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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第二部・地
31/73

冥闇



 目の前に立ちはだかる化け物に、ファルの頭の中にあるイーセンという男の面影は、まるで残っていなかった。

 細身で、目尻が垂れ下がっていて、いかにも人当たりのよさそうだった、若い男。さっぱりと整った容姿に、洗練された高級な衣服を身にまとい、どこか軽薄そうな皮肉っぽい笑みを口許に貼り付けて、牢にいたファルを見下ろしていた。

 傲岸で、自信たっぷりで、ファルのことなんて地面を這いずる虫と同じようにしか見ていなかった鳶色の瞳を、今でもはっきりと思い出せる。

 唯一、あの時の彼の記憶と重なるものといえば、その茶色の髪くらいだ。よく手入れされて、洒落た形に整えられていたその髪は、今はざんばらに乱れて、嵐のあとの草地のようになってしまっているけれど。


「……イーセン?」


 震える声でその名を出した途端、化け物の身体が激しく揺れた。イーセンと呼びかけるという行為は、ファルも予想しなかったほどの衝撃を化け物に与えてしまったようだった。

 ぐおおおおう、と大きな呻きにも似た叫び声が放たれる。

 空気がびりびりと振動した。悲鳴にも似た叫び声と共に、生温かい息が大風のように吹いて、まともに顔にかかる。その息はひどく生臭く、すえたような悪臭がして、呼吸も出来なくなりそうなほどだった。

 両の掌で鼻と口を押さえながら、ファルは後ずさった。化け物の黄金の眼はぎらぎらと凶暴に輝いて、ファルをじっと見据えている。瞼のない目は瞬きをすることもなく、眼球の面積に比して異様に虹彩の部分が小さくて、不気味さばかりが際立った。

 化け物が地を蹴って走り出す。

 はっとして、ファルもすぐに身を翻して駆けだした。事情も理由もまったく判らないけれど、とにかくここは逃げなくては。


 ファルは走った。里とは異なる方角を目指し、がむしゃらに足を動かした。

 草をかき分け、風を切って、ただ走った。


「──ふぁ、ル」

 だが、どれだけ走っても、化け物の濁っただみ声は、後方からずっとついてきた。

 何度も何度もつまずいて転び、そのたび傷を負って、皮膚のない肉から血を噴き出しても、なおも化け物はファルを追うことを諦めない。

 そこまでの執拗さを見せるというのに、化け物がファルを呼ぶ声にも口調にも感情というものが乗っていなくて、それが余計に恐ろしく聞こえた。

 里を離れ、薬草採りのためデンと一緒にやって来たこの場所は、見渡す限りの草原地帯だ。地界に堕とされて、咎人の森を出てから、キースと彷徨うように歩いた時も思ったが、ここは同じ眺めが続きすぎて、進めば進むほど、方向感覚が狂ってくる。

 キースがいれば太陽や影の位置でどちらに向かえばいいのか判断が出来るのだろうが、そんな能力のないファルは、ひたすら闇雲に走るしかない。なるべくキノイの里から離れようとしているのに、進んでいくうち、本当に離れているのかどうかも判然としなくなってきた。

 ザザザッと草が鳴る。荒くなった呼吸音が、それに被さるようにして響いている。

 地界に堕ちた当初に比べれば、ずっと体力が戻ったとはいえ、もともとファルは小柄で、手足も細い。

 全速力でいつまでも走り続けることなど、出来るはずがなかった。

「あっ!」

 とうとう、足がもつれて、もんどりうつように地面に転がった。

 すぐに立ち上がろうとしたが、脳天に痺れるような痛みが走って、両手を突く。転んだ拍子に、足首を捻ってしまったらしい。立てた両腕が、ぶるぶると小さく震えていた。

 頭のてっぺんからどっと噴き出した汗が、顔に流れて、そのまま下へと滴り落ちていく。心臓が飛び出しそうなほどに暴れ狂って、空気を吸うのも難しい。

 喘ぎながら再び走ろうと懸命に試みたけれど、身体はどうしてもファルの思う通りに動いてくれなかった。


 その身体が、ふわりと宙に浮いた。


 化け物はファルを捕らえ、荒々しい叫び声を上げた。

 ファルの細い胴に、不揃いで長く太い指が、ぎっちりと巻きついている。ファルを捕まえ、両手で持ち上げた化け物は、そのまま手加減のない力で、ぎりぎりと締め上げた。

 尖った爪が肌に食い込む。もう少し角度が変われば、ファルの脆弱な皮膚など、あっという間に破られてしまうだろう。

「……!」

 ばたばたともがいたが、ものすごい力と圧力からは、逃がれようがなかった。身体の中の内臓が、このまますべて潰れそうだと思うほどの苦痛に、声も出せない。

「ふぁ、ル」

 低くしゃがれた声が、名前ばかりを繰り返している。脂汗を流しながら、なんとか目を開けてそちらを見返してみれば、間近に迫った化け物の顔が視界に入った。

 大きな目と、牙のような歯が飛び出た口。まだしも形を留めていた鼻が、どろりと溶けるように失われていくのを見て、ファルの顔から血の気が引いた。


 ──崩れてる(・・・・)


 まるで腐り落ちていくかのように、化け物はどんどん人の姿とはかけ離れたものになっていきつつあった。

 皮膚がべりべりと剥落し、頭髪が抜け落ちる。化け物が発しているのは、この強烈な腐臭だ。ファルを掴んでいる手も、ぼこりぼこりという不吉な音と共に、ところどころが収縮している。

 そのたび、化け物の口からは、苦しみもがくような呻き声が洩れた。

「く……苦しいの?」

 加えられる圧力で、胸郭がみしみしと軋んでいる。呼吸をするのも満足に出来ない。喉の奥からそれだけの声を押し出すだけで、精一杯だ。

「──ふぁ、ル」

「どうして、こんなことに、なってしまったの」

「…………」

 ファルを持ち上げた両腕が揺れている。大きな丸い眼は、じっとファルだけ向けられていた。

「て、天界で、何があったの……イーセン」

 また、化け物がびくりと身じろぎした。

「……お」

 何かを言おうとして、口をわななかせている。まるで、必死になって何かを絞り出そうとしているかのように、牙ががちがちと噛み合って音を立てた。


「……お、おレ、は」

 ファルの身体を締めつける力が、ふいに緩んだ。


 その時だ。

「ファル!」

 鋭い声が聞こえたと同時に、ひゅん、という音がした。

 空気を切り裂くようにして、何かがこちらに向かってくる。それはあまりにも速くて、目で捉えられるようなものではなかった。ファルにはただ、銀色の細い線がまっすぐ伸びているようにしか見えなかった。

 化け物の身が反り返り、ひときわ大きな咆哮が轟いた。

 捩るようにして暴れ、掴んでいたファルを放り投げる。地面に打ちつけられたファルは、激しく咳き込みながら、やっとの思いで上体を起こした。


 ──キース。


 眉を上げた厳しい表情で、弓を手にして立っているのは、確かにキースだ。

 化け物のほうに目を戻してみれば、叫び声を発しながら、立ったままのた打ち回るようにして悶え苦しんでいる。

 ファルがいるところから、キースはまだ遠い。しかしその距離をものともせず、キースの放った矢は、化け物の脇腹を深々と突き刺していた。

「ファル、そこから離れろ!」

 キースの指示が飛ぶ。ファルはそれに従って立ち上がろうとしたが、捻った足首がずきんと痛んで、また転倒してしまった。

 ついさっきまで力任せに締め上げられていた反動か、目が霞んで、意識も朦朧としている。くらくらする頭を振り、四つん這いになって進もうとしたが、手にも足にもまるで力が入らなかった。

 ファルが自由に動けないと判断したのか、キースが二本目の矢を放った。化け物は苦痛で暴れているというのに、矢は狙いをあやまたず、吸い込まれるようにその右腕を貫いた。

 化け物がさらに悲鳴を上げた。

 キースがこちらに向かって走ってくる。ファルを救助するつもりらしい。よくよく気づいてみれば、キースの後ろには、真っ青になって肩で息をしているデンと、なぜかニグルの姿もあった。

「ファル、早く──」

 近づいてきたキースが、ファルに向かって手を差し伸べた。片手には弓を持ったまま、油断なく化け物のほうにも視線を走らせる。

 そして、唐突にぴたっと動きを止めた。

 キースの目が、化け物のほうに釘付けになっている。いや、正確には、化け物の胸のあたりだ。彼がそこに何を見つけたのか、ファルにはよく判った。


 胸のところにある、刺繍された紋。


 キースが目を瞠っている。それが何を意味しているのか、敏い彼が気づかないはずがない。

「──キー、す」

「てめえ……イーセンか!」

 呻き声の合間、彼の名を呼ぶ化け物の声に被さるようにして、激昂したキースの怒鳴り声が響き渡る。

 聞く者すべてが気圧されて、動けなくなるような声だった。

 いつも淡々として物事に動じないキースが、はっきりと怒気を露わにしていた。落ち着いた碧の目が、炎を噴き出しそうなほどの激情に染まる。険しく、底光りをする眼は、まるで獲物を追い詰める時の猛獣のようだ。

 凄まじい憤怒の念が、キースの全身から発されるのを、ファルは茫然として見ていた。

 キースが素早く弓を構える。彼はもう、ファルのほうを見もしない。

 その時、気づいた。

 気づいて、目を疑った。自分の正気も疑った。それほどに、目にしているものが信じられなかった。

 だって──どうして。どうして、キース。

 いつだって彼の周りを取り巻いているのは、澄んだ青い色だったのに。何があっても、それは変わらなかったのに。

 ずっとファルの心に安らぎをもたらしてくれていた、キースの綺麗な青い色が。


 ……じわじわと、黒ずみはじめている。



          ***



 キースが次に放った矢は、両手を振り回して暴れる化け物の肩を掠めた。

 ち、と舌打ちして、即座に、肩に掛けている細長い筒から新しい矢を抜く。そして、腰から下げている小さな蓋付きの器に手を伸ばした。

「キース!」

 それを見て、デンが驚いたような大きな声を出した。

 ひたすら混乱と困惑に包まれていたファルは、その器に何が入っているのかを知らない。キースがそれを使おうとしていることの意味も知らない。しかし、デンの恐怖に満ちたような表情と、いっぱいに見開かれた目が一直線にそこに向かっているのを見て、言いようのない不安に襲われた。


 ──何をしようとしているの、キース。


 デンの声には明らかに制止の響きがあったにも関わらず、キースはまるで頓着しなかった。いいやひょっとしたら、今の彼の耳には、誰の声も届かないのかもしれない。

 キースは一瞬も迷わなかった。遅滞のない動きで器の蓋をむしり取り、その中に矢の先端を挿し込んだ。

 入れたと思ったら、すぐに引き抜く。器から出てきた鏃には、緑色のどろっとした液体が付着していた。

 ……あれは、何?

「キース!」

 その矢を弓につがえようとしたキースの許に、泡を食うようにして、デンが駆けてきた。必死の顔つきでキースの手を押さえ、首を横に振る。

「ダメだ、ダメだ、やめてくれ。あいつのすぐ近くにはファルがいるんだぞ。もしもその矢が逸れて、ファルに当たったらどうする。あんな小さな子には、ちょっと掠っただけでも致命傷になりかねない。いいやそれでなくとも、あいつがもっと暴れて、ファルまで巻き添えになったりしたら」

「……どけ、デン」

 キースは、懸命に懇願するデンを、一顧だにしなかった。掴んでいるデンの手を振り払い、弓に矢を当てた。

「キース! お前さん一体どうしたんだ?! それはファルの目の前では使わないって言ってたのは、お前さんだったろうが!」

 デンの悲痛な叫びにも、キースは何の反応もしなかった。氷のように冷たい双眸は、ただ化け物のほうにのみ向けられたまま動かない。その目にはまるで石のごとく無感動な光があるだけだった。


「あいつを殺す」

 ひどく乾いた声音で、単調にそう言った。


 キースが弓を引き絞る。キリキリという音がした。緑色に染まった鏃の先は、化け物の額の一点に向けられている。

「やめろ!」

 デンが叫びながら、そのキースの前に立ち塞がった。

 両手を横に伸ばし、眦を吊り上げたデンは、息を切らせてキースと対峙した。

「お願いだから、やめてくれ」

 と乞うように言う。

「やめてくれ、キース。ファルを傷つけるかもしれないことを、しちゃいけねえよ。お前さんだって、そんなことはこれっぽっちも望んじゃいないはずだ。正気に戻ってくれ」

「どけ」

 キースは冷然とした表情で言い捨てた。弓につがえた矢は、狙いを定めたまま、ぴくりとも動かない。

「頼む、頼むよ、キース。俺はファルが苦しむようなところを見たくねえんだ。あの子は、こんな俺のことを、『すごい』って言ってくれた、たった一人の人間なんだ。ずっと役立たずで、誰からも邪魔者扱いされてきた俺みたいな男のことを、ちゃんと見てくれて、認めてくれた、大事な子なんだ。ファルに何かあったら、俺はもう、自分のことさえも許せなくなっちまう。なあ、キースもそうだろうが。お前さんだって、あんなにファルのこと──」

 デンは涙声で言い募った。気弱で、いつもすべてを諦めてきたデンが、この時は、矢を前にしても一歩も退かなかった。

 しかし、キースの周りを取り囲む壁は、それさえも跳ね返した。

「どけ、デン! 邪魔をするなら、お前も殺す!」

 キースの怒号に、ファルは慄然とした。


 ──何を言ってるの、キース。


 キースの全身から、黒い色が湧き出すように揺らめいている。徐々に、その闇色は、キースのもとの色である澄んだ青を侵蝕しつつあった。

 塗り替えるように、染まるように、キースの周囲が黒に覆われていこうとしている。

「っ!」

 その瞬間、キースに異変が訪れた。

 どくんと大きく波打つように身体が揺れ、手からすり抜けるようにして矢が地面へと落下する。キースの目が大きく見開かれ、がくりと膝が砕けた。

「……が、はっ!」

 弓を掴んでいないほうの手で、自分の胸部を押さえ、喘ぐように激しく咳き込む。地面に這いつくばるようにして、痙攣するように四肢を震わせた。

 いきなり苦悶しはじめたキースに、デンはぽかんとしてその場に立ち尽くした。ファルもまた、縫い止められたように固まるしかなかった。何が彼の身に起こったのか。あまりにも突然のことに、一種の放心状態に陥ってしまっていた。

「キ……キース?」

 やっと我に返ったファルが、よろよろと立ち上がりかける。その途端、強い痛みが走ったが、キッと眉を上げて、地面に突いた両手に力を込めた。


 キースが苦しんでる。早く行かなくちゃ、早く……


 ふらつく頭と、言うことを聞かない両足を叱咤して、なんとか立つことが出来た。ずきずきとした痛みは動くたびに脳天まで突き上がってきたが、そんなことにも構っていられない。早く、キースの許へ行かなければ。

 キースは背中を丸め、身を縮めるようにして、苦痛に耐えていた。顔を伏せているのでどんな表情をしているのかは見えないが、苦しげな呻き声が途切れることなく洩れている。その声を耳にするだけでも、現在の彼を襲っているのが、身を切り刻むような激痛であろうことが、容易に推し量れた。

「キ、キース、お前さん、どうしたんだね? 一体、なにが……」

 ファルよりも遅れて、思考を取り戻したらしいデンが、おろおろとした様子で問いかける。

 うずくまるキースに対して手を差し伸べようとし、しかしその手は、キースの肩に触れる手前で、びくっと動きを止めた。

 キースが、顔を上げたのだ。

 そこにあるのは、荒い息をして、びっしりと汗をかき、口許を歪めている、少年の顔。


 その眼が、爛々とした金色に輝いている。

 ぶるぶると小刻みに震える手の指からは、長く伸びた爪。

 唇には、鋭く尖った牙が。


 ──キースは、イーセンと同じく、「化け物」の姿へと変貌しはじめていた。





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