解放
翌日、ファルの身柄は牢獄から出された。
すとんとした筒状の白い衣服を着せられ、後ろ手に括られて、裸足のまま、黒く塗られた馬車に乗せられる。椅子も何もない、がらんどうの箱の中は、窓もないため真っ暗で、ほとんど視界がきかなかった。
馬に引かれてガラガラと道を進む音、そして振動はするけれど、今の自分が果たしてどこに向かっているのかも判らない。目隠しはされていないものの、外の様子がまるで見えないという点では、捕らえられて牢へ連れて行かれた時と同じだ。
その箱の中に転がされた態勢で、ファルは半分朦朧としていた。
両腕が後ろに廻されて縛られているので、身体が自由にならない。しかしたとえそうでなくても、今のファルに、暴れたり騒いだりするほどの体力は残っていなかった。
少しでも動くと背中に激しい痛みが走るし、全身も熱っぽくてだるい。大量にかいた汗で、目の前は濡れた膜に覆われたように霞んでいる。
──昨日、イーセンに押された焼印。
しっかりと背中にあるそれが、今もずきずきと痛みを放ち存在を主張していた。皮膚を焼かれたあの時と比べれば苦痛はまだしも引いてはいるが、その部分は依然としてじんじんとした熱を持ったまま。心臓が動くのと一緒にそこまでが脈打つように痛みを伴って、一向に楽にはならない。
ファルに焼印をつけると、イーセンはさっさと牢獄から立ち去ったが、「これで死なれたら自分の責任になる」とオロオロした番人が、一応の手当てをしてくれた。あの時、焼かれた背中を氷水で冷やしてもらえていなかったら、苦悶にのた打ち回っていたファルは、本当にそこで弱りきって死んでいたかもしれない。
ギッ、と音がして、馬車が止まった。
扉が開いて、姿を見せたのは二人の男だ。牢番たちではなかった。
彼らは、アストン屋敷でファルを捕らえた男たちと同じ格好をしている。
白の上下、かっちりとした立襟、そして胸のところに付いているマーク。……明るい場所でよくよく見れば、それは非常に手の込んだ刺繍だと判る。銀色の糸で描かれているのは、何かの図形のようなものだった。
上から下に向かって、長く細い線が優美なカーブを辿って伸びている。その絵が何を表現しているのかは、ファルにはよく判らなかった。一見したところでは、まるで枝が左右に分かれ、下方に緩く垂れているかのようだけれど。
二本の枝に挟まれるように、真ん中に円が二つある。それがぱかっと虚ろに見開かれた目のようにも見えて、妙に不気味に思えた。
その図形のようなものの意味は判らなくても、その制服がどこに属しているものであるか、ファルはもう知っている。
引きずられるようにして馬車を降り、眼前に高くそびえ立つ白亜の建物を、目を眇めて見上げた。
「……白雲宮」
思わず、その名が口から漏れる。
こんなにも間近で目にする機会が訪れるとは、思ってもいなかった。
──罪人の処刑は、この場所で行われるらしい。
その時、鐘の音が鳴り響いた。
一日に一度鳴らされる時計台の鐘の澄み渡る音色が、白で統一された景色の中を厳かに流れていく。その中央にあるのは、堂々とした威容を誇り燦然と輝く白雲宮。
それはこの天界における象徴とでもいうべき、清浄で美しい眺めだ。
でも今のファルには、この先に起こる何かを告げようとして打ち鳴らされる、警鐘の音に聞こえた。
***
二人の白雲宮の兵に前後を挟まれて、ふらつく足取りでファルは階段を下った。
どこまでもどこまでも続くかと思われる、長い階段だった。雲にまで到達するかという白雲宮の、上に行く階段ではなく、下へと向かう階段だ。
地面の部分の、更に下。地下、などという簡単な言葉では言い表せないほど、それは深く長い道のりだった。
階段は途中に踊り場もなく、螺旋状に繋がる段がひたすらに連なっている。
円筒状の白い壁には窓もなく、そこに沿ってぐるりと階段といくつかのランプがあるだけで、他には何もない。
ファルは裸足だから艶々とした素材の石は音を吸い取ってしまうが、兵の立てる足音は一段降りるごとに反響し、ガアンガアンといつまでも鳴り止むことがなかった。
暗い階段には手すりというものがなく、壁になっている外側はともかく、内側は上から下まで吹き抜けの空間があるばかりだ。下からは冷たい風がびゅうという音と共に吹き上がり、ただでさえ覚束ないファルの身体をゆらゆらと揺らす。背中の痛みと、ひっきりなしに襲い来る眩暈が、そろそろ限界だと訴えかけていた。
意識が飛んでしまう前に、ようやく階段が途切れたのは幸いだった。がくがくと震え、ちっとも言うことを聞いてくれない膝をなんとか動かして、平らになった床を歩く。
階段の先には、一枚の重々しい扉があった。
兵が取っ手に手をかけ、ギイ、と音を立ててその扉を開く。
──そこには、大きな「穴」が、口を開けて、獲物を待ち構えていた。
「やあ、白雲宮の最深部にようこそ、小さなメイドさん」
穴の傍らに立つユアンが、穏やかに微笑んで言った。
長い階段の先にあったのは、広間のような部屋だった。天井は低く、壁には何に使うのか大小の斧や長い板が並んで掛けられている。
……がらんとしたその場所の中央に、床をくり抜いたような、穴。
ユアンの後ろには、十人ほどの人間が手に長い棒のようなものを携えて、控えていた。
それらが「人間」としか説明できないのは、全員それぞれが、頭からすっぽりと布作面を被っているからだ。
四角い布を被って面にしているそれらの人々は、まったく顔が見えなかった。いや、面には簡単な鼻と口が描かれているから、それが「顔」ということになっているのだろう。しかしどれも同じ絵柄なので、無表情の同じ人形がずらりと並んでいるような、異様な感じがする。
目の部分だけが丸く切り取られ、そこから本物の人間の目が覗いているのも薄気味が悪い。ふんわりとした白いマントのようなもので全身を覆っているので、彼らが男なのか女なのかも不明だった。
おそらく、処刑の立会人、ということなのだろう。ファルをここまで連れてきた兵たちは、これでお役御免とでもいうように、部屋に入ることもせず、一礼をして立ち去った。
しかし正直、ファルの意識はそちらにはほとんど向けられてはいなかった。その目はただ大きく見開かれ、部屋の真ん中にある「穴」に注がれている。
「……なに、これ」
茫然と呟いた。
苦痛と疲労でとめどなく流れる汗が目の中に入ってきて、ファルの視界はずっとぼんやりとしたままだ。拭おうにも両手は後ろで、軽く頭を振って汗を飛ばしても、そこにあるものがよく理解できなかった。
──床に丸く開けられた大きな穴。
普通なら地面があるはずの穴の先には、何もない。
何もない、のだ。穴を掘ったらその下にあるはずのもの、あるべきものが、なんにもない。ただの空間、ただの無があるのみだ。
まるで、筒の底に錐を刺し通し、小さな穴を穿ったかのような。
ひゅうひゅうと風の巻く音が、その穴から聞こえた。窓のないこの部屋の中、ひんやりとした空気は、そこから流れ入ってくる。明かりもないのに、そこだけ光が射している。
……つまりあの穴の向こうは、まごうことなく、「外」なのだ。
「驚いたかい? もっと近くに寄ってよくご覧。そうだ、その無粋な拘束も解いてあげようね」
ユアンが、優しく撫でるような声を出す。それと同時に、後ろに控えていた面布の人間のうちの一人が進み出てきた。ファルの近くまで歩み寄り、後ろに廻る。
ざりざりと擦るような音がして、両手を縛っていた縄がはらりと外れて床に落ちた。自由になった両手を動かした途端、背中に痛みが走って、呻き声が洩れる。
ナイフで縄を切り、戒めを解いた背後の男が、くくっと喉の奥で笑った。聞き覚えのある声に見返ってみれば、くり抜かれた目の部分から覗いているのは鳶色の瞳だった。
──じゃあ、これはイーセン。
昨日、表情ひとつ変えずに焼きごてを押しつけたイーセンの姿を思い出し、勝手に身体が強張った。面で顔を隠したイーセンは言葉を発しなかったけれど、鳶色の目には、楽しく小動物をいたぶるような悪趣味な色が浮かんでいる。
ファルは顔を前方に戻し、よろりと足を一歩、踏み出した。
穴の下には、薄い雲が流れていた。
風でふわふわと移動していくその雲の切れ間からは、はるか下にある景色が見える。
あれはなんだろう。緑の──森?
やっと汗を拭きとって視界が鮮明になったというのに、茫洋としか見えない。それほどまでに、その景色はあまりにも遠かった。この場所は、眼下に見えるあの森よりも、おそろしく高い場所にある、ということだ。
ファルは白雲宮の上に向かったのではなく、あの階段を使って延々と下に降りたのに、それでもここは、こんなにも上にある。
はじめてファルは、自分が今いるところが「天界」であるのだと、愕然とした驚きとともに芯から実感した。
下に地面があって、緑があり、建物があり、たくさんの人が生活していても、ここは空中高くに浮き上がった、「天にある世界」なのだ。
「見えるだろう? 下にあるのが『地界』。そしてあそこにある森が、『咎人の森』だ」
「咎人の森……」
ユアンの口からやわらかい口調で紡がれた言葉を、ファルは復唱するように小さな声で呟いた。
「天界で重大な罪を犯した者は、地界の咎人の森へと堕とされる。この清らかですべてが調和された美しい天上の世界に、罪人は相応しくないからね。卑しく醜く、穢れに満ちた下界へ捨ててしまうということさ」
そう言って、ユアンは手についた埃を払うかのような仕草をした。彼にとって、「追放される罪人」とは、本当にそれくらいの意味しか持っていないようだった。
ファルは唇を引き結んで穴の下をじっと見つめてから、ユアンのほうに顔を向け、口を開いた。
「──この世界は、そんなにも美しいですか」
ユアンが微笑を保ったまま、ファルを見返した。「無礼な」とファルの口を暴力的に塞ごうとしたイーセンを手で制し、わずかに首を傾げる。
「君は、そう思わない?」
「ちっとも」
ぴしゃりと言うと、ユアンの唇の角度が更に上がった。
「本当に君は面白い子供だね。もっと遊んでみてもよかったかな。でも、これ以上、僕の影にまといつかれるのも不愉快なんだ。影はただ、僕の姿だけを映していなければならない。余計なものを背負い込んでしまっては、それは影にはならない。そうだろう?」
「だったら少しは足許に目を落としてみたらどうですか。あなたが単なる黒い影としか見ていないものの中にこそ、本当に綺麗なものが隠れているのかもしれないのに」
ファルがまっすぐ言い返すと、ユアンの唇の動きが停止した。
笑いの形は留めているものの、青い瞳はもう笑ってはいない。ファルの近くにいるイーセンでさえ慄然とするほどに、およそ人間らしさというものが皆無の冷たい空気が彼を包んでいる。
「──準備を」
ユアンが平坦に言った。
その言葉で我に返ったように、布作面を被った人間たちが、それぞれに動きはじめる。
彼らは壁に立てかけてあった長い板を運び、穴の真ん中に渡して置いた。ぽかっと丸く開いた穴に、橋を架けるような具合だった。
「進め」
イーセンがファルの背中を小突くようにして押した。ぶり返す火傷の痛みに唇を噛み、ファルは言われたとおり足を動かして、板の上を一歩ずつゆっくりと歩いた。
板がぎしぎしと音を立てる。どっと噴き出した汗が顔を濡らした。
中央まで進んだところで、「止まれ」とまた命令される。ファルは下に目をやらず、前方に顔を固定させた。板一枚を通して、すぐ下は空中。吹き上げる風で、身体が傾ぐのを持ちこたえるのが精一杯だ。少しでもバランスを崩せば、あっという間に真っ逆さまに落下する。
「安心おし。この高さから落ちても、死ぬことはないはずだからね。咎人の森に堕とされた人間は異形の化け物へと姿を変えて、生き永らえるよりももっとつらく苦しい生を与えられる。化け物となり、森の中で他の獣を食い漁って、醜く浅ましく生き続けるのさ。──お前には、お似合いだ」
ユアンは感情のこもらない声で淡々と言った。ファルはぎゅっと拳を握りしめ、それでも目はその人から離さなかった。足はずっと震えているけれど、それを悟らせてなるもんかと思った。
「斧を持ってこい」
イーセンが命じる声が響く。斧でこの板を叩き割る、ということか。板という足場が失せれば、上に乗っているファルがどうなるかは自明の理だ。
これが、罪人に下される罰。なるほど、単に突き落とされるよりも、そちらのほうがずっと恐怖心を煽る。
ファルは息を大きく吸って、吐いた。
キース──
せっかくあんなにもたくさん食べさせてくれたのに、無駄になっちゃったね。
化け物の姿になっても、キースのことは覚えていられるといいんだけど。
「お下がりください、ユアン様」
イーセンの言葉で、ユアンが後方へと下がった。部屋の壁にかかっていた斧を持った面布姿の処刑立会人が、イーセンのほうに近づいてくる。
イーセンが手を伸ばして、それを受け取ろうとした──その時だ。
突然、斧が引っ込められた。
取ろうとしていたものがいきなり引き下げられ、イーセンの上体が前のめりに傾いだ。
それと同時に、斧を渡そうとしていたほうの立会人の身体がくるりと鮮やかに半回転する。長い脚がマントの下から現れて閃き、不安定に揺らいだイーセンの腹部に獰猛な蹴りを叩き込んだ。
「がっ!」
完全に不意を突かれたイーセンが叫び声を上げる。何が起きたのかと彼が事態を把握する前に、今度は拳が伸びてきて、イーセンの顔面に容赦のない一撃を喰らわせた。
「な──なんだ?!」
他の立会人がぎょっとしたように悲鳴を上げた時にはもう、イーセンの身体は床に沈んでいた。倒れたそちらに目を奪われ、はっと気づいたら、すぐ目の前には面布に描かれた顔が迫っている。防御する間も、そうしようと頭を働かせる間もなく、ひゅっと空気を裂く鋭い強打によって吹っ飛ばされた。
おそろしいまでに素早く、そして的確な攻撃で、そこにいた立会人たちは次々に倒されていった。ある者は蹴り飛ばされ、泡を食って逃げ出そうとした者の後頭部には、投げつけられた斧の背面が命中する。その動きには躊躇がなく、しかもまったく無駄がなかった。
「え……」
いきなり急変した展開に、ファルは頭がついていかない。目を丸くして幅の狭い板の上で立ち尽くしていたが、その時になって、やっと気づいたことがあった。
どうして今まで、穴とユアンのほうばかり見て、ちゃんとそちらを見なかったのだろう。しっかりと目に入れていれば、すぐに判ったはず。頭から布を被っていても、全身がマントで覆われていても、その身体の周りにある色までは隠れようがない。
あの綺麗な、澄んだ青色。
「ファル、走れ!」
左手で一人の首筋に手刀を叩き込み、右足で別の一人を蹴り飛ばしながら、邪魔な布とマントを剥ぎ取る。
そこから現れたのは、黒い髪、碧の瞳を持った長身の男だ。
ファルはその声にはっとして、すぐに身体の向きを変えた。彼の行動がどんな理由によるものなのかは、考えるまでもない。ここでぐずぐずして、それを台無しにするわけにはいかなかった。
残った気力と体力を振り絞り、ファルは走った。板は大人が一人しか通れないような狭い幅しかないけれど、迷っているようなヒマはない。足を引きずり、ほとんど飲まず食わずで弱った身体に鞭打って、一直線に駆けた。
キースはすでに、そこにいた人数の半分以上を倒していた。その正体が明らかになって目を剥いた立会人たちが、口々に罵声を喚き立てる。手にしていた長い棒を使い反撃しようとする者もいたが、キースはすぐさま手を伸ばして、床に倒れていた別の立会人を引きずり起こし、自分の盾にした。
止められず振り下ろされた棒が砕け、盾となった人間の面布から赤い血が噴き出す。気を失っていた身体が、更なる衝撃でびくりと痙攣するのを見て、反撃したほうが「ひっ」と呻いて竦んだ。
「き、きさま……よくもそんなことが! ユアン様を裏切る気か!」
「──なんとでも言え」
キースは低い声で言い返した。盾にしていた身体を放り出し、同時に強烈な蹴りを突き出す。相手は難なく吹っ飛んで、床に頭を打ちつけ動かなくなった。
その間に、ファルはなんとか板を渡りきった。床に到着して、ほっと息をつく。
「まっすぐ扉に向かえ!」
後ろから、キースの鋭い指示が飛んだ。
振り向くな、行け、と。
でも。
ファルの足は、彼の言葉のとおりには動かなかった。その場で止まって、そして振り返った。キースのほうに目をやり、口を開きかけたのは、何を言おうとしていたのか自分でもはっきりしない。大丈夫? か、一緒に逃げよう、か。
胸にあったものを声にして外に出す前に、後ろ襟首を掴まれた。
後方へと下がっていたはずのユアンが、いつその場所まで移動したのか、ファルはまったく気づかなかった。こんなにも間近に来ていたというのに、気配も感じなかった。おそらく、その場にいた誰もが、彼のその行動を予想していなかっただろう。
まるで子猫を掴むようにユアンに持ち上げられ、ファルの足が床から離れ、宙に浮いた。
ユアンは、もはや微笑みすら浮かべていなかった。作り物めいた美貌には、ぞっとするほどの無表情しか乗っていない。彼の周囲の色は黒々とした闇色のまま、何ひとつ、揺れても動いてもいなかった。
「……さすがだね。ここに入る人間は徹底的に調べたはずなのに、いつの間にすり替わったんだか。あれだけ厳重な監視の目をくぐり抜け、僕さえも騙すとは、アストンの血はダテじゃないということか」
独り言のように言って、ファルを持ち上げた手を大きく振った。
そして、そのしなやかな細身のどこにそんな力があったのかと思うほどに、ユアンはファルの身体を勢いよく放った。
目障りなゴミを投げ捨てる、ただそれだけのことであるかのように、これっぽっちも遅滞のない動きだった。その青い瞳は、完全に興味がなさそうに、ファルのほうに向いてさえいなかった。
ファルは抵抗することも出来なかった。何かに掴まろうとする手は、虚しく空を切った。ふわりとした浮遊感を覚えて、本来ならその次にあるはずの、床にぶつける衝撃はいつまで経ってもやって来ないことに不審を抱いただけだった。
投げられた先には、何もなかった。
ユアンによって、ファルは穴の中へと投げ込まれていた。
「ファル!」
薄暗い部屋と、明るい空中との境界を越える。それが、ひどくゆっくりとした動きに感じられる。キースが大きな声で名を叫び、こちらに向かって走って来た。
彼の手が差し出された。でも、ファルの手はそれを取ることがもう叶わなかった。どんなに伸ばしても届かない。
落ちる。落ちる。地界へと。
キースがためらうことなく床を蹴ったのが見えた。
薄く白く靄のように広がる雲をまっすぐ突っ切り、ファルは落下した。さっき空を掴むしかなかった手が、何かに触れた。ぐいっと強く引き寄せられ、温かいものに包まれる。
──キース。
キースはファルの全身を覆うようにして抱きしめていた。そのまま、一緒になって落ちていく。びょうびょうと風の音が耳元で激しく唸りを上げている。空気が肌を切り裂くように痛い。
「……だめ」
落ちても死ぬことはない、と言っていたユアンの言葉は、すっかりどこかに飛んでしまっていた。こんなスピードで、こんな勢いで、あんなにも高いところから落ちて、死なないなんてことがあるもんか。万が一死なないにしたって、回復不能な大怪我を負うに決まっている。
キースはファルの頭を抱え込み、自分の身体で庇っている。このままだと、先に地面に激突するのはキースのほうだ。
「だめ……だめ、だめ!」
嫌だ、嫌だよ、キース。
死なないで。
「だめ!!」
叫んだ瞬間、眩い輝きに覆われた──ような気がした。
(第一部・終)