フラッシュバック
──あれは、キースが七つか八つの頃だったか。
屋敷の庭に、子猫が迷い込んできたことがあった。
どこかで飼われていたのか、それとも野良だったのかは、判然としない。かろうじて乳離れはしていて、けれどまだ自力で餌をとるのは困難、というくらいの大きさだったので、おそらく母猫とはぐれたのだと思われた。
子供でも、これは放っておいたらすぐに死ぬんだろうな、ということは判った。
その子猫は、アストン屋敷の庭の片隅の植え込みの中で、背中を丸くしてうずくまり、時々母猫を呼んでいるのか、ミイミイと声を張り上げて鳴いていた。
しかし庭師が捕まえようと手を伸ばすと、さっと敏捷な動きで植え込みの奥まで潜り込んでしまう。子猫とはいえ、警戒心はきっちりと身についているらしかった。
何度か追い出そうと試みたが、捕まらない。その上、植え込みの内部から出ていくこともしない。深追いすれば、せっかく美しい形に整えた植え込みも壊してしまいかねない、と庭師もお手上げの状態だった。
その時には存命だったアストン家の当主である父親も、それから自分の用事に忙しい母親も、もとより子猫どころか庭の片隅で起こっている小さな事件などには欠片も興味を抱くような性格ではない。たとえ生き物の哀れっぽい泣き声を耳に入れたとしても、眉ひとつ動かさず素通りするだけなので、子猫の存在は、「そのまま放置する」という方向で片づけられることになった。
が、その頃はまだ子供らしい純真さをそれなりに持ち合わせていたキースは、子猫の泣き声が聞こえるたび、気になってしょうがなかった。
庭師や使用人たちの目を盗み、折を見ては、植え込みを覗き込む。茂った葉っぱの陰に隠れ、ひんやりとした暗がりの中で、小さくなってぶるぶると震えている子猫の真ん丸な目が、必死に救いを求めているように見えた。
たった独りぼっちで。
──幼かったキースには、その姿が、他人事ではないように映ったのだろう。
屋敷の中で互いに口もきかない両親は、それぞれキースに対して無関心だった。使用人たちは、キースの世話こそ焼いてくれるけれど、「この子供だっていずれはただの犬に成り下がる」とひそひそと囁いては、蔑むように冷たい目を向けてくるばかり。部屋の中でぽつんと座っているだけの自分と、目の前にいる孤独な子猫が重なってしまうのは、無理もない成り行きとも言えた。
キースは、一生懸命ミルクや食べ物で子猫の気を惹こうと試みた。皿を植え込みの中に入れて、じっと様子を窺う。子猫は奥のほうで毛を逆立て、決して近寄っては来なかったけれど、キースが離れているうちに皿は空っぽになっていたので、せっせと餌を与え続けた。
そうしているうち、子猫はキースが見ていても皿の中のものに口をつけるようになった。十日ほどで、キースの姿を見て寄ってくるようにもなった。
それからさらに時間を経て、とうとう身体を撫でることに成功した。
子猫の毛並みはふわふわしていて、柔らかかった。そして、ぽかぽかとして温かかった。キースの指に、目を細めた子猫の小さな頭が擦りつけられた時には、胸の上擦りが抑えがたかった。
自分以外の体温を感じるのは、こんなにも心が満たされるものかと、子供心にもそれは新鮮な驚きだった。
……今となっては、ひどく苦い記憶として、キースの頭の中に留まっている。
***
「キース?」
声をかけられて、我に返った。
どうやら意識が遠い過去に遡ったまま、そこで茫洋と漂っていたらしい。そばに他人がいる時にそんなことになるのは滅多にないのだが、ファルは例外のようだ。もぐもぐと食べ物を口の中に詰め込んで、天気の話とか裏庭の木の話とかの他愛ない内容をお喋りしているファルを見ていると、どうにも気が抜ける。
ここ数日、二人で時間を過ごす夜を重ねるうちに──といっても、そこに色艶めいたものは一切なく、ファルはもっぱら食べているだけだが──キースはこの空気が妙に居心地良く感じるようになってしまった。
「眠い?」
ファルに顔を覗き込まれて苦笑する。子供のようなナリをした女の子に、こんな質問をされるとは。
「いや」
「けど、疲れてるみたいだよ。わたしがあげたタナン、ちゃんと試してみた?」
「まあな。苦かった」
なんとか我慢して、ファルから渡された分はすべて消費した。さすがにそのままは抵抗感が強かったので、すり下ろして茶に入れて少しずつ飲んだが、それでもかなり苦かった。その後しばらく身体がほっこりしていたので、ちゃんと効いたのだろう。たぶん。
「それよりも、おまえこそ大丈夫か。ここ最近、毎日のように夜遅くまで起きてるから、昼間に眠くなるんじゃないか?」
今のファルの立場で、眠くなったからといって、ちょっと昼寝、などということが出来るはずもない。睡眠不足で仕事に支障が出るようになったら、ドリスあたりに厳しく叱責されそうだ。
……毎日のように夜中ファルをこの部屋にまで来させているのは、他でもないキースであるわけだが。
「平気だよ。他のところでは、もっと睡眠時間が短いこともあったし。それにわたし、立ったまま寝るのも、仕事の合間に見つからないようにちょっとだけ仮眠をとるのも、得意だから」
相変わらず、ファルの返事はあっさりとしている。会話の端々でたまに顔を覗かせるファルの過去や経験話は、キースにしてみれば、こいつそんな生活でよく今まで生きてこられたな、と思うようなことばっかりだ。
「おまえ、小さい頃からずっと働きづめだったのか」
「そりゃ、生きていくためには働かないとね」
「学校は」
「学校?」
ファルは、なにそれ美味しいの? というような顔をした。
「文字は読めるのか」
「……やだな、読めるに決まってるじゃない」
今度は、目を逸らされた。これまでの勤め先でどのような扱いを受けてきたか、という時と同じで、どうやらあまり突っ込んで聞いて欲しくない話であるらしい。
キースは立ち上がって本棚に近づくと、なるべく中身が平易な本を選んで抜きだした。あいにくと子供用の本は置いていないが、十七歳ならすらすら読めて当然、という程度の内容だ。
「少しでいいから、読んでみろ」
「…………」
本を差し出され、ファルは非常にイヤそうな表情をした。いつもへらへらと笑っていることが多いので、その顔はなかなか悪くないなとキースは内心で思った。つい、加虐心がそそられる。
「……えー、と」
渋々、ファルが本を開いて、蝋燭の灯りの下で文字を目で追いはじめる。
「この……書は、天界における、け……経済と、その、は……はってん?について……ナントカし、ぶ、分析、して……したためた、もの、で……で……」
二行目に入ろうか、というところで、ぷつんと声が途切れる。しばらく無言が続いたと思ったら、ファルがばたんと音を立てて勢いよく本を閉じた。
「うん、もういいや」
「待て、なにを勝手に終わらせてる。諦めるのが早すぎだ。というかおまえ、『考察』の文字も読めないのか」
「コーサツやトーサツなんて知らなくても生きていけるもん!」
本を取り上げてもう一度開かせようとしたキースの手を払いのけ、ファルはこれ以上の朗読を拒否するためか、ソファと自分のお尻の間に本をぎゅむっと挟み込んだ。徹底抗戦のその構えを見て、キースが短いため息を零す。
──もっと時間があれば、いろんなことを教えてやれるのに。
頭の中に浮かんでくるその考えを押し潰すのに、いささか努力が必要だった。
学校も行っていない、文字もろくに読めない、というのでは、ファルはこれからも底辺の位置に甘んじていなければならない。それではどこに行っても、朝から晩まで小突かれるように追い使われるのは同じだ。
ファルは決して、頭は悪くない。時間と余裕さえあれば、多くの知識を吸収していけるだろう。髪と同じ蜂蜜色をしたこの瞳に、冴え冴えとした知性というものが加われば、たとえ身体は小さくても年齢相応に見えるはず。
「…………」
もっと時間があれば、という思いは、脳裏に子猫の姿が浮かんだ途端、萎むように消えた。
──ようやく子猫を自分の腕に抱けた日、幼かったキースがそのことを打ち明けた相手が、一人だけいる。
キースよりもひとつだけ年下の、将来、自分の「あるじ」となることが定められていた人物。でもその頃のキースにとって、彼はただ一人、自分に笑顔を向けてくれる、貴重で大切な存在だった。
「可愛いね」
当時からその美しさで人々を魅了し、周囲の誰からも愛されていたユアンは、キースが見せた子猫を見て、唇を綻ばせ、優しくそう言った。
その声、その言葉は、キースを安心させるのに十分だった。
子猫を屋敷の中で飼うのはまず無理だろう、ということはキースにもよく判っていた。もう少ししたら、外に出してやることになる。外に出たらやっぱり子猫は死んでしまうかもしれないし、だとしたら結果的に、自分がしていることに意味はない、とも思う。
でも、キースにとって今回の一件は、非常に重要な出来事だったのだ。屋敷の誰にも認めてもらえなくても。くだらないと一蹴されても。ユアンはちゃんとそこのところを理解してくれる、それが判っただけで満足だった。
「この子猫は、キースを信頼しているんだね」
キースに大人しく抱かれている子猫を眺め、ユアンが微笑む。そうでしょうか、とキースが当惑と嬉しさを同時に覚えながら聞くと、そうさ、という答えが返ってきた。
「可愛いね」
そしてもう一度、同じ言葉を出した。目をやんわりと細め、じっと子猫を見つめながら。
可愛いね、と。
決して、触ろうとはしなかったけれど。
「……ファル」
背中を駆け上がってくる冷気に耐え、キースはそっと手を伸ばして、ファルの頬の上に指を滑らせた。
未だ肉がついているようには見えないが、それでもずいぶんと赤味が差してきたようだ。ちっともふくよかではないのに、やっぱりふにゃりとして柔らかい。子猫の毛並みを思い出すのはなぜだろう。
ファルがこの屋敷に来て、まだひと月も経っていない。
大したことはしてやれなかったが。
もうそろそろ、時間切れだ。
ユアンはすでにファルの存在に関心を示しはじめている。口では何を言おうとも、これ以上この少女をここに置いておけば、いずれ必ずなんらかの形で接触してこようとするはず。
「うん?」
ファルがこちらを向いた。まだ本を読まされるのかと警戒しているのか、ちょっと態度が引き気味になっていて、ますますあの時の子猫の姿を彷彿とさせる。
「ここでの仕事は大変か?」
「ううん、そんなことないよ。そりゃ、ちょっと戸惑うこともあるけど、お屋敷での仕事自体はどこもそんなに変わりないし」
そうか、とキースは頷いた。
「──じゃ、他の勤め先に行っても、大丈夫だな?」
ファルがぱたりと口を噤んで、キースを見返した。まっすぐに向かってくる視線を、表情も変えずに受け止める。
「……他の勤め先、っていうと」
「もう決めて、話も通してある。二、三日したら、おまえはここを出て、そちらに移るんだ」
もともといくつかの候補は考えていたが、ユアンの口から「拾ってきた子供」の言葉が出てきてすぐ、そのうちの一つを選んで、急いで話をまとめた。
新しい勤め先となるのは、キースが以前ちょっとした貸しを作ったところだ。ユアンに直接繋がる家ではないから、変に勘繰られることもない。アストン屋敷ほど敷地も建物も大きくはないが、複数の使用人を抱えているので、下働きの娘を一人加えることくらい造作ないと了解を得ている。
「そこに行った後は、おれとおまえはもう完全に無関係だ」
「…………」
すげなく言い放つキースを、ファルは黙ったまま見つめている。こいつ、またおれじゃなくて、おれの「色」のほうを見てるな、と少しイラッとした。
「そっかー」
しばらくして、ファルが首を傾けながら、そう言った。
その表情に、怒りや落胆は乗っていない。疑問くらいはあるのだろうが、ファルはいつものように、それを聞きだそうとはしなかった。
「うん、わかったよ。キースとは、もう本当に『お別れ』ってことだね」
事情なんて何ひとつ判っていないくせに、ファルは常に、核にある真実だけを掬いだして、するりと外に出す。こちらを責めるような言葉は一切出されないのが、余計にキースの胸の重みを増した。
ファルはただ、流れをそのまま見て、受け入れるだけなのだ。そこに余計な感情を混ぜ込むようなことはしない。自分のしたいことをして、何も求めない。
それは彼女が、今までの人生をどこまでも一人だけで過ごしてきた、ということの裏返しでもあるのかもしれなかった。
だから、ファルの一部は、空っぽのまま。
笑うことはしても、泣くことはしない。
何に対しても執着しないから、失うことに対する、不安や怖れを持たない。
人を愛することも、愛されることも知らない。
……そんな不幸を不幸とも思わず、ファルはこれからも生きていくのだろうか。
それでも、今のキースに、ファルにかける言葉なんてものが見つかるはずがない。頬に当てていた指を離し、ふわりと髪の毛に触れた。
「あと少しだから、今のうちに存分に食っておけ」
次にファルが働くことになる屋敷で、どんな扱いを受けたとしても、キースはもうそこには関与できない。知ろうと思えばもちろん可能ではあるが、そうすることを自らに許さない。今後、ファルがどんなに傷を増やそうと、痩せ細ろうと、それはキースとはまったく別の世界での話になる。
せめて、やられたらやり返す手段を教えておくべきだったか。
「──死ぬなよ」
死を覚悟していた男が、それを救った女に返すのも変な話だが、キースは正面からファルの目を見つめて言った。
ファルがにこっと笑う。
「うん。キースも元気でね。好き嫌いはなるべくしないほうがいいよ」
「余計なお世話だ」
「ただでさえ老けて見えるんだから、せめて健康に気をつけ……」
「うるさい」
ファルの耳をぎゅっとつまんで引っ張ってやった。痛い痛いと文句を言う口に、ぽいっと菓子を放り込む。
……こんな時間も、あと、もう少し。
元気に食べて喋って笑うファルを眺めて、キースは深く長い息を吐き出した。
***
子猫が死んだのは、ユアンに見せた翌日のことだ。
ふわふわして温かく、キースに甘えてゴロゴロと喉を鳴らしていた子猫は、無残な死骸と成り果てて、植え込みの中に転がっていた。
死因はよく判らない。他の獣に噛み砕かれたのではないか、と庭師は言っていた。そうでもなければ……と続けて、曖昧に言葉を濁し、どこか怯えるように視線を流した。
そのくらい、「それ」は原形を留めていなかったのだ。
キースは血の気の失せた顔で、庭の隅に子猫のための墓を作ってやった。何も言わず、強張った手を無理やりのように動かして、ひたすら土を掘り続けた。心臓が固まってしまったようで、呼吸をするのも苦しくて、悲しみさえ入り込む余地がなかった。
頭を締めつけるようにして占領してくる恐ろしい考えから、目と思考を逸らすのが精いっぱいだった。
「子猫、死んでしまったんだってね」
上からかけられた声に、びくりと全身が揺れた。
その声の主が誰かということは判っても、顔を上げられない。そのまま下を向いていると、額からどっと噴きだした汗がぽたぽたと地面に落下した。
「可哀想だね」
昨日、可愛いね、と言ったその時の声と口調そのままで、今度は別の言葉が降ってくる。土に汚れたキースの手が、ぶるぶると小刻みに震え続けていた。
ゆっくりと首を捩じって、そちらを見上げた。
穴の傍にある残酷な子猫の死体に視線を向けて、確かにユアンは微笑んでいた。
優しく、柔らかく。