表と裏
「……報告できるのは、今のところ、それくらいです」
キースがそう言うと、今までずっと窓の外を見ていたユアンが、ようやくこちらに顔を向けた。
この屋敷はアストン屋敷よりもずっと広大で、仕えている人間の数の多さもあちらの比ではない。しかもその使用人たちのほとんどがユアンに心酔しているため、この部屋の窓から見える景色も、白雲宮の庭園に劣らないほどに美しく整えられている。
ユアンがそれを見て、何を思っているのか──そもそも何かを思うのかは、誰にも計り知れないのだが。
「そう。わかった、ご苦労様」
いつものように、ユアンが柔らかな声と口調で労いの言葉を出す。
庭師や使用人たちは、こういうのを聞くと涙ぐまんばかりに有頂天になってますます張り切るようだが、その言葉の中に、そこらの虫に向けるほどの気持ちすら入っていないことをよく知っているキースは、ただわずかに頭を下げるに留めた。
大きな窓からさんさんと射し入る陽は、ユアンのさらりと流れるような金色の髪は眩いほどに輝かせても、光を背負った彼の表情は影で覆ってしまっている。部屋のドア近くに立つキースからは、その口許が微笑の形をとっている、ということくらいしか見て取れない。
微動だにしないその唇は、笑ってはいても、彼の感情を他人に伝えるという役割を果たすことはなかった。
「相変わらず、ゴスウェル家は好戦的な気質をしているね」
「荒々しいのは、あそこの家風なんでしょう」
キースは少し肩を竦めて相槌を打った。
天の一族に連なる五家。
そのうち、昔から最も野心を剥き出しにしているのがゴスウェル家だ。
何か事があると、真っ先に武をもって制そうと考えるのもこの家だし、そちら方面での実績もある。しかしゴスウェルは、どちらかといえば直情的な、もっと言ってしまえば単細胞な脳筋の家系なので、陰謀や裏取引などには向いていない。
逆にそういったことに秀でているのがマクラム家で、この家の人間は自ら好んであれこれと謀をし、策を立てる。頭脳の優れた人間が多く、腹も真っ黒なので、参謀としては非常に心強い。ただしこちらは武力のほうはからっきしだから、いざという時に弱い。
文武どちらもバランスよく持っているのがオレット家。その分どうしても目立たないので、あちらにもこちらにも適度に愛想を振りまき、五家の中ではもっぱら調整役としての才能を発揮させている。
ミドレア家は、天帝に変わらぬ忠誠を誓うことで、ずっとその立場を維持してきた家だ。何があろうと絶対服従。数代前の天帝が、何かの祝いの席で、気のきいた贈り物を持ってこなかったミドレア家の当主に、それでは代わりにそなたの命を差し出せと冗談交じりに命じた時、彼は一瞬も躊躇わず自分の喉をかき切った、という逸話までがある。
──そして、ライリー家は。
昔から、類まれなる美しさを誇りとし、それによって天帝からの寵愛を受けてきたと言われている。
「マクラムはマクラムで、また何か不穏な動きをしているようだし」
そのライリー家の中でも、不世出の美を持って生まれてきたとされているユアンが、くすりと笑みを洩らして言った。
「それも、いつものことですね」
キースは素っ気なく返した。
なにしろ、「マクラム家の連中が何か企み事をしない時はない、そうなった時はマクラムの名が消える時」、とまで言われているくらいだ。あの家の人間が権謀術数を張り巡らせるのは、蜘蛛が本能として糸を吐くのと同じくらい自然なことなのである。だから、いつものこと、としか言いようがない。
それに、少々個人的に、今はそのことに触れたくない、というのもある。
「そうだね。いつものことすぎて、慣れたつもりでいたキースは、油断して怪我までしたんだものね?」
「…………」
やっぱり蒸し返されたか。
無表情の上に、多少なり苦いものを乗せて口を閉じたキースに、ユアンは楽しそうな笑い声を立てた。
「あの失態についての責任は……」
「わかってるよ。もうその件についてはうるさく言わないさ。それに正確に言えば、キースはちゃんとやるべきことをやったのだからね。マクラムは大事な手駒を一つ失ったけれど、未だにそれがどこの誰の手によるものなのか、何も掴んでいない。あそこの古狸が地団駄踏んで悔しがるところを想像すると、愉快でたまらないよ」
「……は」
キースは短く応えて、視線を下に向けた。
そうだ、あの任務は失敗か成功かといえば、成功だった。
キースは間違いなく手順通り、予定通りに仕事をこなして、首尾よく完了させたのだから、結果としては上々だ。その過程に手落ちなどなく、ヘマもしなかった。あの時のキースが、足を負傷し、全身が傷だらけになり、歩けないほど体力を消耗して、たまたま通りがかった屋敷の裏庭に逃げ込むなどという醜態を晒したのは、あくまで「その後」の、不幸な偶然の重なりの結果でしかなかった。
──でも、意識が遠のいていくあの瞬間。
キースは確かに、死を覚悟していた。
それまでの無理が祟ったのか、肉体も精神も泥のように疲れ果て、ちょっとばかり自暴自棄になっていたのかもしれない。なんだか開き直りにも似た気持ちが生じて、キースはどこかも判らない荒れた芝の上に横たわっていた。
そろそろツケが廻ってきたのかね……と朦朧としかかった頭で思っていたのは、そんなことだった。
キースは今までひとつの瑕瑾もなく、すべてを完璧にやってきた。他人を騙し、陥れ、時には命を奪うことも躊躇わなかった。父親が死んでから──あれはキースが十五くらいの時だったから、かれこれ八年近くになるか──それだけの間、裏の仕事を一手に担ってやって来たのだ。
あるじの命令ひとつで、この手を血に染めることも厭わずに。
そのツケがようやく今になって廻って来た、ということなのか。悪運尽きた、というわけだ。これまでキースが葬ってきた人生の数を思えば、遅すぎるくらいだ。これまでに溜まってきた人々の恨みつらみがキースを破滅に導くというのなら、もっと早くこの時が来てもよかったのに、意外と皆さん、呑気でいらっしゃる。
自分の命やこれからの生が惜しい、などとは、微塵も思わなかった。もともと、そんなものに対する執着を、キースはまったく持ち合わせていない。どうせいつかは死ぬのだから、そのいつかが、今になったというだけの話だ。
ここで少し休んでから移動しよう、と呼吸を整えながら考えた。そのまま誰にも見つからずに屋敷へと戻れればよし。もしも誰かに見つかって大声を出されたり、捕まるようなことになれば、自分で自分の命を絶つ。出来る限り、キースという存在の痕跡を残さずに。
キースには、そのふたつの選択肢しか道がない。否、思いつかない。そういう風に育てられ、そういう風に生きてきたからだ。
移動を再開するなら早いほうがいい。それは判っているのに、なんだかひどく億劫だった。痛みも疲労も、どうだっていいような気がしてきた。
案外、そうだ案外、自覚がなかっただけで。
……おれはもうとっくに、生きていくのに飽きていたのかもしれないな。
そんなことを思いながら、ぼんやりと空を見ていた。そこは確かに青く澄み渡っているはずなのに、キースにはどうしてか、真っ暗に曇っているように見えた。
まるで、月も星もない闇夜のようだ。
そう考えているうちに、キースは意識を手離した。
──そして再び目覚めた時には、えらく小さくて貧相な女の子が傍らに座り込み、生真面目な顔でせっせと自分の治療に精を出していた、というわけだ。
「そういえば、どこかから子供を拾ってきたんだってね」
ふいに思い出したようにユアンに言われて、キースは思考を戻し、目を上げた。
「ああ……そうですね」
今の今までその顔を思い浮かべていたことなどは欠片も表に出さず、自分も思い出したような声を出す。
別に驚くようなことじゃない、と内心で自分に言い聞かせた。ファルのことは連れ帰ったその日にでもユアンの耳に入っていただろうし、なんらかの形で問われることになるのも想定済みだ。
「一体どういう風の吹き回しだい? 可哀想な子供に慈悲をかけるなんて、キースらしくないと、クライヴもびっくりしていたよ」
「慈悲?」
キースは鼻で笑うように返した。
「おれがですか。まさか」
「じゃあ、どういう理由かな。ひょっとして、そういう趣味でもあった?」
「ご冗談を」
今度のはかなり本心から返事をした。
「単なる気まぐれです。……まあ、強いて言えば、八つ当たりですかね」
「八つ当たり?」
「おれだって、自分の失敗については恥じ入る気持ちくらいあるんです。なのに、足を引きずって歩くおれに向けられる屋敷の連中の目が、どう見てもほくそ笑んでたりすれば、嫌がらせのひとつくらいはしたくなるってもんですよ」
あはは、とユアンが陽気に笑った。
「嫌がらせで子供を拾ったのかい?」
「実際、慌てふためいてたでしょう。行き倒れ寸前のただの子供相手に、勝手にあれこれと邪推して、ありもしない裏を探ろうと躍起になる姿を見たら、多少は溜飲が下がりました」
「うん、確かにね。ドリスなんて、マクラムあたりと通じている間諜なんじゃないかって疑っているらしいよ」
「お疑いなら、どうぞ存分に、お調べを」
何をどう調べ上げようと、ファルと他の家に繋がる証拠なんて出てくるはずがない。そんなものは、そもそも存在していないのだから。
「誤解してもらっては困るけど、僕自身は、そんなことを疑っていやしない」
そう言うと、ユアンがもたれていた窓から背中を外し、ゆっくりと足を動かしてキースのほうへと近づいてきた。
陽の光が届かない位置にまで来れば、その美貌もはっきりと見えるようになる。切れ長の青い目は、ぴたりとキースに据えられていた。
研ぎ澄まされた光を宿すような眼差しは、強烈な蠱を含んで人を惑わす。ユアンのその瞳に捉われて、魂が抜けたような状態になる男女を、キースは数えきれないほど見てきた。
微笑を保ったままの薄く形の良い唇から、ちらりと赤い舌が覗く。キースはそこに立ったまま、表情を変えずにそれを見返した。
「……その子供を気に入ったから連れてきた、なんて理由ではないんだね? キース」
「まさか」
平坦な声で返すと、白く長い指が伸びてきて、するりとキースの顎を撫でた。
「わかってるよね? 僕以外のものに心を向けることは許さないよ」
「もちろんです」
キースはそう返事をして、ユアンのその滑らかな手を取り、甲に軽く唇を寄せた。
「おれの心は常にユアン様のものです。……他の何にも、興味などありません」
ずっと昔から、何に対しても、誰に対しても。
キースは関心を抱かない。抱かないようにしてきた。
それがどうして、あの少女のことだけは気にせずにはいられないのか、自分にだってよく判らない。
明るい陽射しと一緒に、キースの視界の中にまっすぐに飛び込んできたファル。
自分のしたいことをしているだけだと、見返りも何も求めずに、死を覚悟していたキースに救いの手を差し伸べて、背中を押した。
──あの時、まるで、暗く澱んだ世界から一気に光の下に引っ張り出されたような、そんな感覚を覚えたのだ。
「だったらいいんだ。つまらないことを聞いて、悪かったね」
にこりと満足そうに笑うユアンに、キースは無言で頭を下げた。
「なんだったらその子供を見に行ってみようかと思ったけど、やめておくよ。時間の無駄のようだからね。じゃあもう下がっていいよ。僕はこれから、ご機嫌伺いに白雲宮まで行かなければいけないんだ」
「はい。失礼します」
ユアンが自分に背中を向けるのを見て、ひそかに安堵の息を零した。
***
ちょっとした騒ぎが起きたのは、その日の夕食時のことだ。
普段のように、給仕と称したクライヴが見張りに立ち、しんとした静けさが満ちる中、ただ手を動かし咀嚼して飲み込んでいくだけのその場に、ドリスがファルを引っ張ってやって来た。
彼女の顔は、やっと尻尾を捕まえた、というような喜びに支配され、てらてらと輝いている。キースは黙ったままそちらに目をやり、指に挟んでいたフォークを皿の上に置いた。
「旦那様、聞いてください!」
そんな大声を出されなくても、充分聞こえている、ということを示すため、わずかに片眉を上げる。表情を変えずに、ドリスにしっかりと腕を掴まれているファルのほうに目をやると、こちらはこちらで困ったようにちらっとキースを見た。
ファルは食べ残した菓子類を持ち帰るようなことはしていないし、寝間着に何か零したりしていないかと、部屋に帰る前に点検する用心深さもある。そんなに迂闊なことはしないと思っていたが、何があったのだろう。
「なんだ?」
冷たい口調で問いながら、そっと息を吸い込む。
「ファルが、この屋敷に毒物を持ち込んだんです!」
「……は?」
思ってもみなかった答えに、つい間の抜けた声が出た。
──毒物?
「今日、こそこそと庭師と話しているところを見かけて、ずっと窺っていたんです。そうしたらまあ、案の定、ひそかに手渡された何かを厨房にまで持ち込もうとするじゃありませんか。きっと食事の中に混ぜ込もうとしたに決まっています! なんて恐ろしい! やっぱりファルはどこかの──」
間諜だって?
やかましく喚きたてるドリスからファルに視線を移して、キースは内心で首を傾げた。
ドリスの話が事実なら、それは確かに怪しい行動ではあろうが、ファルがキースを誑かすためどこかの家から廻された間諜かそうでないかといったら、そうでないほうに財布の中のすべてを賭けてもいい。
「……今の話は本当か?」
ファルに向かって訊ねると、こっくりと頷かれた。しかしその顔は、悪事が露見して悔しがる間諜というよりは、どう見ても、イタズラがバレて失敗しちゃったなあと思っている子供のそれだ。
「とにかく見てください! これですよ!」
ドリスがキンキン声で言いながら、掴んでいたファルの腕をぐいっと捩じるようにして前に突き出した。
ファルが痛そうに顔をしかめるのを見て、キースの腹の中で苛立ちが鎌首をもたげる。
──こんな細い腕に、そんなにも力を入れる必要がどこにある。
ファルの手には、布に包まれた何かがあった。もしもこの中に入っているのが本当に毒であるのなら、長年アストン家の庭師を続けてきた老人も、間諜の一味ということになる。キースが見る限り、彼はただ気が弱く人のいい年寄りでしかないのだが。
「見せてみろ」
ひややかに命じると、ドリスの目が期待に占められた。自分の手柄が嬉しくてしょうがないらしい。一刻も早くユアンに報告したいと考えているのか、今にも動き出したそうに足元がうずうずと揺れていた。
ファルが頷き、手の中の包みをほどく。
そこから出てきたのは、三、四本の、植物の根、らしきものだった。
大人の指くらいの長さと太さで、薄っすらと赤味を帯びている。
「これは何だ?」
「タナンの根っこです」
「タナン?」
聞いたことのない名前だ。ドリスを見てみたら、今しがたの元気はどこへやら、非常に変な顔をしてぷつりと黙りこくった。次にクライヴに顔を向けてみると、身を乗り出すようにして事態を眺めていた彼は、なんともいえず複雑そうな表情をしている。
「タナン……というと、赤い花をつける植物ですな」
「毒なのか?」
「さあ……。この屋敷の庭にもありますが」
「毒なのに?」
「さあ……」
首を捻って、口を噤む。屋敷の庭で、そんな危険な花を育てていたとは、初耳だ。
「で、これをどうしようとしてたんだ?」
ファルに訊ねると、「おやつにしようと思って」という、これまた要領を得ない答えが返ってきた。
「おやつ……?」
「タナンの根っこは、甘くて栄養があるんです。部屋に持ち帰って、お腹が空いた時に舐めようかなと思い、庭師のおじいさんに頼んで、分けてもらいました」
「舐める……」
「こんな風に」
ファルがそう言って、その根をぱくっと口に入れ、ちゅうちゅうと吸って見せた。飢えた時には草を食べていたというだけあって、さすがに慣れている。
「いけないことだと思いませんでした。申し訳ありません」
殊勝に謝って頭を下げるファルを見て、ドリスが茫然としている。
キースは噴き出しそうになるのをやっとの思いでこらえて、ゴホンと咳払いをした。
「……なんだったら、植物辞典でも見て調べるなり、庭からタナンとやらの花を引っこ抜いて本物かどうか見比べるなり、気が済むまでしてみればいいんじゃないか?」
「…………」
ドリスは顔を真っ赤にしてぶるぶると震えた。いつもはドリスと結託することが多いクライヴも、笑うのを誤魔化すためか、わざとらしい咳払いを繰り返している。
「今後またどこかから怪しい根や草を持ち込まないように、もう少し食事の量を増やしてやったらどうだ」
キースはそれっきりファルとドリスの存在を忘れたように、テーブルの上に目を戻した。
呆れたように思う。
……ファルのやつ、夜にあれだけ食べても、まだ腹が減ってるのか。
***
「ウソに決まってるじゃない」
夜中キースの部屋にやって来たファルは、けろりとしてそう言った。
「嘘? じゃ、あれはタナンの根じゃないのか」
「あ、それは本当。お庭にあるやつだよ。キースって、やっぱり植物の名前を何も知らないんだねえ」
ファルはしみじみした口調になってキースを見た。やっぱりってなんだ。
「あのね、タナンの根っこは、血の巡りを良くする効能があるの」
「…………」
一瞬、言葉に詰まる。
「──もしかして、それ」
「キースにあげようと思って。ほら、手がすごく冷たかったでしょ? タナンはちょうどいいなと思って庭師のおじいさんに頼んだら、もうすぐ植え替えようとしていたところだから、引っこ抜いて持っていけばいいって言ってくれたの。タナンの根は脆いから、形を崩さず抜くのが大変だったよ」
「…………」
キースは口を結んで、タナンの根を差し出すファルの手を見つめた。
小さな手の、小さな爪の中には、落とし切れなかったのだろう黒い土が入り込んでいる。明かりが頼りないのではっきりしないが、石でこすったような傷がたくさんついていた。
寝間着の袖から出ている腕には、ドリスに掴まれた時のものと思われる赤い痣も残っている。
「というわけで、どうぞ」
「え……」
ずいっと突きだされて、キースはちょっと引いた。
「これを齧るのか。このまま?」
「乾燥させて煎じて飲むといいらしいけど、面倒だから。大丈夫、そのまま食べても効能はそんなに変わらないよ、たぶん」
「おまえ、本当にいい加減だな! 大体これ、甘いんだろ?」
「あ、あれも嘘。ホントは苦い」
「余計にいやだ」
「ワガママ言わないの!」
無理やり口の中に突っ込んで来ようとするファルの手を逃れながら、キースは声を立てて笑った。