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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第二部・地
33/73

隠顕



 キースによってナイフで掻き切られた喉から、大量の血が噴き出した。

 ぱっと散った赤い飛沫が、キースの手を濡らし、頬にも痕を残す。それでも彼はぴくりとも表情を崩さなかった。

 ただ、静かな眼差しで、死にゆくかつての仲間を見つめている。

 止まることなく流れ落ちる血液が、化け物の顔に触れているファルの指をも染めていく。不思議なほど、それに対する恐れは湧かなかった。天界にいた時と姿はかけ離れてしまっても、やはりその血は赤くて温かいのだなということを、ぼんやりと思うだけだ。

 クライヴやドリスやアルマの身体から出ていたのと同じもの。

 人と、同じ。


 ──可哀想に。


 急に胸の中に込み上げてきたのは、なんともいえない寂寞とした感情だった。

 ファルは未だかつて、こんなにも締めつけられるような悲哀を抱いたことはない。今まで、他人に対しても自分に対しても覚えたことのない何かが、この時はじめて、目覚めようとしていた。

 化け物は口から泡を出しながら、ぴくぴくと小刻みに痙攣を繰り返している。もうすぐ、完全に息絶えるだろう。黄金色の丸い眼は、徐々に光を失いつつある。

「……ゆ、あ」

 力のない声が、虚ろな響きを伴って漏れた。

 最後の時になっても、彼の心を占めているのは一人の存在だけなのだろうか。

 その名を呼ぶ声に込められているのは怒りなのか恨みなのか怖れなのか、それともやっぱり崇拝なのか、それは判らない。しかし、消えゆく思考の中に浮かぶのが、自分をこんな姿にした人間であるというのが、あまりにも悲しいことに思えた。

「イーセン」

 ファルは、地面の上の大きな手に自分の手を重ねた。

 不揃いで爪の飛び出た奇怪な形をした指が、ピクリとわずかに動く。

「大丈夫だよ。ここにはもう、怖いものはないよ。……安心して」

「…………」

 化け物の口が震えるように動いたが、そこから声が発されることはなかった。

 一切の感情が浮かばない無機質な眼の金色が、すうっと薄まっていく。以前、牢の中のファルに向けられた、どこか軽そうな鳶色が戻ってきた。

 そこからぽろりと涙の粒を落とし、化け物はそのまま動かなくなった。



「ファ……ファル」

 少しして、後ろから掠れた声が聞こえた。

 振り返ると、さっきまで腰を抜かして座り込んでいたデンが、ガタガタと全身を震わせ、真っ青な顔でこちらにふらふらと歩いてくる。

「デ」

 デンさん大丈夫だった? と問いかけようと立ち上がったところで、足首に強い痛みが走り、ファルはまたしゃがみ込んだ。

 そういえば、怪我をしていたんだっけ、と思い出す。今の今までそれどころじゃなくて、すっかり頭から飛んでしまっていたが、少し冷静になったところで、またぶり返すようにじんじんと痺れるような激痛も戻ってきた。人の身体はわりと都合よく出来ている。

「いたた……デンさん、大丈」

 呻きながら再び言葉を出そうとしたが、それも最後まで続けられなかった。


 いきなりドタドタと大股で駆け寄ってきたデンに、がばっと勢いよく抱きつかれたからだ。


「デ……デンさん?」

 ファルは目を白黒させた。

「ファル、ファル、無事か。よかった、よかったなあ。お、俺は、もう、どうなるのかと、生きた心地がしなかった。お前さんにもしものことがあったらと思うと、俺は、俺は……」

 顔をくしゃくしゃに歪ませて、よかった、よかった、と涙声で繰り返す。いつもどこか遠慮がちな、なるべく他者から遠ざかり身を縮めているようなデンが、こんなにもあけすけに「自分」を曝け出すのを見るのははじめてだった。

 ──そしてファルもこんな風に、誰かに抱きしめられ、無事でよかったと大げさなまでに安堵の声を上げてもらうのは、はじめてだ。

 デンの身体は大きくて重くて、しかもおまけに力が強すぎてかなり息苦しかったが、その腕の中から抜けたいとはちっとも思わなかった。

「どこが痛むんだ? 腹か? 腕か? 足か? 俺が里まで負ぶっていってやるからな。こんなに小さい身体で、どんだけ怖かっただろうなあ」

 デンが分厚い掌で確認するようにファルの肩や両腕をぽんぽんと叩き、また抱きしめては揺さぶって、忙しなく、どこが痛いのかと訊ねてくる。ぐりぐりと振り回すように頭を撫でられて、正直目が廻りそうだ。

 他にどうしていいのか判らなかったので、ファルはえへへと笑った。

 ……まるで、お腹の中いっぱいに、温かいものが膨らんで満たされてくるような気持ち。


 こういうの、なんて呼ぶんだろ?


「デンさんこそ、どこも怪我はない?」

 ファルが問い返すと、デンはぶるぶる首を振った。

「俺はなんともねえ。へたり込んだまま、動けなかっただけさ。ファルがあんなにも勇敢だったってのに、まったく情けない……俺ってやつは、ほんとに」

 今になっていつものデンが戻ってきたのか、しゅんと肩をすぼめて、恥じ入るように俯く。

「わたしを守ろうとしてくれたじゃない。デンさんだって勇敢だったよ」

「あれは……」

「──デン」

 デンがぼそぼそと口ごもったところで、新しい声が割って入った。

 顔を上げ、キースがすぐ近くまで来ているのを見て取ると、デンは固い顔で息を呑んだ。反射的にファルの腕を掴んで、庇うように自分のほうへと引き寄せる。

 その手はこまかく震えている。デンがキースを見る目には、明らかに恐怖の色が現れていた。

 キースも当然、それに気づいたのだろう。少しバツの悪そうな顔になった。

「よく覚えてないんだが、おれはあんたに、何か……」

「キースはね、目の前にいたデンさんを腕で薙ぎ払ったんだよ。子供の細い腕にしては信じられないくらいの、ものすごい力でね。それでデンさんは吹っ飛んで、地面に転がっちゃったんだよ」

 デンが口を開く前にファルがさっさと説明してやると、キースは無言になった。この顔つき、本当に覚えていないらしい。

 目を金色に変化させ、爪と牙を生やしたキースは、その時にはもうすでに、人の理性もなくしかけていたのかもしれない。

「あとね、デンさんに対して、『邪魔をするならお前も殺す』って言ったよ」

「……それは、少し、覚えてる」

 キースが苦い表情で呟く。少しか、とファルはちょっと面白くない。

 その分では、ファルが何度も何度も、キースの名前を呼んでいたのも聞こえていなかったのだろう。

 あの時のファルが、どれほど必死で、どれほど喉が張り裂けんばかりに、キースを呼び戻そうとしていたのか。

 それも、本人にはまるで届いていなかったということだ。ここは腹を立ててもいいところなのではないだろうか。


 ──あの時、「キース」という存在がどんどん失われていくことに、ファルがどれほどの恐怖と焦燥を抱いたと思っているのだ。


「じゃあ何か言うことがあるよね」

「……すまなかった、デン」

 つんけんとしてファルが促すと、キースは素直に頭を下げて謝罪した。

 デンはまだ少し引き攣った表情をしていたが、ファルの腕を掴んでいた手からは、力が抜けた。

「いや……」

 ずずっ、と鼻を啜って、下を向く。

「お前さんも、無事でよかった、キース」

 ぽつりと呟くようなその言葉に、キースがもう一度、黙って頭を下げた。

「あ……あんたたち」

 その時、デンの後方からざざっと地を擦る音がした。

 そちらを見ると、ニグルが蒼白になって立っている。

 そういえば、ニグルはなぜこんなところにいるのだろう。デンがキノイの里に走り、キースを呼んできたのだろうというところまでは理解できるのだが、そこに、自分の家にこもっているはずのニグルまで同行している理由が判らない。

「あんたたち……なんなの? そこにいるのは、呪われた森に棲んでいるはずの化け物よね? どうして森から出て、こんなところにいるの? どうしてその化け物はあんたたちを知っているようだったの? どうしてあんたたちはその化け物を『イーセン』と呼んでいたの?」

 怯えているのか、混乱しているのか、あるいはそれらが小さくなったと同時に疑問が膨らんできたのか、ニグルの声は上擦って、問いを重ねるたびに少しずつ甲高くなっていった。

「それに──それに、あんたは、どうして」

 倒れている化け物に向けていた目が、ふらふらと泳ぐように動いて、キースのところで止まる。髪で隠されていないほうの右目は、大きく見開かれたまま、凝視するようにキースの碧の瞳に据えつけられていた。


どうして(・・・・)化け物の姿に(・・・・・・)


「…………」

 キースは口を閉じてニグルを見返し、それから大きな息を吐き出した。

「今さら隠してもしょうがない。……あんたたちには本当のことを言う」

 いいか? と確認するように、ちらっとファルのほうを見る。ファルはこっくりと頷いた。

「でも、その話は明日にしてもらってもいいか。とりあえずファルの手当てをしなきゃいけないし……それに」

 そう言ってまた顔を動かした。今度その視線を向けた先には、化け物の骸がある。

「──こいつを葬ってやらなきゃならない」

 逃げも隠れもしないから、明日まで待って欲しい、というキースの言葉に、ニグルは口を噤んだ。おそるおそる化け物のほうを見やり、顔をしかめて黙り込む。

 デンもまた黙ってじっとキースの顔を見つめていたが、やがて、

「俺も手伝うよ、キース」

 と、ファルの腕から手を離して、ゆっくりと立ち上がりそう言った。はっきりと強張った顔をしているニグルよりも、この気弱な人物のほうが、今はずっと落ち着いて見えた。

「そうとなったら、里から土を掘る道具を持ってこないとなあ。あと、ファルのための薬草も。……そういや、背負ってた籠を、俺はどこに放り投げたかね」

 きょろきょろと顔を巡らせてみたが、見つからなかったらしい。やれやれとため息をついて諦めると、ニグルの背中を軽く叩いた。

「さあ、里に戻ろう、ニグル。お前さんだってまだ体調が良くなったわけじゃないんだろう? 話は明日だとさ。今日は家に帰ってお休み」

「わ、私は──」

 反発するように眉を上げ、何かを言いかけたニグルは、デンに目顔で遮られて、その先の言葉を呑み込んだ。

「俺はよう、ニグル。頭が悪くて、役に立たなくて、いつでも意気地がない、どうしようもないやつだけど、人を信じることくらいは出来ると思ってるよ。ファルとキースにはきっと、俺たちには想像もつかないような深い事情ってもんがあるんだろう。それを話す、明日まで待ってくれ、と言ってるんだから、お前さんもそれを信じてやったらどうだい」

「…………」

 ニグルはしばらく睨むようにデンを見ていたが、唐突にくるりと背中を向けると、里に向かって歩き出した。

 デンも、「じゃあ、ちょっと待っててくれ」と声をかけて、のんびりとその後について足を動かす。

 ファルとキースは、小さくなる二人の後ろ姿を見送った。



          ***



 地面に大きな穴を掘り、その中に亡骸を埋めてまた土を被せる、という作業は思っていた以上に重労働で、キノイの里に戻った時には、もうとっぷりと陽が暮れていた。

 そして戻ってみると、里は里で、ちょっとした恐慌状態に陥っていた。

 どうやら、慌てふためいたデンは、「森の化け物がファルを襲っている」と大声で叫びながら里へ走り、キースと一緒にまた飛ぶように出ていったらしい。それを耳にした住人たちはみんな、化け物がいつ里に襲いかかってくるのかと、武器を手にしたり、家の中に閉じこもって震えたりしていた。

 そうやって戦々恐々としていたところに、デンに背負われたファルと、弓矢を担いだキースが戻ってきたものだから、彼らは揃って呆気にとられる顔をした。

 化け物はどうした、あれは間違いだったのか、と口々に訊ねられ、困ったデンは、いや化け物はキースが矢で倒したんだよという説明をせざるを得なかった。住人たちはそれでまた唖然、茫然だ。嘘ではないが本当でもないので、そういうことが苦手なデンは非常に居心地が悪そうだった。

 とにかく脅威はなくなった、ということだけ話して、デンはそそくさと自分の家に逃げ帰った。住人たちも、なんとなく納得出来なさそうではあったが、他人との関わりをなるべく持たないという性質ゆえか、それ以上追及してくることはなく、不得要領な顔をしつつそれぞれの家へと帰っていった。

 少々ぎこちないながら、ようやく平穏が戻って、ファルは深い息をついた。




「──ファル、話がある」

 その夜、住人たちがそろそろ寝静まるかという頃になって、キースがおもむろに切り出した。

「うん」

 大人しく頷いて、ファルはキースの向かいの床に座った。捻った足首は、デンの薬草のおかげで、大分痛みが治まってきている。腫れが酷いので、多少は日常生活に不便が生じるかもしれないが、数日の辛抱だ。

「天界で、ユアンにはじめて会った時のこと、覚えてるだろ?」

 小さな家の中を照らすのは、頼りない蝋燭の火だけである。ゆらゆらと揺れる炎の明かりの中で、やけに真面目な表情をしたキースの顔が浮かび上がっていた。

「うん、もちろん」

 ファルも真面目に返事をした。あの時のことは、忘れようにも忘れられない記憶として、今もファルの頭にはっきりと刻まれている。

「もう一度、その時のことを話してくれ。細部に至るまで、詳細に。おまえが何を言って、ユアンが何を言ったのか。どこで、どんな状況だったのか」

「うん。……でも、それって、そんなに重要なことかな」

 どうしてもそうは思えないので、ファルは首を傾げた。あの時はとにかく、ユアンの周囲の闇の色が恐ろしかった覚えがあるだけだ。それにすぐドリスに見つかったし、会話なんて、ほとんど交わしてもいない。

「どうしても、そこに何かがあるとしか、思えない」

 キースは眉を寄せ、口許に手をやった。

「ユアンになんらかの意図があって、イーセンを地界に堕としたのは確からしい。考えてみたら、仕事でヘマをしたなんてことくらいで、白雲宮が第一級犯罪者の認定を下すはずがない。あの最深部に人を送り込むのなら、そこにはそれ相応の理由があったはずなんだ」

 それほどまでに、天界追放というのは重大なことだということか、とファルは思った。

 つまり、いくら天帝の血を引いていようと、ユアンの勝手な都合だけでは、あの「穴」に人を放り込むことは出来ない。だからこそ彼は、アストン屋敷の使用人の血を流してでも、ファルに罪を着せるという手間をかけなければならなかったのだ。


 ……どちらにしろ、勝手な話ではあるのだが。


「おれが見ていた限りでは、天界にいた時、ユアンはおまえに対してはさほどの関心を持っていなかった。だから、おまえが地界に堕とされたのは、ただおれのとばっちりを受けただけに過ぎないと思っていた。──いや、そうだったはずなんだ、その時は」

 記憶を辿っているのか、キースの眉間の皺が深くなる。

「おれを本物の『影』にして一生使役するために、ユアンはおまえを地界に堕とした」

「そのふたつって、どういう繋がりがあるの?」

 純粋に疑問に思ったので、ファルはそう訊ねたのだが、キースはぷつっと黙り込んだ。気のせいか、一瞬、目を逸らした。


「……まあ、それはそれとして」

 なぜ、流す?


「とにかくその時は、ユアンはその程度にしかおまえの存在を見ていなかった……はずだ。それが今になって、イーセンを地界にやってまで、どうしておまえを取り戻そうとするのか」

 取り戻す、という表現に、ファルはますます首を傾げた。

「わたしがイーセンを天界に戻す、っていう、あれのこと? わたし、そんなのぜんぜんわからないよ」

「おれにだって判らない。でも、イーセンが捕まえようとしていたのは、おまえだった」

「ユアンが取り戻すっていうのなら、その対象はやっぱりキースなんじゃない?」

「いや。イーセンが選ばれたのは、きっと、あいつがおまえの顔を知っていたからだ。それに、ユアンの口から『ファル』って名前が出たのなら、間違いなく目的はおまえだ。ユアンは自分が興味を失くしたものは、名前も顔も綺麗さっぱり頭から放り出してしまうからな」

「…………」

 妙に自信ありげにユアンのことを話すキースに、少しイラッとした。

 いかにも、「自分は判っている」とでも言いたげだ。

「だから、おれがまだ知らないところで何かがあったんじゃないかと……なに怒ってるんだ、おまえ」

「別に」

 怪訝そうな顔をするキースに、無愛想に返す。別に怒ってなどいない。とっとと話を進めよう。

「……えーとね」

 ファルは額に指先を当て、自分の記憶を手繰り寄せた。


 ユアンとはじめて会った時は、確か、屋敷の裏庭の掃除をしていたのだ。

 庭師の手入れの範囲に入らない裏庭は、植えてある木の幹も細くて元気がなかった。

 気の毒になあと思っていたところに、ユアンが声をかけてきて……


「待て」

 声をかけられたらすぐにドリスが飛んできた、と続けようとしたら、その前にキースが鋭い声を出した。

「もっと詳しく説明してみな。裏庭の木がどうしたって?」

 怖いくらいの目をしている。ファルは戸惑った。

「どうって……キースにも以前、話したことがあると思うけど、天界は植物が育ちにくいから、専門の知識がないと、すぐに萎れちゃうんだよ。だから庭師のおじさんが入らない裏庭は、木も花もみんな元気がなくて……」

「元気がなくて、それで?」

「でもまだちゃんと生きてるから、せめてもう少し張りが出るといいねって、話しかけて」

 キースが目を瞠った。


それだ(・・・)


「え……」

 決めつけるように言われて、ファルは困惑した。

 それって、どれ?

「おまえが庭の木に話しかけているところを、ユアンは見ていたんだな?」

「う……うん、たぶん、見てたんじゃないかな。『まるで人に話しかけるみたいに言う』って声をかけてきたから」

「だから、それだ。おまえ、『元気になって』の一言で、枯れかけていた花をまた咲かせたんだろ? おまえに話しかけられた木も、それと同じように、また息を吹き返したんだ」

「…………」

 そう、だっけ?

 アストン屋敷では裏庭の掃除は数日おきと決められていたから、ファルは毎日そこに出ていたわけではない。しかしそれでも、その後も何回かは掃除をしたはずだ。

「でも、特に目立った変化があったような覚えがないよ。ニグルさんの時は、翌日には」

「天界は植物の育ちが悪い、んだろ? だったら、地界とは時間差があってもおかしくない。ニグルの花が咲いた時、『あんなに元気になるとは思わなかった』とおまえも言ってたじゃないか」

「…………」

 ファルは口を噤んだ。

 そういえば、いくら植物に力を与えられるといっても、天界では、あそこまですぐに顕著な反応が出たことはなくて、それでファル自身も驚いたのだった。いつもは、そう、もうちょっと時間をかけて、緩やかに──

「じゃあ、わたしたちが地界に堕ちた後で?」

「空になったアストン屋敷を、ライリー家がそのまま放置しておくはずがないからな。ユアンでなくても、誰かは様子を見に来ただろう。その時、何もかもが枯れたり萎れたりしている裏庭の中で、一本だけ異様に元気な木があったら、確実に目を引く。そして少しでも異変があれば、その報告は必ずユアンの許へ行く」


 世話をする人間が誰もいなくなり、すべての植物が下を向いて、茶色く変色した裏庭で。

 たった一本だけ、青々とした葉を茂らせ、新しい芽を出している木があったなら。


「それで、ユアンはおまえに特殊な能力があることに気がついた」

 そう、気づくかもしれない。

 でも……それが?

 ただ、人の色が見えたり、動物の気持ちが判ったり、花を咲かせたりするだけの、ちっぽけな能力だ。ユアンのように、地位も権力も財力も崇拝者も、何もかもを持っている恵まれた立場にいる人間が、欲しがるようなものだとは思えない。

「何かがあるんだ、きっと」

 口許に拳を当て、キースは考えるように言った。

「おまえには、おまえ自身も知らない、何かがある」


 ……何かって、なんだ?





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