森の外
ファルは口を半分ぱかっと開けた間の抜けた顔で、目の前の少年をまじまじと見つめた。
先程まで対峙していた化け物のことも、現在の自分たちが置かれている場所も状況も吹っ飛んでしまうくらいの驚愕と混乱に頭が占められて、咄嗟に何をどう考えていいのか、さっぱり判らない。
碧の瞳を持つ彼の目は、少し吊り上がり気味で、「鋭い」と言えないこともなかった。無愛想に結ばれた唇は薄く、どこか冷たい印象を受ける、かもしれない。通った鼻筋も、さらりとした黒髪も、彼を包む澄んだ青色も、どこもかしこもキースの──「ファルが知るキース」の特徴を備えてはいる。いるが、しかし。
しかし、それらのすべてが、いちいちミニサイズなのである。
ファルとそう変わらないのではないかというくらいの身長。しなやかというよりは、まだ未発達な少年期独特の細さ。頬は引き締まってはいるけれど、わずかに丸みを帯びていて、しかも肌なんて透き通るほどにすべすべしている。
おまけに、彼が身につけている洋服は、彼にとっては大きすぎるのか、袖も裾も何度も折り曲げられて捲られていた。子供が無理やり大人の服を借りて着たらこうなるのだろうなと思わずにはいられないくらい、肩の大きさも合っていなくて布地がブカブカに余っている。
十二、三歳くらいの、どう見ても、少年。どう見ても、子供。キースのミニ版だ。
その外見、その格好で、怜悧な雰囲気、などが出てくるはずもない。いくら吊り上がった目つきをしていようと、無愛想に唇が結ばれていようと、どうしても、「大人ぶっちゃって……」と微笑ましく映ってしまうのは、致し方ないというものではないか。
いや、微笑ましい、というか。
「……か」
「その先の言葉を出したら怒る」
思わず正直な感想を零しそうになったファルの台詞は、一言目を出したところで速攻でぶった切られた。少年の顔をしているとはいえ、こちらを睨みつける強い視線の威圧感は本物だった。
ああ、うん、どうしてもその言葉は聞きたくないんだね……
「──と、とにかく、キース、で間違いない?」
ファルはちょっと苦労して、出そうとしていた言葉を呑み込み、基本的なところを確認してみることにした。
「自分でも認めたくはないが、まあ、そのようだ」
非常に渋々といった感じだったが、今度はさっきのよりは素直な回答が返ってきた。低い声でそう言って──いや、低いといったって、それは「大人キース」の通常の声よりもよっぽど高かったりするのだが──自分の身体を見下ろし、はあーという深いため息を吐き出す。
「地界に堕ちて、姿が変わった、ということ? 子供の姿に?」
「子供って言うな。それ以外に考えられないだろ」
「だ、だよね」
忌々しそうに言い返されて、ファルは急いでこくこくと頷いた。あまりにも不機嫌なその表情と声音が怖かった、わけではもちろんなく、喉元まで込み上げてきた「拗ねてる……」という、これまた正直な感想を外に出さないようにするためだった。
いや、そんな場合じゃない、とようやく平常心を取り戻して考える。
ここはやはり、よかった、と思うべきなのだ。地界に堕ちた天界人は、どうやら本当に、あの場所にいた時とは異なる外見に変化する、ということであるらしい。だとすると、一歩間違えば、キースだってあの化け物のような姿に変貌してしまっていた可能性も確かにあったかもしれないのだから。
「あ」
そこで、大事なことを確認していなかったことを思い出した。
ファルは一歩前へと踏み出し、少年の顔を覗き込む。
「ね、キース」
「なんだ」
「わたしのこと、ちゃんと覚えてる?」
「…………」
少年が口を閉じ、以前のキースそのままの碧の瞳でファルを見返してくる。姿かたちは子供でも、子供っぽさも無邪気さも何ひとつ存在しない醒めた無表情からは、何を考えているのか窺い知ることは容易ではなくて、ファルはドキドキした。
「──誰だ、おまえ」
ファルは一瞬、息を止めた。心臓も、もしかしたら止まったかもしれない。頭のてっぺんから一気に血の気が引き、ぐらりと上半身が傾いたところを、少年の手によって素早く腕を掴まれ、引き戻される。
「そこまで本気で驚くな。冗談に決まってるだろう」
その時のファルの顔色がよほど尋常じゃなく蒼白になっていたのか、少し焦ったように「ファル」と名を呼ばれた。
一拍置いてなんとか呼吸を取り戻し、すぐ前にあった足を蹴りつける。いてっ、と顔をしかめられたが、絶対に謝ってなんてやるもんか。大体、背丈はそんなに変わらないのに、なんでこうも手足がファルよりも長いのだ。
──でも。
でも、その姿はあの化け物とはまったく違う。
手も足もしっかり「人間」のもので、すらりとした身体は美しく均整がとれている。怪我を負っているような様子もない。
外見は少し変わっても、中身はキース。キースとしての思考を持ち、記憶も保ったまま。
ファルのことをちゃんと覚えていて、こうして会話を交わすことも出来る。
それがはっきりしているのなら、あとのことは大した問題ではないように思えた。
「よかった……本当に」
眉を下げて下を向き、ぽつりと小さい声で呟く。
「…………」
キースはそんなファルを無言で見つめ、手を動かしかけた。
しかしその手は途中で躊躇したようにぴたりと止まり、結局そのまままた元の位置へと戻った。
別の方角に顔を向けて、「ファル」ともう一度、今度はぴしりとした声を出す。
「詳しい話はあとだ。歩けるようなら、行くぞ」
「え……行くって、どこへ?」
「この森の外へ」
こちらに向き直った少年キースの目は、厳しい光を帯びていた。
「一刻も早く、ここから出るんだ。この森に充満している匂いは、おそらく人の肉体と精神に悪影響しか及ぼさない」
***
──しかし、そこはまったく知りもしない地界の、いきなり落とされた場所、しかも天界人にとってまるで馴染みのない「森」なのだ。一体、どこをどう進んでいけばいいのか。
当然のように抱いたファルのその疑問に、キースは行動で示して返すことを選んだ。
つまり、「出るんだ」と言うやいなや、さっさと足を動かして、歩きはじめてしまったのだ。
あまり見通しの良くない薄暗がりの中、キースは木を避けながらするすると歩いていく。向かっている方向に当てはあるのか、それともただ闇雲に進んでいるのかは判らないが、彼の足取りに迷いはないように見えた。
「こっちで大丈夫?」
「たぶんな」
ファルの問いに素っ気なく返ってくる答えは今ひとつ曖昧だが、キースの目はまっすぐ前方に据えられたまま揺らぎもしない。キースがそう言うのなら、とファルもそれ以上は聞かず、彼のあとについて歩いた。以前ほどコンパスの長さに大きな差はないため、さほど早足にならなくても済む。
「また、あの生き物に遭ったりしないかな」
「それは何とも言えないな。近づいてきたらあの独特の臭いがするだろうから、それと物音に注意しながら歩け。でもあんまりこの木の出す匂いは吸うなよ」
「そんな無茶な」
ファルとキースは、自分の鼻と口を掌で覆いながら歩いている。この状態で化け物の臭いを嗅ぎ分けるのはなかなか難しい。せいぜい、キースの言うとおり、自分たちが枯れ葉を踏む音以外の物音がしないかどうか、神経を研ぎ澄ましながら進むしかなかった。
「……あれって」
ぼそりと落とした言葉に、どう続ければいいのか迷う。言い淀むファルを、キースが首を捩るようにして振り返った。
「ファル、今は自分のことだけに集中しろ。喋るとその分余計にこの匂いを吸い込むことになる。黙っていないと、もっと気分が悪くなるぞ」
この匂いのせいで気分が悪い、とは言っていないのに、キースは当然のようにそう言った。ということは、彼もまた、この匂いになんらかの不具合を感じているのだろう。その顔色や表情からは、何も読み取れないが。
ファルはこくんと頷いて、無言で足を動かすことに専念した。それを見て、キースがまた前を向く。
「……おまえが倒れても、今のおれじゃ、どうしてやりようもないからな……」
足許の枯れ葉が立てるガサガサという音にまぎれてしまいそうな、かすかな声で呟いた。
一時間か、二時間か、よく判らないが。
しばらく歩いたところで、前方に光が見えはじめた。
幹の合間、茂る葉の隙間から、漏れるように射し込んでいる赤い光。
──夕日だ。
進んでいくにつれその光は次第に大きくなり、森の木を美しく浮かび上がらせるように輝きを増した。それと共に、身体の内側に溜まり込んでいたような匂いが、すうっと抜けていく。甘い香料のような息苦しいものの代わりに、もっと自然な匂いが鼻と口から入って、ふわりと身を軽くしてくれるようだった。
これは風の匂い、青草の匂い、太陽の名残の匂い。
外の匂いだ。
今までずっと立ち塞がっていた木々が徐々に数を減らし、視界が開けていく。びょお、と音を立てて風が吹きつけ、眩い夕焼けがまともに目を射た。木と木の間を通り抜け、踏み出した先にはもう、乾いた枯れ葉の音はしない。
深い森を抜け、二人はようやく、「外」に出たのだ。
……そこにあるのは、一面の草原だった。
広い広い、どこまでも続いているかのような、緑の大地。
柔らかな草が、それ自身が金色の光を放っているかのように赤い夕陽に照り映えて、風にそよいでいる。
まるで、涯まで見渡せそうなその景色に、息を呑む。
「これが、地界……」
ファルの口から、無意識のうちに言葉が滑り落ちた。
天界人は、なぜ地界のことを、「汚濁に満ちた場所」などと呼ぶのだろう。
この世界はこんなにも広く、そして、こんなにも美しい。
***
草原には、ところどころに白っぽい岩がにょっきりと立っていたり、まるで傘のように葉を広げる大きな樹があったりするものの、人家らしきものはどこにも見えなかった。
「地界に人は住んでいない、とか?」
「そんなことはない、と思うが……」
首を傾げるファルに、隣に立つキースもなんとなく歯切れが悪い。物知りなキースとはいえ、彼だって地界に堕ちるなんて経験をするのはこれがはじめてなのだろうから、この場所のことをよく知らなくても無理はなかった。
「たぶん──」
そう言いながら、背後を振り返る。
「この森の近くは、人が安心して暮らすのに適した環境じゃない、ってことなんだろう。変な匂いはするし、変な化け物が棲んでるっていうんじゃあな」
なるほど、とファルも納得する。
「じゃあ、とにかくこのまま進んでいけば、いつかは地界の人と会えるのかな」
「そうだな……」
考えるようにまた顔を戻し、草原の先へと目をやる。
少しの間沈黙してから、ぼそっと言った。
「……地界人、っていうのを、おれは知らないんだが」
「わたしも知らない」
「どんな格好をして、どういう家に住んで、どうやって生計を立てているのかも」
「そうだね、わからないね」
なにしろ天界では、地界などというものが本当に存在するのかすら、一般の人々にとっては覚束なかったくらいなのである。
「その上……」
キースが今度はファルのほうをまっすぐに見た。
「現在のおれは無一文だ」
「…………」
ひゅううーと寒々しい風が二人の間を吹き抜けていった。もちろん、罪人として処刑されようとしていたファルが、お金なんて持っているわけがないのである。
しかも、たとえお金を持っていたとしたって、それは果たしてこの地界で使用できるのか、というのも甚だ疑問だ。天界と地界は、ほとんど「世界が違う」というほどに隔たった関係にある。その二世界間で、たまたま使用する通貨が同じだった、なんて思うほどにはファルも能天気ではない。
つまり、だ。
ここのことを何も知らず、お金もなく、ひょっとしたら言葉だって通じるかどうかも判らない、いやそれどころか生物として同じ形態をしているのかも定かではない住人が住む(かどうかも今のところはっきりしない)、この地界という異世界で。
──外見だけは子供の、二十三歳の男と十七歳の女が、二人。
「……困ったね」
「困ったな」
ファルとキースは顔を見合わせ、しばしの間、二人して途方に暮れた。
とはいえずっと困っていてもしょうがないので、とりあえず、差し迫った問題に目を向けることにした。
「まずはこの森から離れて、今夜どう過ごすのかを考えるか」
「そうだね」
キースの提案に、切り替えの早いファルもあっさりと同意する。
キースはファルの顔を見て何かを言いかけたが、首を振ってそれを呑み込み、「……まあ、おまえのそういうところが長所と言えないこともない……」とぼそぼそ小声で呟いて歩き出した。どうやらあまり褒め言葉ではないらしい。
しばらく歩を進めていくうちに、夕焼け空は刻々と夕闇へ変化していった。それでもまだ人家は見えない。歩きながら、キースが下に落ちている細い枝や枯れ葉を拾い集めているので、ファルは首を捻った。
「もしかして、それで火を焚くの?」
「この分だと野宿することになりそうだからな。ここには、どんな動物がいるかも判らないし」
「ふーん」
野外で寝た経験ならファルも何度かあるが、火の気が必要だと思ったことはない。いつも、路地や建物の陰で丸まって眠れば事足りたからだ。この場所では、何事も天界と同じように考えてはいけない、ということか。
赤く染まった空を見上げれば、そこにはギャアギャアとしゃがれた鳴き声を上げて飛び回る鳥の群れが見える。天界では見たことのない種類の鳥だ。どこにどんな獣が生息しているかも判らないこの場所で、キースが慎重になるのも当然と言えた。
「でも、火を起こすものがないよ」
「一応、本で読んで知識だけはある。上手に出来るかはわからんが」
「へえー、本って役に立つこともあるんだね」
「そんな簡単なことを今になって気づく、おまえのほうにこそ問題がある」
少年の姿に変わっても、キースの口が悪いのは変わらなかった。じろりと睨まれ、「大体、どんな環境にいたって少しでも向学心ってものがあれば本くらい読めるだろう」とついでに説教まで続けられそうになって、ファルは閉口した。
「同じ子供同士なんだから、仲良くしようよ」
「だ・れ・が、子供同士だ」
ぎゅうっと耳たぶを引っ張られた。
あまり暗くならないうちにと、さほど背の高くない、でも枝を大きく広げた木の下を選んで、野営の準備をすることにした。
少し試行錯誤はしたものの、それでもキースは案外器用に枝と枯れ葉から火を起こし、炎を焚くことを成功させた。すごいねキース、とファルは惜しみなく賛辞を贈ったが、キース自身は「まあな」と一言だけ言って、あとは黙々と手にしたナイフで枝を削ったり切ったりしている。
「そういえばキース、そのナイフどうしたの? 拾ったの?」
「こんなものが都合よく落ちてるとでも思うのか」
そもそもその質問は今さらすぎるだろ、と呆れるような顔をしてから、キースはファルに向かってナイフの柄部分を向けて見せた。
よくよく見てみれば、そのナイフはなかなか高価そうな、上等な代物だった。銀色に輝く柄には、何かの紋章のようなものが刻まれている。
「これは?」
「エゼル家の紋だ」
「エゼル家の紋?」
「この品はエゼル家の人間……つまり、『イーセン・エゼル』の持ち物だ、って意味だよ。わざわざこんなもんにまで家紋を刻むバカの気が知れないが、あの男はいちいちこうやって持ち物の一つ一つに所有の証を残さないと落ち着かないタチらしい」
イーセン。
その名に、ファルは目を見開いた。と同時に、一瞬、緊張もする。
「……え、じゃあ、それ、あの人のナイフってこと?」
「そう」
どうしてキースがイーセンのナイフなんてものを持っているのか、と訝って、思い出した。そういえば白雲宮の最深部で、ファルの両手を縛っていた縄を解いたのはイーセンであったっけ。その時彼は、自分のナイフを出して切っていたはず。
じゃあ、そのナイフを?
「いつの間に……」
「あいつを殴り飛ばした時に、ついでに貰っておいた」
あの一瞬で? と唖然とする。キースは、ファルが思いもつかないような特技をいろいろと身につけているらしい。
「…………」
イーセンの名を口にしたことで、キースはそれにまつわる何かを思い出したのか、じっと黙り込んだ。
頭を動かし、顔を上向ける。
ファルもそれにつられるように、目線を頭上へと向けた。
すでに陽が沈み、闇に支配されつつあるそこでは、薄っすらと一面にたなびいた雲が空を覆い、月の光をぼんやりと反射させている。
天界に比べて、ここは空がずっと遠い。
──あの雲の上に、天界があるのか。
はるか遠く、離れてしまった場所。
地界から、それの存在が判るものは何も見えない。
「……キース」
小さい声で呼びかけると、キースは顔を戻してファルを見た。
暗闇を背に、彼の少し幼さの残る顔半分を炎が赤く染め上げている。
「あの森の中にいたのは……天界から堕ちた人だったのかな?」
「たぶん。……いや、間違いなく」
少年の姿をしたキースは、およそ少年らしくない冷然とした静かさで肯定した。手の中でナイフをくるりと回す。
「おれはあの化け物に、このナイフを突き刺しただろう?」
「うん」
「あの時、見えた」
ばちばちと音を立てて爆ぜる炎に、ちらりと目をやる。
「背中に、罪人のしるしがあった。……あれは確かに、天界から落とされた咎人の、成れの果て、ということだ」




