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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第一部・天
17/73

罪人の印



 狭い牢屋の隅で、ファルは薄い毛布にくるまって、ころんと横に丸くなっていた。

 硬い石の床からは、ひえびえとした冷気が伝わってくるばかりで、いくら時間が経ってもそれが温もりに変わることはない。光も音も匂いも遮断された地下室は、決して外からの情報をもたらしてくることもなく、何もかもがまるで息を潜めているようにしんとして、すべてが止まってしまったかのような錯覚をさせられる。

 今が昼なのか夜なのか。晴れているのか雨が降っているのか。ここに入れられてからどれくらいが経過したのか。ファルには、何も判らない。

 氷のような空気に満たされた牢獄内では、薄っぺらい毛布一枚があっても、ほとんどものの役には立ってはくれなかった。いくらファルが厳しい環境下に置かれることに慣れているといっても、手足の先から痺れてくるような寒気と戦うのは、容易なことではない。間断なく襲い来る震えは、ずっと止まらないままだ。

 そして──おそらく、これが大きいのだろうが。


 ファルは自分で思っているよりもずっと、アストン屋敷で目にした光景に、精神が消耗させられていた。


 己の身が他者から傷つけられることには耐性がついていても、人の死を目の当たりにすることは、これがはじめてだったのだ。それも一度に数人という、あんなにも悲惨な現場に居合わせて、平気でいられるわけがない。本人に自覚はなかったが──自覚がないからこそ余計に、擦り減ってしまった心のダメージは甚大だった。

 ただ閉じ込められただけだったなら、なんとかしようという気概も持てただろう。普段通りのファルであれば、牢内を元気に走り回って暖まろう、とでも考えられたかもしれない。

 しかし現在、ファルにはそんな気力がまるで湧いてこなかった。自分の中から何かがごっそりと抜け落ちたような失調の状態が、だんだん酷くなっていく。自分でもその理由がよく判らず、今となってはもう、ひたすら虚脱して横たわることしか出来なくなっていた。

 鉄格子のすぐ近くには、トレイの上に粗末な食事が載ったまま置かれている。キースがやって来てから、定期的に入れられるようになった食事だが、それも半分以上は手をつけられていない。空腹感はあるものの、上手に飲み込むのが難しく感じられて、無理に食べようとすると吐いてしまうのだ。

 出された食事が朝の分なのか、晩の分なのかも判らない。毛布の中でじっとしているだけだと、どんどん体内時計も狂ってくる。キースの顔を見たのが、ずっと昔のようにも感じられた。

 あれっきり、キースは姿を見せない。


 ──わたし、死ぬのかなあ。


 ぼんやりと、そう思う。

 今までファルは、それについての怖れというものを持ったことがほとんどなかった。たとえ仕事にあぶれて、戸外で眠り、ひもじさを我慢していた時でも、なんとかなるよと気軽に思っていた。

 死んだら、その時はその時だ、と。

 ファルはずっと、「自分」しか持っていなかったからだ。そこにあるのは単にひとつの生命、というだけのものであって、それ以上の意味を持って考えたことはない。誰からも気にされず、誰からも存在を認めてもらえない、それだけのもの。ファル自身も、そこに価値を見出したことはなかった。

 ただ、生きようとする意志があっただけ。

 生に付随する「何か」についてなんて、考えたことがない。それはファルにとって、「考えてもしょうがないもの」であったからだ。考えたって、生きるための何の足しにもならない。生存しようという本能があるだけでは、それは動物と変わりない、ということにも気がつかなかった。

 ……でも、今。


 死というものを身近に感じ、肉体と精神が限界に近づきつつある時、ようやくファルは、それを正面から見据えようという気持ちになっている。


 だって死んだら、もう何も話せないし、動けない。何かを思うことも感じることも出来ない。クライヴやドリスやマットのように、冷たくなった肉体が残されるだけ。

 キースがあんなにも真剣な目で、「必ず助ける」と言ってくれたファルの命が、そんなにもあっさりと、なくなってしまっていいのだろうか。

 これまで、そんなことをファルに言ってくれた人は、ただの一人もいなかった。ファルがいようがいなくなろうが、まったく誰も気にしなかったし、実際それで、何ひとつとして変わるものはなかった。

 それだけの生命だ。ファルだってそう思っていた。

 だけど今、世界にたった一人でも、その生命を助けようとしてくれる人がいる。

 だったらファルは、もっとちゃんと、それについて考えなければいけないのではないか。生きること、死ぬこと。自分が今、ここに存在していることの意味を。

 自分の小さな手を包んだ、大きな手のことを思い出す。

 ──やっぱり、いやだな。死にたくないよ。

 生まれてはじめて、ファルの命を惜しんでくれる人がいるのなら、その人のために生きていたい。



 死にたくない。

 キースにもう一度、会いたいよ。



          ***



 寒さに震えながら、それでもうとうととまどろんでいた時、牢獄内に変化が起きた。

 入口のほうで話し声が聞こえて、それから、カツンカツンと石の床を歩く足音がする。その音が番人の履いている軍靴のような重いものではないことを聞き取って、ファルは毛布をぱっと跳ね除け上体を起こした。

 あまり力の入らない足を強引に動かして立ち上がり、鉄格子へと駆け寄る。

 氷のようにひんやりとした感触しかしない鉄の棒を握りしめ、ファルはじっと目を凝らした。見張りの番人が立つ角の向こう、入口の方向からこちらへと近づいてくる足音。

 壁の端からスーツの一部がちらりと見える。胸が高鳴った。

 ……が。


 そこから姿を現したのは、ファルが待ち続けていた人物ではなかった。


 茶色の髪を持つその人は、キースよりもいくらか細身で、背も少し低かった。キースと似たような恰好をしているけれど、雰囲気はだいぶ違う。キースは立っているだけで人を寄せつけない鋭い空気をまとっているが、この人物にそういうものはない。

 無愛想で無表情なキースとは違って、いっそ朗らかなくらいに、にこにこしている。

 目尻がちょっと垂れ下がっていて、笑っていなくても笑っているように見えそうだ。

「へえ、これが例の?」

 その人は、鉄格子にへばりついているファルを見て、面白そうに鳶色の瞳をくりっとさせた。

「…………」

 ファルは無言で格子から手を離し、二、三歩、後ずさった。

 彼の周囲の色は、無数の色が複雑に入り混じって濁っている。この色──思い出すまでもない。


 アストン屋敷の使用人たちと、同じ色。


「本当に子供だ。しかもずいぶんと薄汚いな……あいつは一体なんでまた、こんなもんに関わったんだ?」

 彼がファルを見る目は、道端に落ちている紙切れに向けるのとそう大差なかった。顎に手をやり、興味がありそうな顔をしてはいるが、その興味はファル個人ではなく、その背後にある何かに向けられているもののようだ。

「食べないの?」

 ちらっと下にあるトレイに視線をやりながら言う。気安い口調は、親しげと言ってもいいくらいのものだったが、ファルの返事を期待している様子もなかった。

 ファルが黙ったままじっとしていると、彼は何かに気づいたように笑った。

「ああ、俺がお目当ての人物ではなかったんで、がっかりしているのかな。それは悪いことをしたね。……でも残念ながら、奴はもう二度とお前の前には現れないよ」

 唇の片端を上げて、鉄格子に手をかける。身を乗り出すようにして顔を近づけ、まるで内緒話でもするように声を低めた。


「俺はイーセンっていうんだ。お前の死刑執行人だよ」


 死刑、と小さくファルが呟くのを見て、また笑う。

「いや、間違えた。死刑じゃない。死刑よりもなお重い、天界追放だ」

「て……天界、追放?」

 目を丸くして思わず問い返したファルに、イーセンは少し意外そうに瞬きをした。そしてすぐに理解したように、「ああ、そうか」と言って、今度は噴き出す。

「お前、天界追放の意味も知らないのか。知ってりゃ、そんな間抜けな顔をしてられるはずがないもんな。ははっ、こりゃ傑作だ。天界から地界へ堕とされるってのがどんなことかも知らない無知な子供が、第一級犯罪者とは」

 ひとしきり肩を揺すって笑ってから、イーセンはさらに顔を寄せた。

「お前、アストン屋敷の使用人を殺しただろう?」

「……そんなこと、していません」

 投げかけられた問いを、ファルは固い顔で否定した。

 自分がこんな牢に入れられることになったのは、もしかしたらその疑惑がかけられているのではないかとは思っていたが、これまではそんな基本的なことすら、誰の口からも説明してもらえていなかった。

 最初から訊いてくれれば、何回でも何十回でも、ファルは違うと言ったのに。

 イーセンはふっと嘲笑を浮かべた。

「実際に、している、していないなんてのは、問題じゃない。お前は『した』んだ。もう、そういうことに(・・・・・・・)なってる(・・・・)んだよ。お前が何を言おうとな」

「…………」

 イーセンの言葉の意味が判らなくて、ファルは混乱した。

 してもいない使用人殺しの罪を、被せられるということか。ファルが何をどう反論しようと、それがすでに事実ということになってしまっていて、もはや覆されることはない、と?

 どうして。

「ライリーの所有物を奪った罪は重い。お前は裁きの場すら与えられず、明日、この天界から追放される。天界から地界へと堕とされた人間は、どうなるか知ってるか? 見るもおぞましい、異形の化け物に姿が変わるんだ。お前は化け物になって、汚濁に満ちた地界という場所で、惨めに浅ましく生き続けることになるんだよ」

 イーセンの笑い声が牢獄内に響く。ファルの足元から、冷えとは別の震えが這い上がってきた。



 天界人が地界に堕ちてしまったら、見るに堪えないような醜くおぞましい異形の化け物になるという──



 じゃああれは、ただのお伽噺ではなかったのか。

 天界の下、どんな場所かも判らない、あるのかどうかも定かではない「地界」へと堕とされる。異形の化け物とは、一体どんな姿であるのか。その化け物になったファルは、今ここにいるファルの人格や思考を保っていられるのか。それとも。


「──助かりたいか?」

 イーセンが声音を落とし、囁くように言った。


 鳶色の瞳が底光りして、蒼白になったファルの顔に据えられる。

「化け物になるのは嫌だろう? こんな場所にだってもういたくないだろう?……助かりたいか?」

 鉄格子を握った手に、ぐっと力が込められた。イーセンの周りを包む色が、どす黒さを増して、ぞわぞわと不気味に蠢いている。


「お前はキースに命令されたんだ、そうだな?」


 うっそりとした微笑を口許に浮かべ、イーセンは目をギラギラさせながら言った。

「キースはライリーを裏切った。ゴスウェルか、マクラムか、どちらかの家からの誘いに乗って、お前という間諜を屋敷に引っ張り込ませた、そうだな?」

「…………」

 最初にあった人当たりの良さそうなにこにこ顔はすっかり消え失せて、そこにあるのは、どこか卑屈にも見える、ひん曲がった厭らしい笑みだった。

 ファルはこういうのを、これまでに何度となく見たことがある。使用人が他の気に喰わない誰かを陥れようとして、悪だくみをする時の顔だ。だからイーセンが何を意図してそんなことを言っているのかも、すぐに判った。

 身分の上下に関わらず、そういうことはどこにでもあるらしい。こんな場合だというのに、ファルはちょっぴり可笑しくなった。


「キースとは、どなたのことですか?」


 そう言うと、イーセンがぴたりと笑うのをやめた。今さらもう柔和な表情を取り戻すことは出来なくなったようで、そこにはただ、醜悪な感情が剥き出しになっている。

「……とぼけるな。キースだよ、キース・アストン」

「アストン、というと、ひょっとして、旦那様のことですか。失礼しました、わたし、旦那様のお名前なんて、存じ上げませんで。なにしろ、お話ししたこともございませんし」

 イーセンには人の色を見る能力はないだろうが、あっても今のファルの嘘を色で見破ることは出来なかっただろう。それくらい、この時のファルは、罪悪感も、良心の咎めもこれっぽっちも感じていなかった。

 きっと、人は、「嘘をつく」という行為自体に罪悪感を抱くのではない。「嘘をつく相手」に対して罪悪感を覚えるのだ。

 だからあの時、キースの色は揺れていた。

 イーセンが、鉄格子に拳を叩きつける。ガン、という大きな音が牢獄内に響き渡り、格子がびりびりと振動した。

「ふざけんなよ。お前、この期に及んであの男を庇おうってのか」

「存じません」

 ファルはイーセンの目を見て、きっぱり言った。

「…………」

 イーセンは刺すような目で、ファルを睨みつけた。しばらく黙り込んでいたかと思うと、唐突にくるりと踵を返して足を動かす。直立不動のまま固まったように動かずにいる番人の前を通り過ぎ、角を曲がっていった。

 帰ったのかな、と思う間もなく、遠ざかった足音はまたこちらへと戻ってきた。再び姿を見せたイーセンの手には、さっきは持っていなかったものが握られている。

 黒くて長い、棒状のもの。

 先端だけが押し潰されたように平らになっており、その部分が真っ赤に焼けている。どれほど熱くなっているのか、そこからは白い煙が筋になって立ち昇っていた。

「これが何だかわかるか?」

 イーセンが凄むように笑って訊ねた。


焼印だよ(・・・・)。罪人ってのは、これを背中に押されて、生涯消えないしるしを残すのさ。なにしろ高温だからな、こんなものを押し当てられたら、苦痛は並大抵じゃない。皮膚が焼けて、その痛みで転がりまわって悶え苦しむことになる」


 ファルの顔から血の気が引いた。

 赤く熱された鉄を背中に押し当てられたらどれほど惨いことになるか、ということを考える想像力くらいは、ファルだって持っている。

「……こ、子供ですよ」

 その時、ずっと見て見ぬふりをしていた番人が、おどおどと口を開いた。彼の目は、イーセンが手にしている焼きごてに吸いつけられて動かない。その行為に対してなのか、それともイーセンに対してなのか、顔には恐怖らしきものが浮かんでいた。

「こんな小さな子供に、そんな……。ただでさえ弱ってるのに、下手をしたら、死んじまう。そんなことになったら」

「黙れ」

 番人の言葉を、イーセンは短い一言で撥ねつけた。彼の視線はそちらを振り返ることもなく、ただファルにのみ向けられている。

「焼印をつけられたくなきゃ言え。キースの命令だったと。俺はそれをユアン様に伝える。そうすりゃ、キースの代わりに、俺がユアン様のいちばん近くに行けるんだ」

 夢見るようなその表情は、ドリスやアルマと酷似していた。どろりと色が濁るのも同じだ。

 ファルは両手を強く握りしめて、イーセンを見返した。

「存じません」

「……いいか、お前がいくらあの男に忠義立てしたって、あいつはお前を見捨てるしかない。キースは結局、骨の髄まで『アストンの犬』だ。どう足掻いても、ユアン様には逆らえないんだよ。そういう風に、生まれついているんだ」

 だったら、キースがライリー家を裏切ることだって出来はしないだろうに。イーセンの理屈は、根本的なところが歪んで曲がっている。


「わたしは人殺しなんてしていません。旦那様にも、なにも命令されてはおりません。わたしはただ、路頭に迷っていたところを拾われただけです」


 ファルが繰り返すと、イーセンは口を噤んだ。その目に、すうっと硬質の光が宿る。

 ゆっくりと手を動かして、黒い棒を持ち上げた。

「──背中を向けろ」

 冷然とした声が命じる。

 ファルは後ろを向いて数歩進み、さっきまで自分を包んでいた毛布を取り上げた。鉄格子の前にまでまた戻り、イーセンに背中を向ける。

 毛布の端を口に入れて、ぐっと噛みしめた。


 ……絶対に、悲鳴なんて上げてやるもんか。





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