流浪の人々
翌日、ファルは早速、ニグルの家を訪ねた。
「こんにちはー」
一応、訪問の口実として、手の中の小さな籠には、デンから分けてもらった薬草が少しばかり入れられている。デンによると、ニグルという人物は遠目で見ても判るほどに顔色が悪い、のだそうで、籠の中の薬草は血液の巡りを多少良くする効能があるのだという。
天界で、ファルがキースに渡したタナンの根と似たようなものだ。環境がまったく異なる世界であろうと、結局人間は自らの身体を修復したり治癒したりするのに自然の力を借りなければならない、ということなのかもしれない。
しかし入口の前に立って声をかけても、しばらく中からは何の返事もなかった。
デンの話では、ニグルは滅多に人前に姿を現さない、家の外にも出てこない、ということなのだから、里の中を住人たちが頻繁に行き来しているようなこの時間、不在というわけではないだろう。
つまり、居留守というやつか。
ファルは納得して、さらに声を張り上げ、「こんにちはー!」と呼びかけた。自分でもしつこいなと思うくらいに、こんにちはニグルさん! と声をかけ続ける。今まで他人から頭を押さえこまれることの多かったファルは、我慢比べならわりと自信がある。
目算通り、十回目くらいの「こんにちは」で、向こうが折れた。ギ、と音がして、木製の扉が開いたのである。
開いたといっても、かろうじてファルの腕が入りそうかという程度の細い幅だ。その隙間から、人の右目だけが覗き、扉前にいるファルを見下ろした。
「……だれ?」
静かに抑えられた声は、女性のものだった。
「ファルです。こんにちは、ニグルさん」
キースにいつも言われる、「能天気で頭が空っぽで何も考えていないバカな子供のような」顔で、にこっと笑いかける。細い隙間から覗くニグルの濃い褐色の瞳はぴくりとも動かず、じっとファルに据えつけられていた。
「──知らないわ」
ひえびえとした声音からは、彼女の感情は何も伝わってこない。
「最近、キノイの里に来たばかりなんです。キ……兄と一緒に」
キースを兄と呼ぶのは、非常に違和感がある。キースのほうも、ファルに兄と呼ばれて絶対に嬉しそうな顔はしないだろうが。
ファルの簡潔な説明を聞いても、扉の隙間が少しでも大きくなることはなかった。本当に知らなくて警戒しているのか、それとも二人のことはすでに耳に入ってはいるが自分は関知しない、という意志表示なのか、どちらとも判別つけがたい。
「知らないわ」
もう一度、一本調子で同じ言葉が繰り返されたのを聞いて、ファルは了解した。
なるほど。この「知らない」は、もっと詳細に自己紹介をしろという意味ではなくて、あんたが誰であろうと知ったこっちゃない、という意味らしい。
それでは、こちらも言いたいことを言うまでである。このままじっと待っていても、あちらから扉を開けてくれる可能性は、紙切れよりも薄そうだ。
「わたし、今、デンさんのお仕事のお手伝いをしてるんです。それで、血行を良くする薬草が手に入ったものだから、これをニグルさんにって──」
「要らないわ」
今度は最後まで言い終える前に、あちらからの返事が来た。しかしこの人は、一言ずつしか喋れないのだろうか。
「でもニグルさん、顔色が悪いです。外に出て陽にあたることもなく、家の中でただじっとしているだけじゃ、そのうち倒れてしまいますよ」
細い隙間からとはいえ、ニグルの顔が白っぽいことくらいは見て取れる。会って話をする口実として持ってきた薬草だが、これは本当に彼女に必要だなと思うと、自然、ファルの声にも熱がこもった。
「大きなお世話よ」
はじめて、ニグルの口調に苛つきのようなものが混じった。褐色の瞳にも、若干の険しさが乗る。
「だったらこれ、ここに置いておきますから。器の中に、砕いて干したこの葉っぱを入れてお湯を注いで、しばらく蒸らしてから飲んでくださいね。手足がぽかぽかしてきたら、それだけでも大分違います」
「要らな──」
ニグルが断りの言葉を出す前に、ファルは扉の前に籠を置いて、さっさと踵を返した。家からかなり離れたところまで歩いて、後ろを振り返る。
ほとんど本を読まないファルは、かなり視力がいい。だからその場所が遠くなってしまっても、ちゃんと見えた。
扉の前に置いた籠が、消えている。
その次の日、ファルが再びその家に行ってみると、扉の前には、ちゃんと空っぽになった籠が置かれてあった。
少し笑みを零してから、その籠を手に取り、扉に向き直る。
「こんにちは、ニグルさん!」
その日は、昨日ほど待たずに、扉が開いた。もちろん全開ではなくて、ほんの少し動いただけだ。隙間から、ニグルの右目のみが見えるのも変わらない。
「薬草、使ってくれました?」
その問いには、一拍の間が空いた。
「……知らないわ」
素っ気ない言い方だが、捨てたとも飲んでないとも返さないあたり、正直なところもある女性なのだろう。
しかし扉の向こうにあるニグルの顔の色はまだ青白い。彼女の場合、おそらく身体を動かさないのが最大の問題点なのだ。
「なくなったら、言ってください。またデンさんにもらってきます。今日はデンさんのお隣のネガシさんにミルクをもらったから、そのおすそ分けに……」
「……ミルクって、その仔牛の?」
ニグルから、ようやくまともな「質問」が来た。ファルは後ろを振り返って、連れていた仔牛に目をやり、またニグルのほうに顔を戻す。
「こんなに小さいうちに、まだお乳は出ません。この子はついこの間、生まれたばっかりです」
デンと出会った時、出産を手伝ってやった仔牛だ。あれから、母牛と仔牛はすっかりファルに懐いてしまい、ネガシに頼まれて、時々世話をしたり、草を食べさせに行ったりしている。
「生まれたばかり……」
ニグルはキースと同様、こういった家畜動物のことをよく知らないらしい。隙間から覗く目は、ファルを通り越してその後ろの仔牛にじっと向かっている。少し怯えているようでもあり、少し驚いているようでもあった。
「触ってみますか?」
ファルがそう言うと、さっと怯えの色のほうが濃くなった。
「いや」
固い声で即答してから、わずかにためらうように続ける。
「……だって、噛むでしょう?」
「平気です、噛んだりしませんよ」
ファルが請け合うと同時に、仔牛が、んぼーうと鳴き声を上げる。ニグルがびくっと身じろぎして、半歩分後ずさった。
「そんなことしないから大丈夫、って」
仔牛のほうに目をやってから、ニグルに向き直り、ファルが笑いながら通訳をする。
「動物が何を言ってるかなんて、わかるわけがないじゃないの……」
文句を言うようにニグルは呟いたが、視線は仔牛から逸れることはなかった。
サイズが天界とは違うとはいえ、仔牛は仔牛だ。生まれて数日だからまだ全体的に弱々しく、脚も細い。小首を傾げてこちらに向けられる、真ん丸で真っ黒でつぶらな瞳は、うるうると潤んでいる。
──どんな動物でも、赤ん坊は愛らしい。
芽吹いたばかりの生命は、眩いまでに人を魅了する。
「…………」
しばらく逡巡してから、ニグルは扉を押し開けた。
ギギ、という音と共にゆっくりと動き、隙間がどんどん大きくなる。彼女の姿も、ようやく全貌が明らかになった。
二十代半ばくらいの、ずいぶんと痩せた女性だ。下手をするとぽきりと折れてしまいそうなか細い身体を包んでいるのは、他の里人たちのような麻の簡易なものではなく、白いブラウスに光沢のある黒い長スカートという、天界でも見かけるような衣服だった。
褐色の瞳と、同色の髪。長い髪は背中にまで届いているが、前髪は顔半分を覆うように垂れている。おかげで、彼女の目は、隙間から覗いていた右しか確認できない。
だがそれでも、よく判る。
どれだけ前髪を垂らそうと、ニグルの顔の左半分に、爛れたような酷い傷跡があるのまでは、隠しきれていなかった。
***
ファルは仔牛の近くに寄って、その背中に手を添えると、もう一方の手でこっちこっちと手招きした。
ニグルはちらちらとファルを見て反応を窺っていたようだが、その表情が特に変わらないのを見て、安堵したように、あるいは諦めたように、短い息を落とした。それからもうファルのほうは見もせずに、そろそろとした足取りで、仔牛に近づいていく。
「ニグルさんがびっくりしちゃうから、少しの間じっとして。触らせてあげてね」
ファルの言葉を理解したように、仔牛が首を垂れて動きを止めるのを見て、ニグルが目を見開いた。
「……牛って、人の言うことがわかるの?」
「ニグルさんが思っているよりも、頭がいいんですよ」
「…………」
ニグルは半信半疑という顔つきで、首を捻っている。
それから、いかにもおずおずとした様子で、手を出した。
「──意外と、毛が柔らかいわ」
仔牛の後頭部をそうっと撫でて、ぽつりと呟く。気持ちいいのか、仔牛が顔の向きを変えて「ここも撫でて」というアピールをするので、ニグルの手の動きは徐々にしっかりしたものになっていった。
「きゃっ!」
鼻の頭に触れようとしたところで、べろり、と赤い舌で仔牛に舐められて、ニグルは慌てて手を引っ込めた。飛び退るように離れ、こわごわと仔牛を見やる。本当に動物には慣れていないようだ。
「親愛の情を示してるんですよ」
「…………」
ファルが説明すると、自分の手と仔牛を交互に見てから、ニグルは大きく息を吐き出した。
「親愛の情……」
小さな声で言って、唇を歪める。
「こんな私にそんなものを向けてくれるのは、家畜くらい、というわけね。動物には、美醜なんて関係ないもの。……人はみんな、私のこの醜さを忌み嫌う」
自嘲するように言葉を吐き捨てると、ニグルはファルにまっすぐ顔を向けた。
「私に、なんの用?」
はっきりと冷たい声音になった。
せっかく扉が開いても、ニグルの周りの色はあらゆるものを撥ね返すかのように、彼女を包み込み、針を立てている。
「…………」
ファルは少し迷ったが、結局、正直に言うことにした。今はそれ以外の何を言っても、ニグルの心にまでは届かなさそうだ。
「ニグルさん、地図を持っていませんか?」
「地図?」
ニグルの目つきに、さらに警戒するような光が宿る。
「この周辺の──あるいは、もっと全体の」
キースが確かそう言っていたはずだ、と思い出しながらファルは口にした。本当のことを言うと、そういう地図があったとしても、それがどれくらい役に立つものなのか、ファルにはよく判らない。
「……地図があったとして、それでどうするっていうの」
なので、ニグルにそう問われても、明確に返せる答えをファルは持っていなかった。しかしどうやらこの言い方だと、ニグルは実際地図を持っているようだ。うーん、と首を傾げて考えた。
「あのー、わたしたち、ここのことを、よくわかっていなくて」
「地図なんてあったって、なんの役にも立ちゃしないわ。この場所に来た以上、死ぬまでここにいるしかないんだもの。たとえば別の集落に行き着いたとしたって、どこもこのキノイの里とおんなじよ」
「……もとの場所には、戻れないんですか?」
不意にキースの顔が頭を過ぎって、その言葉は勝手にファルの唇から滑り落ちた。
しかしそれは、ニグルの中の何かを、ひどく刺激してしまったらしい。彼女は激しく身じろぎして、眦を吊り上げ、キッとファルを睨みつけた。
「戻れるわけ──戻れるわけないじゃないの! この場所は、入口はあっても出口はないのよ! ここにいる人間は、みんなそれを承知で来てるんだから! あんたもそんな浅はかな夢を見るのはやめることね!」
衝動的に叫んでから、ニグルはぱたりと口を噤み、荒い呼吸を繰り返した。ますます顔色が青くなっている。無意識のようにふらふらと左手が動き、傷跡のある自分の顔半分を覆った。
半分隠された口から、呻きのような声が洩れる。
「……それにたとえ戻れたとしても、もうあそこに、私の居場所なんてない」
ニグルのその台詞は、キースが出したものとまったく同じだ。
「──……」
ファルは目を伏せた。
「私には婚約者がいたの。お互いに愛し合って、とても幸せだったのよ。──でもある日、事故に遭って、私には一生消えない傷跡が残った。醜い容貌になった私を、周りの人はみんな、指差し、憐れみ、嘲り、笑った。それでも彼だけは……彼だけは、変わらないでいてくれるって、信じていたわ。だって事故に遭った時、彼は私のために泣いてくれたんだもの。可哀想に、僕がずっとそばにいるから、君を守ってあげるからと、約束してくれたもの」
これまで彼女の中の感情を留めていた堰が突然壊れてしまったかのように、ニグルは早口で喋り続けた。髪で隠されていない右の目の褐色が、燃えるようにギラギラとした光を放っている。
「──なのに、私の顔の傷が何をどうしても治らない、一生醜いままだと知った途端、彼は私から離れていった。いつの間にか他の女と恋仲になって、一方的に婚約を破棄してきたわ。私を捨てて……あんな女と。あんな平凡な女と! 傷さえなければ、私のほうがあの女よりもずっと美しかったのに! 彼だって、毎日のように私のことを綺麗だって褒めてくれていたのに!」
「…………」
ファルは黙ったまま、ニグルの色が変わっていくのを見ていた。
彼女の色は深い藍色。悲しげではあるものの、ひっそりとした美しい色だった。
けれどその色が、どんどん黒ずみはじめている。
「──だから、刺してやろうとしたのよ」
ニグルは虚ろになった表情でそう言った。
「本当は、あの女を刺してやるつもりだったの。私と同じように、顔に傷でもつけば、きっとあの女も彼に捨てられる。……でも、彼、あの女を庇ったわ。私は彼を殺そうとして……それも出来なくて、ためらっているうちに、取り押さえられた。罪には問われなかったけど、私にはもう耐えられなかった。無責任な他の誰かに何かを言われるのも、彼とあの女の近くにいるのも、我慢できなかった」
だからここに来たのよ、とぼそりと言葉を落とした。
「ここはそういう場所よ。周りから白い目で見られ、疎外され続ける──疎まれ、嫌われ、弾かれた人々が、他に行くあてもないからとやって来る、掃き溜めのような土地なのよ。罪人はきちんと裁かれて牢に繋がれるけれど、ここにいる人たちには、そんな風に受け入れられる場所もない。……いわば、流刑地も同然のところなの」
「流刑地……」
ファルは呟いた。
他の人々から捨てられ、見放され、追放された人々が行き着く地、ということか。
天界から罪人が堕とされる「咎人の森」。
その森のある場所は、地界においても、同じような意味を持つという。
……それは果たして、偶然か?
ニグルはすたすたと歩き出すと、乱暴に扉を開けて、家の中に入っていった。
ややあって、丸めた大きな紙を手にして、また外に出てくる。
「地図よ。持っていきなさい。そしてもうもとの場所になんて戻れやしないことを、しっかり頭に刻みつけておくがいいわ。ここでずっと、死んだように生きていくしかないのよ、私たちは」
ニグルは紙を地面に投げ捨てると、言葉も叩きつけるようにしてそう言った。
「……ニグルさんは、婚約者だった人のことを、恨んでいますか?」
ファルのその問いに、ニグルの眉がさらに上がる。何かを怒鳴ろうとしたのか口を開きかけ、けれどその口は結局、言葉を出す前に再び閉ざされた。
少しの無言のあとで出てきたのは、怒鳴り声とは程遠い、消えてしまいそうな小さな声だった。
彼女の色から、黒ずみが抜けていく。
「──悪い人じゃないのよ。きっとあの人も、今頃、後悔しているわ。だってあの人、優しいところもたくさんあったもの。私が事故に遭いさえしなければ、私たち、あのままずっと幸せに笑っていられるはずだったのよ……」
語尾が震えるのを知られたくなかったのか、ニグルはそこでぐっと唇を引き結び、くるりと背中を向けた。
バタン、と音がして、扉が閉まる。
仔牛が、んもう、と遠慮がちに鳴いた。
「驚いた? ごめんね」
ファルは仔牛の背中を撫ぜてから、足を動かし、放り投げられた地図を拾うために腰を曲げた。
手を伸ばしてそれを掴んだところで、動きが止まる。顔は剥き出しの地面に向かっていたが、ファルの目は茶色い土も地図も見ていない。心だけがふわふわと彷徨いだしたような感じがした。
ぼんやりと、思う。
──わたしには、そういうの、わからないな。
地界に堕とされてから、ただの一度も、天界に戻りたいなんて考えたことのないファルには、判らない。
そもそもあそこに最初からファルの居場所などなかった。いつ消えてもおかしくはない生命を、本能のまま繋げていただけに過ぎない。
勤め先を転々として、そのたび力の強弱を示してくるだけの周囲に、特別な感情を抱いたこともない。ファルにとって他人とは、「考えてもしょうがない」程度のものでしかなかった。
今になって、自覚した。
ファルにはきっと、人としての何かが欠けている。
何か大切なもの。重くて、でも尊いもの。それを持っていないから、ファルはニグルのことも、キースのことも、根本からは理解できない。
そうか。
……人は、たとえどんなに酷い目に遭わされたとしても、「大事な人」のことが忘れられないものなのか。
ニグルにとっては、もと婚約者。
キースにとっては……ユアン。




