安らぎ
翌日、キースは小動物を一匹仕留めた。
動きがすばしこくて、三本ほど矢を無駄打ちしたが、四本目に放った矢は、深々と真っ直ぐに、獲物の腹を突き刺した。小さな獣が跳ねるように反り返って倒れ、手足をビクビクと痙攣させるように震わせてから、パタリと息絶える。
これなら上々というところだろう。
デンにもらった毒の入った器は、一応、厳重に蓋をした上で腰から下げて持ち歩いているが、まったく必要なかった。大型の獣もこの土地に生息はしているのだろうが、キノイの里の周辺には近寄って来ないようだ。
動物の死骸を持ち上げて手にぶら提げ、里へと戻るために踵を返す。
まだなま温かくぐんにゃりとして、血も滴っている現在のこの状態では、あまりにも死の匂いが濃密で、生々しい。ファルが帰ってくる前に、こいつを捌いて「肉」の状態にしておかなければ。
イーセンから奪ったナイフは、持ち主は気に喰わないが、切れ味は良いから、こういう時に役に立つ。
──とりあえずこれで、自分の力で食料を得るのが可能である、ということが実践されたわけだ。
里を目指して歩きながら、キースは胸のうちで考えた。
幸いにしてこの地には、湧き水が豊富にあり、食べられる実をつける木もそこかしこにある。
デンの毒がどの程度の効力があるかは、まだ試していないのではっきりしないが、この子供の身体でも、外敵に対処する手段は最低限持ち得たと思ってもいいだろう。
……これなら、ファルを連れてキノイの里を出ても、なんとかやっていけるのではないか。
心の中でそう呟いてから、顔を上げて空を見る。
今日もそこは白い雲が広く薄くたなびいている。地界にいる人間からは、「その上」にあるものの姿を見ることは出来ない。
実は、キース自身にもよく判らないのだ。
自分は果たして、それを見たいと思っているのか、見たくないと思っているのか。
家に戻ると、ファルはやっぱりまだ帰ってきていなかった。
今日もどこかで誰かの手伝いをしたり、働いたりしているはずだから、陽が落ちる頃まで戻ってこないだろう。
朝から晩までちょこまかと動きづめなので、少しは休んだらどうだと思うし、実際口に出して何度も言ったのだが、当人にこれっぽっちも聞き入れる気がないのだから、どうにもならない。
「休むって、具体的にどうしたらいいの?」と真顔で訊ねてくるくらいなので、ファルの今までの人生というのは、余暇とか休息とかの言葉とはまったく無縁のものだったんだな、と何度も思ったことをまた思い知らされるだけだ。
そういうわけで、ファルの姿はなかったが、その代わり、別の人間を見かけた。
その人物は、キースとファルが暮らす小さな家の影に、隠れるようにひっそりと立っている。
キースはもちろんその存在にすぐ気づいたし、それが誰なのかということもちゃんと見て取れたが、そのまま無視して家の中に入った。
それきり知らん顔を決め込んで、土間に仕留めた獲物を置き、早速解体に取り掛かりはじめた。
ナイフで白く柔らかい腹を裂き、内臓を取り除き、皮を剥ぎ取る。キースは無表情で黙々とそれらの作業を続けた。
後ろでカタンと扉の開けられる小さな音がしても、振り向かなかった。キースの無反応ぶりに、そこに立つ人物は戸惑っているようだが、それを斟酌してやる気もない。
他人に関心を向けない、というキースの性質は、地界に堕ちて、子供の姿に変わっても、なお健在のままなのだ。
「……あの」
やがて辛抱が切れたらしく、ニグルが細い声を出した。
それでも振り返らず、手を動かすのも止めないキースに焦れたのか、今度はもう少し大きな声がかけられた。
「ちょっと、聞こえてるんでしょう?」
まるで、子供が拗ねてむくれたような言い方だ。
キースは、ファルの話を聞いた時から、このニグルというのは、かなり自己中心的で、かつ、陶酔型の人物だ、という分析をしていた。事故に遭って顔に傷を負い、婚約者に他の女に乗り換えられたのは、確かに不幸な出来事であるかもしれない。しかし、こう言ってはなんだが、よくあることでもある。実際、こことは違う世界である天界でも、探せば似たような事例はいくらでも出てくるだろう。
それをこのニグルは、まるで自分ただ一人だけが、世界一の不幸を背負い込んでしまった、とでも言わんばかりだ。こんな自分は他の誰よりも憐れで可哀想だ、という思い込みで、凝り固まっている。
そんな人間をなんだかんだと気にかけて、食べ物その他で援助をしてやっている里人も、そしてファルも、いい加減お人好しだと、キースは内心、呆れていたのだった。
「何か用か」
ようやく顔だけで振り返ってそう言うと、ニグルは少しひるむような表情になった。
キースと言葉を交わすのはこれがはじめてなので、その子供の外見にはそぐわない、冷たい口調と醒めた目つきに、驚いているらしい。
そして、キースが少し身体を動かしたことで、今まで見えていなかったものも目に入ったのだろう。赤黒い塊と、剥がれたばかりの皮、そして落とされた小さな動物の頭部に、ニグルは押し殺したような悲鳴を上げて、扉の向こう側に隠れた。
そのままいなくなるかと思ったら、少しして、またそろそろと顔だけが覗いた。床に点々と飛び散った血の染みを見ないようにしているのは明らかだったが、家に逃げ帰ろうという様子はない。
「この間のだけじゃ足りなくて、またファルを罵りにでも来たか」
続けて出した言葉に、ニグルはただでさえ青白い顔からさらに血の気をなくし、唇をぎゅうっと歪めた。
「そんな……ひどい」
まるでキースが百の言葉で責め立てたとでもいうように、肩をすぼめて、小さく身を震わせる。悔しそうに睨みつけてきたが、その視線は、キースの冷然とした眼差しに跳ね返されて、途中で力を失くし、自分の足許へと向かった。
「──あの子は?」
下を向いたまま、ぽつりと呟くように言う。
「心配しなくても、あんたのところには、もう行かないそうだ。自分を見て、またあんたを怯えさせたらいけないと思ってるんだろう」
「…………」
素っ気なく返すと、ニグルがさらに顔を俯かせた。
無意識なのか、それとも、自分がファルに向かって投げつけたものを思い出しているのか、顔の左半分を覆っている髪の毛に、手で触れる。
「あんたのその傷」
ニグルの手が、ぴくりと弾かれるように動いた。
「それを指して、いろいろ言うやつはたくさんいただろう。そんな時、あんたはどう思った? なにも好きこのんで、自らこんなものを負ったわけじゃない、自分の咎ではないことで非難されてもどうしようもない、とは考えなかったか?」
「…………」
ニグルは何も言わない。顔を上げないので、彼女がどんな表情をしているのかは見えなかったが、わずかに鼻を啜る音は聞こえた。
「──あんたは、もといた場所から持ってきた花を、自分のよすがとしてずっと大事にしていたんだろう? その花が枯れかけていたから、ファルは『元気になってね』と声をかけたんだそうだ。花がまた元気になれば、あんたも元気になるかもしれない、と思ったんだろう」
それだけ。たったそれだけのことだ。
たとえ他の人間にはない能力を持っているとしても、ファルはその能力を自分の欲のために使うことはない。怖れたり、蔑んだりするほうが、どうかしている。
怖れ蔑むもの、唾棄すべきものは、他にいくらでもあるというのに。
「……あの子の世話の仕方って、すごく乱暴なのよ」
しばらくの沈黙の後で、ニグルがぼそりと小さな声で言った。
やっぱり顔は見えないが、その声、その口調からは、今まであった棘が消えている。子供のような言い方なのは同じだが、今度のは、泣き出す直前の幼子のようにずいぶんと弱々しく聞こえた。
「まるで、鳥に餌をやるみたい。食べ物を口の中に突っ込むようにして、食べさせようとするの。もう少しやり方ってものがあるじゃないのって、何度も思ったわ」
「だろうな」
苦情なのか文句なのかよく判らないが、ニグルのその言葉に、キースは大いに納得した。
ファルは大体において、繊細さとはかけ離れた性格をしているのである。倒れていたキースを介抱してくれた時だって、治療の手つきも手順も確かに間違ってはいないのだが、非常に乱暴で大雑把極まりなかった。
ファルにとって、傷ついて弱った人間を助けるという行為は、本当に掛け値なく「羽を傷めた鳥の面倒を見る」程度のことであって、それ以上やそれ以下の意味は持っていないのかもしれない。
決して見返りを求めない、無私のまま差し出される救いの手。
……ニグルもその時、ファルの背後から、明るい光が差し込んでくるのを感じたのだろうか。
ニグルがようやく顔を上げた。
「──あんたたちも、東の大陸から来たの?」
その問いかけに、キースは一瞬口を噤む。
「も」ということは、彼女「は」そこから来たということなのだろう。キースはその場所のことをほとんど何も知らないので、下手なことを言うと怪しまれてしまいそうだ。
「『ここ』には、西の大陸からも人が来るのか?」
「そうよ、船でね」
質問に質問で返しても、ニグルは特に訝らなかった。あるいはキースが子供だから、いろいろ知らないことはあっても無理はない、と解釈しているのかもしれない。
「船……」
「三カ月に一度、西の大陸からそういう船が出るの。その船は人を乗せてここに来ては、空っぽにして帰るのよ」
ニグルの説明には、少々自嘲の響きが混じっている。
入口はあっても出口はない──ということは、その船もおそらく厳しい監視の目が光っているのだろう。
乗せてきた人々をここに降ろし、あとは放置して、また再びそそくさと西の大陸に戻るだけ、ということか。
──ここはまるで、巨大なゴミ捨て場だ。
「東の大陸のどこから来たの? やっぱりリジーから?」
リジー、というと、東の大陸の中で、最も大きな面積を占めている国のことだな、と頭の中で地図を広げて思い返す。
この口ぶりでは、ニグルの故郷はそのリジーという国であるらしい。いちばん大きな国だから、おそらく人口も多いのだろう。ここで地名や場所について問い詰められても厄介なので、キースは話の舵を別方向へと切り替えた。
「この場所は、リジーのような『国』ではないんだろう?」
ニグルは、そんなことも知らないのか、という顔で眉を寄せた。
「当たり前よ。東と西の大陸から見放された地だもの。税金は納めなくてもいいけれど、どこからの庇護も恩恵も受けられない。どの国にも属さない、捨てられた土地よ。かろうじて、あちこちの国から最低限の生活必需品くらいは施されてはいるけど、医者も薬もないから、死人が出るのなんて、しょっちゅうだわ。それでも、次から次へと人はやって来る。この世界には、死にたくはないけど、生きていたくもないって人が、なんて多いのかしらね」
腹の中に溜め込んでいたものを一気に吐き出すように、ニグルは言った。
彼女はどうも、感情の制御がかなり下手なほうらしい。だから一旦箍が外れると、こちらが聞きもしないことまで、べらべらと話しだす。
「このキノイの里にいるのだって、みんな故郷の地で上手くやっていかれず、半ば以上追い出されるようにしてやって来た人たちだわ。身内が犯罪者になったり、仕事でとんでもない失敗をして大きな損害を出してしまったり──その人自身が明確な罪を犯したわけではなくても、周囲の白い目と冷遇に耐えられなくて、でも他に行くところもなくて、仕方なくここへ逃げてくるしかなかった人ばかりなのよ」
「…………」
キースは、デンの気弱そうな顔を思い浮かべた。
何もしていなくても、いつも妙におどおどとして見えるのは、彼にもそういう事情や過去があるからなのだろうか。
「西の大陸からの船は、どのあたりに到着するんだ?」
三カ月に一度人を乗せてくる定期船というからには、ある程度の大きさがあるのだろう。ならばこの土地にも、それなりの規模の港や船着き場が作られているはず。しかし目を皿のようにして隅々まで見たあの地図の中に、それらしきものの記載はなかった。
正確な位置は秘されている、ということか。
「さあ、そんなの、私だって詳しくは……」
ニグルはそう言いかけてから、口を閉じた。ここでようやく疑念を抱きはじめたらしい。
「……どうして、そんなことを知りたいの?」
と、探るような目つきでキースを見返してくる。ここらが引き際か、とキースは思った。
「そろそろファルが帰ってくるが」
さりげない調子で話を逸らすと、ニグルがはっとしたように目を見開いた。
「待つか? あいつと話をしに来たんだろう?」
「え……」
ニグルは途端に狼狽したように、そわそわと視線を泳がせた。ここへはそもそもファルに会いにきたのだろうと思うのだが、キースと話をしているうちに、すっかりその気が削がれてしまったようだ。
「……い、いえ、いいの。ちょっと、外に出たついでに、寄ってみただけだし」
無理のある言い訳だな、とキースは思ったが、「そうか」と一言だけ返すに留めた。
「私がここに来たことは、あの子には言わないで」
それだけ言うと、ニグルはぱっと背を向けて、逃げるように足早に立ち去った。
「ああ」
キースはもちろん、ファルにわざわざこんなことを伝えるつもりはない。
……どうせ、またすぐに来るのだろうし。
***
ファルは、キースが自力で食料を調達してきたことを知ると、単純に「すごいね、キース」と目を真ん丸にして感心した。
少し大げさだと思わなくもないが、同時にホッとする。ファルは動物を殺して食べることに、嫌悪感や罪悪感を抱いたりするタイプではないらしい。
普通に焼いた肉を口に入れるのと、その肉がつい今朝方まで元気に跳ね回っていた生き物であったことを実感するのは、まったく別の話である。思うところがまるでないというわけではないのだろうが、少なくともそれを表に出すような幼さはファルにはない、ということだろう。
子供のような見た目でも、ファルの中身はニグルよりもよほど大人だ。
その肉は、ファルが調理をして、晩の食卓にのぼった。
食卓と言ったって、床に直接器を置いて並べるだけなのだが、ファルは「今夜は豪華だねえ」と大喜びだ。
ニコニコしながら、肉やパンを半分ずつに分けはじめる。このキノイの里で、二人で一緒に暮らすようになってからというもの、食事のたびに繰り返される光景である。
キースが「いちいち半分に分けなくてもいい」という言葉を喉のところで止めるほど、そういう時のファルは毎回嬉しそうだ。
……天界にいた時は、こんな風に誰かと一緒に食事をすることなんて、ほとんどなかったな、と、ファルのその顔を眺めながらキースは思う。
子供の時から、キースは食事はいつも一人で摂っていた。
両親はそれぞれ別々にどこかで食べていたようだし、そもそも二人が揃って在宅しているということが、滅多にない家だった。
使用人はいたが、近くに立っているだけで、何かの言葉をかけてくるわけでもない。使用人といっても、ライリー家から派遣された、いわば番人のようなものだったから、彼らは幼いキースにも非常に冷たく、余所余所しかった。
常に見張るような視線を受けながら、ただ黙々と口に詰め込んでいく作業、それがずっとキースにとっての「食事」というものだった。
大人になってからも、誰かと共に食事をした、というような記憶がない。キースが「アストンの犬」であることを知っている連中は、いつ毒を盛ってくるかもしれない油断のならない相手と同じテーブルを囲むのは真っ平御免だと思っていただろうし、知らない人間だって、こんな無表情で無口な男が前にいては、どんな高級料理だって不味く思えると敬遠するだろう。
考えてみれば、アストン屋敷の書斎で軽食をつまんでいた時から、キースにとってファルは特別であったのだ。
どうもキースは、ファルの顔を見ると、何かを食べさせてやりたいという衝動に駆られるらしい。地界の食べ物は天界のそれよりもずっと栄養があるのか、ファルの顔色は最初に会った時に比べ、はるかに健康的で赤味が差している。にも関わらず、明日は何を食わせるかな、と今も心の片隅で考えているのだから。
少し肉がついてきたといっても、まだ小柄だし。ファルが今のキースの身長を追い抜いたら、それはそれで複雑だが、もう少しふっくらとはしてもいいんじゃないだろうか。
「……なに? キース」
パンを二つにちぎっていたファルが、まじまじと見つめるキースの視線に気づいて、少し居心地悪そうに身じろぎした。
「いや……相変わらず、薄いところは薄いなと思って」
「…………」
キースの目線の先を辿って自分もその場所を見下ろし、むっと口を曲げて顔を上げる。
「あのね、前からずっと思ってたけど、キースにはデリカシーってものがない!」
「おれを色でしか判別できなかった無神経な女に言われたくない」
「執念深いね、キース! もっといっぱい食べて、もっといろんなところが大きくなったら、キースなんて窒息するまで抱き潰せちゃうんだからね!」
「おまえは冗談が上手だな」
「そういうところだよ!」
ぷんぷんしながらファルがキースの前に半分にしたパンを置く。その手も、以前ほどガリガリに痩せ細ってはいない。抱き潰して窒息させられるほど豊満にはならなくても、いずれは他の娘と遜色ないくらいには成長していくのかもしれない。
──いずれ。
いつか来るその時、ファルの傍らにいるのは、誰なのだろう。
ファルは食欲旺盛に食べながら、お喋りも止まらない。もぐもぐと口を動かしつつ、その合間合間に話をするという、器用なことをしている。
今日はどこで何をして、誰がどんなことを言って、こんなものを見つけて──
「この野菜はね、生で食べるととっても苦いんだって。キース、苦いの嫌でしょ? だから茹でて細かく刻んでね……」
と、ひとつひとつの料理についての説明までしてくれる。その上で、どう? どう? と身を乗り出して感想を求められるので、キースもそれなりに心してそれらを味わわなくてはならない。
「美味い」
そう言うと、ファルがにこっと笑った。
……料理についての味なんて、以前はあまり考えたこともない。苦いものと甘いものが苦手、というのだって、それ以上のものを食べるものに対して求めていなかったからだ。
屋敷の料理人は、いつだってキースの味の好みなどには頓着せず、決まったものを出してくるだけだった。ただそれを咀嚼して飲み込む。キースにとっての食事とは、そういうものでしかなかった。
でも、違う。
きっと本当は、こういうのを「食事」と呼ぶのだ。
アストン屋敷にいた時とは、室内の様子も、料理の内容も、大分違うけれど。
──でも、キースがいるのは同じでしょ? 場所や食べ物は、あんまり関係ないと思うな。
以前、ファルが言っていたことが、ようやくこの時になって、腑に落ちた。
隙間風が入ってくるような粗末な木の家でも。床の上にそのまま器が置かれていても。素朴な食材ばかりでも。
……ここはやっぱり、居心地がいい。




