囚われの身
闇の中から、ゆっくりと意識が浮上した。
重い瞼をなんとか押し上げて目を開けてみたけれど、そこはやっぱり真っ暗なままだった。なんだろこれ、とファルは靄のかかったような頭でぼんやりと思う。まだ夜なのかな? わたし、一度眠りに就いたら、朝まではぐっすり寝ちゃうほうなんだけど──
頬に触れる冷たい空気と固い感触が、徐々に思考を覚醒へと導いていった。とりあえずここは、ベッドの上ではない。なんだか埃っぽいような気がするし、黴くさい臭いもする。そしておまけに、おまけに……
身体がちっとも動かない。
手も足も、まったくファルの意のままに動かせなかった。暗いから見ることは出来ないが、どうやら背中に廻っている両手首と、両足首が紐で縛られているらしい。しかもさっきからやけに息苦しいような感じがすると思ったら、自分の口はぎっちりと布で猿轡をかませられている。
そこまで認識すると同時に、ここがどこかも判った。
物置の中だ。
いきなりアルマに後ろから押さえつけられた記憶が甦る。ということはあれからアルマは、気を失ったファルの四肢を縛り、声も出せないようにして、そのまま物置の中に転がしていったのか。
ええー、なにこれ。
ようやくそこまで事態を理解して、ファルはひたすら困惑した。なんだってアルマはこんなことをするんだろう?
キースから聞かされたこの屋敷の入り組んだ事情とやらが絡んでいるとしても、こんな風にファルの自由を失くして物置の中に放り込むことに、どんな意味があるというのか。
困ったなあ、とは思うが、取り立てて怖がる気持ちは湧いてこなかった。もともと、ファルは理不尽に乱暴な仕打ちを受けることは慣れている。そしてこの物置のような、ひんやりとしていて暗くて狭い場所にも慣れている。こういう場所で寝起きしていたこともあるし、さらに言うなら閉じ込められるのだってはじめてではない。
とはいえ、この状態をあっさり許容できるかといえば、それは断じて否だ。変な態勢でい続けて、すでに身体のあちこちが軋むように痛い。ずっとこうして放置されたまま、飢えて干からびて死ぬのはイヤである。
……これじゃ、キースとの約束も守れない。
すぐに出ていく、と返事をしたあの時から、一体どれだけの時間が経過しているのか。
キースだって、もうとっくに屋敷から出ていったはずのファルが、今もまだ屋敷内の物置の中にいるとは思ってもいないだろう。
身を捩るようにしてもがいてみたが、手と足にぐるぐると巻かれた紐は、びくとも動く気配がなかった。口を塞いでいる布もだ。アルマはよほど渾身の力で縛りつけていったらしい。指の先が冷たく感じるのは、血の巡りが悪くなっているからだろう。下手をすると、動かなくなってしまう。
とりあえず両手の指を握ったり開いたりしながら、他に自分の身体の動かせるところを確認してみた。
……ないよ、そんなところ。首くらいか? あとは膝。
両手両足が使えないと、ごろんと転がるのも一苦労だ。これでどうにか物置の戸のところまで近づいて、どんどんと音を立てて蹴飛ばしてみようか。
非常に苦労して、横になった身体を回転させる。しかしどうしてこの屋敷は、物置までがこうも無駄にだだっ広いのか、とちょっと腹が立ってきた。ファルは物置の奥のほうで転がされていたため、なかなか戸まで到達できない。おまけに進路途中で引っかけた箒やら鍬やらの柄が倒れ、頭に当たったりして痛い。
まったくこのお屋敷ったら、とムカムカしながら考えたのは、多分に八つ当たりが混じっていたのだろうが、ひょっとすると、今まで溜め込んでいた分もあったのかもしれない。
ファルは実は、キースの話を聞いていた時から、ちょっと怒っていたのだ。
──この屋敷はライリー家のもの、とキースは言っていたけど。
そんなの変だ。おかしいよ。
たとえ建物の正式な所有権が誰にあろうと、ここはキースが寝起きして、生活している場所なのだから、もっとキースを寛がせて、落ち着かせてあげてもいいじゃないか。
このアストン屋敷は、ただ広いだけで、空っぽだ。
いつもいつも冷たい目で見ているクライヴにドリス、キースが残すと判っているものを黙って何度も食卓に出し続けるマット、他のほうばかり向いているアルマ。そんな人たちに囲まれて、まるで氷のお城みたいだ。
キースは本当は、よくお喋りをするし、笑ったりもするし、説明すれば苦いものだってちゃんと食べる。
触れてくる手は、血行が悪くてひやりとしていたけれど、でも、いつだって温もりを感じた。
そんなことも知らないで──知ろうともしないで、一体キースの「何」を見ようとしているんだ。
上っ面だけのキースを管理していれば満足なのか。このアストン屋敷という檻に、キースの身体だけ入れて閉じ込めておけば、それでいいのか。彼らの目には、キースの本質的なところは何ひとつ映っていないというのに。
だったら、それは決して、キースがライリーのものだという証にはならない。
ファルの知るキースは、ライリーのもの、などではない。
やっとの思いで、戸の近くまで辿り着いた。
何度も転がったせいか、それともまだ薬が抜けきっていないのか、頭がくらくらする。荒くなった呼吸は塞がれた口からは出てくれず、その分余計に体力を消耗した。
物置には錠がついているから、ちょっとやそっとでは壊れないだろう。しかしこうなったら手段など考える余地はない。ファルは縛られた両足の先を戸のほうに向け、思いきり叩きつけた。
なにしろ両手は後ろなので、勢いをつけて、というわけにはいかない。それでも、仰向けになった態勢で、膝を曲げて伸ばして、ということをすれば、ドン! という音が鳴るくらいの振動は与えられた。
ドン! ドン! ドン! と続けざまに戸を蹴りつける。薄っすらと汗が滲みだした頃、カチャカチャという錠の音がして、光が射し込んだ。
「……あら、もう起きたの、あんた」
光を背負ったアルマの顔は、黒い影がかぶってよく見えない。
それでも、落とされた言葉は、ひどくひえびえとした声音だった。よくぶつぶつと文句を零すことの多いアルマが、感情が抜け落ちたようなこんな喋り方をするのを聞くのははじめてだ。
「もう少し寝ていればよかったのに。……イヤね、あんたもうそんなにも真っ黒に汚れて。迎えが来るまで、まだあとしばらくあるのよ」
迎え?
なんだそれは、と問いかけるようにファルが目を向けると、アルマは唇を上げて微笑の形にした。
「言っておくけど、何をしたって逃げられやしないよ。『旦那様』も出かけて行ったし、あんたがここにいることは、あたし以外の誰も知らない」
キースはいない。その事実が、思った以上に重く胸に落ちた。
ファルがまだこの屋敷内にいることを、キースは知りようがない、ということだ。今日の夜は外で寝ると言ったのはファル自身。姿が見えなければ、キースは当然そう解釈するに違いない。じゃあ、気がつくのはいつだろう。明日の朝? 指定しておいた場所にファルが行かないことで、その時にキースも疑問を抱くだろうか。
……それとも、「そのままどこかに行方をくらましたか」と、気にも留めないだろうか。
「なんでこんなことになってるのか、意味がわからない、って顔だね。けど、あたしにだってよくわからないのよ。あたしは言われたことをしているだけで、理由なんて知ってもしょうがないことだもん。ただ、命じられたことを実行しさえすればいいんだ。そうすれば、きっと褒めていただける……」
アルマの声にうっとりとした響きが乗った。確かファルを拘束した時も、そんなことを言っていたっけ。
褒められるって、誰に?
キースではないことは明白だ。彼の話では、このアルマもライリー家のほうから派遣されて来た、ということだった。つまりアルマにとっての主人はキースではなく……ユアン。
あの青年がアルマに命じてこんなことをやらせている、ということか。なんのために?
見上げる視界の中にいるアルマからは、ねっとりとした「色」が彼女の全身にまといつくように放出されている。ファルはそれを見て、眉を下げた。
──こんなにも、黒くなってしまって。
「アルマ、アルマ、どこ?!」
その時、ドリスの声が聞こえてきた。
アルマがはっとして、開いた物置の戸からするりと身を滑り込ませてくる。中に入って戸を閉めると、彼女はファルのお腹の上に膝を乗せ、猿轡の上からさらに掌をぐっと押し当てた。
「アルマ!」
「はい、ここです! ドリスさん!」
アルマはファルの上に圧し掛かりながら、大きな声を上げた。
「どこ……物置の中? アルマ、あんたどうしてこんなところに」
怒っているのか、ドリスの荒い足音がこちらに近づいてくる。アルマはさらにファルのお腹に乗る力を強めて、「あ、開けないでくださいね!」と慌てたように言った。
「どうも物置の中に大きなネズミがいるみたいなんです! 開けると外に飛び出していっちゃいます!」
「ネズミ……」
閉じられた戸の向こう側で、明らかにドリスは怯んだらしい。もしかしたら今にも戸を開けようと手を伸ばしていたところだったかもしれないが、この調子ではすぐに引っ込めただろうと思わせる、嫌悪感を孕んだ声だった。
「真っ黒で、汚くて、図々しいネズミなんです。もう、うろちょろして、目障りだったらありゃしない」
アルマはそう言って口許を吊り上げながら、ファルを見下ろした。
「おお、いやだ、ネズミだなんて、けがらわしい。このお屋敷の中にそんなおぞましいものが入り込んだら一大事だわ。アルマ、なんとしてでも捕まえて、外に放り出しなさい!」
「ええ、そうします」
ドリスの言葉に、ますます楽しそうにくすくす笑う。
「それはそうと、アルマ、ファルを知らない? さっきからずっと見ないのよ」
ファルはなんとか音を立てようとじたばたしたが、無理だった。お腹の上に乗られては、手足を動かすことも力を入れることも難しい。しかも口に押し当てられている掌が鼻も塞ぎかけていて、呼吸することもままならなかった。
「ファルですか。あたしもさっきから探しているんですけど、見つからないんです。もしかして、お屋敷の中をウロウロしてるのかも」
「んまあ! あんな子供にそこら中を掻き回されちゃ、たまらないわ。いえ、きっとやっぱり、あの子は他の家から廻されてきたのよ! ユアン様の害になるようなものは、さっさと排除してしまわなくては……! 今度こそ、ごそごそ探っているところをとっ捕まえてやる!」
ドリスの憤然とした足音は、来た時と同じように、荒く乱暴に遠ざかっていった。それと同時に、やっと手が離れ、肺に酸素が入ってくる。
「これでもう、ここには近寄って来やしないわ。今はまだ、あんたを見つけられるわけにはいかないの。なんたって、命令を頂いたのは、クライヴやドリスではなく、このあたしなんだもの! いずれ、お遣いの人があんたを引き取りに来るはずよ。そうしたらあたし、あいつらの前で、堂々とあんたを引き渡してやるんだ。ああ、あいつらの驚く顔が、今から楽しみ。あたしだけがあの方からの信頼を得ていると知ったら、どう思うかしら?」
笑いながら立ち上がったアルマは、膝で押さえていたファルの腹部に、今度は上から踏んづけるように、靴を履いたままの足を思いきり振り下ろした。
押し潰されるような衝撃で、目の前に火花が散る。手足が痙攣したように震えた。ぐうっと呻いて、身体を折り曲げ、縮こまる。あまりの苦痛に、脂汗が滲んだ。
「もう少し、大人しくしてなさい」
そう言って、アルマはまた物置から出ていった。
閉じられた戸のあちら側から、再び錠をかける音が聞こえる。
内部に闇が満たされていき、ファルの意識もまた、もう一度闇の中に埋没していった。
***
──ずきずきとお腹が痛む。
「つ……」
唸り声を出しながら、顔をしかめてファルは起き上がった。無意識のように自分の腹部を手で撫ぜ、ぼうっと霞がかった視界の中で考える。
なんでこんなにお腹が痛いんだっけ……
今度もまた、意識が鮮明になるのは唐突だった。物置の中に閉じ込められたこと、アルマが来て、ドリスの声がしたことなどが、一度にぱっと脳裏に閃くようにして思い出される。
「……えっ」
そこで、驚いて声を上げた。
自分は今、物置の中にいる。それは変わりない。けれど、しっかり後ろで縛られていたはずの手は今、自分のお腹の上だ。両足だって、自由に動かせる。普通に声が出せるということは、猿轡も解かれているということではないか。
ファルは自分の頭から足の先までを、ぱんぱんと掌で叩きながら確認してみたが、どこにも戒めらしきものがなかった。完全にフリーだ。
「どうして……」
茫然としながら顔を巡らせ周囲を見回して、気づく。
物置の中にいるのはファル一人だけ。そこは相変らず暗いが、真っ暗闇ではなかった。外から、白っぽい光が射し入っているのだ。
物置の戸が少し開いて、細い隙間から光が洩れているのだと悟るのに、時間はかからなかった。
よろよろと立ち上がり、戸に手をかける。力を入れて引いてみれば、難なく開いた。
外はもう真っ暗だったが、月の光が裏庭の殺風景な景色を浮かび上がらせている。
足元をふらつかせて物置から外へと出た。ようやく吸い込んだ新鮮な空気に、生き返るような気分になる。
──しかし。
一体どうして自分が自由の身になれたのか、さっぱり判らない。
アルマはどこに行ったのだろう? 迎えが来る、とか言っていたあの話はどうなった? 屋敷に戻ってきたキースがファルを見つけてくれたのだったら、あのまま放ったらかしにはしないだろう。アルマ以外の使用人が見つけたのなら、なおさら、なんとしても起こして事情を話させようとするだろう。
どういう成り行きでここにこうしているのか判らないから、ファルにはこれから自分のとるべき行動についての判断がつけられなかった。
このまま裏門から出ていくのは可能なんだろうけど……
そして、その場所がやけに静まり返っていることもまた、ファルの迷いを大きくしている理由のひとつだった。どうしてこんなにも真っ暗で、しんとしているのだろう。まるで、無人の空き家のようだ。いつもなら、これくらいの時間にはもう外のランプが灯され、厨房からは料理の匂いが漂い、煙突からは煙が立ち昇っているはずなのに。
「…………」
しばらく考えてから、ファルは決心した。
まだ覚束ない足取りで、そろそろと進んで厨房の入口へと向かう。やっぱり物音はしない。誰もいないのか。
木製の扉に耳を当てても、なんの気配もしなかった。取っ手を握り、そうっと引いてみる。
それが開いた途端、むうっとした臭気が鼻をついた。
濃厚な、血の臭いだった。
***
厨房の床に、手足を広げてうつぶせに倒れているのは料理人のマットだった。
背中から、おびただしい量の真っ赤な血が流れていた。床の上に出来た血溜まりは、まるで土砂降りの後の水たまりのようだ。横を向いたマットはかっと両目を見開き、驚いたような表情をしている。
料理の途中だったのか、彼の手には包丁が握られたままだった。
入口のところで立ち竦んでいたファルは、やっと我に返った。止まっていた心臓がまた動き始めたと思ったら、途端に胸から飛び出してきかねない勢いで大暴れしだす。
血の気の抜けきった顔で、がくがくと全身を震えさせながら、ファルはゆっくりとマットに近づいていった。
──だめだ。
改めて確認してみるまでもない。一目で絶命していると判った。
どっと汗が噴き出てくる。ファルの精神は、目の前のこんな現実までもすんなり受け入れてしまうほどには強靭ではなかった。心臓を締め上げてくる何かに、正常な思考が出来ない。震えの止まらない頭を小刻みに揺らし、足は厨房の出入り口へと向かいかけた。
もうここにはいたくない、これ以上見たくはない、と必死にここからの逃避を図ろうとした心とは別に、恐ろしい考えが頭の中にもたげた。
足許から冷気が這い上り、鳥肌が立つ。
キースは?
何が起こったかまるで判らないけれど、この凶行を成し遂げた何者かは、マットだけを手にかけて、ここから逃亡したのだろうか。だったらどうしてこんなにも、屋敷全体が静まり返っているのだろう。まるで──まるで、他に誰もいないように。
キースはいない、とアルマは言っていた。でもそれは、ファルが二度目に意識を失う前の話だ。もしもそれから帰って来ていたら。いいや、むしろ、これを誰がやったにしろ、この屋敷に入り込んだ賊の目的が、キースだったとしたら。
天の一族は昔から血生臭い争いを繰り返していたと、キースだって言っていたではないか。
そのうちの一つであるライリー家の、「影」が狙われたとしたら。
「……っ!」
出入り口に向かいかけていたファルの足が止まった。
ぐっと床を踏みしめて、くるりと踵を返し、走り出す。
屋敷の中へと。
「キース!」
ファルは大きな声で名を呼んだけれど、応える声はどこからも聞こえてこなかった。