追慕
一瞬、ファルの脳裏に、アストン屋敷で見た記憶が鮮烈に甦った。
倒れている使用人たち。背中からとろとろと流れ出し床を染めていく、真っ赤な液体。蝋のように白くなった顔で、虚ろになった目を見開き、ぴくりとも動かない身体。生命が消えて、ただの抜け殻となった肉体……
「大丈夫だ、息はある」
ニグルの傍らで膝をつき、首筋に手を当てて確認していたキースが、落ち着いた声で言った。
「ちゃんと生きてる。ただ倒れているだけだ。しっかりしろ、ファル」
その声音に、叱咤するような強い調子が加わった。それではっと我に返って、ファルはようやく強張りを解き、目を瞬いた。
止めていた息を絞り出すように吐き、こめかみから滴り落ちる汗の珠を拳で拭い取る。顔から血の気が抜けて、一気に冷えてしまった頬を、ついでにごしごしと擦った。
しっかりしなくちゃ。ニグルは生きてる。ここで自分までが倒れてしまうわけにはいかない。
「……とにかく、ニグルさんを寝かせないと」
「ああ」
ざっと家の中を見てみたが、ニグルの家も、里にある他の家と同様、ベッドというものはない。隅のほうに押しやられていた寝具を広げ、その上にキースと二人がかりで意識のないニグルを運んで乗せ、布をかけた。
その程度動いただけでもファルはすでに汗ばむくらいだというのに、ニグルの手はひんやりと冷たい。そのか細い腕を両手で握って、揉んだりさすったりしてみたが、ちっとも温かくはならなかった。
青白い顔を天井に向けて横たわったまま、閉じた瞼は一向に動く気配がない。
「おそらく、衰弱だな。あまり食べてもいなかったんだろう。その上、こんなところに一日中閉じこもってばかりいたら、倒れもするだろうさ」
ニグルの手首や顔に触れて、脈や熱を測っていたらしいキースが、淡々とした口調で言った。
それが正確な診断かどうかは判らないが、とにかく緊急を要するような状態ではないらしい。キースの一貫して冷静な声と態度は、こちらの精神までも鎮静化させてくれるようで、ファルはほっと息をついた。
床に座ってニグルの顔をじっと見下ろし、次いで、キースが「こんなところ」と表現した家の中を、ぐるりと見回す。
家具というものがほとんどないのは、他と同じだ。しかし、そこは足の踏み場もないほどに、雑多なもので溢れかえっていた。
洋服、食器、本、装飾品、化粧道具……
どれも、このキノイの里では、あまり必要とは思えない。
壁には、いろんな布や絵が隙間なくかけられて、せっかく窓から入る陽射しまでも遮ってしまっている。
これでは、朝でも昼でも、この部屋の中はずっと薄暗いままだ。
「もとの場所から、持ってきたものなんだろうね」
「そのようだな。どこから来たのかは知らないが、それなりに裕福な家で暮らしていたらしい。……まあ、どうも『ここ』が特殊なようだから、地界の標準的な生活基準というものは、よくわからないんだが」
考えるように呟きながら、キースが近くにあったカップを手に取って眺めている。このキノイの里では、住人たちはいかにも手作り風の素朴な木の椀を使っているが、そこにあるのは陶製の、凝った絵柄が描かれたものだった。これなら、天界で使われていたものとさして遜色はない。
「キノイの里だけを見て、地界全体を判断してはいけない、ってことだな。この家にあるものを見ると、天界と地界では、文化・文明の水準にそれほど大きな差はないみたいだ」
「うん……」
ファルは周囲に顔を巡らせながら、返事をした。
キースはどうやらまだ見ぬ東西の大陸のほうに思考を向けているようだが、ファルが考えているのはそんなことではない。
いろんな物で埋め尽くされたこの場所を見て思うのは、ニグルは毎日どんな気持ちでこれらを眺めていたのだろう、ということだ。
小さな家の中にあるのは、「もといた場所」の思い出に繋がるような品物ばかり。キノイの里で他の人たちが使っているような物、着ている衣服などには見向きもせず、ニグルは頑なにこれらに囲まれながら、閉じこもり続けていたのか。
捨ててしまうこと、忘れてしまうことを怯えるように。
自分を放り出したもと婚約者に怒って、恨んで、悲しんで。それでもニグルはやっぱり、その人の思い出に縋って生きている。思い出したらつらくなるだけの記憶だろうに、けれどどうしても、手離せない。
──なぜ?
「……ん」
その時、小さな呻き声がニグルの唇から洩れた。ぱっと顔をそちらに戻し、ファルは腕を包んでいた両手に力を込める。
「ニグルさん」
と呼びかけると、彼女の瞼が薄く開いた。
意識を取り戻したニグルは、茫洋とした目を天井に向けたまま、しばらく身動きしなかった。まだ覚醒しきっていないのだろう。ぼうっとした表情は、まだ半分以上夢の中を彷徨っているようでもあった。
無意識のように動いた手が、爛れた傷跡のある顔の左半分を自分の髪の毛で隠す。
「ニグルさん、大丈夫ですか」
もう一度呼びかけると、ようやく右目がファルのほうを向いた。
徐々に思考がはっきりしだしてきたのか、ぼんやりとした褐色の瞳に光が差しはじめる。今自分がいるのがどこで、そこにいるのが誰か、理解の色が広がると同時に、失望と落胆がニグルの表情を覆った。
目が覚めても、まだ悪夢が続いていた、とでも言うように。
「私……」
「倒れていたんですよ。気分はどうですか。飲み物を用意しますが、口に入れられそうですか」
ニグルは、問いかけの言葉を出すファルを無表情で見返して、何も言わずに目を逸らした。反対側に座るキースの姿を見ても、眉ひとつ動かさず、やはり無感動な顔つきのままだ。
現在のニグルにとって、誰がいようと、「誰もいない」のと同じなのだとファルは悟った。どんな存在も、彼女の心を動かすことは出来ない。視界には入っても、彼女の目には何ひとつ映っていないのだ。
ファルは小さなため息をついて、立ち上がった。
「キース、わたしはこれから、火を起こしてお湯を沸かす。キースはデンさんのところに行って事情を話してくれる? きっと、薬草を分けてくれると思う。それから食べ物を……」
キースが、わかった、とだけ言って、するりとニグルの家を出ていく。ファルは土間にあるかまどに向かって、火起こしの準備を始めた。
ニグルは横になったまま、動きもしなければ、言葉も発しない。空洞のような目は、ひたすら天井に向けられているだけだった。
***
それから毎日、ファルはニグルの家に通い続けた。
放っておくとものを食べることもしないニグルに食事を作って差し出したり、デンに分けてもらった薬草を煎じて飲ませたりする。何を話しかけてもニグルから返事が来ることはないが、ファルが構わずぐいぐいと匙を口許に押しつけてくるのには閉口したのか、食事は自分でとるようになった。せいぜい、スープや、それにパンを浸したもの程度だが、何も食べないよりはずっといい。
家の中で、ニグルはただ、ぼうっとしている。敷いたままの寝具の上に座り込んで、何をするでもなく、何を話すでもなく、虚ろな表情でどことも判らない空間を見ているだけだ。生気がない、といえば、このキノイの里の住人の大部分がそうだが、ニグルの場合は、まるで本当の人形のようだった。
心というものが、抜けている。
ニグルはほぼ一日中そんな調子だったが、家の中に置いてある物についてだけは、過敏に反応した。
昼間であるにも関わらず、あまりにも暗いので、壁にかかっている布を外して窓を開けてもいいか、とファルが許可を求めた時のことだ。
「だめよ!」
それまでひたすら黙ってじっとしていたニグルが、その瞬間、眉を逆立て、鋭く叫んだ。
「だめ、だめ! ここにあるものは、何ひとつとして動かさないで! そのままにしておかないとだめなの!」
「でも──」
ファルは言い淀み、そろそろと「それ」に手を伸ばした。
ほとんど家具らしきものがないニグルの家で、唯一と言っていいほどの、小さな台。その上に、ひどく大事そうに乗せられていたものがあった。
愛らしい鉢植えだ。しかし、そこに植えられた植物は、すべての葉が茶色く変色して、下を向いている。せっかくついた蕾も、茎の細さに耐えきれなくなったように、ぺしゃんと潰れて、萎れてしまっていた。
「これ、陽に当ててあげないと、枯れてしまいますよ」
衣服や装飾品は床に散乱して、場合によっては埃を被っているものもあるというのに、この鉢植えだけは大切に世話をされていた形跡がある。ニグルにとってこれが特別なものなのであろうことは、ファルにも想像がついた。
枯れる、という言葉を聞いた途端、ニグルがびくりと大きく身じろぎした。ぎゅっと拳を握りしめ、苦痛に襲われているかのように、背中を丸めてこまかく震える。
それから、激しく首を左右に振った。
「どうせ──どうせもう、何をしても無駄よ! あの人からもらった、大事なものだったのに……また綺麗な花を咲かせられるように、それだけは必死になって守ろうとしていたのに……! だめよ、やっぱり、どんなに努力したって、もう元のような美しさは取り戻せないと思い知らされただけだった! 私と同じよ! その花も、私も、惨めに枯れていくしかない!」
そう叫んで、ニグルは突っ伏して泣きじゃくった。
「…………」
ファルはニグルを見てから、鉢植えに視線を移す。
そうか。
これが枯れかけてしまったから……この里で、なんとか自分を保つ支えにしていたものが失われそうであるのを目の当たりにしたから、ニグルの心は、ぽきんと折れてしまったのか。
それで彼女は、生存を続けていこうという意志すら持てなくなってしまったのだ。
「……でも、まだ生きてますよ、このお花。太陽の光をいっぱい浴びて、美味しい水をたくさんあげたら、元気になれるかもしれません」
泣き続けているニグルからは返事がない。ファルは鉢植えをそっと持ち上げて、家の外へと運んだ。外はまだ陽が高く、薄暗さに慣れた目には眩しいくらいだ。
外に出ると、ファルは手にした鉢を扉の前に置いた。固く閉じた蕾に掌をかざす。
ほんのりとした熱が伝わった。
──うん。だいぶ弱っているけど、ちゃんと生きてるな。
「頑張って、咲いてあげてね。ニグルさんはね、あなたのことをとても大事に思っているんだって。あなたが元気になったら、ニグルさんもきっと元気になるよ」
ファルが囁くように話しかけると、かさりとした音を立てて、茶色くなった葉が揺れた。
家に戻ると、キースが床に座り込んで、黙々と何かの作業をしていた。
「あれ、こんな時間にキースがいるなんて、珍しい」
「おまえこそ、早いな」
キースはどうやら、その作業をしているのを、あまりファルには見せたくなかったらしい。いつもファルが戻るのは夕方頃だから、こんな明るいうちに家に立ち寄るとは思っていなかったのだろう。ほんの少しだけバツの悪そうな顔になって、手を止めた。
その手許にあるものを見て、ファルは首を傾げた。
「……それ、矢?」
細長い棒の両端に、鏃と矢羽がついている。床には同じ形状のものが十本くらい並んでいた。キースはそれらの一本一本の長さを揃え、細かい調整をしているところらしかった。
しょうがないな、というようにキースが小さく息を吐く。
「この里じゃ、武器も原始的なものしかないからな。今のおれの身体で扱えるものの中では、弓矢がいちばん妥当かと思ったんだ。とはいえ他の連中が使っているものじゃ、長さと大きさが合わないし……」
それで、自分に合うように、小さくしたり、短くしたりしていた、とキースは説明した。
「──武器」
ぽつりとファルが洩らすと、キースの目がこちらを向いた。
「おまえはそういうのは好きじゃないんだろうが、ここは自足自給が基本だ。いつまでも食い物のことで他人の世話になっているわけにはいかない」
「あ、うん」
ファルとキースが現在口にしている食べ物は、「まだ子供だから」という理由で里人たちから分け与えられているものだ。肉にしろ、野菜にしろ、キノイの里では買うのではなく、自分たちで狩り、育てて、ようやく得るものである。だからここには、農具だけでなく、罠や狩猟具の類も多くある。
そして狩りとは、里の外に出て、小動物を殺して持ち帰ることを指す。キースが「おまえは好きじゃないだろうが」というのは、そういうことを言っているのだろう。
「わかってるよ」
確かに動物と意志の疎通が出来るファルにとって、狩りという行為は決して楽しいものではない。しかしだからといって、可哀想だから殺さないで、と口にするほど愚かでもない。長いこと家畜の世話をしてきて、乳の出なくなった牛が殺処分されたり、絞められた鶏がその夜にはこんがり焼かれて主人夫妻に供される、というところも見ている。
自分が美味しいと思いながら食べているものが何なのか、ということくらいは、ファルにだって判っているつもりだ。
──ひとつの生命は、他の多くの生命を犠牲にして成り立っている。
「そうか」
キースはファルの返事を聞いて、少し安堵したように頷いた。
再び視線を下に向けて、手入れを再開する。弓矢なんてものがこれまでのキースの日常にそう縁があったとも思えないのに、見惚れるくらいに手際がいい。キースの手が器用に動くのを、ファルは感嘆するように眺めた。
「キース、これちゃんと使えるの?」
「練習して、コツが掴めれば、それなりに扱えると思う。おれは子供の頃から、武器の類は一通り習得して──」
そこで突然、ぷつりと黙った。
子供の頃、という単語を出したことで、今の自分がまさに「子供」だったことを思い出したのか、とファルは思ったが、キースの顔を見て、ああ違うなとその考えを打ち消した。
違う。
子供の頃から武器の類を一通り習得したのは「誰」のためだったか、ということを思い出したのだ。
「……で、ニグルの様子はどうだった?」
少しばかりわざとらしく、キースが話の方向を捻じ曲げた。
ファルも、「うん、ニグルさんね」と今になって気がついたような声を出した。
若干、ぎこちない空気が漂っていたが、二人ともそれには気づかない顔をした。
「あんまり、変わらないかな」
「まだ話は聞けそうにないか?」
キースが、丸めて部屋の隅に立てかけてある地図をちらっと見ながら言う。どうも彼は、ニグルの健康状態よりも、よほどそちらのほうが気にかかっているらしい。
「今にも倒れそうに弱っているのは同じだよ。せめてもう少し外に出たらいいんじゃないかと思うけど、無理やり引きずり出すわけにもいかないし」
「本人にその気がなければ、どうにもならないだろう。おまえもあまり無理するなよ」
「うん……」
ファルはこくんと頷いた。
……本人にその気がなければどうにもならない、か。
ニグルの心はずっと、「ここにはないもの」に向かっている。
過去であり、記憶であり、思い出だ。
だから彼女の目は常に、それに関わるものばかりを追い求め続けるのだ。家の中を占めるさまざまな品物であったり、あの枯れかけた鉢植えであったり。
それらを見ている時だけ、ニグルは生を実感できるのかもしれない。
他の誰も、何も、そこには入り込む余地がない。
「そっか……」
ファルは視線を宙に投げ、小さく呟いた。キースが、ん? と問い返したが、その声も耳に入らなかった。
そうか、だから。
──だから、キースはよく、空を見上げているんだね。
***
「今日もまた、ニグルのところに行くのか?」
翌日、朝食をとってから出かける準備をはじめたファルを見て、キースが言った。
「うん、食事を持っていくよ。そのあと、他のおうちに行ってお手伝いをしてくる。キースはどうするの?」
「おれは……」
と、キースが続けようとしたその時だ。
突然、扉が乱暴に開けられた。
キースが咄嗟にファルの前に出てきて身構える。ファルは一瞬びくっと身を縮めたが、キースの後ろから顔を出し、そこにいる人物を見ると、あ、と口を丸く開けた。
「……ニグルさん?」
ずっと家の中で座り込んだまま、一歩も外に出ることのなかったニグルが、そこにいた。
弱った身体でここまで走ってきたのか、青白い顔をますます悪くして、荒い呼吸を繰り返している。髪は乱れ、虚ろだった目はどこか血走って、見るからに尋常な様子ではなかった。
「ど、どうしたんですか、ニグルさん」
大丈夫ですか、という言葉は、結局出せなかった。その前に、ニグルが大きく口を開いて、怒鳴りつけるような声を上げたからだ。
「どういうことよ!」
「え……は?」
その剣幕に、ファルはぽかんとするしかない。どういうこと、ってなんだ?
ニグルに近寄ろうにも、厳しい顔をしたキースが腕でファルの動きを止めている。結果、その場で立ち尽くすことしか出来ないファルに向かって、ニグルがずいっと何かを突きつけてきた。
「これ、あんたの仕業なの?!」
彼女が持っているのは、昨日ファルが扉の外に置いた鉢植えだった。──だと、思う。鉢の色と形が同じだ。そこに植えられた植物も、種類が同じ。
でも、その外観は昨日とはまったく違う。
茶色く変色していた葉は生き生きとした緑になって立ち上がり、萎れていたはずの蕾が、その中で見事な白い花を咲かせている。
「…………」
ファルは口を閉じて、それを見つめた。
──ここまで、元気になったのか。
「どうしてよ?! つい昨日まで枯れかけていたのよ?! 陽に当てて水をやったからって、短い時間でこんなことになるはずがないじゃない! おかしいわよ!」
キースが鉢植えと自分を見比べているのは判ったが、ファルは無言を続けた。こんな時、何を言っても聞く耳を持ってもらえない、というのは、経験上よく知っている。
「ここに来る前、ネガシのところにも寄ったのよ。『牛は人の言葉を理解できるのか』って尋ねたら、はあ? って聞き返されたわ。そんなことあるわけないだろう、家畜は家畜だよ、ってね。でも不思議と、ファルの言うことはよく聞くんだって、首を捻ってたわ。……まるで、動物と会話が出来るみたいだって」
「…………」
ニグルは眉を吊り上げながら、何かに急かされるように早口でそう言って、泣きそうな顔になった。
「──あんたは一体、何者なの」
髪で隠されていないほうの目、彼女がファルを見る右の目には、はっきりと恐怖が現れている。
「おかしいわよ……なんなのよ、あんた。変よ」
鉢植えを持って、ニグルの足がじりっと後ずさった。ファルが口を開きかけたのを見て、表情を引き攣らせる。ひゅっと息を吸い込み、右の目をいっぱいに見開いた。もしかしたら、咎人の森で異形の化け物を目にした時、ファルもこんな表情をしていたのかもしれない。
彼女は混乱し、動揺し、全身でファルのことを拒絶していた。
「気味が悪い」
吐き捨てるようにそう言うと、ニグルは身を翻して、来た時と同じように唐突に出ていった。よろめくような小走りの足音が、次第に遠ざかっていく。
ファルは棒のように突っ立ったまま、その音を聞いていた。
「……ファル」
自分の名を呼ぶ声に、ぴくっと肩が跳ねるように動く。すぐ間近でこちらを覗き込んでいるキースの顔を見て、無理やり唇を笑いの形にした。
キースの周りにあるのは、いつもと同じ澄んだ青色だ。猜疑心の色も、恐怖の色も、そこに混ざってはいない。そのことにほっとして、同時に、心が重くなった。
──他人には決して見えない「人の色」。ファルにだけそれが見えると知ったら、ニグルはきっと、もっと怯えてしまうのだろう。
「大丈夫か?」
キースの声に慮るようなものが乗せられる。
それに対して、ファルは、大丈夫、と返そうとした。こんなこと今までにもよくあったよ、と笑い飛ばして、それでおしまいにしようとした。
……でもその言葉は、喉の手前で何かに塞がれるようにして止まった。
あれ。
ファルは困惑した。どうして喉が詰まっているのか判らない。自分の身体が自分の思ったように動かない。その理由が思い当たらず、ただ戸惑う。
変なの。こんなの本当に、小さな頃から何度もあったことなのに。
色が見える。動物の気持ちが判る。植物に力を与えられる。自分の身が汚れても、まったく頓着しない。
それらについて、おかしい、気味が悪いと、蔑まれ罵られることには慣れている。手や足が飛んでこなかった分、よかったと喜んでもいいくらいだ。
ファル自身、そんなこと、なんとも思わなかった。自分が他の人にはない能力を持ち合わせていることだって、特に気にしたことはない。
だって、深く考える必要なんて、なかった。
……ああ、そうか、と気づく。
それを考えることがなかったのは、これまで一度も、ファルに向かって「大丈夫か」と聞いてくれる誰かがいなかったからだ。こんな風に労わりの目で見てくれる人なんて、誰もいなかったからだ。
だから判らなかったし、知らなかったのだ。
ファルは今までそれを「なんとも思わなかった」わけではなく、傷を傷だと認識できなかった、だけだった。
いつも一人で。ずっと一人で。疎外され、軽んじられ、存在自体を無視されてきた。殴られたり蹴られたりして、痣が残ったり血が出たりすれば、それは誰の目にも見えて傷だと判る。けれど、目には見えない傷だってあるということは、ファルは知らなかった。生まれた時から、それをファルに教えてくれる人はいなかった。
見えない傷に対する、痛みも、つらさも、苦しみも、ファル本人が気づくこともなく、理解しようともしなかった。
だから、「なかった」ことになっていた──ただそれだけに過ぎなかったのだ。
認知されてから、はじめて、存在がつくられる。
そうか、そういうことだったのか。
「枯れていた花をもう一度咲かせたのか?」
キースが訊ねてくる。そこにあるのは単純に疑問だけだ。ファルはようやく表情を動かし、えへへと笑った。
「陽に当てて、お水をあげて、元気になってね、って声をかけただけなんだけど。わたしが思っていたよりもずっと元気になっちゃったみたいだね。たぶん、それだけの生命力が、あの花に残っていたからじゃないかな」
「そんな特技まであるのか。本当に変なやつだな」
ニグルと同じ、「変だ」という言葉なのに、響きがまるで違う。そういえば、キースはいつもそうだったっけ。
変なやつだ、と、呆れるようにそう言うだけ。
「……わたしのこと、気持ち悪いと、思う?」
ファルのその問いに、キースは、は? と眉を寄せた。
「アホらしい。動物の言うことが判って、花を咲かせたっていう、ただそれだけのことだろうが。何の害があるわけじゃなし、あの女は大げさに騒ぎすぎだ」
くだらない、というように鼻を鳴らす。
「…………」
ファルは両手を伸ばして、キースにぎゅっと抱きついた。小さくなった彼の身体は、ファルを包むどころかあちらのほうがすっぽり収まってしまいそうなくらいだったが、ひどく温かかった。
あまり身長の変わらないその肩に、自分の額を押しつける。
キースの手が、少し迷うような間を置いて、ぽんぽんと背中を不器用に叩いてくれた。




