重なる手
「……二人で、生きていける、場所……」
一言ずつを噛みしめるように、ファルはゆっくりと口の中で繰り返した。
「そうだ」
キースがファルの目をまっすぐに見て、頷く。
「……実を言えば、前々から、キノイの里を出ることは考えてたんだ。西の大陸に渡るのはかなり難しそうだから、東の大陸を目指すつもりでいた。もちろん、それも簡単にはいかないだろうし、そもそも徒歩でどれくらいかかるのかも、東の大陸に繋がる道に至るまでにどういう経路を辿るのが最善なのかも判らない。せめてもう少し調べて、準備をしっかり整えてからにしようと思っていたんだが」
「…………」
そんなことをキースが考えていたとは、ファルには初耳だ。
一体、彼はいつからそんなことを計画していたのだろう。それでは、弓矢を使いこなせるようにしていたのも、ファルが手伝いのためにあちこちの家を廻っている日中、キースはキースで何か活動していたらしいのも、すべてそのことを念頭に置いていたものだったのか。
「でも……どうして?」
天界には帰らない、という意志が現在のキースにあるのは判った。しかしだからといって、このキノイの里を出て、東の大陸へ渡る、というのはまた全然別の話だ。ようやく慣れてきたここを離れ、まだ見も知らぬ土地へ行こうという、その目的が判らない。
キノイの里には食べ物もあるし、住むところもある。この場所にだって、「生きていく」ために必要なものは揃っているはずなのに。
「ここには、『先』ってものがない」
キースが首を横に振り、静かに出した言葉は、デンが自嘲と共に言いきったものと、よく似ていた。
──ここは、どん詰まりの行き止まり。
「人と交わって生きることを放棄した人間が、逃げ場所として選び、集まっているのがこの場所だ。みんなが望郷の念を捨てきれず、でも戻ろうという気概も持てないまま、結局はすべてを自分の中に押し込んで蓋をし、そのことに見ないフリをして毎日を暮らしてる。おまえだって言ったろ、『過去ばかりに縛られて、死んだように生きてはダメだ』って。ここでは、新しくはじまるものが、何ひとつとして存在しない。誰もが、自分の中で自分の人生を完結させてしまっているからだ。……おまえには、そんな場所は、似合わない」
「……?」
ファルにはやっぱり、よく判らないままだった。
地界に堕とされてから、天界に戻りたいと思ったことはないが、他のところに行きたいと思ったこともない。ユアンのところへ戻りたがっている(とファルは思っていた)キースはともかく、ファルはただ、このキノイの里で、衣食住が足りていて、その日一日を過ごせれば、それでよかったからだ。
働いて、食べて、寝る。天界でもずっとそうしてやって来たのだし、この地界でも同じようにして暮らしていくことに、なんの疑問もなかった。
生存が出来れば、それで問題はない。それ以上のものを望んだこともなければ、そもそも考えもしていない。キノイの里は、そういう意味で必要なものが揃っていて、ここを出て別のところに行こうなどと、思考の端にも引っかかったことはなかった。
……ましてや、似合う、似合わないなんて。
「ファル、おまえは一度でも、自分の未来ってものを考えたことはあるか?」
ファルがよほど途方に暮れた顔をしていたからか、キースが再び握った手に力を込めて、真面目な表情で訊ねた。
「み……未来? 未来、って」
ぱちぱちと目を瞬いて、困惑気味に同じ言葉を繰り返す。
自分の「未来」? そんなもの。
──考えたことは、ない。
だってそれは、ファルにとって、「考えてもしょうがないもの」の最たるものであったからだ。
一日一日をなんとか生きていくのが精一杯。その日の夕飯のことか、翌日の朝陽が見られるかなと思うくらいがやっとだった。
考えたところで、せいぜい明日のことまで。ファルにとっての「この先」とは、その程度のものでしかなかった。
運よく今日を生きられたとしても、明日はどうか判らない。そんな人間が、一年先や十年先のことを考えたってしょうがないではないか。
「だってそんなの……考えたって、わからないし」
もごもごと言って、目を伏せる。握った手をぐっと引っ張り、キースが強引にその顔を上げさせた。
「天界ではそうだったろうさ。けど、今のおまえは違うだろ。この地界は、天界よりもずっと広く、まだまだ知らないこともある。おまえが手足を黒くして働き回っていても白い目で見るやつはいないし、理不尽な暴力を振るって頭を押さえつけようとするやつもいない。その気になれば食い物も寝る場所も自分で確保できる。ここでなら、おまえは天界よりもずっと自由に生きられるんだ」
「…………」
ファルはぽかんとして口を丸く開けた。
その単語はちゃんと聞き取れたし、意味ももちろん知っている。なのにどうしても、胸の奥まで浸透していかない。それほどまでに、自分とは縁のないものだと思っていた。
自由──
「そうだ、自由だ」
キースはもう一度、じっくりと噛み砕くように言った。
「ここにいるおまえはもう、誰かに小突かれながら従うことを強要されることはない。天界では、おまえはおまえの人生を自分で変えることは難しかったかもしれないが、地界に来て、それは白紙に戻された。これからのおまえの人生は、おまえ自身が選んで、決められる」
そして、おれも、とキースが続けた。
「……おれも、自分の『未来』についてなんて、ほとんど考えたことはなかった。おれの場合は、おまえと違って、考えなくても決まりきっていたからだ。ユアンの許で影としての仕事を続けること、ユアンが死ねと言うまで自分の命を長らえさせること、その二つしかなかった」
もしかしたら、他にも選択肢はあったのかもしれないけれど。
キース自身に、それ以外の道を行こうとする意志がなかった。
「だけど、地界に堕ちて、おれにはその未来がなくなった」
そう言ってから、キースは口を閉じた。考えるような沈黙を挟んでから、また言い直す。
「いや、違う。……自分から、手離したんだ」
自分自身に確認するように、ひとつ頷いた。
「そうだ。白雲宮の最深部の穴に、ユアンがおまえを放り込んだあの瞬間に、おれはその未来と決別することを自分で選んだんだ。だから今のおれは、おまえと同じで、白紙の状態にある」
キースの目がまたファルのほうへと戻ってきた。落ち着いた碧は揺れもせず、一直線にこちらに据えられている。
「──ファル、これから、おれと一緒に、自分たちの『地界での未来』を考えてみないか」
「…………」
ファルはただじっとその目を見返すことしか出来ない。
溢れ出そうなほどたくさんの何かが込み上げているのに、喉に綿でも詰まって塞がっているような感じがした。
「おれは今はこの通り、子供の姿だが」
キースが視線を落とした先には、繋がれたままの二つの手がある。どちらの手も小さいけれど、生きていくことの難しさは知っている。
……どちらも今まで、ずっと長いこと、何かを掴むことなくただ宙を彷徨っていただけの手だ。
「少しずつだが、成長はしているらしい。多分、これから身長も伸びていくだろうし、手足も大きくなっていくだろう。それまでは苦労もするだろうが、ここを出て、東の大陸で、おれたちの居場所を──二人で生きていける場所を探してみないか」
「…………」
ああ、そうか、とようやく思った。
やっぱりファルは頭がよくない。これだけの言葉を重ねられ、今になってやっと、最初に聞いたその言葉を、お腹の中にまで染み込むように理解することが出来たのだから。
二人で生きていける場所。
この場合の「生きる」は、「生存する」ということではない。
「……じゃ、キースは」
口から出た声は、少しだけ震えていた。
「これからも、わたしのそばにいてくれるの?」
「ああ」
問いに対する答えは、ほとんど間を置くことなく返ってきた。
「一年先も、二年先も?」
「ああ。その先も。……おまえが、おれを必要としてくれるなら」
自分の手を包んでいる手を、ファルは今度は自分から握り返した。
「キースはこれからむくむくと成長するかもしれないけど、わたしはそんなに変わらないかもしれないよ?」
「うん」
「頑張ってたくさん食べても、胸もお尻もキースが満足するほどには大きくならないかもしれない。それでもいい?」
「……もしかして、気にしてたのか」
あれだけデリカシーのない発言を連発しておいて、キースがちょっと呆れたような顔をした。
「おれが一度でもそんなことを言ったことがあるか」
「態度とか目線とかがものすごく語ってたんだよ」
「別に大きいほうがいいなんて言ってないだろ。おれは幼女趣味はないから、そこそこ育てばいい」
「だからそういうところがね……」
「あと五年か六年もすれば、いくらなんでも、もう少し娘らしい体型になってるだろ。その頃にはおれのほうもいろいろ問題ないし、ちょうどいい」
何が「いろいろ問題ない」のかは、この際棚上げするとして、ファルは頭の中で計算し眉を下げた。現在のキースの姿を仮に十二歳とすると、確かにその頃には背も伸びて、一人前の青年になっているだろう。しかしファルは子供に見えても、これでもきっちり十七歳なのだ。
「五年後なんて、わたしもう二十二だよ……」
二十二歳になった自分、というものがまるで想像できない。その時、自分はどんな姿になって、何をしているのか。そんな先でも、本当にキースはファルの近くにいてくれるのか。
本当に? これから何が起こるのか、どんなことが待っているのか、まったく判らないのに?
あまりにも曖昧で、覚束ない。目の前にはぼんやりとした靄がかかっていて、その先には何があるのかも見えない。そんな状態を、手探りで進んでいくようだ。
人はこんな風にして、「未来」を考えるものなのか。
「──あのね、キース」
ファルはぽつりと呟くように口を開いた。
「うん?」
「キースが化け物になりかけたあの時ね、わたし、ものすごく怖かったよ」
「…………」
キースが黙る。
「目が金色になって、牙や爪が飛び出して、周りの色がどんどん黒くなって、誰の声も聞こえないみたいだったし、わたしのことも見えていないみたいだった」
彼はあの時のことを覚えていないようだから、こんなことを言ってもしょうがないとは思うが、一度それを口にしたら、頭で考えなくてもすらすらと勝手に言葉が滑り落ちてきた。
「……キースがキースでなくなっていくのが、怖くて怖くて、たまらなかった」
ファルがどれだけ声を嗄らして名を呼ぼうとも、キースはなんの反応もしなかった。その金色の目はファルの姿を映すこともなく、牙の生えた口からは獣の唸り声のようなものが発され、人の理性を失っていくキースは、ただ凶暴さだけが増していくように見えた。
人間と獣は違う。道具を使うことや、言葉でコミュニケーションをとる、ということとはまた別に、人間は人間として在るための「何か」を持っている。それはもしかしたら、人によって異なるのかもしれない。けれど、その「何か」を失ってしまうと、おそらく、その人はその人たりえないのだ。
キースはあの時、キースの大事な「何か」を失くそうとしていた。
「キースはキースのままでいて欲しい。わたしはキースという存在が失われて欲しくない。……わたしには、キースが必要だよ」
以前のファルが何も恐れず、不安も抱かなかったのは、何も持っていなかったからだ。
失うものが何もないから、何も怖くなかった。
──けれど今、ファルは失うことが、こんなにも怖くなっている。
自分にとって、それはとてもかけがえのない、大切なものだからだ。他の何にも代えられない。いつの間にかキースという存在は、ファルにとってそういうものになっていたのだ。
これから何があるのか判らない。判らないというのは不安だ。あんな恐怖はもう二度と味わいたくないし、それを思うと胸がざわざわするほどに心配にもなる。
でも、それでもやっぱり、手を伸ばさずにはいられない。
「もしも自分で未来を選べるのなら、わたしはこれからも、キースと一緒にいたい」
その途端、ぐっと強く手を引っ張られた。
わ、とバランスを失って上体が前のめりに傾き、目の前にあった身体にぶつかるようにして倒れ込む。まだ細く、胸板も薄いのに、それは案外しっかりと揺らぎもせずに、ファルを受け止めた。
「……うん」
ため息のような声が耳許に落とされる。
尖った顎がファルの肩に乗せられているので、キースの顔は見えない。けれど背中に廻った手は、相変わらず少し不器用だった。
「なるべく早くにキノイの里を出よう。いいか?」
「うん」
ファルは頷いた。
「──ユアンが今後、どんな手段を使ってくるか判らない。デンとニグルに事情を話して、どういうことになるのかも不透明だ。どちらにしろ、ここには長くいられない。東の大陸に行って調べれば、天界や地界のことも、もう少し掴めるかもしれないし」
「うん」
「おれが生きていくためにも、おまえが必要だ。おまえをユアンに渡すわけにはいかない。大変かもしれないが、策を講じるための出来るだけのことをしていこう」
「うん」
胸がじんと痺れるように震えた。ひどく熱いものが身体の裡から込み上げてくるような気がする。
……はじめて。
生まれてはじめて、ファルは誰かに、「必要だ」と言ってもらえた。
この言葉を聞くために生を受けたのなら、確かに生きることには意味があるのだろう。
「それで、いろんなことが判ったら──この先、もうずっと安心できると思えるようになったら」
「うん」
「どこか、穏やかに笑って暮らせる場所に行こう。もっと明るくて、未来へと通じているところに」
「うん」
「どこにあるか判らないし、本当にあるのかも判らないけど」
ファルはキースから身体を離すと、「うん」とはっきりと返事をして、目を細めた。
「探せばどこかにはあるよ、きっとね。だって地界はこんなにも広いんだもん。わたし、キースとなら、世界の涯にだって行けるよ」
そして二人で、少し、笑った。
「いつかね」
「いつかな」
いつか──約束の地へ。
***
翌日、ファルとキースは二人でデンの家を訪ねた。
そこにはすでにニグルも来ていて、しかし床には座らずに、土間の火の点いていないかまどの前で腕を組み、ふんとそっぽを向くようにして立っていた。これまで少々気まずい時間を過ごしていたのか、デンはファルたちをほっとしたような顔で出迎えた。
「ニグルさん」
ファルが声をかけると、ニグルの肩がぴくりと揺れた。
また怯えさせてしまったかな、とは思うものの、キースは完全にそちらを無視しているし、デンはニグルにはファルに対するように気安く話しかけられないようなので、仕方ない。
「体調のほうは少しはよくなりましたか?」
「……別に。あんたには、関係ないでしょ」
つんと顔を背けられた。まだあまり身体の具合が思わしくないのなら、せめて座ったらどうかとか、なんならまた後でニグルの家まで行ってもいいんだけど、と思ったのだが、まったく取りつく島がない。ファルのことが嫌なら嫌で関わらなければいいのではないかという気もするが、この場から立ち去るつもりもないらしい。よく判らない。
大体、どうしてニグルはあの時キースと一緒に、草原まで走ってきたのだろう。化け物がいると判っていたなら、他の里人たちと同じように家の中にこもっていればよかったのに。そういえばそのあたりの事情を、キースに聞くのをすっかり失念していた。
……でも、今、本人に聞いても、「別に」としか答えてもらえなさそうだなあ。
デンと向き合って座るキースは、ニグルのほうに視線を向けもしない。困ってデンを見れば、そちらはそちらで気弱げな笑みを浮かべ、「まあ、放っておきな」とでもいうような顔をしている。
しょうがないので、ファルもキースの隣に腰を下ろした。
「ふ、二人とも、何か、飲むかい? ネガシにもらったミルクがあるんだが──」
ぎこちなく流れる空気に居たたまれなくなったのか、デンが慌てて立ち上がろうとするのを、キースが手を上げて遮った。
「いいんだ、デン。事情が判らないままだと、あんたも落ち着かないだろう? 先に話をする」
子供の姿をしたキースにそう言われて、デンがまたしおしおと床に座った。どちらかというと、デンのほうが大人に説教される子供のようだった。
さっきから固い顔つきをしているのは、きっと、緊張しているためなのだろう。デンの中では、本当のことが知りたい、という気持ちと、聞きたくない、という気持ちが同じくらいの割合で同居しているのかもしれない。
「まずは、いろいろと迷惑をかけたことを謝る。すまなかった、デン」
キースはデンに向かって頭を下げたが、ニグルに対しては何も言わなかった。あのキース、ニグルさんもいるんだけど、とファルのほうがハラハラする。
「これから話すことを聞いて、どう判断するかはあんたに任せる。信じようと信じまいと、どちらでも構わない。スーリオや他の里人たちに伝えるかどうかも、あんたが決めればいい。……結果的に、あんたを騙すような形になったのは、悪かったと思ってる」
ファルも頷き、ごめんなさい、と言って頭を下げた。
「……え、うん、いや……」
ずっと眉を下げているデンも、立ったまま挑むようにしてキースとファルを睨むニグルも、どう反応すればいいか、今ひとつ戸惑っているようだ。
それ以後は、キースは余計な前置きをしなかった。
「とりあえずは、これを理解してもらわなきゃならない。地界の人たちは知らないようだが、この空の雲の上には、天界ってものがあって──」
淡々と、話し出す。
デンとニグルの目が、大きく見開かれていった。




