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天の涯、地の涯  作者: 雨咲はな
第一部・天
1/73

遭逢



 ──この世界は、天界と地界の二層に分かれている。



 両手にそれぞれひとつずつ大きな紙袋を抱えたファルは、坂の頂上にまで到着すると、荷物を下に降ろして大きな息をついた。

「……ふう」

 その場所にまっすぐ立ち、眼下に広がる街並みと、その上を覆う、突き抜けるように澄んだ青空を眺める。

 ファルが働くギルノイ屋敷と、よく買い出しに行く店の間には、かなり急勾配な坂がある。上り下りが体力的にキツいのと、徒歩で行くには結構な距離があることもあって、ファル以外の使用人たちすべてが嫌がる道のりだ。

 汗だくになったり、ぜいぜいと息を切らして歩くのが、あまりにもみっともない、と言うのである。

 だからそこに行く必要がある時はいつも、そういうのをなんとも思わないファルにお鉢が回ってくる。使用人というものは大体、お屋敷の外に出られるのは絶好の息抜きのチャンスと考えるものなのだが、これは別であるらしい。

 確かにその往復は大変だし、疲れるし、汗びっしょりにもなる。しかしそれを眉をひそめて忌避したがる気持ちが、ファルには今ひとつ理解できなかった。

 汗をかくのって、そんなにイヤなものかなあ、と首を傾げてしまうのだ。ベタベタして、不潔で、不快な臭いがして、頭もぼうぼうになって美しくない、と他の人たちは顔をしかめるのだけど。

 でも、汗だくになって少し休憩した時に感じる風の涼しさは、とても気持ちの良いものだと思うのに。ひいふう言いながら坂を上りきって、そこから見渡せる景色はこの上なく綺麗なものだとも、思うのに。

 それを知らずにいるのはもったいないな、と考えてしまうのは、やっぱりみんなが言うように、ファルが変わり者だからなのだろうか。



 天界の街は、高い建物と低い建物とが、入り乱れることなく整然と並んで造られている。

 建物の壁の色はすべてが白で統一されているため、煉瓦色をした歩道が際立って映えて、まるで真っ白な紙に描かれた模様のようだった。

 ──中央には、ひときわ目立って高く美しい、白亜の建物。

 あれはこの天界を統べる天帝がお住まいになっている場所だ。白雲宮、と呼ばれている。

 天界は雲と雲の間にあるので、頭上の空に流れる雲はほんのわずかしかない。白雲宮は、上の雲と下の雲を繋ぐ役割を果たしている、と言われる。だからもしも白雲宮が失われてしまうことがあれば、天界は支えをなくして下の雲をも突き破り、さらにその下にある地界に堕ちてしまうのだとか。

 ……本当なのかどうかは、ファルには知りようのないことである。だって、天界で暮らす人間には、この下にある雲も、その下にある地界も、見えはしないのだから。

 天界人が地界に堕ちてしまったら、見るに堪えないような醜くおぞましい異形の化け物になるという話もあるけれど、それだってファルには真偽のほどは判らない。

 そんな夢想のような、お伽噺のようなものよりも、ファルにとっては、今日を生きることで精一杯だからだ。一日一日を過ごしていくのに必死な人間からすれば、世界の成り立ちなど、これからの予定を考えているうちに、いつの間にか頭の中から抜けていくような他愛ない事柄でしかない。


 その時、鐘の音が高らかに響き渡った。

 一日に一度鳴らされる、時計台の鐘の音だ。


「──よし」

 その音を区切りに、ファルは再びひとつ息を吐いて、下に置いた大荷物を持ち上げた。

 あまりのんびりしていたら、こっぴどく叱られて、晩ご飯を抜かれてしまう。ファルは女の子とはいえまだ十七歳の食べ盛りなので、ただでさえ少ない食事を一回抜かれるのはかなりこたえる。

 食事をとれないと、手足がますますひょろひょろと細くなって、坂を上り下りするのも荷物を運ぶのも困難になるだろう。それでまた大目玉を喰らってしまう、という悪循環になるのは避けたい。

「さ、行こう!」

 自分自身に発破をかけるようにして大きな声を出し、荷物を両手に抱えて走り出す。

 ここからは下り坂だから、まだしも楽だ。走っているうちにどんどん加速がつくのも面白い。調子に乗りすぎて、そのまま転がっていかないように注意しないと。

 どこもかしこも見栄えよく配置された建物の群れにはもう一顧だにしなかったが、汗を吹き飛ばしていく向かい風は気持ち良くて、ファルは陽気に笑いながら坂道を駆けた。



          ***



 ファルが「変なもの」を見つけたのは、お屋敷に到着し、そこの裏門を通って敷地内を数歩進んだ時のことだ。

「……んん?」

 目を眇めて再確認してみたが、見間違いではなかった。

 裏庭の隅の植え込みから、にょっきりと飛び出しているものがある。いや違う、植え込みの陰におおもとの物体が倒れていて、入りきらなかった分がはみ出している、というほうが正しい。

 ──人の、脚が。

 そこにあるのはどう見ても、黒いズボンに包まれた長い脚だった。履いている靴の形状と大きさからして、おそらく男だろう。普通に考えれば、植え込みの向こう側にその上半分があるものと推測された。なかったら、それはそれで困ってしまう。

 荷物を手に、そろそろと近づいていく。上半身を屈めるようにして植え込みを覗いてみると、やっぱり男が倒れていた。

 血の気の失せたその顔は、見たことのないものだ。倒れていても判る長身で、手足が長い。服装も全体的に黒っぽいのだが、髪の色も黒い。

「もしもし?」

 声をかけてみたが、男は目を閉じたまま、ピクリとも反応しなかった。

 両足を折って屈み込み、そっと男の首筋に手を当てる。うん、息はあるな。頭と顔のあちこちに傷があるけれど、致命傷になるほど深いものではないようだし。

「…………」

 さて、どうしよう、と考える。

 しかし結論を出すのに、そんなに時間はかからなかった。

 ファルは倒れた男にくるりと背を向けて、使用人しか出入りすることのない屋敷の通用口へ向かって走り出した。



 厨房の中に入ると、肉切り包丁を手にした料理人にじろりと睨まれた。

「遅いぞ、ファル!」

 と文句を言われたが、それだけで済んだのは幸運だった。

 なんの問題もなく首尾よく仕事をこなしても、怒られるのはしょっちゅうである。あちらの機嫌が悪いと、さらに手や足が飛んでくることもあるので、一言で終わった今日はかなり上々だ。

 次の仕事を言いつけられて、はい、と素直に頷く。甲斐甲斐しく働きはじめるように見せながら、他の目がなくなった隙に、素早く必要なものを整えた。

 なにが要るかな? まずは綺麗な水と、布と、薬。あとは、もしかして固定しなきゃならないこともあるかもしれないから、棒──見当たらないな、まあいいや、厨房にある延し棒を持っていこう。

 それらのものをいくつかこっそり拝借して、ファルはまた裏庭へと出た。



          ***



「──なんだ、おまえ」

 男が目を開け、そう声を上げたのは、ファルが目に見える場所の傷の手当てをあらかた済ませた後だった。

 あまり繊細さとは縁のない性格をしているファルが、ごしごしと荒っぽく血の汚れを拭ったり、ぐいぐい力任せに止血をして包帯を巻いたりしていたのだから、ある意味当然である。むしろ、今まで目を覚まさなかったのは、それだけ深く昏倒していたということなのだろう。

 開いてみれば、その瞳は黒ではなく、落ち着いた碧色だった。こんな状況であるというのに、意外に凪いだ静かな目つきで、男はファルの顔をじっと見つめている。

 声は若いが、全身にまとった怜悧な雰囲気が、男に年齢不詳な印象を与えているようだ。それでも、二十代後半、くらいだろうか。

「ファル」

 手短に名乗ってから、ファルは男の身体を衣服の上から無造作にぽんぽんと叩いていった。右足を叩いた時、男がわずかに眉を寄せる。

「ここが痛いの? 折れてるのかどうか、わたしじゃ判断できないから、一応添え木をしておくね」

 厨房から頂戴してきた延し棒を右足に添えて、ぐるぐると布で巻きつける。

 男は息を吐きだしてから、ようやく上体を起こして、周囲を見回した。少しだが、血の気も戻ってきたようだ。

「……ここはどこだ」

「ギルノイさまのお屋敷だよ。そんなことも知らずに入ってきたの?」

「いや……とにかく、目についたところに逃げ込んだだけだから」

 ギルノイ、と復唱するように男が呟く。頭の中にある記憶を探って、自分が今いる位置を把握しようとしているらしい。

 逃げ込んだ、ということは、誰かに追われていたのかな……とは思ったが、それを詮索するような気持ちはファルにはさらさらない。

「じゃあ、運が良かったね。ここの裏庭は手入れされないまま放置されていて、使用人たちもあんまり出てこないから」

 言いながら布を巻くファルの手許に、男は黙って目をやった。


「──なぜ、おれを助ける?」


 ぽつりと出された言葉に、ファルは手を止めてその顔を見返した。

「助ける?」

「倒れている不法侵入者がいたら、人を呼んだり、騒いだりするものだろう、普通」

「そう?」

 ファルは首を傾げた。男を見つけても、誰かを呼んだり騒いだりしようという気になれなかったのは事実だが、今自分のしている行為が「助ける」と表現するようなことなのかは、よく判らなかった。傷の手当て以上のことをするつもりはないし、大体、今のファルの立場では、他人に何かを施すことすら出来ない。

 いろんなことに見ないフリして自分のしたいことをする、というのと、助ける、というのとはまったく意味が違うのではないだろうか。

「たとえば、自分のすぐ目の前に翼を傷めた鳥がいたら、なんとかまた飛べるようにしようと思うものじゃない?」

「おれは思わない。そしておれは鳥じゃない。この流れでそんなたとえが出てくる、おまえの思考も意味不明だ」

 ついさっきまで倒れていたくせに、男は結構よく喋った。

「わたし、あんまり物事を深く考えないようにしてるんだよ」

「いかにもそういう顔をしているな」

 ぐっと強く力を入れて布を縛ってやると、男が小さな呻き声を上げた。

「その時その時で、自分の思うことをしてるだけ。……それに」

 言いかけてから、少しためらって口を噤む。男はわずかに首を傾け、ファルの顔を覗き込んだ。

「それに?」

「なんか、色がね」

「色?」

「あのね、人によってね、色があるんだよ。明るい色だったり、暗い色だったり、取り澄ましたような色だったり、どんよりした色だったり、いろいろなんだけど」

「言っている意味が判らん」

「うん、わかんないよね。わたしにも、どうしてなのか、わからないんだもん。ただ、生まれつき、そういう変な力があってね、その人が持つ『色』が、わたしには見えるの。小さい頃は、他の人もみーんなそうなのかと思ってたのに、どうやら違うらしいってことに気づいた時にはびっくりした」

 意味も理由も判らない。でもどういうわけか、ファルには、人間の周りをぼんやりと取り巻く「色」が見える。

 それはおおむね人によって異なり、色の種類も出方もいろいろだ。


 ……その色が、どうやらその人の性質を表しているらしい、と気づいたのはもうずっと以前のこと。

 他の人もみんなそうなのだと思っていた頃は、見たままをぺらぺらと口にしてしまい、それでよく気味悪がられ、苛められたものだった。

 だからもちろん、成長した今はそれについて何も言わずに、黙っている。実際、それが見えたからといって、さしたるメリットがファルにあるわけでもない。その色は相手の気分によって少しずつ濃淡が変化するので、機嫌の良し悪しを察するのに便利、という程度である。

 どうしてファルがそんな能力を持ち合わせているのかは、まったく判らない。せめて親でもいれば何か教えてもらえたのかもしれないが、あいにくファルは捨て子で孤児の身の上だった。

 まあ、別にあったって困るもんでもないし。そういうものを持って生まれた以上は、付き合っていかなきゃしょうがない、というように考えている。というか、それ以外のことは考えない。考えたってしょうがないことが、この世にはありすぎるのだ。


 ファルの説明を信じたのか疑っているのかは不明だが、男は特に表情を変えなかった。

「で、その『色』とやらが……」

「あなたの場合は、薄い青だね。それも、ものすごく透明に近い青色。そういう人は、あんまりいない。むしろ、いろんな色が混ざって、濁ったような色であることが多いから」

「……だから?」

「だから、綺麗だなあって」

「まったく説明になっていない」

「まあ、いいじゃない。──これでよし、と」

 添え木で固定させた右足を軽く叩いて、ざっと全身を検める。他には大した傷もなさそうだ、と判断して、ファルは立ち上がった。

「動けるようなら、なるべく早めにここを出たほうがいいと思う。そのうち誰かが出てくるだろうし。その時に裏門が開いていたら、変に思われるかもしれない」

 いつもなら施錠してある裏門が開いていたのは、ファルが買い物に出ていたからだ。だからこそ、男もここまで入って来られた。しかし、いつまでも開けっ放しにしておくわけにもいかない。

「ああ」

 男はそう言って、案外機敏な動作で立ち上がった。右足を確認して、これなら大丈夫、というように頷く。

 門に向かって歩きかけた足を止め、もう一度振り返った。

「……おまえ、名前なんていったっけ」

「ファル」

 そうか、と男は呟いた。

「おれはキース。じゃあな」

「うん。じゃあね」

 名前を教え合ったところで、きっともう二度と会うことはないんだろうなあ、と思いながら軽く手を振る。キースというのが本名かどうかも判らないが、まあ、いいや。


 星が消えて朝がやって来る直前の、静かな青磁の空のような。

 夜に入る一歩手前の、ひっそりとした宵闇のような。

 蒼天を透かして、ゆるやかにたなびく薄雲のような。

 そんな──綺麗な青。

 たった一度の邂逅だとしても、そんな色の持ち主に出会えて、嬉しい。

 そういう人は、この天界に、本当に滅多にいないから。


 門が閉じる音を耳に入れてから、ファルは鼻歌を口ずさみながら屋敷の中へと戻った。

 中では、料理人が、「誰か、延し棒を知らないか?! これじゃ焼き菓子が作れやしない!」と苛立ったように叫んでいる。

 もちろん、知らんぷりした。



 ……しかし、男の治療を優先させて、言いつけられた仕事が出来なかったファルは、結局その日、晩ご飯を抜かれた。





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