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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第二部・地
36/73

おとぎばなし



 雲の上にあるもう一つの世界のこと。その場所でも、地界と同じように多くの人々が暮らしていること。時にそこから堕とされる罪人が、咎人の森に──こちらでは「呪われた森」と呼ばれるところに、化け物の姿となって住み着いていること。

 そして、自分たちも天界からやって来た人間であるということ。

 キースはそれらのことを、なるべく要領よく、一切の私情を交えず簡潔に説明していった。

 口を動かしながら、デンとニグルの反応を窺う。

 ……まあ、大体、予想通りではある。デンはぽっかりと目も口も大きく開けて、ニグルは立ったまま彫像にでもなったように身じろぎせず、ひたすら呆気にとられたような顔で一言も言葉を発さずに固まっている。

 彼らがこちらを見る目には、動揺や恐怖よりも、困惑と混乱ばかりがあった。

 ファルもまた、キースの隣で大人しくちょこんと座り、同じように話を聞いている。特に補足したり弁解したりする気はないのか、何も言葉を挟んでくることはなかった。ちらちらとデンとニグルの顔を交互に見ては申し訳なさそうに眉を下げるのは、驚かせてごめんね、とでも考えているのだろう。

 昨日草原に現れた化け物については、天界におけるキースとファルの知り合いだった、ということだけ話し、どういう知り合いだったかということと、ユアンのことは、すべて省略した。そのあたりを説明するとややこしくなるだけだし、そこまでの必要も感じない。

「いや……俺は、なんていうか、よくわからないんだけどよう」

 一通りを話し終えると、しばらくの沈黙を置いて、デンがしどろもどろに掠れた声を出した。家の中は暑くもないのに、しきりと額の汗を拭っている。

 デンは何事につけ、動作も思考もゆっくりで、決して、「目から鼻へ抜ける」というタイプではない。こんな内容をすぐに受け止めて理解するのは相当に難しいだろう、ということはキースにも判る。かといって、そんなこと信じられるもんかと、直ちに突き放すことも出来ないのは、やっぱりこの人物の人の好さを如実に示している気がした。


「……けど、それはそのう、お伽噺だろう?」


 おずおずとした口調でそう言うデンの目には、キースが物語と現実を混同しているのではないかという、不安げな色が乗っている。

 その言い方と、「お伽噺」という単語が、キースの頭に引っかかった。少し座り直して姿勢を正し、正面からデンに向かって問い返す。

「お伽噺、っていうと」

「いや、その、気を悪くしないでもらいたいんだけど、でもそれは、その」

「いいんだ、デンの思ったことを言ってくれ。あんたが言う『お伽噺』っていうのは、どういう話のことを指してるんだ?」

 キースが腹を立てたのかと慌てて首を振るデンに、出来るだけ穏やかな声で重ねて訊ねる。急くような気分はあるが、ここでデンを怯えさせてはまともに話が進まない。ファルのほうから聞いてもらえればデンも安心して喋れるのかもしれないが、よく判っていないらしいファルは、デンと同様にキースのほうを見て、不思議そうな顔をしている。

「だ、だから、その……」

 デンは落ち着かなさげにそわそわしながら、キースを見て、ニグルを見て、ファルを見た。

「子供を寝つかせる時に母親が話して聞かせるような、空想の物語のことさ。お、俺は、兄弟が聞いているのを、隅っこでなるべく邪魔にならないように、耳に入れていただけだけど、よく覚えてるよ」

 デンの子供時代は、あまり恵まれたものではなかったらしい。その台詞の端々から読み取れることよりも、母親や兄弟という言葉を出す時のデンの寂しげな表情から、それは容易に推測できた。



「──昔々、天には神々が住んでおられて、美しく清らかな毎日を送っていた。ある日、一人の女神が地上に降りてきて、人間の若者と恋に落ちた。二人はずっと一緒にいたいと願ったけれど、神は地上では暮らせない。しかし若者は女神と別れたくはなかった。そこで女神は若者と、若者が寂しくならないようにその友人たちとを一緒に天に連れて帰り、神々も彼らを喜んで迎え入れた。女神と若者は仲睦まじく暮らし、たくさんの子供を産み育てて、神々や友人たちと共に、天で幸せな日々を暮らした……そんな、話だよ」



「…………」

 キースはじっと目線を宙に据えた。

 デンの語る内容は、確かに普通に聞けば、「お伽噺」としか言いようがないものだ。

 寝る前のほんのいっとき、子供が想像の世界から夢の世界へするりと移動することが出来るようにと聞かされる、他愛なく微笑ましいだけの、神と人との恋物語。

 ……しかし、天界は実際に存在する(・・・・・・・・・・)

 お伽噺というものは、大なり小なり、民話や伝説や神話を基にして作られていることが多い。そしてそれらの中には、少なからず形を変えた事実を含んでいることもある。

 もしもこの話にも、そういう部分があるとしたら、それはどこだろう?

 天には昔、神々が住んでいた、というところか。

 地上に降り立った女神が、若者と恋をした、というところか。

 その若者と友人たちを一緒に天に連れ帰った、というところか。

 たとえばそれらが、本当にあったことだと仮定して。


 この場合の「若者」とは、天界の礎を築いたという始祖。

 そして「友人たち」というのが、のちの天の一族の五家となる、ゴスウェル、マクラム、オレット、ミドレア、ライリーの名を持つ者たちだったのではないか?


 ……だとしたら。

 キースの胸をひやりとしたものが撫で上げた。

 膝の上に置いた拳をぐっと握りしめる。ほとんど無意識に、目線が隣のファルに向かった。

 昔々、天には神々が住んでおられて──



 だとしたら、天界には元々、先住していた(・・・・・・)生物がいた(・・・・・)、ということにならないか。



          ***



「……どうかした? キース」

 ファルに問われて、はっと我に返った。

 いつの間にか、キースはファルのほうを凝視するように見つめていたらしい。こちらに向かってくる蜂蜜色の瞳には、不審よりも心配のほうが濃く現れていた。

「いや……なんでもない」

 内心の動揺を押し隠し、デンのほうに顔を戻す。

 そうだ、今はそんなことをじっくり考えている場合じゃない。大体、キースの頭を過ぎった考えは、愚にもつかない妄想に近いものだ。

「──とにかく、そういうことだ。おれとファルは天界からやって来た人間なんだ。もちろんすぐに信じるのは無理だと思うが」

「な、なに言ってるんだか、さっぱりわからないわ。あんたたち、森の化け物を見たことで頭に血が昇って、おかしな考えに憑りつかれちゃったのよ、きっとそうよ。て、天界なんて……雲の上の世界なんて、そんなもの、あるはずない。ましてやそこに、私たちと同じような人たちがたくさん暮らしている、なんて、そんな」

 上擦った声は、すぐ前に座るデンではなく、横手から投げつけられた。

 土間のほうに目をやれば、青い顔をしたニグルが、歪んだ笑いを口許に貼り付けて、吊り上がった目をキースに向けている。

 彼女の唇はひくひくと引き攣って、糊で固めたように組まれたままの腕は小さく震えていた。怒ったような表情は、どこか泣き出しそうな子供のようにも見えた。

 ファルがさらに申し訳なさそうに身を縮める。

「だ、大体、その馬鹿らしい話が本当だとして、変じゃない。そうよ、おかしいわよ。その天界とやらから堕ちた人間は化け物の姿に変わるっていうのなら、なんだってあんたたちは、変わらないのよ? あんたたちも天界から来たっていうのなら、どうして」

 甲高い声で出されるニグルの糾弾は、そこでぷつりと途切れて止んだ。

 きっと、昨日のことを思い出しているのだろう。彼女はその目で、キースが確かに化け物の姿に変じようとした瞬間を目撃している。

「…………」

 そう、そうだな。

 キースは口を噤み、内心で思う。

 ニグルのその疑問には、同意せざるを得ない。

 森の化け物には天界で押された罪人のしるしが残っていた。草原で対峙したあの化け物がイーセンであったことに疑う余地はない。そしてキースは子供になり、そこから化け物になろうともしていた。

 天界人は、地界では、「形が変わる」。

 天界で流れていたその話は、嘘でも出鱈目でもお伽噺などでもなかった。これらの事柄から導き出される、まぎれもない事実だ。

 地界に堕ちても何ひとつ姿が変わらなかったのは、ファルただ一人。


 それはファルが、天界人であって(・・・・・・・)天界人ではない(・・・・・・・)、ということを示しているのではないか──


「……正直、そのあたりの理由はよく判らない」

 ぼそりと言う。それもまた、キースの率直な返答だった。

 事実から推測されることはあるが、まだ確証には至っていない。そもそも、天界の人間がなぜ地界では化け物になるのか、危ういこともあったとはいえなぜキースは現在も子供の──人の姿をしているのか、肝心なことはまるで判っていないのだ。

「おれはただ、あったことを順番に話しているだけだ。最初に言ったが、信じるか信じないかはあんたたちが決めればいい。おれたちの顔を見たくもないというのなら、もう関わらなければいい。他の連中に話すかどうかも、あんたたちの勝手だ」

 キースは普通に言ったつもりだが、その声や口調はひどく冷淡に響いたらしい。ニグルはさらに顔色を変えて眉を上げ、ぎゅっと強く口を引き結んだ。

「お、俺はよう、キース」

 デンが遠慮がちに口を開く。

「頭の回転が悪いから、こんなこと、すぐにはついていけねえよ。今もまだ目の前がぐるぐる廻って、頭の中がごちゃごちゃになってるくらいだ。……だから悪いんだけど、もうちょっと、考える時間をくれるかい」

 それはキースに許可を求めるようなことではないと思うのだが、デンは非常に真面目な顔つきをしていた。

「じっくり考えて、結論を出すよ」

 その結論とは、キースの話を信じるか信じないか、ということなのか、今後キースたちにどういう態度で接するか決める、ということなのかよく判らなかったが、キースは頷いた。

「それにこんなこと、他の誰に話したって、マトモに取り合っちゃくれねえだろうしなあ」

 そう言って、デンはちょっとだけ困ったように笑った。確かに、草原での顛末を見ていなければ、こんな話を聞かされたところで、ただ一笑に付すだけのものだろう。

 ──この二人が、笑い飛ばしたり、怒りだしたり、こんな馬鹿げた話は聞く耳持たないと席を立ってしまわなかっただけよかった、と思うべきなのだ。

「わかった」

 と返事をして、立ち上がる。ファルも腰を上げ、デンのほうを向いて、「ごめんね、デンさん」と小さく言った。

「その……ファルは」

 別れを告げ、その場を立ち去りかけようとした時、デンがちらちらとキースを窺いながら、ファルに向かって声をかけた。

「これからも、その、変わりなく、うちに手伝いに来てくれるのかい?」

「え」

 びっくりしたようにファルが目を見開く。

「わたし、今までと同じように、来ていいの?」

「ああ、うん、来てくれると助かるし、俺も嬉しいんだが……あ、いや、そりゃもちろん、お前さんの時間がある時で」

 デンがうろうろと視線を彷徨わせている。

「…………」

 ファルはまじまじとその様子を見てから、ゆっくりと口許を綻ばせた。

「──うん、来るよ。明日も来る」

 そうか、とホッとしたようにデンが目尻を下げる。

 ガタン、と大きな音がして、そちらに目を向けると、背中を向けたニグルが、怒ったように足音も荒く家を出ていくところだった。



         ***



 出来るだけ早く東の大陸に渡りたいのは山々なのだが、それでもやっぱり、すぐに、というわけにはいかない。

 せめて最低限の装備を揃えて、この陸地の端まで行くのにどれくらいの日数がかかるのかを調べる必要がある。とても一日や二日で準備できるものではない。デンとニグルがそれぞれどういう「結論」を出すのかは不明だが、それをただのんびりと待っているつもりもなかった。

 家に戻ってから、早々に地図を広げて見入る。すでにそこに描かれてあることは大半記憶してしまったが、それでも細かいところまで頭に叩き込んでおくに越したことはない。

 そこにファルがとことこと歩み寄ってきて、傍らにしゃがみ込み、一緒になって覗き込んだ。

「東の大陸って、広いよね」

 改めて感心したように言う。

「そうだな。首尾よく大陸に渡ることが出来たら、まずはこのリジーに向かってみようと思うんだが」

 東の大陸で最も面積の広い国。地理的に考えても、おそらくここが地界における「大国」なのだろう。だとしたら大陸の中で文化も文明も発達しているのは、ここのはず。


 デンから聞いた「お伽噺」の内容をより深く調べるのなら、そういう場所のほうがいい。


「ふうん。どんな国なんだろうね」

 ファルはどこまでも呑気な口調である。

 今までほとんど興味を示さなかったので、ファルがちゃんとこの地図を見るのはこれが二度目くらいだ。おまえには好奇心や探究心というものがないのか、という皮肉が口をついて出そうになったが、せっかくの機会を無駄にすることもないかと思って我慢した。

「この地図を見る限り、『ここ』にはあまり高低差はないな。これなら徒歩でもさほど難渋する場所はないだろう。西の大陸は険しい山脈が連なっているが、東のほうはそうでもないようだし……」

「へえー、地図って見るだけでそんなこともわかるの? 便利だね」

「…………」

 無邪気に感嘆するファルを見て、キースは口を閉じた。

「──ちなみにファル、この地図に書いてある国名は、当然すべて読めるよな?」

「…………」

 今度黙ったのはファルのほうだ。

「うん? うーん、うん」

 と曖昧なことを言いながら、明らかに目が泳いでいる。

「片っ端から読んでみろ」

「あっ、そうだ、そろそろご飯の支度をしないとね」

 そそくさ逃げようとしたファルを捕まえ、キースは厳しい声を出した。

「よし、どちらにしろ里を出るまで時間がある。それまで簡単な読み書き計算を徹底的に勉強するぞ」

 ええ~、とファルが情けない声を上げた。



 普段、反抗というものはあまりしないファルだが、それは実に、骨の折れる作業だった。

 キースが教えるのは基本中の基本くらいのところなのに、集中力がまったく持続しない。地図に載っている国名をすべて読んで書き取るだけのことに一時間、四則演算は桁が増えると途端に怪しくなり、「疲れた」「眠い」「指が痛い」「頭も痛い」と次から次へと泣き言を繰り出してくる。

「……おまえ、働いてる時は愚痴も文句もまったく言わないくせに……」

 さすがにキースのこめかみも引き攣りそうだ。

 頭はそう悪くないはずなのに、要するに、ファルはこのテのことに、これっぽっちも意義が見いだせないらしいのだった。こんなものを覚えたところで一体なんの役に立つのかと、かなり本気で思っている。実際、これで今まで過酷な環境を一人生き抜いてきたのだから、そこには経験を伴った確信があるわけで、よりタチが悪い。

「ファル、いいか、東の大陸では何があるか判らないんだ。その時に文字も読めない、計算も出来ないじゃ、困ることになるかもしれないんだぞ」

「ぜんぜん出来ないわけじゃないもん」

「おまえが出来るのは最低限、本っ当に最低限のレベルのところだということを自覚しろ」

「でも別に困ったことないし」

「だからこれから……」

 これまで育った過程がまったく違う二人の言い合いは、延々と平行線を辿るだけである。



「とりあえず、ちょっと休憩しようよ、キース」

 今にも倒れそう、と訴えるファルに、キースもため息をついた。確かにこんな状態では、どれだけやっても時間の無駄という気がする。

「わかった、今日はおしまいにしよう」

 その言葉に、ようやくファルの顔が明るく輝く。打って変わったような元気さで、ぱっと立ち上がった。

「じゃあ、何か飲むもの用意するね! キースは温かいのと冷たいのとどっちがいい? そういえばこの間デンさんにもらったんだけど……」

「待て」

 今にも家の外に飛び出してしまいそうなファルの手を掴み、引っ張り戻す。小さくて軽い身体は、それだけで難なく座っているキースの腕の中に転がり込んできた。

「おまえ、休む、って言っただろ」

「う、うん。だから今、飲み物を」

「そのついでにバタバタと動き回るんだろうが。それのどこが休憩だ」

「……でも、じゃあ、どういうのを『休む』っていうの?」

 困り果てたような顔が、キースを覗き込む。どうやら本気で戸惑っているらしい。

「じっとして、座ってろ」

「ええー、そんなの余計に落ち着かないよ」

「いいから」

 言うと同時に、ファルの身体をくるりと廻して、後ろから抱きすくめた。こうして固定していないと、この子ザルはすぐにちょこまかと動き出すに決まっている。

 とはいえ、大人の時であればそれなりに絵になったかもしれないが、現在ファルとそう変わりない背丈のキースがこうしても、なんとなく背後からしがみついているようで、今ひとつ間が抜けている。不本意だ。

 つい、はあー、と大きなため息が洩れてしまう。

 しかし、ファルが本当にその格好のままじっとして黙っているので、ん? とキースは訝しそうに眉を寄せた。珍しい。いつものファルなら、騒ぐか暴れるかへらへら笑うかのどれかだと思っていた。

 そして、気づいた。


 ──後ろから見える小さな耳が、赤く色づいている。


「…………」

 そうか、一応、そちらの方面でも「成長」はしているわけか、と納得した。

 ……まあ、それなら、それで。

 ファルの身体に両腕を廻したまま、すぐ前にある肩に顎を乗せる。ファルがぴくりとわずかに揺れた。

 キース自身も、こんなこっ恥ずかしい態勢で、誰かと密着したことはない。自分という人間に似合わないことも承知の上だ。いろんなところがくすぐったくてしょうがない。

 ま、いいか。現在のおれは「子供」だしな。

 都合よくこんな時だけ子供であることを肯定して、キースはそのまま、か細いその身体を抱きしめ続けた。

 ファルの熱を感じながら、目を閉じる。



 ……はじめて会ってから別れた時。白雲宮でユアンの手によって穴に放り込まれた時。化け物に捕われているのを見た時。自分自身が闇の中に呑み込まれそうになった時。

 何度も何度もあったはずの分岐点で、キースは必ずファルのほうに手を伸ばす道を選んできた。どうしても、そうせざるを得なかった。この存在を失うことは出来ないと、頭で考えるよりも先に、心がすでに答えを出していた。

 今のこの自分に何が出来るのかと、いくら理屈を積み重ねたところで、そんなものは一瞬のうちに吹っ飛んで崩れてしまう。動いてしまってから、イヤになるほど思い知らされることになるだけだ。

 結局、手離せないと。



 ファルの正体が何であろうと、構わない。

 ──キースが生きていくためには、この少女の存在が必要なのだ。





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