陰謀
厨房を抜けて、長い廊下に出る。
廊下の壁に設置されたランプには、すべて火が入っていなかった。いつもなら、暗くなりかける前に、ドリスが順番に灯しているはずだ。つまり、この屋敷で「何か」が起こったにしろ、それはまだ明るいうちであったことを示している。
どこもかしこも暗闇に支配されたその場所を、ファルはキースの書斎めがけて一直線に走った。ファルにとって、キースのいる場所というと、まず真っ先に思い浮かぶのはその部屋しかない。
廊下の窓からは、月の光が平和そうにしらじらとした輝きを放ち、床に桟の形の影を作り出している。そこだけが明るいガラスの部分に、黒々とした染みがあるのを見つけて、ファルはぴたりと足を止めた。
普段、あれだけドリスが神経質になって、徹底的に磨き上げようとしている屋敷だ。そして実際に掃除をしている身にとっても、こんなところに染みなどはなかったと断言できる。
ファルは膝を折り、その染みをじっと見つめた。
最初、黒い、と見えたその色は、よくよく見れば、赤であることに気づいた。どす黒いような赤。それが丸い形で落ちて、もうすでに固まり、艶々とした床にへばりついている。
ぞわりとした悪寒が走った。
──血だ。
染みは、開け放たれた近くのドアの中に向かって点々と続いている。激しい緊張で顔が強張り、手足も満足に動かせないくらいだった。あの部屋の中には、何が。
ファルはそろそろと足を動かし、そっと覗くようにして、ドアの陰から中を窺った。
誰かが倒れている。
一瞬、鼓動が跳ねるように大きく鳴った。窓から入る頼りない月明かりに照らされたその人物が、スカートを履いていることが判っても、苦しさはまったく軽減されなかった。全身を襲う震えは止まらず、頭のてっぺんから噴き出す汗が、びっしょりと顔を濡らす。
……ドリス。
マットと同じく、うつ伏せになって倒れたドリスの身体は、ぴくりとも動かなかった。敷かれた絨毯には、そこから流れ出した液体がじんわりと広がっている。
今にも崩れてしまいそうな膝に無理やり力を入れて、ファルは廊下の先へと顔を戻した。何がどうなっているのか──とにかく、とんでもない異変が起きていることは判っても、混迷に包まれた頭では、筋道立った考えをするのがまったく不可能だった。
キースは?
今のファルを突き動かしているのは、おそらくそれだけだっただろう。その名前が胸の中になければ、今すぐ外に飛び出して、誰かを呼ぶなり大声を出すなり、もう少し建設的なことも出来たかもしれない。
マットとドリスの悲惨な姿の上に、キースのそれが重なる。途端に、心臓が強い力で締め上げられて、息をするのも難しいくらいだった。
いやだ。いやだよ、キース。
ファルはよろめくように、建物の中を進んだ。
キースの書斎に行き着く前に、クライヴの遺体も見つけた。
彼も同じだ。何者かに刺され、大量に出血している。驚いたように見開かれた目は、マットと同様、どうしてこんなことになっているのか判らない、と訴えているようだった。
その時、ガタン、という小さな音がして、ファルは飛び上がった。
音は廊下の曲がり角の向こうから聞こえた。キースの書斎はその先だ。ファルはまろぶようにして走り出し、そちらへ向かった。まだ賊がいるのかも、などという思考は、この時のファルの頭にはまったく浮かばなかった。
角を曲がったところに倒れていたのは、アルマだった。
彼女の場合は、今までの三人とは明らかに違うものがあった。背中に、凶器であるナイフが突き刺さったままになっている。そして、なにより──
アルマには、まだ息がある。
何かを考えるよりも前に、ファルの足は床を蹴っていた。走り寄り、アルマの身体のすぐ脇に両膝をついて屈み込む。
「アルマさん、アルマさん、しっかりして」
彼女の背中からは依然としてぽたぽたと血が流れ出しているけれど、ファルにはそれを止めてやるすべが判らなかった。咄嗟に刺さったままのナイフの柄に手をかけ、慌てて思い止まり、また引っ込める。この状態でナイフを抜いたら、一気に血が溢れだして、すぐに失血死してしまう。
アルマは暗い中でも見て取れるほどに、白い顔色をしていた。虚ろになりかけた目がファルのほうを向く。
「アルマさん!」
「…………」
そこに映っているものが何であるかも理解できていないようだった瞳は、ファルが何度も名を呼ぶと、次第に光を取り戻しはじめた。
「あ……あんた……なんで、こんなとこに……いるの」
アルマの掠れた声には、物置の中でファルに向けたような勝ち誇った響きもなければ、うっとりと上擦った調子もなかった。いつも何かに対して文句を零したり、怒ったりする時のような棘もない。
アルマは、ただひたすら不思議そうに、問いを繰り返していた。
「あたし、なんで、こんなことに……? ぜんぶ、言われたとおりに、したはず、なのに。どうして、こんな目に、遭わなきゃなんないの……? もう少し、もう少しで、あたし、ユアン様に、認めていただけた、はず、だったのに……」
──頑張って頑張って、いつか、よくやった、って褒めていただくんだ。あたし、そのためなら、なんだってやる。
頬を上気させてそう言っていたアルマの顔を、ファルは思い出した。
アルマは涙を浮かべ、なんで、なんで、と何回も繰り返してから、ふつりと黙った。ファルの腕の中で、その身体がびくんびくんと痙攣したようにのけ反って揺れはじめる。
彼女の色がどんどん薄くなりつつあるのが、ファルには見えた。
「アルマさん!」
ぼんやりとした目が、もう一度ファルのほうを向く。
わずかに、眉を寄せた。
「……イヤね、あんた、また、そんなに汚れて……はやく、手を洗っ……」
それを最後に、アルマの全身から力が抜けた。
ドタドタという荒々しい複数の足音が屋敷内に響き渡ったのは、その直後のことだ。
***
──そこは氷室のように冷え切った、石の牢獄だった。
地下にあるので窓はなく、一筋の光も射し込まない。
頑丈な鉄製の格子の向こう側では、壁に粗末な燭台がある。明かりといえばそれくらい。今はそんなに寒い時期ではないというのに、ここには身体の芯から凍えるような冷気と陰気さばかりが満ちている。
ファルは、狭い牢部屋の隅で、まるで怯えた小動物のように膝を抱え、丸くなっていた。
……と。
牢獄の入口のほうから、誰かの怒鳴り声が聞こえてきて、ファルは顔を上げた。
急いで鉄格子にまで近づいて、ひんやりとする鉄扉を両手で握る。そこまで行っても、入口付近はファルからは見えなかった。
牢獄内の造りは複雑に入り組んでいて、あちこちに石の壁が立ちはだかり、視界を遮っている。ファルに見えるのは、向かい側にある壁と、その横手にある別の牢部屋の鉄格子くらいだ。ここは牢獄の入口から最も離れた、いちばん奥にあるようだった。
ファルの牢の前に立つ番人も、その騒ぎに気づいたらしい。上体を傾けて首を伸ばし、角の向こうの入口方面を窺う素振りをする。彼が、手に持っている槍のような形状の武器をぐっと握りしめるのが、ファルにも見えた。
その途端、番人の頭が、いきなり伸びてきた手に掴まれ、壁に叩きつけられた。
「ぐあっ!」
番人が叫んで、武器を取り落とす。ガランと高い音を反響させて床に転がったそれに、今度は誰かの足が乗った。素早く反対側の壁に蹴り飛ばし、ついでとばかりにその足がくるりと廻り、番人の腹に強烈な蹴りを叩き込んだ。
ぎゃっ、と呻いて倒れ込む番人のほうには目もくれず、ファルのいる鉄格子の許へと足早にやって来たのは──
キースだ。
ファルの心が震えた。今の自分が置かれている場所も状況も、どうしてこんなところにいるのかも、あらゆることを吹っ飛ばして、胸に込み上げてきたのは大きな安堵の念だった。
生きてたんだ。
無事だったんだ、キース。
よかった。本当に、よかった。
「ファル」
キースが膝を折って、ファルと視線を合わせる。
彼の顔は、今までに見たこともないほど苦しげに歪んでいた。
「キ……だ、旦那様」
ファルのか細い声に、さらにその顔が歪んだ。
小さな声で、「キースでいい」とぽつりと返す。
「……アルマさんは? アルマさんは、助かった?」
鉄格子を握る手に力を込め、急くように問いかけると、キースは口を噤んだ。
「キース、アルマさんは」
アルマはあれからどうなったのか。ファルが見つけた時にはまだ息のあったアルマ。彼女の「それから」を確認することが出来なかったファルは、何よりもまずそれを知りたかった。
「──ああ、大丈夫。助かったよ。アルマは生きてる」
「…………」
キースはファルを見返して、そう言った。大丈夫、生きてる、と。
きっぱりとしたその声に波はなかった。キースの碧の目はまっすぐこちらを向いていて、揺れもしない。表情だってそうだ。
だけど──
キースの「色」は、揺れている。
「……そう」
鉄格子を掴んだファルの手から、するりと力が抜けた。キースは嘘をついている。そしてそのことに、罪悪感を抱いている。それが色に出ている。
じゃあ、アルマはもう……
下を向いたファルの顔に、鉄格子の間から伸ばされたキースの手が触れた。両手で頬を包み、上を向かせて、長い指が撫でるように往復する。キースの目は、ファルの頭から足の先までを検分するように動いていた。
「痛いところはないか。乱暴な真似をされなかったか、ファル」
「うん。平気だよ」
ファルはそう答えたが、キースの一層厳しくなった目つきは、それをまったく信じていないようだった。
ファルの手首足首にはまだ縛られた痕がくっきりと赤黒く残っており、それ以外にも、この牢屋内に入れられるまでの手荒な扱いで、顔と身体のあちこちに擦り傷や切り傷がついている。
キースはぐっと顔を寄せて、低い声を出した。
「……一体、どうしてこんなことになった」
「それが」
ファルは首を捻るしかない。
「わたしにも、さっぱりわからないんだよ」
キースに別れを告げてからの一部始終を、ファルは話して聞かせた。
話している間、倒れているのとは別の番人がやって来て、仲間の有様を見てぎょっとし、何かを喚いていたけれど、キースはまったく気にせず、そちらを振り返りもしなかった。今にもキースの背中に向かって武器を突きつけるのではないかと、ファルのほうが落ち着かなくて、話のほうもどもりがちになってしまったが、黙って耳を傾けている。
しかし不思議なことに、番人は、赤く茹ったような恐ろしい形相でキースを睨みつけたまま、固まっているだけだった。
「──それで、アルマを見つけたところで、屋敷の中に入ってきた男たちに捕まったんだな?」
キースに確認されて、ファルは頷いた。
「うん。三人いたよ。みんな同じ格好をしてた。わたし、あんな制服見たことがないんだけど」
上下ともに白くて、立襟がかっちりと閉まっていて、胸のところに何かのマークのようなものが付いていた、と説明すると、キースの表情に暗い影が差した。
「……そいつらは、白雲宮の兵だ」
それを聞いて、ファルは目を瞬く。
白雲宮、という自分にはほとんど縁のなかった単語にも今ひとつピンとこないのに、その上「兵」とは。ずっと屋敷の裏のほうで下働きをしていたファルが、見たことがないと思ったのは当然だった。
「そいつらにここまで連行されてきたのか」
「うん」
突然現れた制服姿の男たち三人は、アルマの傍らで膝をついていたファルを見つけると、有無を言わせず拘束した上、目隠しをし、荷物のように担いで、アストン屋敷から連れ出した。
アルマにはまだ息がある、手当てをしてあげてと何度も頼んだのに、誰一人として答えてもくれなければ、口をきいてもくれなかった。
そのままどこかに運ばれているようだとは思っても、なにしろ目隠しをされていては、どんな道を通り、どこに向かっているのかも知りようがない。しばらくして、ぼそぼそと話す声がし、ギイ、という金属の出す音がしたと思ったら、ファルの身体はなんの前触れもなく硬い床の上に投げ出された。
ようやく自由になった両手で、慌てて目隠しを取ると、そこはもうこの牢屋の中だった、という次第だ。何がなんだか、誰よりも判っていないのは、ファル自身である。
もちろん、そのまま黙っているわけにはいかない。ファルは懸命に説明を求めた。鉄格子に阻まれた向こう側には、もう制服姿の男たちはおらず、番人が立っているだけだったので、そちらに向かって何度も繰り返し聞いた。
これはどういうことなのか。アルマは助かったのか。
アストン屋敷に賊が入ったらしいこと、使用人がすでに三人倒れていることも話したし、ファルが見つけた時にはもう息がなかったことも話した。
いちばん知りたかったこと……「旦那様は、ご無事なのですか」とも訊ねた。
──なのに、それに対する回答は、番人からも得られなかった。
彼は、ファルの言葉を完全に聞き流し、鉄格子をガンと足で乱暴に蹴りつけて、吐き捨てるようにこう言っただけだった。
「黙れ、白々しい。この人殺しが」
「…………」
キースはファルの話を聞くと、視線を下向けて黙り込んだ。
あまりにも長い沈黙に、具合でも悪いのかとファルが心配になったところで、彼はようやく顔を上げた。
「ファル」
重苦しい声で名を呼ぶキースの顔色は悪い。
「すまない」
一言、絞り出すように出されたのは、謝罪の言葉だった。
「すまない。全部、おれのせいだ。おまえをこんなことに巻き込んで」
「キース?」
ファルは首を傾げたが、キースにはその声も耳に届いていないようだった。こちらに向けられる碧の目には、苦悶のような色が乗っている。理由はまったく判らなくても、それを見たファルの胸に、じわりとしたもどかしさが湧いた。
……なんか、いやだな。
キースのそんな目、そんな顔は、見たくない。
「おまえ、食事は?」
「え? えーと、食べてないよ」
そういえば、と思い出して返事をした。ここに入れられてから、おそらく半日以上は経ったはずだが、食べ物どころか飲み物も口にしていない。それどころではなくて、自分でも忘れていた。
「殴られたりはしていないな?」
「うん。この格子の隙間から、槍の柄の先で突かれそうにはなったけど、逃げた」
キースの目が険悪な光を帯びた。後ろにいる番人がびくっと身じろぎしている。
「ファル、もう少しだけ、我慢していてくれ。今は無理だが、すぐにここから出してやる」
キースはそう言うと、もう一度正面からファルの目を見返して、決然とした声を出した。
「必ず、助けてやるから」
そう言って、大きな手が、鉄格子を掴んでいる小さな手を力強く包む。
「……うん」
ファルはこっくりと頷いた。
立ち上がったキースは、すぐにくるりと踵を返した。倒れている番人のほうは見向きもせず、その隣で棒立ちになっている番人の胸倉をやにわに掴んで、引き寄せる。
番人は青くなった。
「な、な……い、いくらあんたでも、あんまり勝手な真似は、許されな」
「ああそうさ。だから今は引き上げる。……だがな」
鋭い目線が番人の目を捉える。無表情のキースから発散されている凄まじいまでの威圧感に、番人はただ口を閉じて震えるしかないようだった。
「あの娘に、これ以上ひとつでも傷を増やしてみろ、二度と仕事の出来ない身体にしてやる。それからちゃんと食事を与えてやれ、てめえの下の穴から飯を食う羽目になりたくなければな。アストンの名の意味を、身をもって知りたくはないだろう」
低い声で脅しつけると、キースは突き飛ばすようにして番人から手を離し、大股に歩き去った。壁に隠れて、あっという間に姿が見えなくなる。
番人は、腰が抜けたように、へなへなとその場に座り込んでしまった。
少しして、飲み物と食べ物が、ファルのいる牢屋内に入れられた。
キースにやられて気を失った番人は、意識を取り戻してから、ただの一度もファルのほうを見ない。ひどく強張っている横顔は、不自然なまでに違う方向を向いたままだ。他の番人もファルを避けているのか、一度も姿を見せなかった。
ファルは冷たい床に座り込んで、与えられた飲み物をごくごくと喉に流し込んだ。
ようやく摂れた水分が、身体の隅々まで行き渡り、沁み込んでいくような感じがした。
ここは暗くて狭くて、ひえびえとして寒いけど。
……どうしてかな、お腹の中があったかい。
助けてやる、と言ってくれた時のキースの顔が、頭の中から離れない。
ファルにとって、いつでも他人というものは、その周囲を覆う色と同時に認識するものであったのに──それくらいの存在でしか、なかったのに。
あの時だけは、色のことなんて、すっかり忘れていた。