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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第一部・天
16/73

光と影



「やあ、キース」

 夜が明けて、まだ早すぎるからと止めようとする使用人たちを押し切り、面会の要請を強行して部屋の中に入ったキースに、ユアンが放った第一声がそれだった。

 眠ったのか眠っていないのか──いつものようにゆったりとした衣服を身につけて窓近くに立つユアンに、睡眠の名残らしきものは欠片も見いだせない。そもそもこの青年に「普通の人間のような」そんな時間が必要なのかと思えるほどに、朝日に照らされているその立ち姿と微笑は、普段となんら変わらず、完璧な優雅さと美しさを備えていた。

「君は来るだろうと思ってたよ」

 少し可笑しそうに、くすりと笑う。

「だったら、おれがどうしてここに来たのかも、お判りでしょう」

「もちろんさ」

 キースの顔と声はひどく固い。それに気づかないはずはないのに、ユアンはまったく気に留める様子がなかった。


「アストン屋敷で起こった悲惨な出来事は、もうライリーだけではなく、他の四家にも知れ渡っているからね。天帝の耳にも入って、そりゃあお怒りだ。これまであくまでも『見えないところ』で流れていた血が、こうもあからさまになったのでは、無理もない。天の一族というものは、どこまでも清廉さをもって天帝に仕えるべき存在だというのに、こんな不調法をしでかしたのは一体どこの家の者かと、ついお声をお上げになられたそうだよ」


 天の一族同士の争いも、それにまつわる諸々の問題も、表向きには「ないもの」とされるのが、天帝および一族間の暗黙の掟だ。それぞれの家が抱える影の部分についても、もちろん当事者たちには常識だが、公式にはそんなものは存在しないという形になっている。

 だから天帝がそれに関する内容について口に出してしまうことなど、本来ならば、あり得ない。なのにそんなことすら頭から飛んでしまうくらいに、立腹したということだ。

 ユアンの言葉は、この件がそれほど重大な意味を持っており、一族の全員が肝を冷やした、ということを意味している。


 ──アストン家の使用人たちが、殺害されるなんて。


 アストンがライリー家の影を担っていることは、天帝および天の一族の関係者たちはほぼ知っている、いわば公然の秘密だ。同じように、他家の影についても、どこの家が受け継いでいるのか、みんなが承知している。

 しかしこれまでの歴史の中で、裏の仕事を引き受けてこなす影の家が、こんな形でおおっぴらに襲撃を受けることなど、一度としてなかった。いくら家同士、影同士で激しい攻防があろうとも、それは決して表に出てはならない、闇の領域の話だからである。天の一族は一点の汚れもなく輝く眩い光でなくてはならぬ、という建前がある以上、争いも影も、「あってはいけないもの」なのだ。

 今回のことは、その前提を覆すことになりかねない横紙破りの暴挙だと、天帝は考えたに違いない。


「あんなにも派手に、四人も死んでしまってはね。表沙汰にはしなくとも、さすがに噂くらいは流れてしまうだろうし、ライリーもアストンも面目丸潰れだ。天帝はそのことにもお怒りでいらっしゃる」


 ユアンの言い方は、どこまでも他人事だった。

 つまりその怒りは、ゴスウェル、マクラム、オレット、ミドレアの四つの家に向くものであって、決してライリーに向けられるものではない、ということだろう。天帝は、今回のことでのライリーは、どこかの家の暴走の煽りを喰らった被害者の立場として見ている、というわけか。

 ……しかしそれは、大きな勘違いというものだ。

 天の一族が争う、なによりの理由は、次代の天帝を自分の家の血筋から出したいがため。その後継者は、実質、天帝の意向によって決められる。必ずしも、戦いの勝者が栄冠を得るとは限らない。

 よって、彼らが最も優先せねばならないのは、まずは天帝の機嫌を損ねないこと、自分たちが立てる後継者候補に出来るだけ好印象を持ってもらうことだ。

 ならば、ライリー家の影を潰したとしても、まったく他家の利にはならない。ましてや、こんな目立つ方法で、使用人だけを消してしまっても、なんの意味も価値もない。


 この件に他の四家の意志が介入しているなんて、あり得ない(・・・・・)


「……どうして、こんなことをなさったんです」

 低い声でキースが言うと、ユアンは無言のまま、目を細めてふわりと微笑んだ。

「クライヴも、ドリスも、マットも、アルマも……みんな」

 死んでしまった。

 いつでもユアンに絶対の忠誠を誓っている人間たちだった。ほとんど信仰に近いほど、本当の主人を尊敬し崇拝し、そのために働けることを自分たちの誇りにしていた。ユアンが口や態度に出すように、彼らのことを考えていたとは思わない。しかしだからといって、こんな無残なやり方で踏みにじる必要が、どこにあった。

 事が起こった時、キースは屋敷から遠く離れた場所にいた。そして帰った時にはもう、すべてが終わっていた。使用人たちはもの言わぬ亡骸に変わり果て、とっくに屋敷を出ていったはずのファルが捕まって。

 白雲宮の兵が到着した時、ファルは倒れたアルマのすぐ傍に座り込んでいたのだという。アルマには、凶器であるナイフが刺さったままになっており、その血塗れのナイフには、ファルのものと思われる小さく細い指の跡がついていた。だから兵はファルを拘束した。アストン屋敷の四人の使用人を殺害した犯人として。

 ……あまりにも馬鹿げている。説明を聞いて、キースはそう思った。しかしその時点では、もうどうにもならなかった。すでに何もかもが、「処理済み」となっていたのである。まるで筋書き通りに進められていく芝居のように、すべてが手廻しよく。

 キースが見たのは、物体のごとく無造作に並べられた遺体だけだ。

 勝手に芝居の登場人物とされてしまった四人。けれど、それぞれが生身の肉体と自分の気持ちも感情も持っていたはず。

 彼らはみんな、驚いた顔をしていた。

 どうして、と問いかけるように。

「気にすることはないよ、キース。アストン屋敷には、ちゃんとライリーのほうから手配をして、また新しく使用人を入れてあげる。不便な思いをすることにはならないからね」

「…………」

 ユアンの口調は優しかった。まるで、キースを労わってでもいるかのようだ。カップが欠けてしまった、だからそれは捨てて新しいものに買い替えよう、と言う時と、ちっとも変わらない言い方だった。

 ユアンは、捨てられるカップのほうには、一片の関心も抱かない。


「──ファルを、どうされるつもりなんです」


「ん、ああ」

 ひび割れた声で出された問いに、ユアンは美しい空色の目を瞬いた。その名前を聞いて、やっと思い出した、というように。

「あの子供──うん、そうだ、あの子供については、ドリスの疑惑が正しかった、ということだね。きっと、マクラムかゴスウェルから廻された間諜だったんだろう。あんなにも小さな子供まで利用するとは、恐ろしいことさ。僕がキースを全面的に信用してあの子供の身許をしっかり調べずにいたために、こんなことになってしまった。ドリスには、気の毒だったね」

 絹のように静かで柔らかい声なのに、それはまるでキースの体を蝕む毒のように、あちこちに苦痛を生じさせる。

 冷えた背筋に、汗がじわりと伝った。

「なにしろ事は天の一族に関わるものでもあるし、表向きには、『何もなかった』ということになる。ライリーとしても、あまり騒ぎ立てて、これ以上天帝のご不興を買いたくはないしね、深く追求することは諦めよう、ということになったよ」

 深く追求したところで、ファルからは何も出てくるはずがない。

 いや、違う。

 ちゃんと調べれば、あの小さな身体、細い手で、四人もの大人を手にかけることなど出来るわけがないと、誰の目にも明らかになる。

「かといって、四人もの生命、ましてやライリー家の所有物を奪った大罪まで、なかったことにするわけにはいかない」

 ユアンはそう続けて、微笑んだ。


「あの子供は、地界へ堕とすことが決まった」


「ユアン様……!」

 叫ぶようにして名を呼んで、キースは大きく足を前へと踏み出した。

 一歩踏み出したところで止まり、ぐっと両の拳を握りしめる。下を向いて歯を食いしばり、片膝をついた。

「……お願いします、ユアン様。おれが勝手な真似をしたのがお気に障ったのなら、謝ります。これからもおれの一生をもってあなたに仕えるのは変わりません。命じられればどんなことでもします。自分で自分の命を断てと仰るのなら、そうします。だからどうか──」

 床についてしまうほど深く下げた頭に降ってきたのは、くすくすという笑い声だった。

「やだな、キース。命じられればどんなことでもするって、そんな」

 そこで、がらりと声の調子が変わった。

 一切の感情が欠如した、非人間的な声音になる。


「……そんなのは、当たり前じゃないか」


 キースの額に玉のような汗がいくつも浮いた。これこそ、ユアンの「本当の」声だ。

 顔を上げれば、そこには自分の主人がそれまでと変わりなく、微笑を湛えているところが目に入るだろう。しかしそこに、優しさなどはどこを探しても存在していない。抜けるような青い瞳は無機質に輝き、それゆえにその表情は見る者の印象までも変えて、口許に刻まれているのが冷笑であるとはっきり気づくことになる。

 今のところ、それに気づいているのはキース一人だけれど。ユアンは昔から、用心深く、その事実を秘匿し続けてきたのだから。


 周りの人間から一身に愛情と崇拝を受けて育ったユアンの内部には、暗くぽっかりと穿たれた穴がある──と。


「何を勘違いしているんだい、キース。僕がただの意地悪でこんなことをしているとでも? もちろん、あの汚らしい子供は目障りさ。だけどそれだけで、こんな回りくどいことをしたわけじゃない」

 ユアンは窓際から離れ、キースのいるところに向かって歩いてきた。下を向いているキースの目には、よく磨かれた彼の靴だけが見える。その靴は、すぐ前で動きを止めたかと思うと、床に置かれたキースの手の甲の上に乗った。

 ぐぐっと力を入れられる。

 ユアンが上体を屈め、キースの耳元に口を寄せて、囁くように言葉を落とした。

「あの子供が気に入ったかい、キース」

「……そんなことじゃありません」

 自分の手を踏みつけられたまま、キースは表情を変えず一本調子に返した。

「あれは天界には珍しく、無垢な魂を持っているね。だから僕を怖がる(・・・・・・・・)。キースはあの子供のそういうところに惹かれたんだ、そうだろう?」

「惹かれるもなにも……子供です」

「今はね。今は子供だ。けど、ちゃんとした環境を整えてやったら、すぐに大人になるよ、身体も心も。一人前の娘になったファルを自分の傍に置いておけたら、なんてことを、一瞬でも夢想したことはなかった?」

「──バカバカしい」

 キースは呟くように言った。本当に、そんなことを考えたことはなかったからだ。

 でも。

 でも──それを耳にした途端、胸の中を束の間の幻が過ぎってしまうのは、抑えられなかった。ユアンが紡ぐ言葉は、見えない手と力を持って、人が作った壁を易々と突き抜け、直接心に侵入し、触れてくる。



 背が伸び、肉もつき、どこからどう見ても健康的な、「若い娘」となったファル。

 蜂蜜色の髪をなびかせ、同じ色の瞳をきらめかせ、陽の下で生き生きと笑うその娘が、自分の傍にいたのなら。



「そういうわけにはいかないんだよ、キース。影の家に生まれついた人間はね、決して『自分のもの』を持ってはいけないのさ。アストンの血筋は残していかないといけないから、いずれキースも妻帯して子をなすことになるけれど、その妻も子もキースのものにはならない。ほんのひとかけらも、愛情を抱いてはならない」

「……承知しています」

「わかってないよ。キースはちっともわかってない。自分の妻になる女性は、ライリーが適当に見つけたどこかの誰か、とでも思っていたんじゃない? そんなわけないよね。『適当に』選んだ女性でも、妻として一緒に暮らすうち、いつしか特別な感情が芽生えることは大いにあり得る。ましてや、自分の血を引いた子なら、なおさら愛しく思うだろう。誰かが誰かを大事に想う──そればかりは、自分でもどうしようもないものだ」

「…………」

 キースは口を引き結んだ。

 これまでは掠りもしなかっただろうその言葉が、妙に現実味を帯びて胸に響いた。


 そればかりは、自分でもどうしようもない。


「だけど、それでは困るんだ。影に生まれついた者の心にあるのは、常に自分の光のみでなくてはならない。そこに他者の入る余地があってはいけない。実際、いつも冷静に事態を見極めて動くことの出来ていた君が、あの子供に関わってから、あらゆる点で後手に廻っている。自分でも、その自覚くらいはあるだろう? ことごとく君の判断を誤らせた、その理由はなんだい?」

「──……」

 もう少し、あと少し、とファルを手放すのを引き伸ばし続けていたのはキース自身。

 ……自分の判断を狂わせたその理由は、なんだった?

「今後もそんなことが起きたら困る。だから、君の伴侶についても、慎重に決めなければいけないんだよ」

 キースは訝しげに眉を寄せて、顔を上げた。

 もちろん、いずれ自分が妻を持つ──いや、持たされるだろうことは覚悟していた。しかしその相手もまた使用人たちと同じように、ライリー家に忠誠を誓った人間であるのだろうと、その程度にしか考えていなかった。

「君の妻になる人は」

 ユアンはキースと目を合わせ、唇の両端を上げた。


「君が、この世で最も憎む相手だ」


 キースは一瞬、その意味が掴めなかった。

「……おれが、憎むって」

 現在のキースに、そんな人間はいない。今までずっと他のものに興味を持たないようにしていたキースは、自分以外の人間に対する好悪の感情が極度に希薄だ。親にも、女にも、使用人にも、ユアンに仕える誰にも、「憎む」という強い気持ちを抱いたことがなかった。

「今はいないんだろう? 今はね」

 ユアンの目がやんわりと細められる。


「ファルの刑の執行は、イーセンにやらせる」

「……っ」


 その言葉に、びくりと身じろぎをした。靴の下にあるキースの手も動いたが、ユアンはそれさえも面白そうにくすくす笑った。

「あの子供を地界へと堕として、化け物の姿に変えてしまうのは、イーセンであるということさ。君はそれを、許せるかい? 許せないよね。たとえ僕の命令でそうしたと判っていても、だからといって割り切れるものでもない。……話を持ちかけた時、イーセンはそりゃあ、張り切っていたよ。こんな大役に選ばれて、光栄だとも言っていた。あの男は大体において、冷酷な性質だしね。罪人を、魑魅魍魎が棲むという地界へ放り出すなんてこと、何の躊躇もなく、嬉々としてやり遂げるだろう」

「──……」

 キースの顔から血の気が抜けた。

 確かにその通りだ。

 イーセンはきっと、満面の笑みで、ファルに手を下すに違いない。相手が子供にしか見えない弱く華奢な身体つきの少女でも、これっぽっちも哀れをもよおすことなく。

 地界への追放は、死よりもなお酷い、天界における第一級犯罪者への刑罰だ。それを知っていて。

 ファルが実際は、なんの罪も犯していないことすら、承知の上で。

「イーセンには妹がいるんだ。キースの妻になるには、ちょうどいい年頃だよ」

 そうだ、そしてそうなれば、キースは間違いなく、イーセンを憎む。キースが唯一自分の手の中に入れた存在であるファルをもぎ取り、もう二度と手の届かない場所に捨てた男だ。そこにユアンの意志があると判っていても、いいや判っているからこそ、なお一層、その憎悪は自分でも手に負えないくらい深く激しくなるだろう。


 ──その妹を妻にして、子供を作れと。


 ようやく、長年の謎が解けた。

 屋敷の中では互いに口もきかず、目も合わせなかった両親。彼らが自分に向ける眼差しに、どうにも隠しきれない憎しみが混じっているように思えたのは、決して気のせいなどではなかった。

 確かに、憎まれていたのだ、自分は。憎悪の対象である伴侶、その伴侶との間に出来た子に、どうしたら愛情なんて抱けるだろう。父親と母親がキースのほうを見なかったのは、せめてその目に宿る炎を気づかせないようにしていたからだったのか。


 それもこれもすべて、自分のあるじの影であり続けるために。


「…………」

 床に目線を据えつけてじっと動かないでいるキースの手の上から、ようやくユアンは自分の靴を退けた。また窓のほうに戻りながら、笑い声を立てる。

「刑の執行は三日後だよ。言っておくけど、変なことは考えないようにね、キース。牢の番人たちには、もう何があっても君を入れるなと警告しておくから、行っても無駄だ。あの子供はどこからも救いの手を差し伸べられず、絶望の中で天界での人生を終わらせることになる」

「…………」

 握りしめた拳が小刻みに震えた。見開かれた目はまっすぐ床に向いているのに、その白さも輝きも、何ひとつとして認識できなかった。



 今もあの冷たい牢の中で、おれを待っているのか、ファル。

 ──必ず助けてやると、言ったのに。



「まったく、あの子供はいいタイミングで現れたものさ。キースはこれで、正真正銘の『影』になれる──人を憎み、感情を失くし、どこまでも冷淡で非情な影に。僕が天帝になるその日まで、君にはもっと働いてもらわなければいけないからね」

 ユアンの楽しげな声を聞きながら、キースは強く目を閉じ、床に頭を押しつけた。





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