草原
「罪人のしるし……」
その言葉を呟くようにして繰り返し、ファルは口を噤んだ。
火の粉を散らして燃え上がる炎に視線を据え、森の中で向かい合った異形の生物の姿を頭に思い浮かべる。
あらゆるところが人としての原型を失ってしまったような身体。しかしその背中には、天界における罪人としてのしるしが残されていたという。座り込んでいたファルからは、そこまでは見て取れなかったけれど……
「キースには、それが見えたんだね?」
「はっきりと」
「焼印が?」
「ああ。……」
淡々とした表情と声音で答えていたキースは、そこでぴたっと口を閉ざした。
焚いた火の中に少しずつ枝を放り込んでいた手も止めて、そのまま動かなくなる。
「ん?」
いきなり静止してしまったキースに、ファルはきょとんとして目を瞬いた。顔をそちらに向けて覗き込んでみれば、彼は本当に時を止めてしまったかのようにぴくりとも身じろぎしない。
「どうしたの? キース」
お腹でも空いた? と続けようとした舌が、再び唐突にくるっとこちらを向いたキースの顔つきを見た途端、凍りついた。
あ、あれ?
なんでそんなに怖い顔しちゃってんの、キース。
「──ファル」
もともと普段から無表情でいることが多いキースだが、瞳に氷の破片のような冷たい光が宿ると、その無表情は一気に凄みを増すらしい。ファルは思わず両肩をすぼめて、座ったまま後ずさった。
「は、はい?」
「なんでそれを知ってる?」
「へ?」
「どうして、罪人のしるしが『焼印』だと知ってる?」
「…………」
ようやくここで、ファルも自分の失言に気づいた。
「え、えーと、勘?」
「へえ」
ファルの返答をまったく信じていないのが明らかな、冷たい声でキースが応じる。怒気を含んだ目がすうっと眇められて、ファルはさらに後退していった。
そうか、なるほど、理解した。
子供の姿をしていようが、怖いものは怖い。
「あの、ちらっと、噂で耳にして」
「どこで?」
「ど……どこだったかな」
「おまえが入れられていた牢はな、天の一族に関わる罪人のみを収容する、特別な施設なんだよ。もちろんそのことは秘匿され、一般人は牢の内部のことはおろか、その存在すら知らないのが普通だ。どうやったって噂なんて流れるわけがない」
「……あ、そう」
ここでファルは観念して、出鱈目を並べるのをやめた。これ以上は無意味というより、キースの怒りを煽るだけだ、と悟ったのである。
その代わり、これまで言いたくないことはそうしてきたように、目を逸らしてむにゃむにゃと濁した。
「ファル」
以前のキースならそれで引き下がってくれたのに、今はまったくその気配がなかった。強い語調で名を呼ぶと、近くにあった木の幹を平手でばんと叩きつける。
「……誰にやられた?」
声変わりもしていない少年期の声とはいえ、極限まで低くなると、やっぱり迫力がある。
「んー……」
ファルは困ってしまった。ここから話を逸らしてしらばっくれるのはどうやら相当困難なようだが、だからって本当のことを言っても、あまり良いことがあるとは思えない。
「誰っていっても……あの牢にいた人はみんな、知らない人ばっかりだったし」
「そのわりに、イーセンのことは知っている口ぶりだったな」
「…………」
敏い人間というのは時々面倒くさいな、とファルは思った。
「それは、ほら、わたしを天界から堕とそうとした人でしょ? だから」
「あの場にいた全員、頭から面布を被って顔が見えなかったのに、どうしてあれがイーセンだとわかった? あの時よりも前に、あいつに会ってたんだな? その時、何かされたんだろ?」
「そんな、妻の浮気を問い詰める時の、嫉妬深い夫みたいな……」
ファルのその冗談にも、キースはまったく動じなかった。眉も口も直線を保ったまま、ファルに向けてくる瞳は炎の色を映し込んで赤い光を放っている。
「背中を見せろ」
断固とした口調で命令されたが、ファルは負けずにその顔を真っ向から睨み返した。
「やだよ」
「ファル」
「ここで裸になれっていうの? わたし、これでも十七歳の女の子なんだからね」
「…………」
ファルが身につけている衣服は、上から下まですとんと繋がった一枚布の簡素なものだ。裾から捲り上げて脱ぎでもしないと、背中は見せられない。
キースもやっとその事実に思い至ったのか、口をむっと結んで、前のめりになっていた姿勢を元に戻した。そのまま炎のほうに顔を向けて、黙り込む。ファルもやれやれとほっとして、キースの隣に再び腰を下ろした。
しばらく、沈黙の時が流れた。
キースは炎を見つめたまま動かない。闇の中、風が草原の中を渡っていく音と、火が爆ぜる音しかしなくて、ファルはどうにも座り心地が悪かった。
ややあって、
「──すまない」
と、キースがぽつりと言った。
ファルはそれを聞いて、さらに困ってしまった。なんとなくこうなるであろう予想はついていて、だからイヤだったのに。
「あのね、キース」
「すまない。焼印なんて……罪人のしるしは、一生残るんだ。おまえは何もしていないのに、おれのせいで、そんな──」
「そういうの、やめようよ」
少しばかり腹が立ってきて、投げつけるような調子になってしまった。こちらに向けられたキースの視線を、眉を上げて受け止める。
「それを言うなら、キースが地界に堕ちて、そんな姿になってしまったのは、わたしのせい、ってことでしょ? 謝らなきゃいけないのは、わたしのほうだよ」
「そもそもおまえには、地界に堕とされる理由なんてなかったんだ。おれに関わったばかりに」
「どうして関わったかっていうと、いちばん最初、わたしがキースの傷の手当てをしたからだよね? わたしたち、そこから後悔しなきゃいけないのかな? そりゃ確かに、あの時、声を上げて人を呼んでいたら、今ここにこうしてはいなかったかもね。キースとわたしは無関係のまま、わたしは今頃ギルノイ屋敷の狭くて真っ暗な小屋の中で、眠っていたのかも。だけどわたしは、そっちのほうがよかった、なんて考えたことは一度もないよ。ギルノイ屋敷では、わたしはいつでも一人で、痛みと空腹と寒さを抱えて、小さくなって震えてた。あのままだったら、倒れていたか、病気になっていたか、死んでいたかもしれない。だからキースは助けてくれたんでしょ? アストン屋敷に行ってからも、いつだって、キースはわたしを助けてくれていた。それを、『すまない』なんて言って欲しくない」
「…………」
まくしたてるように言葉を続けると、キースが口を噤んだ。その顔には、わずかに困惑らしきものが現れている。
「キース、わたしは子供のような見た目でも、子供じゃない。自分で選んだこと、したことの責任は、ぜんぶ自分にあると思ってる。……だから、そういうのはやめようよ。わたしはイヤだよ」
急に声に勢いがなくなり、目線が下を向いた。
自分でも、どうしてこんなに感情的になっているのかよく判らない。でもとにかく、ファルは、キースが「すまない」と言う時の目と顔と声、そのすべてがイヤだ。だから見たくないし、聞きたくないのだ。
「──うん」
ぼそりと声がして、顔を上げてみれば、キースがまた火のほうを向いていた。
闇と火明かりによって影の落ちている横顔からは、彼がファルの言葉に納得したのかどうかは推し量れない。
その瞳からはもうさっきまでの怒りは消えているものの、代わりに、ファルにはよく判らない、何か掴みどころのないものが浮かんでいるようにも見えた。
なんだか妙に不安な気持ちになって、ファルは身をずらしてキースのほうに少し寄った。キースの身体が小さくなった分、肩と肩とが触れ合うほどに近い。
少しためらってから、口を開いた。
「……キースは、天界から堕ちた時のこと、覚えてる?」
「…………」
一瞬、迷うような間が空いた。
「全部……は、覚えてない」
「そうかー、やっぱりね。わたしも途中で気を失ったらしくて、ほとんど覚えていないんだよ。気がついたら、あの森の中にいたの」
「いや」
ファルの言葉をきっぱり否定してから、キースは首を傾げた。
「いや……おれは、意識は失っていないはずなんだ。意識を失った、という覚えがない。強い空気抵抗も、ぐんぐん近くなってくる森の緑も、ずっと鮮明だった。なのに、記憶が途切れてる」
だからそれが「気を失った」ということではないかな、とファルは思うのだが、キースの眉は寄ったままだ。
「何か……を、見たような気がするんだが」
「何かって?」
「白い、何か」
「雲?」
「そういうのじゃない。もっと、なんていうか……」
ますます眉が中央に寄った。無意識なのか、手の指が開いたり閉じたりしている。「何か」を表現したいのに、どうも上手くいかないらしい。
「おまえは覚えてないか?」
「ぜんぜん」
あっさり返すと、「だよな……」という諦めと失望の混じったような顔をされた。ちょっと悔しいが、覚えていないものは仕方ない。
堕ちる時、ファルは何かを一心に念じていたような気がするのだが、それさえもよく思い出せない。
「気がついたら森の中にいて……自分の姿が変わっていることに驚いて」
それはさぞかし驚いたことでしょう、とファルはうんうんと頷いた。
「おまえを探して歩いていたら、あの化け物を見つけたんだ。何かを狙っているようだと様子を窺っていれば、そこにはおまえがいて、しかも化け物に『キース』って呼びかけていた」
「…………」
少々根に持たれているらしい。
「で……」
口を開きかけて続きを呑み込み、キースはファルのほうを向いて、まじまじと見つめた。
「……おまえは、まったく姿が変わってないんだな」
「そのようだね」
鏡がないから確定はできなかったが、ということはやっぱり、ファルの顔もなんら変化はないということか。
キースは考えるように口許に手を当て、ぶつぶつと呟いた。
「化け物になったり、子供になったり、変わらなかったり……どうしてそんなに差異が生じるんだ? なにか基準でもあるのか」
「だよね。キースが子供になったんだったら、わたしだって胸とお尻が巨大に育った大人の女性の姿に変わってもいいはずなのにね」
「この状況でよくもそんな冗談が言えるな」
「……今のは冗談じゃないもん」
なにも、そんな真顔で切って捨てなくても。
ファルはこれでも年頃の娘なのだ。もうちょっと成長すれば胸もお尻も大きくなる、という希望だって捨ててはいない。
……前々から思っていたのだが。
キースには、デリカシーというものが致命的に欠乏している。
「ま、そんなことはいくら考えたところで、答えが出てくるようなもんでもないか」
短いため息をつきながら、キースが放り投げるように言った。
「少し眠って……ん?」
ファルの顔を見て、怪訝そうに首を捻る。
「なんかおまえ、怒ってないか?」
「べつに」
無愛想に返事をして、ファルはむくれたまま後ろの木の幹に背中を預けた。
寝よう寝よう、そうしよう。こんなムカムカは、眠って綺麗さっぱり忘れてしまうに限る。
朝になれば、それは地界での二日目、ということだ。
まだ、何もわからない。
「おやすみ、キース」
「──ああ」
……目を閉じると、瞼の裏に化け物の姿が浮かんだ。
天界から堕とされた咎人。背中に罪のしるしを残し、醜い姿のまま、おかしな匂いに満ちたあの森の中を彷徨い続けるのだろうか。
いつまで? 死ぬまで? 永遠に?
金色の目から滂沱のように流れ落ちていた涙は、きっといつまでも忘れられない。
悲しいね。悲しい。
とても悲しい──
***
朝になり、ファルとキースは再び出発することにした。
これからずっと草地が続くとは限らないからと、キースが、ファルの裸足に草を巻きつけてくれた。柔らかな草は、二重にして巻けば、それだけで布靴の代わりくらいにはなりそうだった。
ちなみにキースは靴下を履いているだけだ。もとの革靴は、あまりにもサイズが合わなくなってしまったため、森の中に捨ててきたのだという。かなり上物だったのに、もったいない。
草原を歩いている間に湧き水を見つけたし、ところどころに立っている木の中には実をつけているものもあったので、それを食べて空腹をしのいだ。
たまに、草の間から、耳の長い動物や、素早く疾走していく尾の短い動物を見かけたり、土の中からひょこっと顔を出す動物に驚くこともあった。
「天界では見たことのない動物ばかりだね」
「そうだな。そもそも天界じゃ、虫の種類だってこんなに多くはなかったし」
しかしとりあえず、その場所に、ファル達に襲いかかってくるような大型の獣はいないらしいのはよかった。たまたま幸運にも出くわさなかった、というだけのことかもしれないが、おおむね草原は静かで、のんびりとした平和に包まれているようだった。
やがて、太陽が中天に差しかかった。
休み休みの行程であったのは、ひとえにキースがファルの体調を気遣っていたためだったろう。特別に暑かったり寒かったりするような気候ではないとはいえ、地界は天界に比べ、空気がねっとりと重く、生温いような感じがする。進むに従い、ファルの顔からは汗が滴り落ちて止まらなくなってきた。
「大丈夫か、ファル」
「うん、平気平気」
笑って答えたものの、ファルを見るキースの眉は曇っている。
ぴたりと足を止めた。
「しばらく休もう」
「ううん、大丈夫だよ。さっき休んだばかりじゃない」
「無理しなくていい。牢から出されたばかりで、おまえはまだ体力が戻ってないんだ。大体、これといった目的地があるわけでもないし、進んでいるこの方角に何があるのかも……」
そこでキースは続きを呑み込んだが、ファルにもその先の言葉は推測できた。
進んでいる方角に何があるのか判らない。ひょっとしたら、「何もない」のかもしれない。
──もし、進んでも進んでも、草原しかなかったら?
その不安が、次第に二人の胸に兆しはじめている。
地界に、天界のように人が生活している、という保証はない。この世界が、どこまで行っても果てしない草原ばかりが続く無人の地であったなら、ファルとキースはどうすればいいのだろう。
キースも当然その可能性くらいは頭を掠めているはずで、彼の厳しい視線はじっと草原の向こうに据えられている。キース一人ならもっとどんどん進んでいくことも出来るだろうに、これではファルは完全にお荷物だ。
ふう、と息をついて、ファルはぐるりと顔を巡らせた。せめてもっと背の高い木でもあれば登って見渡すことも出来るのに、ここにあるのは低い木ばかりで──
「……あ」
その時、ファルの目があるものを捉えた。
「キース!」
ファルの出した大声に、キースが弾かれたように振り返った。
指で示された方向にあるものを見て、彼もまた目を瞠る。
ずっと先に、煙が見える。
──天界よりも少しくすんだ青空に立ち昇る、灰色の細い煙。
ゆらゆらと揺らめいているあの煙が自然発火などによるものではないとしたら、あそこに少なくとも火を焚くことの出来る生物が存在している、ということだ。
「行ってみよう。ファル、歩けるか?」
「うん!」
キースに問われて、ファルは元気よく返事をした。
汗をぐいぐいと拭って歩き出す。疲労はもちろんあるが、目に見える明確な目的地の存在は、それさえ忘れてしまえるほどの活力をもたらした。
「人が住んでるのかな?」
わくわくしながらファルは言ったが、キースはファルほど太平楽に喜んでいるわけではないらしい。足を動かしながら前方へ向けられた瞳には、まだ厳しい色が居座ったままだった。
「さあ。だとしても、その『人』は、おまえが考えているような『人』だとは限らないぞ」
「え」
「たとえばそこにいるのが、全身を獣毛に覆われて遠吠えでコミュニケーションをとるようなやつや、目も鼻も口もない不定型の生物だったりした場合、おまえはそれを『人』と呼べるか、って話だよ」
「…………」
ファルは一生懸命考えたが、その難問に答えは出なかった。




