忌み地
もしも目印代わりの煙が消えてしまったら、と思うと気が急いて、ファルは駆けるようにその場所を目指した。
が、ただでさえキースが言うように体力が戻っていない上に、慣れない環境下で少しずつだが着実に負担が増していっている小さな身体が、いつまでも保つはずもない。
しばらく進んだところで息が切れ、おまけに力が抜けてがくんと膝が折れた。へたり込むようにその場にうずくまってしまい、慌ててまた立ち上がろうとしたファルの頭に、キースの手が置かれる。
「立たなくていい」
「で、でも、キース、もうすぐだよ」
荒い呼吸でそう返しながらキースの顔を見ると、彼もまた腰を落として、身を低くしている。ファルの耳元に顔を寄せ、ひそひそと囁くようにして声音を抑えた。
「……もうすぐだから、慎重に行く。あそこにいるのがどういう存在か判らない以上、こちらも警戒が必要だ。身を伏せながら進むぞ。おれが先に行くから、おまえは後ろからゆっくり来い」
「う……うん」
ぱちぱちと目を瞬いてから、ファルは頷いた。
そうかなるほど。人がいるかもしれないという喜びのあまり、そんなことはすっぽりと頭から抜けていたが、森の中でのように、対面した途端に鋭い爪で襲いかかってくる場合だってあり得るわけだ。
「キースって用心深いね。わたし一人だったら、絶対にそのまま何も考えずに突っ走ってたよ」
「知ってる。おまえはそういうやつだ」
「なんか失礼な言い方だね」
「おまえがそういうやつだから、おれは通常の二倍か三倍は慎重にならざるを得ない」
「もうー……」
素直に感心しているのに、キースから返ってくるのは憎まれ口ばかりだった。こんな外見をしているくせに、中身はやはり年相応にひねくれているらしい。
ぶつくさと言いながら、前に進んだ。四つん這いになり、草の中に潜るようにしてそろそろと移動していく。なんともじれったいような気がしたが、この地界という場所のことがまだほとんど何も判っていない現状では、どう考えてもキースの主張のほうに分がある。
──やがて、獣の叫びらしきものが風に乗って流れてきて、二人は動きを止めた。
うぼう、ぐおう、というような、どこか悲痛にも聞こえる鳴き声だ。どう耳を澄ませても、人間の発声器官から出されているとは思えない、吼えるようないななきの声だった。
「…………」
さっきキースが言っていた、「全身を獣毛に覆われて遠吠えでコミュニケーションをとる生物」のことが頭を過ぎる。
……やっぱり地界に住むのがそういう「人」だとしたら、こっちも遠吠えや鳴き声を出して会話をしなきゃいけないのだろうか。
とファルが本気で悩んだ、その時だ。
「こらっ! 言うこときけって! 動くんだよ、ほら!」
と、ファルとキースにも理解できる言語が耳に届いた。
思わず振り返ったキースと顔を見合わせる。
その声は、怒っているというよりは、困っているような感じだった。怒鳴ってはいるが、声や言葉の端々に、嘆願の響きが滲んでいる。「どうしたってんだ、一体?!」という台詞は、相手に訊ねるというよりも、弱り果てた人間が漏らす愚痴や泣き言のように聞こえた。
それと共に、ぴし、ぴし、という鋭く細い音もする。その音は、商人が荷を引かせるため馬を鞭で打つ時の音に、よく似ていた。
キースは少し考えてから、再び草の中を進みはじめた。
どうやら、問題の人物と獣は、地面から生えるように立つ白っぽい岩の向こうにいるらしかった。ちょうどその岩が先の視界を遮っていて、二人がいる位置からは彼らの姿が見えない。細く立ち昇る煙も、同じ場所から出ているようだ。
岩のところまで到着してから、キースがその陰にぴったりと身を寄せ、そろりと覗き見る。キースの後ろから、ファルも同じように顔を少しだけ出して窺った。
──そこにいるのは、確かに「人間」だった。
獣のようでもなければ、化け物のようでもない。天界人となんら変わらない姿をしている。
茶色の髪と、同じ色の瞳。大方の天界人よりも肩幅が広くて体格がいいが、ちゃんと両手両足があって、目も鼻も口も普通の形状をしている。外見だけで判断するなら、三十後半か、四十代くらいの年齢と思われた。
彼の恰好は、どちらかといえば今のファルに近いかもしれない。麻袋に首と腕用の穴を開けただけのような簡素なシャツと、丈が脛くらいまでの同じく簡素なズボン。腰に、用途のよく判らないショールのような布を巻きつけている。
天界人ともっとも違っているのは、そこにいる人は衣服だけでなく、全身も顔も、あちこちが黒く汚れている、ということだろうか。
しかし彼は、それについてまったく気にも留めていないらしかった。
あれが地界の人……と、ファルは胸の内で呟いた。
「……あれ、牛、かな?」
「牛、だな。たぶん」
岩の陰に隠れながら、首を傾げてキースとひそひそ話す。さっきから悲鳴のような鳴き声を上げている動物は、牛にそっくり、というより、牛そのものだった。二人して自信なさげなのは、その動物の見た目はどう見ても牛なのだが、天界にいたそれとは大きさがまったく異なっていたからだ。
軽く見積もっても、倍くらいはある。男はその巨大な牛を首にかけた縄で引っ張っていこうとしているのだが、ぺったりと座り込んでしまった牛は、それを完全に拒否しているようだった。
ここまで人間とサイズの違う動物を、その気もないのに縄だけで引きずっていこうなどというのが、土台無理な話なのである。牛に頼み込んだり、鞭で叩いて言うことを聞かせようとする男の努力は、ことごとく無視され続けていた。
うぼーう、というだみ声で、牛は必死に何かを訴えている。
突然、すっくと立ち上がったファルを見て、キースは目を見開いた。
「おい、ファル」
制止しようとするキースの声を背に、そのまますたすたと岩陰から出て、男と牛のもとに歩み寄る。
いきなり出現した子供の姿に、男もまた仰天したように目と口を丸く開けた。
「おじさん」
「あ、ああ……え?」
「この牛、赤ちゃんが産まれそうだって」
「は……はあ?」
牛の傍らにしゃがみ込み、その腹に手を当ててファルが言うと、男はぽかんとした。
「産気づいてるの。今すぐ産まれそうで、だから動けないって。赤ちゃんを出すの、手伝ってあげようよ」
「え、赤ちゃんって、お前どこから、いやその、産気づいてって……今、ここで?」
「今、ここで」
「いや、そ、そんなこと言われたって……ここにはなんにもないし、第一」
「産むのはこの牛で、おじさんじゃないんだから、そんなに慌てなくても大丈夫。わたしたちは、少しだけそのお手伝いをしてあげるの。牛の首から縄を外して」
「で、でも、でもよ」
男はファルに言われるがまま牛の首から縄を外したものの、オロオロと動転しきっている。ファルはそちらには構わず、自分が来たほうにくるっと顔を向けた。
「キースも手伝って!」
やれやれ、というような顔で、ため息をつきながら、キースが岩陰から出てきた。
***
とはいえ、率直に言って、男とキースはさほど役には立たなかった。
仔牛を母牛の胎内から出すため縄で引っ張る時に少し協力した、というだけで、指示をしたのはファルだし、母牛はほとんど自力で出産したからだ。屋敷で家畜の世話をしていた頃、何度か牛の出産を経験したことがあるが、こんなにも力強いお産は見たことがない。どうやら天界と地界の動物は、大きさだけでなく、他にもいろいろと差異があるようだ。
しかしとにかく、無事に出産を終えて、母牛はすっかり落ち着き、安心しきったような表情で仔牛の身体を舐めている。
男もそれを見て、全身で安堵したように大きく息をついた。
「やあ、助かった。俺は牛のことはサッパリなんでね。俺一人だけだったら、どうしたらいいのか、まるでわからなかったよ」
「おじさんが世話をしてる牛じゃないの?」
「いやいや、この牛は、隣のネガシのところのさ。一頭いなくなった、って言うんで、軽い気持ちでじゃあ探すのを手伝ってやろうと申し出たんだがね。見つけたはいいが、押しても引いても動きゃしねえ。困っちまって、助けを呼んだんだが、誰も来てくれる様子がなくてなあ」
ちらっと視線をやった方向には、枝を寄せて小さく焚かれた炎がある。では、ファルが見つけたあの煙は、男が出した救援信号であったわけだ。
「ネガシも、牛が身重なら、事前に教えておいてくれればいいのによう」
恨み言を言うように、男は情けなく眉を下げた。怒って責める口ぶりではないあたり、人の好い人物なのだろう。
「で……」
男がファルとキースのほうを向いて、首を傾げた。
「お前さんたちは、どこの誰だい?」
「……え、えーと」
ファルは困って、言い淀んだ。
牛の「たすけて」という気持ちが伝わって、咄嗟に身体が反応してしまったが、それ以外のことは何も考えていなかったのである。せっかくキースが慎重に行こうとしていたのに、完全に台無しにしてしまった形だ。
目の前にいる男は、いきなり牙を剥いて襲いかかってくる人物であるようには思えないが、それでもこちらの対応次第で、これから事態がどう転ぶのかまったく読めない。ファルの行動は、軽率に過ぎた。
「えーと……」
適当なことを並べ立ててこの場を誤魔化そうにも、地界のことをほぼ何ひとつ知らない状況で、そもそもその「適当なこと」が思いつかない。かといって、地界人が天界や天界人のことをどう思っているのかも判らないのに、正直に「天界から堕とされた罪人です」と返答してよいのかも、判断がつかない。
ぐるぐると迷いながらキースを横目で窺うと、彼は冷たい顔で完全にそっぽを向いている。どうやら、あれだけ言われたにも関わらず勝手な行動をしたファルに、「自分が撒いた種なんだから一人でなんとかしろ」と言っているらしい。もしかしたら、怒っているのかもしれない。まったくもって、無理もない。
「……あの」
「ひょっとして、『ここ』には来たばかりかい?」
苦し紛れの言い訳が口をついて出る前に、男に問われた。彼の言う「ここ」がどこを指しているのかははっきりしないが、ファルは飛びつくように乗っかって、こくこくと急いで頷いた。
「そ、そうなんです。本当に来たばっかりで、なんにもわからなくて」
「そうかあー……」
男の目に、気の毒そうな色が浮かんだ。子供の姿をした二人を見て、彼の頭に一体どういう事情が組み立てられようとしているのかは不明だ。
「親は?」
「お……親、は」
「もしかして、はぐれちまったか」
「は、はい。はぐれた、というか、捨てられた、というか」
つい正直に言ってしまって、キースに背中を指でつねられる。
「捨てられた……」
しかし男は、訝しむどころか、さらに気の毒そうな顔になった。
彼の周囲にあるのは、夕焼けのような淡いオレンジ色だ。濁りもしていなければ、尖ったりもしていない。他の色が混ざっていないということは、おそらく単純な性質をしているのだろう。
でも彼の「色」は、どこか空虚で、寂しげに見える。
「そうか……」
何をどう消化しているのか、男はしみじみと言って、うんうんと何度も頷いた。
「そりゃあ、大変だなあ」
「…………」
男はファルの言葉をそのまま受け止めているらしい。自分で言っておいてなんだが、もうちょっと疑ってもいいのではないか、と思わないでもない。
「お前たち、きょうだいかい?」
「え、ああ、はい」
まさかここで、「赤の他人で、以前は主従関係でした」と言うわけにもいかず、こくりと頷く。髪も目の色も違って、こんなに似ていないきょうだいも珍しいであろうが、男はそれも疑わなかった。
「どっちが上だ?」
「えーと、わたしがあ……妹です」
姉、と言いかけたら、キースに無言で睨まれたので、変更した。そんなに「ファルの弟」になるのがイヤなのか。
「そうかそうか、こっちのチビ助が兄ちゃんか。じゃあお前さんが頑張って、こっちの子を守ってやらんとなあ」
男はそう言って、キースの頭にぽんと手を置き、ぐりぐりと撫でまわした。キースの全身から発される空気がますます剣呑になったが、じっとして、なんとか耐えている。頑張れキース、とファルは内心で応援した。
「──うん」
そして男は再び、ひとつ大きく頷いた。
「じゃあお前たち、俺と一緒においで。里に案内してやろう」
「里?」
「キノイの里だよ。そこでみんなと話し合って、お前たちのこれからのことを考えないといかんし」
「これから、って」
「どういう理由があるにしろ、ここに来たからには、助け合って生きていかなきゃならんのさ。俺たちはみんな、捨てられた者同士だ」
捨てられた者同士、という言葉に、思わずファルはキースのほうを向いた。
まさかこの人も、天界から堕とされた人なの?
「…………」
キースは考えるように眉を寄せ、真意を読み取ろうとするように男の顔を見つめている。
男はそれには気づかずに、細い脚を踏ん張って立とうとしている生まれたての仔牛に視線を据えて、独り言のように呟いた。
「──ここは天からも地からも見放された、忌み地さ。嫌われ、追われ、捨てられて、傷ついた者たちが肩を寄せ合い、ほそぼそと生きていくしかないんだよ。死ぬまでな」
***
デンと名乗った男に案内されて歩いていくと、やがて草原の中に細い道が現れた。
草が踏みしめられ、人や動物が歩くことによって、自然と出来たらしき道だ。その道は、進むに従い、どんどん広く大きく、はっきりとしたものになっていった。
森のあたりでは、このような人の通った跡は見つけられなかった。つまり、キノイの里の人々があの森に行くことはほぼない、ということなのだろう。
デンは、ファルの足取りが今ひとつ覚束ないのを見て取ると、牛の背中に乗せてくれた。落ちるんじゃねえぞと注意して、自分は、生まれたばかりでこちらもよろよろとした歩みの仔牛を引く。ボウズも一緒に乗るか、と言われたが、キースは首を横に振った。
道を歩きながら、デンはぼそぼそと「ああ、もう昼過ぎになっちまったなあ」、「ネガシはまだ牛を探してんのかなあ」と口を動かしていたが、それはファルたちに話しかけているというよりは、ほとんど独り言に近いものだった。
彼の口からは、「天界」という言葉どころか、ファルとキースに対する質問すら出てこない。普通なら、何歳なのか、とか、親はどういう人間だったんだ、とか、次々に問いただしてきてもいいものだと思うのだが。
デンは、自分自身のことも、ほとんど話さなかった。
そのうち、足許の草が次第に少なくなって、剥き出しの地面が続くようになった。
そして前方に、ちらほらと家が見えはじめた。
家、といっても、ファルの知っているものとはかなり形が違うし、材質も違う。天界における建物はすべて石で出来ていて、色は白で統一されていたが、ここにあるのは材木を組み合わせて作られ、しかも大きさも形もバラバラだった。
見るからにがっしりとした造りのものもあれば、吹けば飛ぶようないい加減な造りのものもある。そういう家が、規則性も計画性もなくあちこちに建てられている。下は地面で、小石がごろごろと転がっており、味も素っ気もない。道はすべて煉瓦で舗装され、白い塀に囲まれた建物が整然と並ぶ天界とは、かなり違った眺めだ。
外にはいくらか人の姿もあって、彼らはみんなデンと似たような恰好をしていた。髪や目の色は少しずつ異なるが、灰色の簡素な上下で、女性はそれが膝丈のスカート、というだけ。腰や肩に、長いショールのような布を巻きつけているのも同じである。
彼らはみんな、デンに連れられた男女の子供にちらりと視線を向けるだけで、すぐに逸らしてしまう。
その目には、驚きや警戒心よりも、「ああ、また……」というような、諦めと憐れみのようなものが濃く表れているように見えた。
「ここがキノイの里だ」
と、デンが前を向いたまま、ひっそりとした声を出す。
それはまるで、「ここが俺たちの墓場だ」というような言い方だった。
ファルはキースに目をやったが、牛の背の上からでは、小さくなってしまった彼の顔は見えない。
──キースは今、何を考えて、何を頭に思い浮かべているのだろう。
そう思ったら、じわりとした不安が胸に込み上げた。




