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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第二部・地
32/73

再構築



 ──身体が燃えるように熱い。

 心臓が拍動し、血管が脈を打つごとに、激しい苦痛に襲われた。息を吸うのも吐くのも、耐え難い拷問に感じられる。自分の体重が一気に数十倍にもなったかのように重く、手を持ち上げることも容易ではなかった。

 また、あの発作だ。

 痛みと苦しさで乱れていく思考の中で、キースはかろうじて今の状態をそう判断した。

 キノイの里に辿り着いた最初の夜、ファルの背中の火傷の痕を目にした時に唐突にやって来た症状と同じだ。

 しかし、あの時はあっという間に消えた苦痛が、今度はなかなか去っていかない。身を縮め、絶え間なく襲い来る激痛に、ひたすら呻くことしか出来なかった。


 ……まるで、自分の中のひとつひとつの細胞が暴れ狂っているかのような痛み。


 自分の身に、一体何が起こっているのか、まるで判らない。この、神経が引きちぎられ、バラバラに分離されていくような感覚はなんだ。腹を抉るほどの大きな傷を負ったこともあるが、その時の比ではない。苦しさは、おもにキースの裡から生じているもののようだった。

 なんとか気力を振り絞って目を開けてみても、滝のように流れる汗で視界が霞み、周囲もあまり見えないような有様だ。その茫漠とした景色の中に、屈み込んでこちらを覗き込んでいるデンの姿がぼんやりと入り込んでいる。

 その顔が、驚愕に歪んでいる、ように見えた。

 色を失くし、目を大きく見開いて、口許を大きく震わせているデンの顔。何をそんなに怯えているんだろう? おれか。おれがイーセンを殺そうとしたから……

 イーセン。

 あまりにも激しい苦痛と高熱とで、混濁しはじめたキースの意識に、その名だけがはっきりと明確に響いた。


 そうだ、何をしているんだ、おれは。

 早くあいつを殺すんだ。


 何かに突き動かされるようにして、キースは地面に手を突き、ふらりと立ち上がった。

 噛みしめている歯の根が、ガチガチと奇妙な音を立てている。骨がみしみしと軋むような気がした。デンが何かを叫んだようだが、まったく耳に届かなかった。

 足元がひどく覚束ない。自分の身体のバランスが、なぜか上手にとれなかった。下に落ちている毒矢を拾おうとして伸ばした手が、ぶるぶると震え続けている。その手の指先から、どう見ても尋常ではない鋭く尖った爪が生えているというのに、現在のキースの頭では、それに対して何かを思うことも出来なかった。

 一旦は矢を拾ったものの、すぐに取り落とし、キースは舌打ちした。自分の内側に充満している凶暴な衝動は、もう抑えがたいほどに膨れ上がっている。それなのに、どうしてこうも思い通りに手足が動かないのか。自分の身体が自分のものではなくなってしまったようだ。

 再び苛つきが込み上げる。


 ……イーセンを早く、始末しないと。

 じゃないと、また──が、傷つけられる。


 何が傷つけられるのか、もはやそれすらキースの混乱しきった思考では、思い出すのも難しかった。

 湧き上がるのはただ、強い怒りと憎しみの念だ。黒々としたその情念が、キースをキースたらしめている核の部分までも、塗り潰そうとしていた。どろりとした闇色が心身を支配し、乗っ取っていくのを感じたが、キースにはそれに抗うすべが見つからなかった。

 何に対して怒っているのかも、その憎悪の元となっている理由は何だったのかも、もう今となってはよく判らない。しかし猛烈な苦痛に間断なく襲いかかられて、それを辿る余裕は生じなかった。それに、考える必要もない気がした。

 凄まじく嵩を増した憤怒が、今にも噴き出しそうだ。

 絶対にあいつを許さない。

 殺してやる。邪魔するやつも、みんな。

「が……っ!」

 途端に、身を刻まれるような痛みが全身を貫く。だが、声帯が潰れてしまったかのように、声が出てこない。

 思わず口から出たものは、獣の唸り声に似ていた。

 両足を踏ん張って、倒れるのだけは免れた。荒い息が耳元で唸りを上げている。急がないと。

 矢を拾って、あいつの額に撃ち込んでやればいい。それで終わりだ。呆気ないほどに、簡単だ。失敗なんてするはずがない。人を殺すことなんて、今までに何度も何度も繰り返してきたのだから。

 そうだ。こんなこと、何度もやって、慣れている。おれはずっと、心を凍らせ、何者をも寄せつけず、迷いも悩みも封印して、ただの影であることを自分に課し続けていたんだ。

 すべてを押し込め、己の感情を殺して、主人の命令にのみ忠実であること。そんなものはすでに人とは呼べない。「アストンの犬」とは、まったくなんて的確すぎる名前だろう。

 いつも、真っ暗な絶望感だけを抱いていた。


 ……本当はずっと、自分こそが死にたくてたまらなかった。


 目が焦点を失いかけた。どんどん、思考が散漫になっていく。ぼこり、ぼこりと身の裡で不気味な音が響いているのも、もうどうでもいい気がした。これはきっと、今までに自分が溜めに溜め込んだ罪が、外へと溢れだそうとしている音だ。だったらそれを止めることなんて、キースに出来るはずがない。

 ──いっそこのまま、本物の獣に成り果てたなら、それはそれで楽なのかもしれない。

 暗闇に沈んでいこうとしたキースを、その寸前で引き留めたのは、誰かの大きな声だった。


「キース! キース、しっかりして!」


 その怒鳴り声の主は、キースの胸倉を掴んでがくがくと揺さぶり、ばちばちと頬を叩きつけるという非常に暴力的なやり方で、強引にキースの心を現実へと引っ張り戻した。



          ***



 気がつくと、少女の顔がすぐ間近に迫っていた。

 気がつくと──本当に、そうとしか言いようがない。自分は一瞬気を失ってでもいたのかと思うほど、その存在は唐突にキースの前に現れた。実際は猛然と飛び込んできたのかもしれないが、今までキースの目にはまったく映っていなかった。暗い闇に覆われていたキースの精神は、殺すべき対象以外のものを、この時まで完全に閉めだしていたのだ。

 それを、少女は無理やりこじ開け、侵入してきた。まったく手加減も容赦もない力で。

 眩しい光を背負いながら。

 ──こんなこと、以前にもあったな。


「……ファル(・・・)?」


 キースは唖然として、その名を口にした。

 どこまでも自然に、勝手に、ファルという名前はキースの口から滑り落ちた。さっきまで上手く声を出すことも出来なかった喉から、流れるように滑らかに。

「キース!」

 自分の名を呼ばれて、ファルが目を見開く。ただでさえ大きな蜂蜜色の瞳が、飛び出してしまいそうだ。

「キース、キース、わたしがわかる?!」

 叩きつけるように叫びながら、さらにぐいぐいと両手でキースの胸元を締め上げる。おまえおれを殺す気か、と思って、はっとした。

 ──いつの間にか、あの苛烈な苦痛が和らいでいる。

 それと同時に、自分の中にあった凶暴な意志も、すうっと薄らいでいきつつあった。拡散して茫洋としかけていた思考が、徐々に集約していくのを感じる。そうなれば、現在の状況を把握するだけの理性と、今までの自分を顧みる冷静さも、取り戻すことが出来た。

 自分は今地面にしゃがみ込んでいて、ファルはそれに圧し掛かるようにして強くしがみついている、ということも認識した。

 そして間抜けなことに、この時になってようやく、重大なことに気がついた。


 ファルが泣いている。


 あの、「泣いたことなんてない」としゃらっと言いきっていたファルが。これまでの人生、困難を困難と思わず、不幸を不幸と認知せず、自分を憐れんで泣くことも知らなかったファルが。

 顔を真っ赤にして、ボロボロと大粒の涙を零して、泣いている。

「……どうしたんだ。どこか痛むのか」

 我ながら、馬鹿なことを言ってるなと思った。おそらく、それくらい、驚いていたのだろう。もしかしたら、少し動揺していたのかもしれない。

「なに言ってんの、バカじゃないの?!」

 案の定、眉を吊り上げたファルに怒られた。この少女が他人に対して、「バカ」と罵倒するのを見たのは、これがはじめてだ。キース自身も、女に泣きながら罵られたのははじめてである。

「すまない」

 どうして謝らなければいけないのかよく判らなかったが、他に言葉が思いつかない。こういう時、男が女に言うべき台詞はこれしかないのだろう。多分きっと。

 ぐしゃぐしゃに濡れた顔を拭ってやろうとして上げた手を、ぴたりと止めた。

「…………」


 まだ小刻みに震え続けている指から、長く頑丈そうな爪が伸びている。


 その爪は、明らかに、一般的な人間のそれとは異なる形状をしていた。鳥の鉤爪のように強く湾曲しており、不格好だが、鋭く尖っている。厚みもあって、少しくらい木や土を抉ったところで、ほとんどダメージを受けることはなさそうだ。

 これは何かを攻撃するための爪だ。

 そう思ったキースは、ファルに触れることなく自分の手を引っ込めようとした。しかしファルの手のほうが追ってきて、キースのその手を包み込むようにして握った。

「キース、まだ苦しい?」

 さっきまで吊り上がっていた眉が、今は心配そうに下がっている。

「いや」

 首を横に振ってから、キースはファルを正面から見返した。まっすぐこちらに向かってくるファルの目に、怖れや怯えの色はない。

「……おれの顔は、今、どうなってる?」

 歯を噛み合わせようとしても、何かが引っかかるような違和感がある。これはどうやら、歯が牙状に尖っているためらしい。痛みは大分引いたが、身体のあちこちがまだずきずきと疼いていた。

「うん、大丈夫。そんなに変わってないよ。目の色も、碧に戻ってきた」

「…………」

 つまり、目の色も変わっていたと。

 「そんなに変わっていない」というのがどういう意味なのか、詳細を聞くのがためらわれる。自分で触れてみた感じでは、髪と皮膚はちゃんと残っていると思うが。


 ……もう少しで、おれも本当の「化け物」に変化していたわけか。


 改めて実感し、深い息を吐き出した。

 今になって、背筋が冷える。もしかしたら、キースは自分自身のその手で、取り返しのつかないことをしていたかもしれないのだ。

「──な、ゼ」

 地を這うような低い声が聞こえて、顔を上げた。

 ファルの背後に、のっそりとした黒い影が近づいてきていた。キースは咄嗟に彼女の身体を片手で抱きかかえ、もう片手をそっと自分の腰の後ろに廻した。そこには、鞘に入ったナイフが紐で括りつけてある。他でもない、イーセンの所有物だったものだ。

「なゼ、おマエらは、ヒトのすがた、の、ままデ、いられるンダ……?」

 化け物の不自由な発声器官から、たどたどしく言葉が紡がれる。そこにあるのは、疑問なのか、悲哀なのか、苦悶なのか、焦燥なのか。あるいはそれらが複雑に混じり合っていたとしても、化け物の声や口調で判断することは出来なかった。

「……イーセン」

 片手でファルを抱き、もう片手でナイフの柄を握りながら、キースは静かに呼びかけた。

 この化け物の正体がイーセンだと判った瞬間、沸騰するように一気に滾った憎悪は、今はもうどこか遠くに消え去っていた。この男がファルにした仕打ちを思えば、怒りがなくなったわけではないが、それと憎しみとはまた別のものだ。

 キースの腕の中で、ファルもじっと目の前の存在を見上げている。

「どうして地界に堕とされた?」

 化け物の身体がビクッと大きく揺らいだ。

「誰に堕とされた?……ユアンか」

 その名に、化け物はますますガタガタと大きく身を震わせた。恐怖によるものか、怒りによるものか、変わり果てたその姿と黄金の眼からは何も伝わらない。

「ゆ……ゆあン、さま、が」

 この時になっても、敬称をつけずにはいられないらしい。キースは化け物を──かつては同じ「ユアンの部下」であった男を、黙って見つめた。

 もちろん、何があったとしても、同情するつもりはないが。


 ──哀れだ、とは、思う。


「ゆあン、さま、が、お、おレの、し……しゴト、だと」

「仕事?」

 キースは眉を寄せた。てっきり、イーセンが何か失敗をしでかして、ユアンの不興をかい、天界を追放されたのだとばかり思っていたが、違うのだろうか。

 ……「仕事」ってなんだ?

「だ、だ、だイじな、しゴト、だと。お……おマエ、に、しか、で、できなイ、と」

 お前にしか出来ない、大事な仕事だよ。

 ユアンが柔らかく微笑みながらそう言って、イーセンを白雲宮の最深部から突き落とす姿が脳裏に浮かんだ。

「し、しゴトが、おわったラ、ま、また、もどッテ、くレば、いい、と」


「戻る?」

 キースの声の音量が上がり、化け物がまたびくりと身じろぎした。


「戻るって、どこにだ。天界へか」

「そ、そ、そうダ」

 がくがくと首を縦に降る。キースは口の中で、バカが、と呟いた。

 地界から天界へ戻るなんてことが、可能であるはずがない。子供にでも判る理屈ではないか。それをこの男は、ユアンが言ったことを鵜呑みにして、地界に堕ちることを自ら肯ったというのか。

「天界へ戻る方法があるの?」

 しかし、キースが一蹴したその空事に、食いついた人物がもう一人いた。ファルだ。

「イーセン、どういうこと。地界から天界へ、どうやったら戻れるの? ユアンはなんて言ってたの?」

 今にも化け物のほうに詰め寄っていきそうな勢いで質問を重ねる。キースは力を入れてその小さな身体を自分のほうに引き戻した。

「おまえまで何を言ってるんだ。そんなこと、出来るはずがないだろう」

「だって、キース」

 ファルが怒ったような表情で、くるっとこちらを向く。

「もしも本当だったら、キースだって天界に戻れるってことじゃない。ユアンは天帝の息子なんでしょ。キースが知らないことだって、きっとたくさん知ってる。もしかしたら、イーセンがここに来たのも、キースを呼び戻すためかもしれない」

「何を言って──」

「キースは戻りたいんでしょ、天界に」

「…………」

 語気強く言われて、キースは絶句した。


「戻りたいのなら、戻ったほうがいいよ。キースがそう望むのなら、わたしもそのほうがいい。過去ばかりに縛られて、死んだように生きてはダメだよ、キース」


「──ファル」

 真面目な顔つきで、ファルが懸命に言い募る。キースは茫然と、それを見返すしかなかった。

「……な、ゼ」

 同じく茫然としたような声が、化け物の口から発された。黄金の眼は、食い入るようにまじまじとファルに釘付けになっている。

「なゼ、お、おマエが、それを、きく……?」

「え?」

 化け物の問いに、ファルは目を瞠ってそちらを振り向いた。

「お、おマエ、だろう?」

「え」

 ぽかんと口を開ける。

「お……おマエ、が、おレを、て、てんかいニ、モドして、ク、クれるん、だろウ……?」


 ファルが(・・・・)天界に戻してくれる(・・・・・・・・・)


 キースとファルは、二人して呆気にとられた。それくらい、化け物の言い分が理解不能だったからだ。

「な、なに、言って……」

 ファルが困惑して口ごもる。キースも訝るように化け物を見上げた。化け物の姿に変わると、人としての正気も失っていく、というのは自分でもう経験済みだが、それにしたってあまりにも突拍子のない内容に思えた。

 化け物はその場で立ち尽くしている。次にどんな行動に出るのか予想もつかないのでキースは緊張したが、襲いかかってくる様子は今のところないようだった。

「で、で、」

 しばらくして、化け物が再び口を開く。ぐらぐらと身体が不安定に揺れていた。


「でキナい、のか」

 一本調子で、感情が込められていないので、判りづらいのだが、その声は今までよりもずっと低く聞こえた。


「わ、わたしが天界に戻る方法を知ってるか、ってこと? し……知らないよ」

 出来る出来ないではなく、そもそもそんな方法を知らない、と。

 ファルがそう答えて首を横に振ると、化け物の身体がますます揺れた。その動きに伴って、皮膚がぼろぼろと剥がれ落ちていく。めきょ、と嫌な音がして、あばら骨のあたりが大きく盛り上がり、なんとかシャツの形を留めていた布地が破れた。

 刺繍されたエゼル家の紋が、引き裂かれる。

 目の黄金の光が強くなった。

 ぐお……と、化け物の口から唸り声が洩れる。

「だ、だったラ、おレを、ひ、ひトのすがタに、も、もどシ、て、くれ」

「……ど、どうやって?」

「お、おマエ、は、いま、きースを、もどシ、た、だろウ」

「…………」

 ファルは困り果てた顔で、化け物を見て、キースを見た。キースの衣服を掴んでいた手に、ギュッと力が込められる。

 キースは口を引き結び、自分の手を一瞥した。長かった爪はいつの間にか引っ込んで、元の形に戻っている。

「無駄だ。お前は、おれとは違うからな」

 冷淡に断言した。

 ファルが持つ明るい光が見えもしなければ気づきもしない人間に、キースと同じ現象が起こるわけがない。原理や理屈はさっぱり判らないが、なぜかそこだけは確信があった。


 化け物は突然、咆哮を上げた。


 地鳴りがしそうなほどの激しい声に、キースはさらにファルを抱き寄せた。化け物の発する腐臭が強まり、ファルがぐっと目を瞑る。

 化け物が吠えながら、こちらに駆けてきた。

 キースは鞘からナイフを抜いて身構えたが、伸びてきた手はキースとファルではなく、その傍らに落ちていた毒矢に向かった。

 勢いよくその矢を掴んだ化け物は、そのまま迷うことなく、自分の喉に突き刺した。

 ぐおおおん、とけだものじみた悲鳴を上げて反り返り、どうと倒れ伏す。

 毒性は強くとも、大きな生物の生命を一瞬で奪い取る威力はない。その分、苦悶が長引く。キースとファルは硬直して、化け物がもがき苦しむのを眺めているしかなかった。

 ぐおう、ぐおう、と地面に倒れた化け物が、のた打ち回って暴れる。

 その金色の目からは、涙がとめどなく流れ落ちていた。

「……イーセン」

 キースはファルから離れ、化け物の近くに寄って片膝をついた。

 化け物は泣きながら、口を震わせた。

「──お、おレは、い、い、いヤだト、いった、ノに。お、おユルし、くださイと、なんどモ、おねガイ、しタ、のに……ゆ、ゆ、ゆあン、さま……」

 そこに、以前の傲岸なイーセンの面影はカケラもない。幼い子供のように、泣いて、泣いて、ひたすら誰かに向かって訴えているようだった。

「ば、ば、ばけモノ、に、なんテ、なりたクなかッた、のに……」

「…………」

 化け物は何かを喋り続けていたが、それはもう、「人の言葉」としては聞き取れなかった。びくびくと痙攣する身体は、それでもなお、変化を止めようとはしない。耳が溶けるように形を崩し、手足が膨張して、骨を押し潰しているような音がする。

「イーセン」

 ただの穴になりかけた耳に口を寄せ、キースは名を呼んだ。ぴく、とわずかに化け物の肩が動く。まだ声は聞こえて、その名が自分の名だと認識できるくらいの「心」は残っている、ということだ。


 ──せめて、人として死なせてやる。


 キースは化け物の首筋にナイフの刃先を当てた。

 ふらふらした足取りでやって来たファルも、化け物を挟んでキースの向かいに腰を下ろす。沈痛な表情で、化け物の顔に優しく触れた。

「向こうに行ってろ、ファル」

 自分の手許に目をやりながら、キースは低い声で言ったが、ファルは首を横に振った。

「だったら、目を閉じていろ」

 それにも、首を横に振った。

「……おまえには、見せたくないんだ」

 ぼそりとそう言うと、やっと目を上げて、キースを見た。

「キースと同じものを、わたしも一緒に背負うよ」

 静かだが、決意の込められたその声に、キースはもう何も返せない。

 無言のまま、首筋に当てたナイフを、思いきり引いた。





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