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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第一部・天
3/73

解雇通告



 翌日、いきなりギルノイ夫人が厨房にやって来た。

 これには、ファルだけではなく、その場にいた料理人や他の使用人たちも驚いた。

 ギルノイ屋敷の建物は、「表」部分と「裏」部分にはっきりと分かれている。当主とその身内が生活し、彼らと同等の立場である上流階級の人間たちが訪れる煌びやかな場所が表、使用人たちが寝起きする狭い部屋や、厨房や家畜舎や物置などの「人目に触れさせたくないもの」があるのが裏だ。

 使用人が主人から言いつかる仕事をこなすため、表のほうに出入りをすることはもちろんあるが、その逆というケースはほぼ無に等しい。ギルノイ当主や夫人が使用人に対して命令をする時は、自分の許へ来るように呼びつければいいのだから当然である。

 だから一日のほとんどを裏のほうで駆けずり回ることに費やすファルなどは、主人夫婦の姿を見ることも滅多にないくらいだった。

 それなのに。


 その夫人が突然厨房まで直接足を運び、あまつさえ「ファルというのはどれ?」などと名指しで呼んだのだから、驚かないでいるほうが無理というものだ。


 料理人は目を真ん丸にし、普段ファルにあれこれと仕事を命じる年嵩のメイド頭が真っ青になる。彼女は慌てて夫人のそばに駆け寄ると、腰を低くし、頭を下げた。

「これは、奥様……あの、ファルがなにか粗相をいたしましたでしょうか。申し訳ございません、いつも厳しく言い聞かせてはいるのですが、あれは私の言葉も通じないような半端者でして」

 どうやら、ファルがとんでもない失敗をして、怒った夫人が怒鳴りつけに来た、と思っているらしい。おどおどと上目遣いに夫人を窺う表情には、ファルが何をしたとしても、そのとばっちりを自分が喰らうのはごめんだ、という気持ちが露骨に現れていた。

 夫人はメイド頭のほうを見もせずに、いかにも鬱陶しそうに片手を振った。

「余計なことはいいから、早くそのファルとやらを呼びなさい」

「わたしですが」

 汗だくでかまどに薪をくべていたファルは、きょとんとしながら手を止め、立ち上がった。

 夫人の傍らでメイド頭がぎろりと睨みつけるので、彼女に倣って腰を屈める。誰にも教わらなかったし、そもそも今まで身分の高い人間と接する機会を与えられなかったという理由で、ファルはどうしても礼儀というものに無頓着になりがちだった。

「お前が?」

 夫人はあからさまに意外そうに目を大きく見開いた。

 煤であちこちが黒くなり、汗で額に前髪がべったりと張りついたファルの様子を見て、嫌そうに顔をしかめ、ハンカチを鼻に当てる。そういうものに縁がない暮らしをしているというだけではなく、夫人に限らず大半の天界人は、「汚れたもの」を極度に嫌悪する傾向にあるのだ。

「お前が『ファル』?」

「そうです、奥様」

 夫人の確認に、躊躇なく頷く。ファルは、先のことを見越して不安になる、という性質からは程遠い。何が起こってもその場その場で考えよう、という、良く言えば柔軟な、悪く言えば太平楽な思考の持ち主なのである。

「こんな貧相な子供を、一体どうしてまた……」

 夫人は怪訝そうにぶつぶつと呟きながら、ファルの全身をまじまじと眺めた。

 太りじしの彼女の「色」は、雨が降る直前のどんよりとした雲のような灰色だが、それは今、ただ身体の周囲でゆらゆらと揺らめいているだけだった。純粋に不思議がっているだけで、怒っていたり、不快になったりしているわけではないようだ。


「まあいいわ、ファル」

「はい」

「お前は今日限りで、この屋敷から出て行ってもらいます」

「え」

 ファルはぽかんと口を開けた。


 突然のクビ通告に、理解が追いつかない。これまでだって勤め先を転々としてきたが、こんな風に叱責も理由もなく辞めさせられるのははじめてだ。

 メイド頭と料理人、そして他の使用人たちは、全員ほっとした表情を浮かべた。夫人のその口調から、解雇されるのはファル一人で自分たちには関係ない、と悟ったからだろう。

「…………」

 うーん参ったな、とファルは人差し指でかりかりと自分の頬を掻いた。

 今日限りで出ていけ、とは。すぐに次の仕事が見つかるかな。というより、今夜の寝床はどうしようかな。

 わたし、何をやらかしたんだろ?

「さあ、そうとなったら、ぐずぐずしないで、さっさと準備なさい」

「は……えーと、準備というと」

「荷物をまとめるのよ、早く」

 ええー、そんな追い立てられるように、すぐに出て行かなきゃならないのか。ファルの個人的な荷物なんてものは少ししかないが、それにしたって性急だ。

「……わかりました。じゃあ、すぐに」

 とはいえ、言い渡されたものは仕方ない。ファルは腹を括った。所持金もわずかしかないが、今日のパン代くらいにはなるだろう。幸い、今はそんなに寒い時期でもないから、外で寝たって死にゃしない。たぶん。

 頭を下げて足を動かしかけたファルに、夫人は大きく頷いた。

「急ぎなさい。そろそろ迎えがいらっしゃるわ」

「は?」

 その言葉に、動かしかけていた足が止まった。

 目を瞬いて見返すと、夫人はいかにも「まあなんて物わかりの悪い」とでも言いたげに眉を寄せている。

「お前は今日からアストン様のお屋敷でお勤めするのよ。あちらからお話を頂いた時にはなんの冗談かと思ったけれど、まあ、あちらのご当主はもともと変わり者でいらっしゃるという評判のお方だしね。こちらとしてもアストン家と繋がりが出来るのなら大歓迎だわ。いいこと、ファル、あちらのお屋敷に行ったら、ギルノイの家に対する恩を忘れず口にするのよ、それから……」

 夫人のぺらぺらと動く唇を、ファルはぼんやりと見つめた。


 ──アストン様って、だれ?



          ***



 ファルにも何がなんだかさっぱり判らなかったが、他の使用人たちは、もっとわけが判らなかったらしい。

「おい、なんだそりゃ、どういうことだ」

 夫人が厨房を出ていくと、すぐさま血相を変えた料理人が詰め寄ってきた。

「アストン様って、まさかあのアストン様かい? あそこのお屋敷っていったら、このギルノイの屋敷の何倍もあろうかって大きなところじゃないか。なんでそんないい勤め口が、ファルなんかのところに」

 メイド頭も眉を逆立てて、今にもファルの胸倉を掴んできそうな勢いだ。他の使用人たちからも、疑問と不審と怒りの言葉が口々に投げつけられる。

 とはいえ、ファルがその問いに答えられるはずもない。みんなは知っているようだが、ファルは「アストン」という名前すら、初耳なのである。それでどうして自分がその屋敷に行くようなことになったのかも、まったく判らない。

「一体、どんな手を使って、アストン屋敷に伝手なんて作ったのさ」

「さあ……」

 としか、ファルには言いようがなかったのだが、その顔と言葉は、相手には「とぼけている」としか映らなかったようだ。彼らのまとう色が、一気に濃くなった。


 ああ、まずいな、これ。

 すごく、怒ってる。


 それは察せられるものの、その怒りを宥めたり解いたりするすべをファルは知らないのだから、どうしようもない。

 料理人は乱暴に前掛けを外して、床に勢いよく投げつけた。

「なんてこった。おい、ふざけんなよ、なんでまたお前みたいなクズが。ファルのくせに──お前なんて、これからもずっと底辺で、真っ黒になりながら這いずり廻っていればいいのに」

 彼の周囲に、どろりとまとわりつくように赤黒い色が混じりだした。嫉妬の色だ。これまで顎でこき使っていた娘が、自分よりも上の立場になるのかもしれないという焦りと腹立ちが加わり、さらに粘ついた色に変化していく。

「おい、ファル」

 料理人の手が伸びてきて、ファルの細い二の腕を掴んだ。

 ぐぐっと強い力が込められて、ファルは歯を喰いしばって痛みに耐えた。これはまた痣が増えそうだ。いや、痣程度で済めばいいのだが。

 底光りする目を据えつけて、料理人は唸るように低い声を絞り出した。

「俺たちを出し抜いて自分だけいい目を見ようったって、そうはいかねえぞ、なあ?」

 凄むようにそう言ってから、何かを思いついたように、「ああ、そうだ」と唇をにやりとまくり上げる。

 こちらに向けられる目に、陰鬱な険しさが加わった。

「もしもここで、たとえばお前が怪我でもしたら、どうなるかな? 腕とか、足とかよ。どんな伝手があるにしろ、片目でも潰れりゃ、使いものにならなくなって、アストン屋敷からも追い出されるだろうさ」

「……ご冗談を」

 さすがにファルの全身が強張った。

 殴る蹴るだけなら我慢すればいいことだが、いくらなんでも片目が見えなくなってしまっては困る。しかしもっと困ったことに、頭に血の昇った料理人に、冗談だよという雰囲気はカケラもない。さらに言うなら、他の使用人たちにもそれを止めようという気はなさそうだ。

 ファルは身を捩って逃げようとした。しかし、腕を掴まれているので離れられない。

 せめて目を潰されるのは勘弁、とぎゅっと目を閉じて顔を下に向けた──時。


 腕を掴んでいた手が離れ、それとほぼ同時に、思いきり何かが倒れるような、けたたましい音が響いた。


「ん?」

 目を開けると、今の今まで自分に対して凄んでいた料理人が、厨房の端まで吹っ飛んで、白目を剥いて倒れていた。

 メイド頭も、他の使用人たちも、蒼白になってファルの背後に目を向けている。

「……んん?」


 後ろを振り返ってみれば、そこには、昨日と同様、整然としたスーツに身を包んだキースの姿があった。


 何事もなかったように無表情で立っているが、今、何をしたんだ?

「キース、何したの?」

「知らん。勝手に飛んでいった」

 キースは素知らぬ顔でそう言って、それっきり料理人のことも他の人間のことも無視した。

 ファルのほうを向いて、口を開く。

「もう話は聞いたか」

「うん?」

「おまえは今日から勤め先が変わるんだ。荷物はまとめたか?」

「ううん、まだ……え、ってことは」

 ファルは目をぱちぱちさせた。


 夫人が言っていた、「アストン屋敷からの迎え」って、キース?


「じゃあ、キースはアストン様のお屋敷にお勤めしてるの?」

「……そういうことでいい」

 キースは昨日と同じようなことを言って、目を逸らした。

 そうかあ、とファルは一応納得した。アストン屋敷に勤めているキースが、そこの偉い人に話を通すか何かして、勤め先の変更という今回のこの唐突な成り行きになったわけだ。礼がどうのこうのと言っていたから、きっとそういうことなのだろう。顔のわりに、律儀だねえ。

「説明はあとだ。行くぞ」

「うん、わかった」

「……おまえのその物事を考えない性格は、こういう場合、話が早くていいな」

 なんとなく感心するようにそう言ってから、キースが踵を返してさっさと歩き出す。ファルも急いでその後を追おうとし、思い出したようにくるっと後ろを振り返った。

「それではみなさん、お世話になりました!」

 ぺこっと頭を下げて厨房から走り去るファルの後ろ姿を、まだ意識の戻らない料理人以外の全員が、茫然と見送った。



 寝床として使っていた小屋からファルが持ち出したものを見て、キースは呆れたような顔をした。

「荷物って、それだけか」

「そうだよ」

 両手で抱えた包み、それが今のところのファルのすべてである。あとは自分のこの身体。あちこちに傷は残っているが、健康と丈夫な足が自慢なので、働き口さえあればなんとか生きていける。それで十分だ。

「じゃ」

「あ、待って」

 行くぞ、と言いかけたキースのスーツの端を引っ張って止め、ファルは別の方向に目を向けた。

「あの、最後にお別れを言ってきてもいい?」

「別れ?」

「みんなに」

 自分がずっと世話をしていた、鶏と牛たちに。

 そう説明すると、キースはファルと同じ方向に視線を向けてから、わかった、と返事をした。それから、ファルの隣に並んで歩き出す。一緒についてくるつもりらしい。

 家畜舎に行くと、ファルの姿を見た鶏と牛が、甘えるような鳴き声を上げて、大騒ぎになった。

「これを全部、おまえ一人で世話してたのか」

 あまりこういう場所に慣れていないらしいキースは、物珍しそうに餌場のあたりを眺めている。

「うん。わたしはこういうの好きだけど、他の人たちはそうじゃないみたいだね」

 家畜の世話は、臭いがつくからとイヤがる人が多い。ファルがいなくなっても、ちゃんとご飯をもらえるかなと、ギルノイ屋敷から出ていくことの気がかりはそれだけだ。

「もう会うことはないかもしれないけど、みんな元気でね。お腹が空いたり、おうちの掃除をされなかったら、暴れて文句を言ってもいいよ」

 鶏だって牛だって生きているのだ。自分の生存に関わる問題が生じたら、それくらいは許されるだろう。

 ファルの教えに、「こうやって?」とでも言うように、鶏が一斉に大きな声で鳴いてバサバサと羽ばたきを繰り返し、牛も吠えるように鳴きながらガツンガツンと蹄を打ちつけた。

「そうそう、そんな感じ」

 ファルが褒めると、ますます声と音が大きくなる。しまいには、畜舎全体が揺れるほどの大音響になって、ファルは笑って手を叩いた。

 キースは両耳を手で押さえながら、ぼそりと呟いた。

「……おまえって、本当に変なやつだな」



          ***



 ギルノイ屋敷の裏門の外には、馬車が待機していた。

 それも、商人が乗るような荷台のついた馬車ではなく、立派な窓と車輪のある箱型の客車のついた馬車である。ギルノイ屋敷では、主人夫婦がパーティーに行く時に気取って乗っていたようなやつだ。

 御者が恭しく開ける扉から、キースが当たり前のように乗り込むので、ファルは困惑して立ち尽くしてしまった。

「どうした?」

「キース、アストン様のお屋敷ってだいぶ遠いの? わたし体力はあるほうだと思うけど、馬についてずっと歩いて行けるかなあ」

「何を言ってる。おまえも乗るんだよ」

「え、いやだよ。だってわたしが乗ったら、中が汚れちゃうかもしれないし」

 なにしろ、「着替えなくてもいい」とキースが言うので、ファルはまだ煤で黒くなった服のままなのである。こんな恰好のままこんな立派な馬車に乗ったら、掃除をする人が大変だ。

「いいから」

 キースはため息をついてまた降りてくると、ひょいとファルの身体を抱き上げ、客車の中に突っ込んだ。御者がものすごくびっくりしたように、目を白黒させている。

 強引に椅子に座らされたが、落ち着かない。これなら走って行ったほうが気が楽だなあ、とファルがそわそわしているうちに、馬車が動き出した。

 ふかふかの布張りの椅子に腰かけ、キースと向かい合う。彼は真面目な顔つきになって、正面からファルをじっと見た。

「ファル」

「うん」

「とりあえず、屋敷に向かう。詳しいことはいずれ話すが、今はこれだけを聞いておいてほしい」

「うん」

 キースの碧の瞳がまっすぐ据えられる。


「──屋敷では、人の目があるところでは、絶対におれに話しかけるな。おれが他の人間に対してする説明に、一言も反論するな。おれと二人だけの時以外は、おれのことを『キース』と呼ぶのもダメだ。いいか?」


 今までのキースはあまり感情を出さない淡々とした喋り方をしていたのに、この時ははっきりと言い聞かせるような、厳しい口調だった。

「んー、と」

 ファルは目線を上に向けて、言われた言葉を反芻しながら考えた。

「つまり、余計なことは何も言わずに、黙ってろってことだね?」

「……そうだ」

 キースがわずかに目を伏せる。

「うん、わかったよ」

 事情や理由はまったく判らないが、ファルはそう返事をして、こっくりと頷いた。




 しばらくすると、目的地に着いたらしく、馬車がギッと音をさせて止まった。

 窓から覗いてみれば、黒い重厚な鉄の門扉が見える。その向こうにある庭と、そこから続いていく道は見えるが、建物の姿は視界に入らない。

 はあー、とファルは大きな息を吐き出した。どれだけ広いんだか。確かに、ギルノイ屋敷の比ではない。

 一人の老年の男性が小走りに駆けてきて、門扉を開ける。

 彼は、馬車の中にいるキースに向かって、身体を折り曲げるように深々とお辞儀をした。


「──おかえりなさいませ、旦那様」





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