表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第一部・天
13/73

天の一族



「……天帝」

 ファルはキースが出したその言葉を、鸚鵡返しにして呟いた。

 白雲宮におわすという、天帝。

 天界を統べるその存在のことは、もちろんファルだって知っている。しかしそれはあくまで頭で知っているというだけの話で、実感として知っていると思ったことは一度もない。なにしろ、姿を見たこともなければ声も聞いたことのない、まさに「雲の上にいる」お方だ。

 ファルにとって、天帝というものは、お伽噺の中に出てくる登場人物とさして変わりない扱いで、頭の中に置かれているだけのものでしかなかった。

 それが、天帝の息子、だって。そうか、では天帝というのは、本当にちゃんといて、生身の肉体を持ち、ファルのように食べたり喋ったり歩いたりし、おまけに人と同じ生殖機能を有しているわけか。いきなり空想上の生物が立体化して目の前に現れたような、奇妙な気分になる。

 あのユアンという青年は、その天帝の血を受け継ぐ人物であるという。それを思うと、ファルの背筋に、またあのぞわりとした不可解な痺れが走った。


 ──あんな真っ黒な色を身にまとった人が。


「…………」

 唇をまっすぐに引き結び、ぐっと両手を拳にして握りしめる。

 あの青年のことを思うと、どうしても全身が竦んでしまうのだ。自分でもよくわからない、それゆえに制御できない怖れがひたひたと足許から忍び寄ってくるようで、息苦しくなる。

 それでもファルは頑なに口を噤んでいた。

 ……彼の「色」がどう見えるのか、キースには言えない。言うつもりもなかった。

 もしかしたら、天帝というのは、やはり人ならざる者なのかもしれない。だからこそ、この天界でずっと下層の位置にい続けたファルには、どうしても理解できないのかもしれない。その理解不能さが、あの闇の色となって見えるのかも。

 つまりこの恐怖心の正体は、「畏怖」というものなのだろうか。

 そう思い、なんとか自分を納得させようとしたけれど、やっぱり身体の内側から湧いてくる恐怖心は、抑えがたかった。きっと、ファルが感じるのは本能的な怯えだ。理屈ではどうしようもないのだろう。


「……天の一族、というものを知っているか?」


 キースに問いかけられて、床に向けていた目を上げた。

 彼はさっきからずっと変わりなく真面目な表情をしている。それでも周囲にあるのは普段通りの澄んだ青色だったので、ファルはほっとした。

 キースの色は、いつもファルの心を和ませる。

「ごめん。知らない」

 学校にも行かず、幼い頃から労働だけでなんとか人生を繋いできたファルは、一般の人々が知っていて当然というような常識でも、知らないことが多い。ファル自身も、自分がもの知らずだという自覚はあるので、「ごめん」と言ったのだが、キースは他の人たちのように笑ったり軽蔑の目を向けてくるようなことはしなかった。

 ファルの肩から手を離し、目を合わせてゆっくりと説明してくれる。


「天の一族っていうのは、天界における、天帝に次ぐ特権階級だ。おれも真偽はよく知らないが、この天界を作ったのは、天の始祖と五人の仲間、と言われていてな。始祖の血筋が天帝に、五人の仲間たちの血筋がそれぞれ、ゴスウェル、マクラム、オレット、ミドレア、ライリーの家となったらしい」


「…………」

 一気にたくさんの名前が出てきて、ファルはちょっと眉を下げた。

 学校に行っていればそれらの名前は歴史の中で必ず学ばされるのだが、ファルにとってはどれもはじめて耳にする名前ばかりである。いや、ひょっとしたら耳にしたことくらいはあるかもしれないが、日々の生活に追われて不必要な情報はすぐに頭の中から放り出す癖のついているファルの記憶には残っていない。

 ごめんキース。そんなにいっぺんに言われても、絶対に覚えられない自信があるよ……

「うん」

 固有名詞はともかく、話の流れだけは理解したので、こっくりと頷く。キースは少し疑わしそうにファルを見たが、話を続けた。

「この五家は、天帝に仕える立場でありながら、同時に共存関係にもある。天帝を支え、補助し、協力して、天界を存続させていこう、ってことだ。天帝の側近は必ずこの五家の中から選ばれるし、重要なポストにも配置されて目を光らせる役目を負う。──つまりこの天界は、実質、天帝と天の一族によって掌握されているんだ。だから五家は、互いに強固な信頼関係によって結ばれている……と、される」

「と、される?」

「……ま、そこは人間同士だからな。最初のうちはそうだったとしても、今の五家は違う。自分たちの権力や立場をかけて、反目し合ったり、牽制したり、足を引っ張ったりで、水面下で争い続けて……」

 キースは少し目を逸らして、言葉尻を曖昧に濁した。その部分について、あまり深く説明したくはないらしい。

「そしてそういう仕事上や役目上のことばかりでなく、五家は他にも重要なことで天帝と密接な関係にある」

「他にも重要なこと?」

 ファルが訊ねると、キースは頷いた。


「それぞれの一族から、娘を天帝の妻として差し出すんだ」


 ファルはぱちぱちと目を瞬いた。

「それぞれ、っていうと」

「ひとつの家から一人ずつ。だから天帝は最大で、五人の妻を持つことになる。──早逝したり、年頃の娘がどうしてもいない、ってこともあるから、常時いるのは大体三人か四人であることが多いが」

「……わあ、大変だね」

 使用人たちの間で交わされる下世話な話などをしょっちゅう耳に挟んだりするファルは、子供にしか見えない外見とは違って、その手の知識はちゃんとある。思わず、感嘆するような声が出てしまった。

 そりゃ一度に複数の妻を相手にすることはないんだろうけど、でも代わる代わるっていうのも結構大変そうだ。いやいや、男の人ならそういうのは嬉しいのかな? だけど奥さんになった人がどうしても好みじゃなかった場合はさ……

「いいから聞け」

 ついつい自分の思考まで下世話な方向に向けかけたファルの頭を掌でがしっと掴んで、キースは自分のほうへと引き戻した。

「現在天帝の妻は四人だ。オレット家はもともと子供の数が少ない上に、天帝に見合う年齢の娘がいなかったことで断念した。その四人の妻と天帝との間に生まれた子供が十一人で、そのうちすでに三人が死んでいる」

「じゃあ、今は八人なんだね」

「そうだ。しかし八人のうち三人が女で、天帝の後継者は男のみと定められているから実質残っているのは五人。次代の天帝となるのは、その五人の中の一人だ。普通なら家を継ぐのは長子になるところだが、五家はすべて同列の立場であるとされるから、妻もすべて同列、生まれた順なんてものも関係ない」

 ファルは首を傾げた。

「じゃあ、どうやって後継者を決めるの?」

 その問いに、キースが苦いものを飲み込んだ時のような顔になる。

「……まさにそれが問題だ。表向きには天帝と五家の協議によってとされているが、実際のところはほとんど天帝の一存で決まるんだよ。はじめから長子相続にしときゃよかったのに、まったくそんなバカバカしいこと、一体誰が考えたんだろうな?」

 そう言って、ほんのちょっとだけ肩を竦めた。

「──わかるだろ。つまり、自分のところの娘を差し出した五家は、どこも自分の血筋を引いた人間を天帝に据えたがる。いくら天帝になったと同時に家のしがらみから離れ、五つの家を平等に扱うという定めがあろうと、天帝が自分の一族の縁者かどうかじゃ、雲泥の差があるからな」

「うん」

 正直、ファルには、そういうものなのかなあ、という漠然とした思いしかないのだが、多くの人はお金や権力が好き、という事実は知っている。

「だから後継者の座を巡っては、いつの時代も激しい争乱の種になるわけさ。天界の輝かしい歴史、なんて書物には書かれているが、その裏側では常に、陰惨な血生臭さがまとわりついていた」

「…………」

 使用人同士の諍いや口喧嘩からは遠すぎて、ファルにはあまり想像できない世界だ。

「目には見えないところで、ゴスウェル、マクラム、オレット、ミドレア、ライリーの家はずっと、そういうドロドロの抗争を続けてきたんだ。だから五家はそれぞれに、自分のところだけの『影』を持っている」

「影?」

「自分たちの一族に限りなく忠誠をもって仕える家のことだよ。護衛や家来とも違うし、そもそも表には出ない。天の一族は光の存在、それらの家はその光の背後にある暗い領域すべてを担う。だから、影と呼ばれるんだ」

 あるいは、とキースは無表情で付け加えた。

「何があっても決して主君を裏切らず、命じられればなんでもやるところから、『犬』とも呼ばれる」

「犬……」

 ファルは小さく呟いた。

 あちこちを汚してちょこまかと動き回る自分ですら、そんな風に呼ばれたことはないのに。


「──アストンは昔から、ライリー家の影だ」

 キースは淡々とした口調で、そう言った。


「影となる家の人間は基本的に、『自分のもの』を持つことは許されない。その家に生まれた以上、自分の全部を主君に捧げよとされるからだ。……だから、この屋敷も、使用人も、ここにあるのは全部、おれのものなんかじゃない。ライリー家のものだ」

「え」

 ファルは戸惑った。意味がよく判らない。

「このお屋敷ぜんぶ?」

「ああ」

「建物も、家具も?」

「そうだ」

「……人、も?」

「そうだ。クライヴもドリスもマットもアルマも、全員ライリー家から派遣されてる。旦那様、なんて呼んではいるが、連中にとっての主家はあくまでもそちらだ。あいつらは全員、ライリー家の指示で、もともとライリーのものであるこの建物を守り、ライリーのものであるおれが決して他のことに気を取られないよう見張っている」

「…………」

 ファルはなんだかお腹の下のほうがもぞもぞした。

 ──自分さえも、「ライリーのもの」だって。


 それを当たり前のように口に出すんだね、キース。


「……じゃ、あのユアンっていう人は」

「天帝の妻のうちの一人、ライリー家から出された女性との間に生まれた唯一の子供がユアン。後継者候補五人の中の一人で、生まれた順でいうなら四番目になる」

「だったらあの人は、白雲宮に住んでるの?」

「いや、天帝の子はすべて、生まれてすぐにそれぞれの一族の屋敷に引き取られて過ごすんだ。そうやって手許で大事に囲っておかなけりゃ、いつ危険に遭うかわからない」

「そう」

 短く返事をして、また視線を下に向ける。

 あの青年は青年で、大変な立場に置かれているというのは理解した。しかしだからといって、ファルの中の得体の知れない怖さは取り除かれることはなかった。

「そんなわけだ。……ファル」

 キースのぴしりとした声で、また顔を上げる。彼の表情は最初から変わらないようでいて、どこか焦燥が滲んでいるように見えた。


「この屋敷は奇怪で歪だと言った意味が判っただろう。おまえを、こんな厄介な場所に連れて来て悪かった。こちらの入り組んだ事情に巻き込ませてしまったのはおれのミスだ。──本当なら、何も知らないまま外に出すつもりだったのに」


「わたし、誰にも言わないよ」

 天帝の後継者候補の一人、などという大それた人物に会ってしまったことを、キースは心配しているのかな、とファルは思い、そう言った。

 そのような事情のもとでは、あのユアンという青年の安全をキースが真っ先に気にするのは当然のことだ。特に、キースの立場なら。

 だからファルにきちんと説明をして、決してあの青年のことを軽々しく口外することのないよう釘を刺しておこうとしているのだろう、と。

「なにも言わないよ、約束する」

 念を押すファルを見て、キースはなぜか、わずかに目を伏せた。

「おまえの口が堅いのは知ってる。信用もしてる。おれが言ってるのはそんなことじゃなく……」

「?」

 ファルは黙って続きを待ったが、キースの口からはなかなかその先の言葉が出てこない。まるで何かが、キースの喉からそれを出そうとするのを押し留めているようだった。

 そして結局、キースはそれを呑み込んでしまうことを選んだ。

「ファル、とにかく今は、一刻も早くここから出ていくんだ。おれとも、この屋敷とも、もう二度と関わらないように」

「…………」

 彼の視線を受け止めて、ファルは口を噤んだ。

 少しの間を置いて、「うん、わかったよ」と返事をする。にこりと笑って見せたら、キースの口許がぐっと下に曲がった。

 ふいっと顔を逸らし、唐突に立ち上がる。足を動かして机まで行くと、そこで何かをさらさらと書きつけてから戻ってきて、ファルの手の中に一枚の紙を押し込んだ。

「明日の朝になったら、この屋敷に行け。簡単な地図も書いてあるが、判らなかったら人に聞くといい。それまでには話をつけておく」

 ファルはそれにちらっと目を走らせて、うん、と頷いた。

「わかった。今すぐ部屋に戻って、荷物を取って、裏門から出ていくよ。他の人たちには、見つからないほうがいいんだよね?」

「──ああ」

「じゃあ」

 ソファから降りて床にまっすぐ立ち、頭を下げる。

「今まで、たくさんの美味しいものをありがとう、キース」

「……ファル」

 こちらに向かって伸ばされかけた長い指は、どこにも触れないまま、また引っ込められた。

 もう耳たぶを引っ張られることも、頬っぺたを摘んだりされることもないのか、と思うと、さらにお腹の下のあたりがもぞもぞした。


 なんだろう、これ。

 はじめての、変な感じ。

 ……お腹の中の何かが、ぎゅうっと内側の肉を引っ張って、絞ってるみたいな。どこかが捩れるような、重いもので塞がれるような、食べ物の代わりに空気が詰め込まれたような。

 ──痛い、ような。


 ファルにはそれが何か判らなかった。その感情の名前を、ファルはまだ、知らないままだった。

 判らないことは、考えない。この世は考えたってしょうがないことばかりで、少なくとも、これまでずっと過酷な環境下で育ってきたファルにとってはそうだった。

 そうしなければ、生きてこられなかったのだ。

 だからこの時も、ファルはそれについて深く追求することなく、さっさと自分で蓋をした。

「さよなら」

 そう言って、いつものように窓を開けて、外に飛び降りた。入ったのは部屋のドアからだというのに、そうするのがすっかり身についてしまっている。

 これまでこういう時には必ず「気をつけて戻れよ」と声をかけてくれていたキースは、もう何も言わなかった。



          ***



 ──しかし、ファルがそのままあっさりとアストン屋敷から出ていくことは叶わなかった。

 キースの書斎の窓から出て、建物をぐるりと廻り、裏庭まで戻ったところで、アルマに見つかってしまったのだ。

「あんた、今までどこに行ってたのよ! 裏庭の掃除をしてたはずでしょ!」

 そうそう、そうだった。クライヴ、ドリス、マット、アルマが、やれお茶だのケーキだのテーブルクロスを変えるだのと、一斉にユアンの接待にかかりっきりになっている間、ファルはひたすら箒で枯れ葉を集めるという作業に没頭していたのだ。

 そこに突然つかつかとやって来たキースに腕を取られ、何かを言うヒマもなく引っ張られるようにしてあの部屋に連れて行かれた。従って、掃除などは完全に途中で放棄されたままである。

「申し訳ありません。ちょっとお手洗いに」

 頭を下げて謝りながら、さりげなくキースに渡された紙を服のポケットの中に滑らせる。そうしたら、空っぽのはずのその中に、ガサッと何かの感触がした。わたし何を入れたっけ、と目線を落としてみたら、そこには畳まれた数枚の紙幣が入っている。

 どうやらキースが入れたらしい。いつの間に。

 必要ないって、言ったのになあ。

「まったく、油断も隙もありゃしない」

 アルマはファルが少し微妙な表情をしたことには気づいていないようで、忌々しそうに腕を組んで文句を言った。

 ユアンが来た、と知った時の彼女ときたら、高揚し、興奮し、目をギラギラと輝かせ、話し方も夢でも見るように上擦っていたのだが、今はその喜びなど、見る影もなく消え果ててしまっている。

 代わりに、彼女の周囲を覆う色が、どんよりと黒っぽくなっていた。近寄ったら弾かれそうなほどにその色が尖っているのは、言われた通りのことをしていなかったファルに対して怒っているからなのだろうか。

 とりあえず、ファルが今までどこにいたのか、ということについてはそれ以上問い詰める気はないらしい。よかった、と安心した。

「箒も放り出しっぱなしじゃないの」

「すみません、これから続きを──」

「もう、いいわよ。まだまだこれから仕事がたんまりとあるんだから。とにかくその箒を片付けなさいよ」

 アルマの色がどんどん黒ずんでいる。ここは下手に刺激しないほうがいいなと察して、ファルは素直に地面に転がっていた箒を手に取り、物置へ向かって歩き出した。

 そうしたらどういうわけか、後ろからアルマも一緒についてくる。

 これ以上サボったりしないよう見張っておこう、ということなのかな。うーん困ったな。この調子でアルマがくっつき回っていたら、すぐにお屋敷から出ていくのは難しそうだ。

 敷地の端にひっそりとある物置の戸を開けながら、ファルはぐるぐると考えを巡らせた。

 キースはああ言ったけど、こうなったらしょうがないよね。少し時間を置いて、アルマや他の使用人たちの目が離れたら、荷物を持ってこっそり出よう。いくらなんでも、このままずっとべったり張りついているということはないだろうし。


 ──もう少し、ここに。


 キースの言葉に逆らうつもりもなかったし、勤め先が変わるということに対して不満があるわけでもない。今日一晩を外で眠るなりして乗り越えれば、明日にはまた仕事と寝床が得られるというのなら、それはかなり有難いことだとも思っている。

 それでも、もう少しだけこの場所にいられると思うのは、自分でも不思議なほど、ファルに明るい気分をもたらした。

 ああ言われたからには、もうキースと顔を合わせることはないのだろうけれど。

 ここはまだ、近い。

 そう考えたら、知らないうちに口許に笑みが浮かんだ。物置の中に入って箒をしまい、足取りも軽くその場所から出ようとした……途端。


 いきなり後ろから伸びてきた腕に、拘束された。


「?!」

 驚いたが、声を出す間もなかった。息を吸い込むと同時に、口に湿った布を押しつけられたからだ。

 つんとした刺激臭が鼻をつく。逃れようにも、廻った腕は遠慮会釈ない強い力でファルの身体から自由を奪っている。もともと子供のような小柄な体躯、肉もついていない細い腕では、抵抗することも簡単ではなかった。

 すぐに頭がくらくらと痺れてきた。雑多な道具に溢れた物置内の景色が、ぼうっと霞む。視界が定まらなくなり、手足から力が抜けた。

「……逃げようとしたって、そうはいかないよ」

 低い声は、いつものアルマのものとはまったく違って聞こえた。どうしてファルが屋敷から出て行こうとしていたことを知っているのだろう、と訝ったけれど、散漫になりはじめた思考では、その回答を見つけるのは途方もなく難しく感じられた。

 荒い呼気音が、唸り風のように耳朶を打っている。


「やった、やったわ、これであたしのこと、ちゃんと認めてくださる。あの綺麗な青い目が、今度こそあたしのほうを向いてくれる。お声だってかけてもらえる。よくやったって褒めていただくんだ。あたしに……このあたしに! クライヴやドリスにだって邪魔させるもんか……!」


 ファルの口に布を押し当てている力は弱まりもせず、それどころかますます強くなった。ぶつぶつと思い詰めたように呟く声が、遠くなったり近くなったり、ぐわんぐわんと反響して聞こえた。

 ただでさえ薄暗い物置の中が、真っ暗になっていく。

 ──ダメだ。ごめんね、キース。

 ファルは意識を手離した。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ