再会
ファルの一日は、目覚めたその時から忙しい。
ギルノイ屋敷の端の端、厨房の外側に、ほんのおまけのようにくっついている粗末な木製の小屋が、ファルにとっての寝床である。
朝陽が昇りはじめる前には目を覚まし、薄っぺらい寝具を手早く片づけると、軽く首や肩を廻しがてら着替えを済ませ、そのまま厨房へと向かう。
まだ外は暗く、屋敷の中も外もしんと静まり返っているその中を、なるべく音を立てないように気をつけて火を起こし、たくさんの湯を沸かす。沸かしている間に外に出て、次は家畜の世話だ。屋敷には鶏と牛がいるが、みんな世話をするファルの顔は覚えているらしく、バタバタと羽を動かしたり前脚を柵にかけて鳴き声を上げ、餌をねだる。
ファルは、しい、と唇に人差し指を当てた。
「家の人たちが起きちゃうから、静かにね。ちゃんとあげるよ」
そう言われて、鶏と牛はぴたりと静かになった。まるでファルの言葉が通じているかのような不思議な光景だが、ファル本人はまったく気にしない。物心ついた頃から、ファルにとってはこれが自然だからだ。
どうやら他の人たちは動物たちと意志を交わすのが難しいらしい、ということには気づいているが、それについて深く考えることもしない。きっと「色を見る」のと同じで、たまたまファルが持ち合わせている変な力の一部なのだろう、と思うくらいである。
家畜の世話を一通り終えると、また厨房に取って返す。鍋からはもうもうと白い湯気が立っているから、注意深くそれを下ろして朝のスープの準備。野菜の下ごしらえをし、料理人が焼くパンのための粉を用意し終えたあたりで、ようやく他の使用人たちが起きだしてくる。
「おはようございまーす」
「おいファル、果物は洗ってあるか」
いちばん最初に入ってきた料理人は、ファルの挨拶など耳も貸さずに、いきなり刺々しい口調で問いただしてきた。
「いえ、まだです」
「早くしな。奥様は今朝から当分の間、フレッシュジュースだけでいいそうだ」
「そうなんですか」
また性懲りもなく減量に挑戦しようとしているらしい、とファルはお腹の中でこっそりと思う。確かにちょっと太りすぎだもんねえ。今度は一体何日続くやら。
「まったくあの気まぐれにはかなわねえ。痩せようと思ったら食わなきゃいいじゃねえか。いくら朝食を抜いたって、夜にごってりしたパーティー料理をたらふく口に入れてちゃ、なんの意味もないのによ」
料理人はぶつぶつと零しながら、忌々しそうに白い前掛けの紐をぎゅっと締めた。
彼の周りを取り巻く茶色が、普段の枯れ葉のような色から、雨上りに溜まった泥のような色に、ねっとりと濃く変化しつつある。奥様の一方的な指示が、だいぶ腹に据えかねているらしい。
そりゃ、体重が増えるたびに「料理人の腕が悪いからだ」と八つ当たりされ、「もっと痩せられるメニューを考えなさい」などと無茶な要求を出されては、無理もないか。
「ファル、ぐずぐずすんな!」
「はあい!」
これ以上目の前にいると、こちらにも八つ当たりが飛んできそうだ。ファルは元気よく返事をして、跳ねるように食糧庫へと駆けていった。
──それから朝食の準備をし、仕事の合間になんとか自身も朝食を胃に収め、他の使用人たちから言いつけられる用件をこなし、あちこちを駆けずり回って。
そんな調子で、あっという間に時間は過ぎる。
気がつけば午後になり、気がつけば陽が落ちていて、ファルが自分の寝床につくのは、すでにとっぷりと闇に包まれた夜更け、といった具合だ。その頃になると身体はくたくたに疲れていて、何かを考えられるような余裕もない。ぱたんと倒れるようにして寝入ってしまうだけである。
叱られ、怒鳴られ、追い立てられて、目まぐるしく過ぎていく毎日。
ファルが何事もあまり深く考えない、というのはもちろん性格のためもあるが、こんな日常を送る人間には、ぼんやりと何かを思ったりするような時間の隙間がない、という理由も大きい。
……だから、十日以上も前に起こった出来事なんてものが、ファルの頭の中からすっかり放り出されていたとしたって、それは無理もないことなのだった。
***
「よう」
と声をかけられて、ファルはきょとんと目を瞬いた。
いつものごとく坂を通る店への買い出しを命じられて、裏庭から外に出ようとした時のこと。
門の向こうに、背の高い男が立っている。
鉄柵を隔てて、男がまっすぐ目を向けている場所にはファルしかいない。ということは、今の「よう」の言葉もファルに向けて投げられたものなのだろう。
──しかし、誰だ、これは。
眉を寄せてから、あ、と口をまるく開けた。この間とは違って上等そうなスーツを着ているが、その長身を包む涼やかで静かな「色」には、覚えがある。
ファルはにこっと笑った。
「元気になったんだ、よかったね」
「……おまえ、おれのことを完全に忘れてたな?」
姿を目に入れてから言葉を出すまで間があったことに、男はちゃんと気づいたらしい。深い碧の瞳が、ひややかに眇められた。
「そんなことない。覚えてるよ、ちゃんと。その透き通ったような青色」
「そっちか。顔でも声でもなく、おまえの頭に残っていたおれの印象はそれだけか」
「そんなことないってば」
「じゃあ、おれの名前を言ってみろ」
「……えー、と……あっ、思い出した! キースだ!」
「やっぱり今の今まで忘れてたんじゃないか。ああいう特殊な出会い方をした男を、どうやったらそこまで簡単に記憶から振り落としてしまえるんだ。あれからまだ十日と少ししか経っていないんだぞ。おまえの脳には明らかに欠陥があるようだな」
そういえば、いかにも寡黙そうな見た目のわりによく喋る男なのだった、というところまで思い出して、ようやくファルは門を開けた。
「足はもう平気なの?」
柵に手をかけて、相手の足元に視線を落とす。一人でまっすぐ立っているところからして、杖をつく必要はないようだ。
「ああ。折れるところまではいってなかったから、普通に歩く分にはまったく問題ない」
「そう。じゃあよかった、続きは歩きながらにしない? いつまでもここでお喋りしてたら、他の人たちに見つかっちゃう」
そう言ったら、少し首を傾げられた。
「見つかったら、何か問題が? 今のおれは敷地内に不法侵入しているわけでもないし、ギルノイの屋敷では、使用人が知り合いと立ち話をすることも許されていないのか」
「うーん。ていうか、わたしが仕事以外のことをしてるのを許さない、と思う人たちがいる、って言えばわかる?」
「……そうか。判った」
キースは一瞬口を噤み、しかしそれ以上のことは追及せずに、くるりと踵を返した。
買い出しに行こうとしていたところなので、ゆっくりと止まっていられるような時間的余裕はない。ということで、二人は並んで足を動かしながら、話をすることになった。
ファルが向かう店の名前を聞いて、キースが少し驚いたように目を見開く。
「あんな遠い場所に、徒歩で?」
「足があるんだから、当たり前でしょ。平気だよ、慣れてるから。でも今のキースには大変だろうから、途中までね」
「構わない。店まで付き合う」
普通に歩く分には問題ない、という本人の言葉どおり、現在のキースの動きにはまるで不自然なところはなかった。折れてはいなくとも、そんなに軽い怪我ではなかったはずなのだが、そんなことすら微塵もうかがわせない。
空気を揺らさない歩き方は、颯爽としている、という表現にはいささかそぐわないが、猫のようなしなやかさを感じさせる。
歩調がゆっくりめなのは、ファルに合わせてくれているからで、彼のペースで歩けばあっという間に姿が見えなくなるくらい素早く移動できそうだった。
「元気になったってことを、わざわざ教えに来てくれたの?」
「おれはそんなにヒマじゃない」
「じゃあ、たまたま通りがかって、わたしを見つけたの?」
「……そういうことでいい」
キースは曖昧な言い方をして、ぷいっと顔を背けた。
言い方は無愛想で、鋭い目も薄い唇も通った鼻筋も、どこからどう見ても冷たい印象を受けるほどなのに、ちっとも怖いと思えないのは、やっぱり彼の周りを覆う澄んだ色のためなのかもしれない。
キースの綺麗な青色は、濃くなることも薄くなることもない。
何にも動じず、常に落ち着いている。
しばらく黙って足を動かしてから、キースはぼそりと言った。
「──礼を」
「ん?」
「礼をまだ言ってなかったな、と思って」
「意外と律儀なんだね。別にいいのに。あの時も言ったと思うけど、わたし、自分の思うことをしただけだから」
「それでも実際、助かったからな。おれは金でも恩でも、誰かに借りをつくるのが好きじゃない」
「そう。じゃあ、どうぞ」
「……そんな風に言われると、意地でも礼の言葉を出したくない」
「なんで」
「おれが何を言っても、おまえ絶対、『うんわかった』の一言で済ませるだろう。人の言葉を軽くしか受け取らないと判っているやつに向かって何を言っても虚しいだけだ」
「だから別にいいと言ってるのに……」
「言っておくが、おれが誰かに礼を言おうとするなんて、本当に滅多にないんだぞ」
「なんでそんなことでイバってんのか、よくわかんない」
「おまえ、おれがどんな気持ちでここまで来たと」
「うん?」
「……なんでもない」
キースはまたむっつりと黙り込んでしまった。なんだかよく判らないが、キースはどうやら面倒くさそうな性格をしているらしい。物事はもっと単純に考えたほうが疲れないのではないか、と裏も表もないファルは思うばかりである。
少しの沈黙の後で、キースは再び口を開いた。
「じゃあ何か、欲しいもの、とかあるか」
「えー、特に」
特にない、とファルが答えるよりも前に、ファルの肉体の一部が勝手に返事をした。
……お腹の虫が、盛大にぐうううーっと鳴ったのだ。
キースが頷いた。
「食い物だな。よく判った」
「ち、違うもん! 今のはどこかでカエルが鳴いた声!」
ファルとて年頃の女の子なので、思いきり腹を鳴らしたと認めるのは恥ずかしい。顔を赤くして、全力で否定した。
「おまえの腹の中ではカエルを飼ってるのか。まあいい、店に行く途中で旨い料理を食わせるところがある。寄っていこう」
「うう……」
ファルは恨みがましい目で、キースを見上げた。
今のこの状況で、旨い料理、などという言葉をあっさり出さないで欲しい。心がぐらぐら揺れてしまう。
そりゃ、お腹は空いている。お礼なんてものは本当にどうでもいいが、ご馳走してくれるという申し出なら喜んで受けたい。しかし無理だ。未練はありすぎて困るくらいあるものの、今は無理だ。ついでに言えば、自由に過ごしてもいい時間、というものが極端に少ないファルには、他のどんな時でもやっぱり無理だ。
「……ダメだよ。早く帰らないと、怒られちゃう」
しょんぼりして言うと、キースは訝しげに眉を寄せた。
「おまえ、さっきもそんなこと言ってたが……いくらギルノイの屋敷が厳しくたって、買い物ついでに寄り道をして息を抜くなんてこと、どこの使用人でもやってるだろう。怒られるにしたって、ちょっと注意される程度じゃないのか」
「うーん……」
ファルは言葉を濁して、目を泳がせた。そして完全に無意識だったのだが、自分の左腕を右手でさすった。
それを見て何を思ったのか、キースの視線がいきなり、ぴりりとした厳しさを帯びた。彼はただでさえ鋭い目をしているので、雰囲気が尖るとたちまち剣呑さを増す。
「ちょっと、腕を見せてみろ」
いきなり伸びてきたキースの手が、ファルの腕を掴んだ。逃げる間もなく、袖を捲られる。
そこから現れた、ほとんど肉のついていない腕に、古いのから新しいのまで、いくつもの打撲の痕や傷があるのを見つけて、キースが両眉を上げた。
「ファル」
ぴしりとしたきつい口調で名を呼ばれ、ファルは思わず「は、はい」と背筋を伸ばした。
「誰にやられた? ギルノイの家の者か」
「え……旦那様と奥様ってこと? まさかー。わたし、あそこでいちばんの下っ端だもん。旦那様の顔を見たこともほとんどないくらいだよ」
「じゃあ、他の使用人たちか」
「……んー」
ファルは適当にもごもごと言って誤魔化した。そんなことを第三者に訴えたところで、意味のない行為であるのはよく知っている。ひとつの屋敷の中で、使用人たちの間にどのようなことがあろうとも、他人が口出しできるものではないからだ。ファルだって、そんなことは別に望んではいない。
そこにあるのは「現実」──ただそれだけ。それ以上でも、以下でもない。受け止めるしかないものなのだ。
だから生返事をしながら、ファルはキースの「色」を眺めていた。そこにあるのもまた、ファルにとっての現実である。他の人には見えなくとも、ファルにだけは見える現実。どうせなら、少しでも心を浮き立たせるほうを見ていたほうが楽しいではないか。
少し青味が増したかな? だけどやっぱり、綺麗な色。
「…………」
ファルの意識が明後日の方向に向いていることにも気づかず、キースは唇を引き結び、何かを考えているらしかった。じっと腕を見たまま、動きもしない。
「──おまえ今、何歳だ」
唐突にその口から問いが発される。ファルもようやく彼の顔に目を戻した。
「十七だよ」
「なに?」
当たり前に返された数字に、キースは唖然とした。まじまじとファルに据えつけられる碧の目に、くっきりとした困惑が浮かんでいる。
「冗談だろ?」
「なんで冗談? わたし、数くらいちゃんと数えられるけど。どこからどう見ても、溌剌とした若い娘でしょ?」
「嘘だろ……」
キースは大きな掌を口許に持っていって茫然と呟き、穴の開くほどファルの頭からつま先までをじろじろと眺めまわした。
「おれはてっきり、十二、三か、せいぜい十五くらいだと……子供にしては気が廻るなと思ってたが、十七って……」
信じられない、と言いながら、キースの視線がファルの胸のあたりで止まっている。失礼だ。なんだかとっても失礼だ。
「そういうキースはいくつなの?」
「二十三」
「ええっ!」
これにはファルも衝撃を受けた。同じように視線を動かして、改めてキースを観察してみる。結果やっぱり、ウソだ、と思った。先日と違い、上から下まできっちりと恰好を整えたキースは、下手をしたら三十代にも見えるのに。
こんなんで、ファルとたった六つしか違わないなんて。
「ずいぶん老け……いたたっ」
正直な感想を言いかけたら、キースに耳たぶを引っ張られた。
「おれは年相応だ。問題があるのは……」
そこまで言って、また口を閉ざす。
しばらく沈黙が流れた。ファルはちょっと落ち着かない気分で、もぞもぞと身動きする。口許に手を当てたキースが、ファルをじっと見つめ続けているからだ。
やがて、その碧の瞳に、決意の光が灯った。
不意に、「──よし」と言うと、さっと身を翻す。
そちらは、行こうとしていた店とは反対方向。二人が今まで歩いてきた道のほうだ。
キースはファルに背中を向けて、すたすたと歩いて行ってしまう。
「キース、どこへ行くの? もう帰るの?」
お店まで付き合う、って言ったのに。そう思いながら訊ねると、キースは後ろを振り返ることもせず、歩きながら片手を挙げた。
「緊急の用事が出来た。悪いが、ここまでだ」
「ふうん」
ファルはちょっとがっかりした。いつも一人でてくてくと歩き続ける道のり、今日は二人でお喋りして、ここまでの距離も短く感じられたのになあ。
「じゃあね、キース」
最初の時と同じ言葉を出したファルに対し、キースから返ってきたのは少し違っていた。
「またな、ファル」




