発覚
いよいよ明日、ファルがアストン屋敷を出ていく。
今後のためにキースがいろいろと手を廻したり準備をしたりしたのが知られては元も子もないので、もちろん、使用人たちにはその件について何も伝えていない。明日になったら、ファルは何か些細な失敗をキースの前でしでかして、それを不愉快に思ったキースが、「出ていけ」と命じる手筈になっている。
屋敷を追い出されたファルは、「たまたま」その場に居合わせた善意の人物に拾われて、新しい勤め先を紹介してもらう──という流れになる。クライヴもドリスもマットもアルマも、ファルがこの屋敷を出ていきさえすれば、その後のことを心配したり、気にかけたりするようなことは一切しない。突然入ってきた子供が、粗相をしてまた唐突にいなくなれば、肩透かしを食らうような気分にはなるだろうが、本当にただの気まぐれだったのかと、それなりに納得するはず。
まったく、自分が考えたこととはいえ、何もかもが三文芝居めいていて、うんざりする。茶番もいいところだ。しかし、ファルがもうこのアストン屋敷とは無関係になるということを示すには、それくらいの手順を踏まなければ仕方ない。
キースはもう二度と、ファルと顔を合わせることはないだろう。
ほんの少しの期間の……思えばおかしなひと月足らずだったが。
それでも、悪くない時間だった。
ファルのことだから、おれと会わなくなったって、特になんとも思わないんだろうな──と、キースは思った。
自分でも認めているが、あれは本当に、目の前のことしか考えない生き物だ。過去を回顧したり、しみじみと思いを馳せる、なんてこととは無縁に生きる女である。
アストン屋敷を出て、別の屋敷に行っても、同じようにくるくると働いて、何を言われても平然と受け止めて、逆境を逆境とも思わずしたたかに人生を送っていくのだろう。ひたすら忙しく仕事をこなしていくうちに、どこか変だった前の勤め先のことなんてあっという間に頭から放り出して。
キースのこともきっと、けろりと忘れる。
「…………」
考えているうちに、ちょっとだけ、ムカムカしてきた。そうだ、あいつはそういうやつだ。大体、今のキースのことも、「色」以外のところで認識しているのかどうか怪しいくらいなのだから。
ギルノイ屋敷にキースが会いに行った時だって、すっかり忘れていたようだったし。あの時、キースがどれほど迷って、ようやく意を決してその場所に足を向けたのか、まったく判っていない顔をしていた。どうせ今もぜんぜん判っていない。
おれが一体どんな気持ちで……
と思いかけた内心の呟きを、最後まで辿り着くまでに、キースは自分でぐしゃりと握り潰した。どんな気持ちもこんな気持ちも、キースにだって今ひとつ判らないのだから、その先を続けようがない。いや、続けようと思えば続けられるのかもしれないが、それは意味のないことだとよく知っている。
どちらにしろ、もう終わりだ。考える必要なんてない。
──手の中に一旦保護していた小鳥を、再び空に放してやるだけのこと。
またもとの生活に戻る、それだけの話だ。キースは明日の夜から、再び窓の外の月明かりを眺めながら、酒からの熱を得て、一人静かに過ごす時間を取り戻すことになる。ずっと長い間そうしてやって来たのだから、なんの問題もない。
明るい青空の下を舞うように飛ぶ鳥と、闇の中にひっそりと生息する獣とは、どうしたって同じ場所で暮らし続けることなんて出来るはずがない、ということもまた、キースはよく知っていた。
***
そういう面白くない気分を持て余していたものだから、その日の昼間、ばったりとイーセンに会った時のキースは、いつもよりもさらに輪をかけて無愛想で冷淡だった。
「なんで今日はそんなに機嫌が悪いんだ、お前」
普段なら、どうやったらキースをへこませられるのか、その機会を窺ってばかりのイーセンでさえ、戸惑っている。それくらい顔と態度に出ているらしい。
「いつもおれに、心がないだのなんだのと絡んでくるのはお前だろうが、イーセン。心のないおれに、機嫌がいいも悪いもあるか」
「わかったよ、なんだか知らないが怒ってるんだな?」
底冷えがするような声を出すキースを見て、イーセンもさすがに今のこの男に手出しをすると厄介なことになりそうだと判断したのか、お手上げというように軽く両手を挙げた。
「別に俺だって、毎度毎度喧嘩を売りたいわけじゃないさ。……それよりお前、こんなところにいていいのか」
「なにが」
現在のキースはいつものごとく、他家の動向を探るために行動中だ。こんな陽の高いうちから目立つような動きが出来るわけもないが、白雲宮の近くをうろついているというのなら、目的はそれしかない。仕事内容は違っても同じくユアンに仕えているイーセンにそれが判らないはずがないのに、どうしてそんな質問をしてくるのかと訝った。
「自分の屋敷にいなくていいのかよ」
「……は?」
キースは眉根を寄せた。さっきから、この男は何を言っているのだろう。
「だって」
イーセンはイーセンで、キースの当惑がまるで理解できないようだった。
「ユアン様、今、お前の屋敷に行ってるんだろう?」
その言葉を聞いて、全身が硬直した。
「──なに?」
息を押し殺すようにして問い返す。イーセンはそんな様子さえも不思議そうに首を傾げた。
「ユアン様の馬車が、お前の屋敷に向かっていくのを見たぜ。だから俺はてっきり……おい!」
イーセンが驚いたように叫ぶのには構わず、キースは地を蹴って駆けだした。
表情が強張っているのが自分でも判る。ユアンは今日、母方の縁者の家を挨拶がてら訪問する、と言っていたはずだ。そちらはアストン屋敷とはまったく逆方向。キースに伝えなければならない用件があった、というようなことで、わざわざユアンが自ら足を運ぶことはない。
第一、ユアンは今日この時間、キースが屋敷にいないことを、知ってる。
キースが不在の時に、ユアンが屋敷を訪れることなどない。今まで一回もなかった。だって、そんな必要はまったくないからだ。ユアンにとって、あの建物はただ単に、キースを閉じ込めておくための容れ物、それだけの意味しかない。
──じゃあ、どうして。
思いつく理由はひとつしかなくて、キースは心臓を何かに掴まれたような気持ちになりながら、一直線に屋敷を目指して疾走した。
その場所に、確かにユアンはいた。
「ユアン様!」
彼の姿を見つけた瞬間、キースは思わず大声を出していた。
アストン屋敷の裏庭で、こちらに細い背中を見せてすらりと立っているのは、間違いなくユアンだ。彼は、キースの声に驚くこともなく、ゆったりと首を曲げ、優雅な動作でこちらを振り返った。
ユアンの前で、膝を折って小さく跪いている少女の姿を目で捉え、血液が逆流するような感覚に襲われる。ここまで全力で走り続けて、息は荒く、身体は火照っているはずなのに、手足の先から氷のような冷たさに包まれていった。
キースが顔色を変えたのを見て、ユアンがゆるりと唇を綻ばして、微笑んだ。
青い瞳が優しく細められる。
背中にぞくりと悪寒が走った。
「やあ、キース」
「ユアン様、なぜ、ここに」
乱れた呼吸の合間に、いつもと同じような声を出すのは、相当な難事業だった。落ち着け、と必死に自分を叱咤する。
表情も、口調も、決して波を立てないように。
「……ユアン様まで、クライヴやドリスのように、おれを嗅ぎまわるようなことをなさるとは、思いもしませんでしたね」
無理やり、声と顔に皮肉な色合いを乗せて口の端を上げると、ユアンはくすくすと笑った。
「ひどいなあ。僕がそんなことをするはずがないじゃないか。僕はいつだって、キースには全幅の信頼を寄せてるよ」
「でしたら、どうしておれがいない時を見計らってこの屋敷にいらしたんです?」
「それは気の廻し過ぎというものさ。今日訪れる予定になっていた先方から、急用が入ったと断りの連絡が来てね。ぽっかり空いた時間をぼんやり過ごすのも味気ないと思って、アストン屋敷の様子を見に来たんだ。以前から、クライヴたちには、ぜひ、と誘われていたしね」
クライヴが、機会があるたびユアンのところに馳せ参じて、あれこれとキースについての報告をすることはあるだろう。しかしクライヴのほうから、ユアンに向かって、ぜひ来てください、なんて申し出をすることがあるわけがない。あの家令は、そういう意味では、非常に分というものを弁えている。
「アストン屋敷は、使用人の手が足りないにも関わらず、よく整えられているよね。そりゃあ、自慢したいと思うだろうさ」
ユアンの言葉をキースがまったく信じていないことを、ユアン自身がよく判っているだろうに、これっぽっちも嘘や欺瞞が含まれていないような純粋さで、ユアンは感心したように言った。
「──ねえ? そこの小さいメイドさん。君も頑張っているようだね」
ユアンの目かそちらに向けられて、キースは息を呑んだ。
さっきから身動きもしないでその場に跪いていたファルは、声をかけられて、びくりと一瞬肩を揺らした。
顔を伏せているので、その顔は見えない。
……でも、地面についた両手がずっと震えているのは、キースにも見て取れた。
「お、おそれ、いります……」
キースに対して話す時とは別人のような、か細い声が洩れる。
「……とにかく、中に」
キースがそう言うと、ユアンはとりたてて気にした様子もなく、「うん」と頷いて、身体の向きを変え足を動かした。
キースもそれに従って歩き出した。一刻も早く、ユアンをここから──もうその視界にファルが入らない場所へと離したくて、気が急いている。落ち着け、と内心でもう一度繰り返した。
「ユアン様、護衛は」
「外に待たせてある」
キースが屋敷に到着した時、正面前には馬車も護衛もいなかった。だとすると、ユアンが言う「外」とは、屋敷の裏門の前、という意味か。
まるで最初から、裏庭に向かうのが目的だったように。
「不用心ですね」
「アストン屋敷の中に、どんな危険があるっていうんだい? まさかキースだって、あの小さな子がどこかの間諜だと本気で疑っているわけじゃないんだろう?」
「その可能性を完全に排除したわけじゃありませんよ。いや、たとえただの子供であっても、ユアン様の姿を見た以上、もうここには置いておけません。これ以降、どこからどんな手が伸びてくるとも限らない。今は間諜でなくても、これから間諜になることもある」
「そんな物騒なことを言うものじゃないよ、キース」
キースの台詞を、ユアンはやんわりと否定した。
口調は疑心暗鬼になる部下を窘める冷静な上司そのものだが、キースが口実を作ろうとしていることに、おそらく気づいている。
キースの額にじんわりと汗が伝った。二人の間にだけ通じる張り詰めた空気が、痛いほど肌に突き刺さる。
「面白い子じゃないか」
ユアンがまた、くすくすと笑う。
「僕を見て、怯えている」
キースは思わず後ろを振り返った。
ファルは未だにぺったりと身を低くして頭を地面にくっつけていた。ずいぶんと血の気が良くなってきたファルの頬が、少し離れた位置から見ても、はっきりと青くなっている。
「──可愛いね」
その呟きに、キースの身の裡が、ぎゅっと締めつけられるように緊張した。
……もう、一刻の猶予もない。
***
ユアンは、ファルを除いた使用人一同に気持ちが悪いくらいの歓待を受けてから、自分の屋敷へと帰っていった。
テーブルの上に大盤振る舞いされた菓子や飲み物には、いつものごとく一口も手をつけられていない。それが判っているのに、なおユアンの好みやら味やらにこだわり大騒ぎしてあれもこれもと並べる連中の気が知れないが、とにかく、ユアンが屋敷を去った後は、抜け殻のような虚脱状態で、のろのろと後片付けがはじまった。
その隙をついて、キースはまだ裏庭の掃除をしていたファルのところに向かうと、その腕を掴み、自分の書斎へと連れて行った。
他の誰かに見られたって、もう今さらだ。ユアンがここに来てファルと接触した以上、すぐにでも外に出さないと。
「ファル」
ソファに座らせ、キースはその前で片膝をついた。引っ張られるようにしてこの部屋まで来たファルの顔は、困惑に占められている。
「え……と、はい、旦那様」
毎日のように足を踏み入れている場所とはいえ、今は昼間だから使用人の立場でいなければいけないと考えたのか、少し混乱したようにそう呼んだ。キースの胸の一部が収縮したように痛んで、「キースでいい」とぶっきらぼうに返す。
「いいか、ファル」
薄い肩を両手で掴んで、顔を覗き込んだ。
「おまえは今からすぐに、この屋敷を出ていくんだ」
ファルは目を瞬いた。
「今、すぐ?」
「そうだ」
「明日ではなくて?」
「状況が変わった。あちらには後でおれのほうから連絡しておくが、どのみち今日一日はどこか別の場所にいたほうがいい。金を渡すから、今夜はどこかに宿をとるなり、誰かの家に泊まらせてもらうなりしてくれ」
「……う、うん」
キースの目つきと声音が鋭いためか、ファルは少し口ごもるようにして返事をした。
「キースがそう言うのなら、そうするよ。けど、お金はいらない。宿をとるっていっても、わたし、この見かけだから、あっちから断られちゃうし。泊まらせてもらえるような当てもないし」
「だったら余計に金が必要だろう」
「外で寝るのにお金なんて要らないでしょ? 今夜の夕食代くらいは持ってるから大丈夫」
「…………」
そんな微々たる金しかなくて、この先どうするんだ──と少し腹が立ったが、キースにはもう、そんなことを心配する権利もないことを思い出して、口には出せなかった。
「……ファル」
肩に手を置いたまま、目の前に座る子供のような少女をじっと見つめる。蜂蜜色の瞳がまっすぐ向かってきたが、それはキースを見ているのか、キースの「色」を見ているのか、よく判らなかった。
「──おまえ、ユアンが怖いのか?」
小さな肩がぴくりと動いた。何に対しても怖じ気づくことはなく、あっけらかんと人や物事に対峙する能天気なファルの目が、彼女らしくもなく、伏せられる。
「よく……わからない」
しばらくの間を置いて、出てきた言葉は、どこか弱々しかった。
そしてそれきり、黙ってしまう。ユアンを見て、こんな風に怯える人間なんて、キースは未だかつて会ったことがない。あの美しさには、誰もが見惚れ、心を捕らわれるのが普通だ。
もしかしたら、普通の人には見えないものを見ることの出来るファルには、普通の人には決して判らないユアンの内側に潜む「何か」にも、気づくことが出来るのかもしれない。
……でも、それは、危険だ。
ユアンに心を喰われてしまう人々よりも、さらに。
「はじめて会った時から、あの人の前に出ると、どうしても身体が凍ったみたいに動かなくなる。あんなにも優しく微笑んで、言葉をかけてくれる人、今までにいなかったのに」
「はじめて会った時から?」
キースの声がいきなり跳ねあがって、ファルはまたびくっとした。
「待て、おまえ、ユアンに会ったのは、今日がはじめてじゃなかったのか?」
「え……うん」
ファルは、どうしてキースがこんなにも驚愕しているのか、まったく判っていないようで、きょとんとしている。
「はじめてわたしがこの部屋に来た日、覚えてる?」
「ああ」
「あの次の日に、お屋敷に来たよ」
「……っ」
肩を掴む手に、ぐっと力が入った。
──じゃあ、ユアンの口から「拾われた子供」の話が出た時にはすでに、二人は顔を合わせていた、ということだ。
甘かった。クライヴやドリスが、ユアンに口止めをされたなら、死んだってキースの前でそんな素振りを見せるはずがない。ユアンの言葉を額面通りに受け取るつもりはさらさらなかったが、そんなにも迅速に動くとは思ってもいなかった。
はじめから、後手に廻っていたのはキースのほうだ。ファルが他の人間と同じように気持ちを根こそぎユアンに持っていかれていたら、そこで興味も失せたのだろうが、ファルは怯えた。ユアンはもうその時には、この風変わりな「子供」に目をつけていたに違いない。
だからこそ、今までキースに対して何も言わなかった。
「…………」
キースは長い間、下を向いてじっとしていた。
あまりにも動かないので心配になったらしいファルが、「キース?」と名を呼ぶまで。
その声に顔を上げて、もう一度ファルと目を合わせる。
「ファル」
「うん」
「おれの話をよく聞け。……そしてすぐに忘れろ。おれが間違ってた。やっぱり、おまえをこの屋敷に連れてくるべきじゃなかったんだ」
キースは、詰めていた息をゆっくりと吐きだした。
「ユアンは、天帝の息子だ。天帝の後継者……いや、後継者のうちの一人なんだよ」