夢寐
──夢を見た。
子供の頃の……といっても、「今の」キースほど子供ではないが。
大人へと登っていく、長い階段。その手前くらいに立って、先の景色を少しでも見ようと踵を上げて背伸びをし、それでもそこに何も見えないことに、漠然とした不安と恐怖を抱いていた頃の夢だ。
ライリー家の「影」の仕事を担っていた、先代のアストン家当主である父親が急死して、キースがその跡を継いでから一年ほど経った時の。
はじめて人を殺した時の、夢。
キースよりひとつ年下の、ユアン・ライリー。
天帝の血を引く数少ない人間のうちの一人、という高貴な生まれの彼は、その美貌と柔らかな笑みで、まるで本物の天使のように、周囲から崇められていた。
人々を惹きつけてやまない彼の魅力には、誰も抗うことなど出来なかった。
そしてもちろん、キースだってそのうちの一人だった。その頃にはもう、ユアンの内部にある黒々としたものに気づいていたけれど、それでもキースは、生まれながらの自分のあるじに対して、いつでも常に、持てる限りの忠誠心で応えようとしていた。
だから、はじめて自分の手で人の生命を奪った時も、後悔なんてしなかった。ユアンを天帝の座に就けるのが、自分の影たる仕事であり、使命であると自覚していたからだ。
それを失えば、キースには何も残らない。そこだけが、自分の唯一の拠り所であることも、知っていた。
ユアンが天帝へと進む道を、なるべく滑らかに、なるべく真っ直ぐ整えなければならないのだ。道の途中に障害物があれば、すみやかにそれを排除する。そのために、幼い頃から、いろんな技術を身につけ、拷問にも近い過酷な訓練にも死に物狂いで耐えてきたのだから。
何も、迷うことなんてなかった。
……けれど。
それでもやっぱり、そういった覚悟とはまったく別のところで、身体の奥底から湧き上がり、全身に廻っていく震えは、どうにもならなかった。
当然だ。キースがそれまでに、どれだけ格闘技術を向上させていようと、あらゆる武器について習熟していようと、それはあくまで、「練習」でしかなかった。自分の手を赤く染め、絶命寸前の呻き声を耳元で聞くのは、その時がはじめてだった。
鋭い刃物で切り裂く肉の感触に。迸って噴き出す生ぬるい液体に。恨みのこもった目と、自分を罵る恨みの声に。そして目の当たりにした、殺人機械としての自分の手際に、何も思わずにいられるわけがない。
キースはその時、まだ十六歳の少年であったのだ。
仕事をやり遂げてから、キースは吐いた。どれだけ胃の中のものを外に出しても、込み上げてくる嘔吐感は止まらなかった。
何度もえずき、最後は黄色い胃液しか出てこなくなっても、なお吐いた。
腹の中身を空っぽにすることによって、自分の犯した罪の重さ大きさもなくしてしまえたら、どんなにいいだろうと思った。
「さすが僕の『影』だね、キース。手際の良さは、君の父親と遜色ないよ」
ユアンは、キースの「初仕事」をそう言って褒めあげた。
「ほんの十六でこうも見事に人殺しをやってのけるとは、君にはきっと、天賦の才というものがあるんだね。君の父でさえ、はじめて自らの手を汚したのは、二十を越えてからだったというのに」
キースにそれを命じたのは、他ならぬユアンだったというのに、彼はまるで、キースが恐ろしい化け物であるかのように、感嘆する様子を見せた。
その時のキースが、今にも倒れそうなほどに蒼白で、歯の根も合わないほどに震え続けていたことに、気づかなかったはずがない。
それでもユアンは、満腹状態の猫のように、目を細めて笑っていた。
白く細い指先が、キースの強張った肩にそっと乗せられる。耳元に唇を寄せて、ユアンは囁くように言葉を落とした。
「……これからも僕のために力を尽くしておくれ、キース。君がこれまでに必死の努力で身につけたその能力は、僕の影としてしか、使い道がないのだからね。君が最大限に力を発揮できるのは、僕の許だけだということを、忘れてはいけないよ。いいかい、君はそのために生まれ、そのために生きていく。君という人間は、僕のためにだけ、存在しているのだからね」
暗闇の中で目を凝らし、耳を澄ませ、他人の動向を探り、罠を張り巡らせ、人を陥れ、場合によっては喉元に喰らいついて、噛みちぎる。
人間ではなく、ただの獣のような、その所業を。
これからもずっと、キースの生が続く限り、繰り返していくのだと。
ユアンは限りなく清らかで、限りなく無垢に見える、優しい微笑みを浮かべて言った。
「君が生きられるのは、僕の近くだけだよ。光あってこその影だ、光なくして影は存在し得ない。そのことを、決して、決して、忘れてはダメだよ、キース。君のことをこんなに大事に思っているのも僕だけ。『アストンの犬』は、常に地を這いずり廻り、他人の血にまみれ、汚泥に沈むことを宿命としている。誰からも嫌われ、軽蔑され、逃げられる、忌まわしい一族だ。その君を受け入れてあげるのは、この世界で僕ただ一人だということを、忘れてはいけないよ」
ユアンは優しく柔らかく、言葉を紡ぐ。
「忘れてはダメだ」と、何度も、何度も。年長者が子供に言い聞かせるように。あるいは、主人が飼い犬に躾をするように。
絡め取るように。包み込むように。埋め込むように。
──呪いのように。
キースは自分の手を食い入るように見据えた。
真っ赤な血の跡は、いくら洗い流しても、皮が剥けそうなほどに強くこすっても、キースの目にはちゃんと残って見える。
きっと一生、消えないだろう。これからもその色は、どんどん増えて、どんどん濃くなっていく一方なのだろう。
──でも。
「死んではダメだよ、キース。君は僕のために生きていなくてはいけないよ。君の生命の所有権は、僕にあるのだということを、いつも心に刻みつけておくんだよ、いいね?」
そう言って差し出された手を、キースは取った。
そして、その美しく滑らかな手の甲に、自分の額を押しつけるようにして頷いた時、キースは己の運命を悟ったのだ。
……自分の生は、ユアンのためにある。
それは眩暈がしそうなほどに、暗く、絶望的で、救いのない、諦念にも似た理解だったかもしれない。
けれどその時、闇に捕われるような気持ちと共に、確かに一抹の喜びもまた、キースにもたらしたのだった。
***
「…………」
目が覚めると、上体を起こして、まず真っ先に自分の身体を見下ろした。
夢の中にいた自分の肉体よりもさらに小さく、細い。
それを確認して、失望と同時に、安心もした。
──この身体はまだ、それほど汚れてはいない。
咄嗟にそんなことを思ってしまってから、自嘲しそうになった。おれは何を言ってるんだか。子供の姿に戻ったからといって、自分が今まで積み重ねてきた行為までが、帳消しになるわけではないのに。
まだちょっと寝惚けているらしい。
軽く頭を振って、夢の中身と自分の愚かしい考えとを、一緒に払い落とそうとしていると、「おはよう、キース!」と明るい声がかけられた。
目を上げれば、床から一段低い土間にあるかまどの前で、朝食の準備をしているファルが、こちらに朗らかな笑顔を向けている。
天界で長く続けていた習慣のためか、ファルは毎日、起きるのが異様に早い。いつも大体、陽が昇るよりも前から起きだして、働きはじめている。別にそう早起きする必要はないだろうと言うのだが、目が覚めてしまうのは本人にもどうしようもないらしい。
その点、キースの場合は異なる。天界で生活していた時は、キースだってそれなりに早く起きていたし、そもそも、わずかな物音でもすぐに目覚めてしまうくらい日々の眠りは浅かったのだが、地界に来て、一応とはいえ住居を手に入れ、そこで寝るようになってからは、それがめっきり難しくなった。
なかなか、ファルよりも先に起きられない。ファルが枕元であれこれと動き回っていても、それでさえ目が覚めず、眠りの沼に嵌ったまま、という情けない仕儀になることもある。
一度だけ、それをファルに対してぼそりと零したところ、
「そりゃ、子供は睡眠をたっぷりと必要とするものだもん。しょうがないよ」
と、したり顔でうんうんと頷いて、納得されてしまった。
反論できず、忌々しかったので、キースは彼女の頬っぺたをつまんで引っ張ってやった。
子供の身体は軽くて動きやすく、疲労からの回復も早いが、その分、筋力もなければ持久力もない。おまけに、すぐに眠くなる。いろいろと厄介だ。
家の外の桶に汲んであった水で顔を洗ってから戻ると、すでにそこには、湯気を立てた朝食が、ファルの手によって整えられてあった。
パンとスープと卵料理、という簡単なものだが、野菜入りのスープはちゃんと温かく、パンはふわりと柔らかい。地界の調理器具や食材の扱い方は、天界でのそれとは少し違うようなので、ファルが自力でこれらを用意できるようになるまでには、それなりに苦労もしただろう。
もちろん、当人はそんなことを一言も言わないのだが。
ファルはたとえ困ったことがあったとしても、それを他人に対して訴える、という習慣を持っていない。うっかりしていると、キースでさえ、いろんなことを見逃してしまいがちだ。
「……今日はどうする?」
食べながら、すっかり日課になってしまった問いを出す。
同じ家で暮らしているとはいっても、二人はそれぞれ日中は別行動をとるのがほとんどで、顔を合わせるのは朝と夕方以降だけ、ということが多い。だから大体の予定を把握するために、キースは毎朝、同じことを訊ねるようにしていた。
「うーんとね」
キースの問いに対して、ファルが律儀にひとつずつ、「今日しようと思っていること」を並べていく。
ネガシのところで牛の世話を手伝って、里の共同畑に行って野菜の収穫、それから、あっちに行って、あれをして、これをして──
その「予定」の中に、ニグルの名はない。
「今日もニグルのところには行かないのか?」
このところ、ファルが毎日欠かさず通っていた家だ。食事を差し入れる時も、少しでも滋養のつくもの、食べやすいものをと、彼女が一生懸命心を砕いていたのを、キースは知っている。
いきなりやって来たニグルが、一方的にファルを「気味が悪い」と糾弾していったのは、昨日の朝のこと。それ以降、ファルの口から自発的にその名が出てくることはない。しかし外に出ればニグルの家のあるほうにちらちらと視線を向けて、今も気にしているのは明らかだった。
「あ、うん」
ファルは少し笑ってから、目線を下にやった。
「デンさんに頼もうと思ってる。ニグルさんはもう、わたしの顔を見たくないだろうし」
「…………」
キースは黙っていたが、それはどうだろう、と内心で思った。
ファルはどうやら、自分の持つ少し変わった能力に、ニグルが怯えている、と考えているらしい。
しかしもしも本当にそうであったなら、ニグルはそもそも、あの家を飛び出して、この場所まで走ってはこなかったのではないだろうか。
弱った身体を忘れるほど、そして人付き合いを避け続けて守り抜いてきた自分の殻を破り、ネガシのところに確認に行かずにはいられなかったほど、ニグルを駆り立てたものは何だったのか。
それは決して、未知のものに対する恐怖ばかりではなかったのではないか──と、キースは思う。
しかし、それをわざわざ口に出すつもりはなかった。あの女の気持ちを推測し、代わりに抗弁してやるような義務も義理もキースにはない。正直、未だ自分の中にくすぶっている腹立ちもある。
これ以上、ニグルの自己憐憫に付き合って、ファルが心を揺らす必要はない。
一人で不幸に酔いしれていたいのなら、死ぬまでそうしていればいいだけの話だ。
「ごめんね、キース。あんなにニグルさんに地図のこと聞きたがっていたのに、この分じゃ当分無理みたい」
ファルの言葉に、「いや」とキースは短く答えた。
「いいんだ、気にするな。他にいくらでも調べようはある」
具体的な手立ては浮かばないがそう言うと、ファルが「そう」と少しほっとしたしたように目許を緩ませた。キースがどうしてもそれについて詳しいことを知りたがっていると承知しているからか、ファルはファルで気にしていたようだ。
「キースは今日はどうするの?」
「おれはまた里に外に出てくる。変わったことがないか、ぐるりと廻って様子を見てくるよ」
キースの返答は非常に曖昧で大雑把なものだったが、ファルは特に訝る様子もなく、うん、と頷いた。
***
矢をつがえ、引き絞る。
湾曲した弓がしなり、キリキリと音を立てる。弦を限度いっぱいに引っ張って、片目を眇めた。狙いを定め、指を離す。放たれた矢が、ヒュンと空気を切るように一条の線を描いて飛んでいった。
そのまま、勢いよく地面に突き刺さる。
それが、目標点としていた位置と若干ズレていることに、キースはわずかに首を傾げた。自分が思っているよりも力が弱いのか、引きが甘いのか、それとも鏃が少し重いのか。どちらにしろ、もうちょっと調整が必要なようだ。
しかしそれ以外には、さして不都合はないな、と確認する。この手の武器にはあまり慣れていないとはいえ、この分なら、小さな動物を狩ること自体に、それほど困難はなさそうだ。
問題はもっと大きな獣と遭遇した場合だが──
そんなことを考えながら里に戻ると、「ああ、ちょうどよかった」という声が後ろから聞こえた。
振り返ってみれば、そこにいるのはデンである。自分の家から出てくるところで、歩いているキースを見つけたらしい。
普段から、どこか人目を憚るような遠慮がちな態度をとる人物だが、今ははっきりと声の音量を抑えて、ちらちらと周囲に目をやっている。その様子は、いかにも「他の連中の注意を引かないように」という感じで、かえって浮いてしまっているのだが。
デンがそんな風に自分を呼ぶ心当たりはひとつしかない。キースはすぐにそれと察して、素早く方向転換をし、デンの許へと駆け寄った。
「言われていたもの、手に入ったよ」
ひそひそと耳打ちして言うデンに、大きく頷く。そのまま、二人してデンの家の中に入った。
「ほら、これ」
デンは誰かに気兼ねするように、やっぱり辺りをきょときょとと窺うように見回して、取り出した「それ」を手の平に乗せた。ここは家の中だから人の目などはないと判っているのに、そうせずにはいられないのだろう。
「…………」
キースは、自分の前に差し出された、蓋付きの器をじっと見つめた。デンの手の中にすっぽりと納まってしまうくらい、小さい。
「キース、何度も言うようだけどよう」
言いかけるデンを見上げ、目顔で遮った。実際、耳が痛くなるほどに、同じことばかり聞かされている。
「わかってる。決して軽々しくこれを扱うことはしない。約束する」
デンはこくこくと小刻みに首を振った。
「うん、必ずな。お前さんは年齢のわりに、俺なんかよりもよっぽど賢いし、ものをわかってもいるようだけども、やっぱり、子供であることには変わりねえんだから」
子供、という単語にいちいち反発したくなるのは変わりないが、キースはそれを顔には出さずに頷いた。これでもかなり耐性がついてきたほうだ。
手を出して、その小さな器を受け取る。開けてみると、中には、緑色のどろりとした泥状の液体が入っていた。
「……どれくらいの強さだ?」
「そうだなあ、ちっこい動物なら、即死に近いかもしれねえなあ。大きなやつだと、毒が身体に廻るまで、しばらく時間がかかると思う。しかし、いいかい、取り扱いには、くれぐれも気をつけるんだぞ。絶対にそれに直接触れちゃいけねえよ」
「わかってる」
返事をして、キースは慎重に、再び蓋を閉めた。
間違ってファルが触ったりしないように気をつけないとな、と考える。
「ありがとう、デン」
器を胸に押し抱いて、キースは礼を述べた。
薬草を取り扱うデンなら、きっと毒草についての知識もあるだろうと思っていた。
だからファルには内緒で頼んでいたのだ。しかし、こうも早く、希望通りの……いや、それ以上の品が手に入るとは。
子供にそんなものとんでもない、と驚き、困惑して、さんざん渋って尻込みするデンを、しつこく説得した甲斐があったというものだ。
「ファルにはこのこと、黙っていてくれ。あいつもデンのようにあれこれ心配するだろうから」
キースが頼むと、デンは表情を曇らせたまま、「俺がこんなものキースに渡したと知ったら、きっとファルに叱られちまうだろうなあ」と、しょんぼりして言った。
そして、不安そうに、キースの顔を覗き込んだ。
「キース、それは本当に、『いざという時、危険が迫った時』だけに使うものなんだよな? お前さんの力だけじゃどうにもならないような危ない目に遭った時の、最後の手段として、念のために持っているだけのもの、なんだよな?」
「もちろんだ」
デンの確認に、キースはきっぱりと返事をした。
「それに、たとえどんな時に使うにしろ、おれはこれを、ファルの目の前で使うつもりはない」
ニグルが倒れた時、真っ青になっていたファルの姿を思い出す。
あれを見て、改めて痛感した。アストン屋敷で、使用人たちの悲惨な死の現場に直面したファルは、今も心身に大きなトラウマを背負い込んでいる。
当たり前のことだ。
だから、どんな対象であれ、キースはもうこれ以上、直接の「死」というものを、ファルに見せようとは思わない。
……いや、違う。
「見せたくないんだ」
目を逸らし、デンには聞こえないくらいの小さな声で、ぽつりと呟いた。
──見せたくない。
自分が、過去、どれほど多くの死に関わってきて、それがこの身に消えることなく染みついてしまっているのかも。
ファルは、見なくていい。
知らなくていいんだ。




