
困惑を含んだ呟きを耳にして、男がますます笑った。その笑いはかなり皮肉に彩られている。
「まったく、天界人ってのは、救いようがないね」
矢を構えたまま、キースの動きが停止した。
スーリオや里人にさえ言わなかったデンとニグルが、この男に話したはずはない。
じゃあ、どうして知ってる? 地界人は、天界と天界人の存在を知らない──そうではなかったのか。
「地界に堕ちて最初に見たのがこの場所で、地界および地界人ってのはこの程度なのかとすっかり侮っていたんだろう? 粗末な衣服で、隙間風の入る木の家で暮らしていて、自分の手で食料を得るために奔走し、ロクな武器もない。地界っていうのは原始人たちの住むところだと、すっかり高を括っていた。そうじゃない?……まったく、だから救いようがないって言うんだよ。自分たちの『美しい暮らし』がどうして成り立っているのか、それを考えもしないで」
言いながら、男の手が動いた。
指がくいっと曲がるのを見て、キースは咄嗟に飛び退った。それがどのような性能を持つ武器なのかまったく判らない。しかしこれまでの経験で育んだ本能がもたらす、回避行動だった。
……でも、間に合わなかった。
パン、という軽い音がしたと思ったら、右足に衝撃が来た。片足だけ吹っ飛ぶような衝撃だった。
熱い、と思うと同時に、激しい痛みが脳天を突き破るようにして襲ってきた。
「……ぐっ!」
もんどりうつように倒れ、反射的に右腿を両手で押さえる。指の間からどす黒い血が噴き出して、どくどくと溢れるように流れ出した。麻の服がどんどん赤色に染まっていく。
押さえた部位には、ぽっかりとした穴が開いていた。
「悪いね、今は邪魔をされたくないんだよ。せっかく見つけた『天人』だ」
地面に転がり、右足の激痛に苛まれながらも、キースの耳はちゃんとそれを聞き取った。
天人?
天界人と、天人。同じような言葉なのに、明らかに男の出す声の響きは違っていた。
「天人の存在が知られたら、国同士の熾烈な争奪戦がはじまる。そんな面倒なことになる前に、俺たちの手の中に入れておきたい。……君は天人の宝だろうから、殺しはしない。この子に会いたければ、リジーにおいで」
「……っ」
リジー。あの大国に。
ファルと二人で行くはずだった国。
「俺は、クイート」
男は笑顔でそう言うと、悶絶しているキースにくるりと背中を向けた。
そして悠々と歩き出す。ファルを抱えたまま。
「ファル!……起きろ、ファル!」
汗まみれで声を嗄らして叫んでも、ファルは目を覚まさない。キースの位置からは、顔も見えない。どんどん遠ざかっていく。
手離せないと、ようやく気づいたのに。
その手から、再びファルは強引にもぎ取られてしまった。
──わたし、キースとなら、世界の涯にだって行けるよ。
「ファル!!」
夕日に照らされ金色に輝く広々とした草原に、キースの絶叫が響き渡った。
(第二部・終)




