襲来
「……どうしたんだい、ファル。さっきから、自分の胸のあたりばっかり見て。気分でも悪くなったかい」
というデンの言葉に、ファルは我に返り、顔を上げた。
「え、そんなことないよ。わたし、胸のところなんて、見てたかな」
「うん。なんかずいぶんと難しい顔をしてなあ。疲れたなら、先に里に戻っていいんだぞ」
「大丈夫、大丈夫」
笑って手を振り、ファルは再び作業を再開すべく、地面に視線を向けた。
現在、二人がいるのは、里から少し離れた草原地帯である。デンが時々、こうして外に出ては、薬の材料になる草を探すと言うので、ファルもその手伝いのために同行しているのだ。
朝に里を出て、今はもう昼近く。長時間しゃがみ込んで、草の一本一本に目を凝らしながら種類を選別していくのは多少神経を消耗する仕事ではあるが、それくらいで疲れたと思うほどに、ファルの体力も精神力も細くはない。
だから別に、疲労しているわけでも、気分が悪くなったわけでもない。ないのだが。
「……ねえ、デンさん」
ファルの向かいにに腰を下ろして、使えそうな草をせっせと背中の籠に放り込んでいたデンが、小さな目をぱちぱちと瞬いて顔を上げた。
「うん? なんだい?」
「男の人って、やっぱり、女の人の胸とかお尻とかは、大きいほうが嬉しいものなのかな?」
その問いに、デンの身体が若干横に傾ぐのが見て取れた。
「な、なんだね、突然」と、ファルの台詞が冗談なのかと測るように草の分け目から顔を覗かせてきたが、もちろんファルは大真面目である。
「デンさんも男の人だから、わかるでしょ? やっぱり、胸とお尻は大きければ大きいほど」
「いやいやいや」
デンが慌てたように、意味もなく両の掌をこちらに向けてバタバタと動かす。
それから、少し困ったような、そして少し申し訳ないような表情になって、首を傾けた。
「悪いけど、俺にはそういうの、よくわかんねえよ」
「わからないの?」
きょとんとしたファルに、デンはちょっと苦笑した。
「昔から俺は、そのなんだ、女の人とは、ほとんど縁のない暮らしをしてたからなあ」
言い淀むようなその様子に、なんだか自分が悪いことを訊ねたような気になって、ファルは首を竦めて口を噤んだ。もともとデンは自分自身のことを話すのを嫌がるところがあるが、この時の彼の浮かべた笑みが、ひどく寂しそうなものであったから、なおさらだ。
だからといって、外に出てしまった言葉を今さら引っ張り戻すのは不可能だし、「ごめんなさい」と謝るのもデンの何かを余計に傷つけてしまうような気がする。
ファルが眉を下げて俯くと、あまり他人の感情に敏いほうではないデンが、この時は「いやいや」と先回りをするかのように急いで言った。
「つまんないことを言ったな。気にしないでくれ。……しかしファルは一体なんでまた、そんなことをいきなり気にするようになったんだい?」
「……別に、気にしているわけではない、よ」
ファルはぼそぼそと言って、手元の草をぶちっと引き抜いた。
気にしているわけではない。
──ただ、昨夜、非常にデリカシーのない男に、「薄い」などと言われたことが引っかかっているだけである。
気にしているのではない。そんなの気にしたって、しょうがないし。そりゃ、決して「分厚く」はないけれども。
気にはしていないけど、ちょっとだけ。
キースはやっぱり、出るところは出ているほうが好みなのか。だから何かというと、ファルにあれこれ食べさせようとするのか。
というようなことを、ついつい考えてしまっては、なんとなくモヤモヤするだけだ。
今までそんなことを考えたことは一度たりともなかったので、ファルにはよく判らない。
どうしてこんなにも、少し腹立たしいような気持ちと、少し焦るような気持ちが、胸の中をぐるぐると渦巻いているのか。
……それも判らないので、戸惑っている。
「これでも最近、肉はついてきたほうだと思うんだけど」
ほとんど言い訳のようなことをぶつぶつと続けると、デンが何かに気づいたように、ああ、と頷いた。
「そうか、ファルも女の子だってことだなあ。大丈夫だよ、ファルだってあと数年すれば、背も伸びて、その……いろんなところが、大きくなるさ」
「数年、っていうと」
「十七とか、十八とかの年頃になればさ」
「…………」
現在十七歳のファルとしては、沈黙するしかない。
ううーん、と内心複雑な思いでいっぱいのファルを余所に、デンはふと手を止めて顔を上げ、虚空に目を向けた。
そしてそのまま遠いところを見るような眼差しをして、ぽつぽつと言葉を出した。
「そうだなあ……ファルも、キースも、まだこれから、『未来』ってやつが、あるんだよなあ……お前さんたちの親は、どうして子供まで、こんな場所に連れて来てしまったのかね。そりゃあもちろん、深い事情があったんだろうが」
デンの口調には、「幼い兄妹を捨てた親」への控えめな非難が乗っている。普段は他人を否定するようなことを滅多に言わないデンなので、おもにファルとキースに対する同情がそう言わせているのだろう。この人の好い人物を騙すようなことをしている事実に、ファルは胸がちくちくした。
「でも、わたしたち、デンさんに見つけられてこの里まで来られたこと、運が良かったと思ってるよ」
だから感謝している、ということを伝えたかったのだが、デンは首を横に振った。
「いや、やっぱり、『こんな場所』に、子供がいるべきではないんだよ。ここはどん詰まりの行き止まりだ。これからいくらだって可能性を見つけて人生を進んでいけるお前さんたちのような子らが、いるところじゃあ、ないんだ」
デンが言う「こんな場所」は、キノイの里だけでなく、忌み地とされているこの小さな陸地全体についてを指しているらしい。「どん詰まりで、行き止まり」でもあるこの地に住み着いた自分に対する自虐にも似た感情が、何もかもを諦めきった彼の目に現れていた。
「──もといた場所に戻りたいとは、思わないの?」
ニグルやキースに向けてかけたものと同じような問いを、ファルは口にした。
どうしてもそれを聞かずにはいられないのは、ファルにはその答えが判らないからだ。だから知りたいと思ってしまう。
デンはニグルのようにいきなり激高するようなことはなかったものの、それでも肩をぴくりと揺らした。
「俺は、ダメさ……」
悄然とうな垂れて、弱々しい笑みを口許に浮かべる。彼の周囲を取り巻く薄いオレンジ色が、さらに淡くぼやけた。自信も覇気も、一切を失ってしまったかのような、孤独と諦めの色だ。
「俺は子供の頃から、ずーっと役立たずでさ。ファルのように気が廻るわけでもなければ、キースのように賢くもねえ。頭が悪くて、鈍くさくて、上手に空気を読むことも出来なかった。そんなんだから親にも見放されて、いつでも独りぼっちだったよ。兄弟はいたけど、このうすのろが、って俺を苛めるところは、近所のガキたちと何も変わらねえ。俺はいつでも、どこでも、邪魔者で、厄介者だった」
肩をすぼめ、背を丸くして、大きな身体を小さくして縮こまるデンは、まるで本当に子供の時の自分に戻ってしまったようだった。
……いや、もしかすると、子供の時から大人になった今まで、彼はずっと、そうやって生きてきたのかもしれなかった。
「図体ばかりデカくなっても、そういうところはまったく変わらなくて、仕事をしても、叱られたり怒られたりの連続さ。俺は臆病だからよう、大きな声で怒鳴られたりすると、委縮して、余計に固まっちまう。それでまた失敗して怒られる、っていう悪循環だ。同じ職場の人間たちは、俺なんていないほうがずっと仕事がはかどると思ってただろうな。誰も……だーれも、俺のことを見ようともしなかった。目を逸らして、俺はそこにいるのに、みんなからは、『いないもの』のように扱われてた」
それがいちばん、つらかった、とデンは呟くように言った。
自分の存在を、誰にも認めてもらえないこと。
確かに自分はここにいるのに、それに気づいてもらえないこと。
「きっとさ、人っていうのはみんな、誰かに必要とされたいものなんだ。誰かに、お前が必要だと思ってもらうことで、やっと、安心するんだ。……ここで生きていてもいいってことを、許してもらえるような気がするんだろうなあ」
「…………」
ファルは目線を下に向けた。
「俺には、そんなことを言ってくれる人は、誰もいなかったよ。だから俺はここに来た。戻りたいとは、思わない。ここでは、俺のような役立たずの出来損ないでも、受け入れてもらえた。なにしろ、里の住人全員が、俺と似たような境遇だったからな」
ははは、とデンが寂しげに笑う。
この地に来て、それで多少は救われた、という側面は実際にあるのだろう。けれど、他人と干渉し合わない、他の誰かと交わらない、というキノイの里は、根本的なところで、もといた場所となんら変わらない。
デンの──住人たちの深く根強い孤独感は、解消されないままなのだ。
「そういうやつは少なくないらしくて、新しく住人になる人間はちょくちょく来る。でもそれと同じくらい、前からいた住人も、姿を消していく。だから数としちゃあ、いつもあんまり変わりがねえんだ」
医者や治療器具の整っていないキノイの里では、病人や怪我人が出ても、あまり有効的な措置が取れない。それが元で死んでしまうケースは、実のところよくあるのだという。
「だから、そういう人たちのために、デンさんがこうして薬草を採取して、役立てているんだね」
ファルがそう言うと、デンは相変らずくたびれたような弱々しい笑みのまま、首を横に振った。
「まあ、真っ当な薬ってのが手に入らないんでね、これは誰かが必ずやらなきゃいけないことなのさ。俺が里に入った時、前にこの仕事をしていたやつがすでに体調を壊していて、しょうがなくその役目を俺が引き継いだんだけど、なにしろ頭が悪いだろう? ファルとは違って、覚えるのにえらく時間がかかってねえ」
その時の苦労を思い出しているのか、目を細める。
「……それに、こんな薬草なんてのは、所詮、気休め程度にしかならない。ここに来た人間の中には、もとの場所のことを忘れられず、心身が徐々に弱って死んでいくやつも多いんだ。そんな時には、薬草なんてなんの足しにもならねえ。俺のやっていることは、結局やっぱり、大して役には立たないことなのさ」
ファルは、以前デンがニグルを指して、「長くは保たないかもしれない」と評していたことを思い出した。
きっと、彼女のような人は、今までに何人もいたのだろう。
……でも。
でも、デンのその言葉には、ファルは大いに異議がある。
「そんなことないよ」
デンの顔を正面から見据えて、強い調子で言うと、デンはちまちまと目を瞬いてこちらを見返した。
「だって、デンさんの薬草はよく効くもん。ニグルさんが飲んでいるのを見てきたから、わたしはよく知ってる。ニグルさんが起き上がったり食事をとれるようになったのは、デンさんの薬草の力だよ。デンさんのしていることは、ちゃんと人を助けてる。時間はかかったかもしれないけど、デンさんはたくさんの草の種類を覚えて、こうしてわたしに教えることもできているんでしょ、それってすごいことだよ」
「…………」
デンはしばらく口を閉じて、黙ってファルを見つめていた。
「わたしとキースは、デンさんに助けられたんだし、今でも助けられているよ」
とさらに力を込めて言うと、その表情が、じわりと崩れた。
「──そうかあ」
眉を下げ、眦を下げ、口許を緩ませて。
ようやく、嬉しそうに笑う。
それは、今までの、「諦めきって、他にどうしていいか判らなくてしょうがなく浮かべる笑い」ではなく、この気弱でお人好しなデンという人物の、本当の笑いだった。
「そうかあ、ファルはそう思ってくれるのかあ」
「思うよ。キースだってそう思ってるよ。無表情で、愛想が悪くて、なに考えてるのかよくわかんないようなところがあるけど、キースはあれでも、デンさんのことを信頼してるし、頼りにしてるんだよ」
ファルの言葉をそのまま受け止めたかどうかは不明だが、デンはまた、「そうかあ」と小さな声で繰り返した。
泣き笑いのような顔で。
「……ファルは、いい子だなあ」
その言い方からするに、どうやらデンは、ファルがただ慰めのために適当なことを口にしているのだと考えているようだ。
むう、とファルは唇を曲げた。嘘じゃないのに。本当にファルは心から、そう思っているのに。
「あのね、デンさん──」
しかし続けようとした言葉は、吐き出される前に再び喉の奥へと戻って消えた。
声を呑み込み、息を呑む。
ファルの目が一方向に釘付けになったまま動かないことに気づき、同じくそちらを向いたデンの間延びした顔も、引き攣ったような恐怖の表情に変わった。
「ど……どうして」
強張った声が唇から洩れる。目を極限まで見開いたデンの視線は、まっすぐに、そちらへと据えつけられていた。
草原の向こう。
立っている、大きな黒い影。
どうして、と疑問を発したいのはファルも同じだ。そこにいるのは、ここにあるべきではない存在のはずだった。
鬱蒼とした森の中ではなく、吹いてくる風がさやさやと草を揺らすだけの平和な光景の中には、あまりにも似つかわしくない。
異様で奇怪な、あの姿。
天界の罪人の成れの果て。
──「咎人の森」の中で見た、化け物だ。
***
そこにいる化け物は、森の中で見たのとはまた別であるらしかった。
背丈が大きく、手足が歪んでいるのは同じだが、以前に見た化け物より、こちらのほうがまだしも人の形を保っていたからだ。
頭には髪らしきものが生えているし、身にまとった布地は、やはり無残にも破れてはいるが、白いシャツとズボンと判るくらいの形状を留めている。眼球はぎょろりと大きく飛び出して、唇も膨れてまくれ上がり歯を剥き出しにさせているが、形としてまだ残っている。鼻も耳も、森の中で見た化け物は削がれて穴しかなかったから、あれに比べれば数段まともだ。
しかしやはり、通常の人間とは違う。ところどころ皮膚が剥がれ、その下にある赤黒い肉が露出している様は、思わず目を背けたくなるほどにグロテスクだった。
よろよろとふらつくように歩いていた化け物は、視線の先にファルとデンの姿を捉えると、いきなり豹変したかのように雄叫びを上げた。びりびりと大地が震動するかのような声だった。
何がそこまで化け物を興奮させているのか判らない。しかし、こちらに向かって一直線に突進してくる化け物に、麻痺していたファルの思考がようやく動き出した。
「デンさん、逃げよう!」
化け物に人の言葉が通じないことは、森で経験したからファルはよく知っている。もとが自分たちと同じ人間であろうと、あの姿になってしまえばもはや獣と同じだ。獣に対抗するすべを、今のファルとデンは何も持っていない。
「あ、ああ」
この場に現れるはずのない異形の生物を目にして、腰を抜かしかけていたデンは、ファルの声でやっと茫然自失の状態から抜け出した。
なんとか立ち上がり、大人の責任からか、ファルの手をぐっと握って、走り出す。足を動かしながらファルが後ろを振り返ると、化け物もまた自分たちのあとを追うように、疾走していた。
どこがどう変化したのか、手足の長さがどう見てもおかしい化け物は、何度もバランスを崩して転んだ。それでもまた立ち上がり、地を蹴って走る。
化け物ははっきりと、ファルとデンに目標を定めて向かってきていた。そしてまったく諦める様子がない。化け物のその姿からは、何がしかの執念が伝わってくるようだった。
ファルはひやりとした。
……このままずっとファルたちを追いかけてきたら、それはみすみすキノイの里にまで、化け物を案内することになってしまわないか。
あそこには、キースがいる。ニグルもいる。武器を持たない弱い女性たちもいる。彼らに危害を及ぼす恐れのある存在を、里の中に入れるわけにはいけない。
ファルはデンに握られていた自分の手を振りほどいて離した。
「ファル?!」
デンが驚愕して叫ぶ。ファルはすぐさま別の方角へと走り、顔だけを振り向かせた。
「デンさんはこのまま里に戻って、みんなに知らせて!」
怒鳴るように言いながら、ファルは走り続けた。デンではなく、自分のほうに引きつけるために、化け物にもう少し近寄る必要がある。大丈夫、大丈夫だ。ファルは身軽で、足だって遅くはない。多少距離が縮まっても、そんなに危険な状態にはならない──はず。
化け物の眼が、ファルのほうを向いた。黄金色なのは森の中にいた化け物と同じだ。なんの感情も窺わせない、爛々と輝く瞳に、身が竦みそうになる。
涎の滴る口が、がくがくと動いた。不自由な発声器官から、何かを絞り出そうとしているかのようだった。
そこから呻き声のようなものが出るのかと思っていたファルは、次の瞬間、予想だにしなかったものが聞こえて、愕然とした。
「──ふぁ、ル」
わたしの名前。
ファルは思わず動きを止めて、化け物の顔を凝視した。
なぜ。どうして。空耳なんかじゃない。化け物ははっきりと、ファルの名を呼んだ。
黄金色の丸い眼から、ぼとぼとと涙が零れている。嘆くように、苦しむように。膨れて歪んで破壊されたその顔に、ファルの記憶を刺激するものは何も見いだせない。潰れてしゃがれた声にも覚えがない。化け物は色を持たないから、それで判別することも出来ない。
しかしファルは、化け物がかろうじて身につけているシャツの──ほぼ残骸となったその布地の胸のところに、何かの模様があるのを見つけた。
模様……いいや、違う。紋だ。
洋服に、紋? だとしたらこの化け物は、天界ではかなり身分が高い人間であったことを示している。普通、家紋とは、「その家に所属することを誇りとし、自慢とする人間」が、好んで残すものだからだ。
キースも以前、そんなことを言っていたではないか。
──わざわざこんなもんにまで家紋を刻むバカの気が知れないが、あの男はいちいちこうやって持ち物の一つ一つに所有の証を残さないと落ち着かないタチらしい。
あの時に見せてもらった「エゼル家の紋」を、ファルはまだちゃんと覚えている。
キースが持っていたナイフに刻まれた紋。そして今、自分の前に立つ化け物の服に刺繍された紋。
その二つは、確かに同一のものだった。
──じゃあ、これは。
ファルは眩暈がした。どうしてこんなことが起こっているのか、まったく判らない。手と足が震え、頭ががんがんと響いて痛いほどだ。
……この化け物は、イーセン。




