盤台哲雄 3
レベルが上がると、どうやら身体能力だけではなく、反射神経も上がるらしい。
「キィィィィィ!」
甲高い叫び声をあげながら走り寄ってくる、人間の子供ほどの小ささの、魔物。
矮人の攻撃は、ひどくゆっくりとしていて、スローモーションのように見えた。
石斧を振りかぶり、僕の顔面をぶん殴ろうと飛びかかってきた矮人を難なく避けてから、僕は紅葉切を構えた。
構えたと言っても、切っ先を向けただけである。僕は素人なのだ、刀の構え方なんてわかりはしない。なので、僕の攻撃方法は、ごく原始的で単純な技――刺突である。
身体ごとぶつかっていくのは何となく怖かったので、右手に握り締めた紅葉切に少しだけ体重を乗せ、着地の硬直で無防備になっている小さな背中に突き出した。
とんっ、という軽やかな手ごたえがあり、紅葉切の刀身はやすやすと矮人の背中に吸い込まれる。この魔物にだって背骨などの硬い部位はあるだろうに、まるでそれを感じさせない。手ごたえのなさこそが恐ろしくなってくる、紅葉切はそんな武器だ。
(やはり、ダメか)
どれぐらい切れ味がいいのか試させて欲しいなどと言い訳をし、紅葉切をカエデから借り受け、弱い魔物を自分の手で刺し殺してみたのだが――その結果、僕ははっきりと自覚した。
(僕は、人が斬りたいらしい)
まるで興奮しないのだ。相手が魔物とはいえ、切れ味を試すという点では大差ないはずなのに、心の中でどす黒くくすぶる殺人への欲求が満たされることはなかった。
僕は魔物ではなく、人を相手にして紅葉切を振るいたがっている。
「ありがとう、カエデ。よくわかったよ」
僕は、魔物ではなく、人が斬りたいらしい。
刃物は大好きだし、その切れ味を試したいという欲望はあるのだが、どうやら人相手でないとダメらしい。我ながら、ひどい欲求だと思った。乾き飢えるほどに人を刺し殺したいなどと、常軌を逸している。
僕は血糊を丁寧に拭った紅葉切を、彼女に返した。
「もうよろしいのですか?」
「ああ。十分わかった。素晴らしい切れ味だったよ」
わかったのは、自らの性癖だ。
日本に住んでいたころは固く自らを戒めていたので、刃物で動物を殺めたりすらしなかった。魔物という存在に、こうして実際に凶刃を振り下ろしてみて、改めて自分は人でなしなのだなと自覚する。
魔物では、僕は満たされなかった。
(人を、殺したい)
紅葉切のような鋭く、美しい刃を人間に突き立てたら、どれほど気持ち良いことだろう。その切っ先で肉を貫く手ごたえは、どれほど甘美なことだろう。
しかし、僕はそれをしない。それが、自らに課した唯一にして絶対のルールだからだ。
僕は、法を破らない。
前世での日本から今日に至るまで守ってきた、僕が自らに課した鉄の掟だ。
「あなた様、顔色が優れませんわ。どうかなさいましたか?」
小さな両の手で、カエデが僕の頬を挟みこんでくる。ほんのりとあたたかい、愛しい手だ。
「大丈夫さ、何でもないよ、カエデ」
そっと、華奢な彼女の身体を抱きしめる。
表情を取り繕うことには慣れていると思っていたのだが、彼女に心配されてしまうようではまだまだである。
ちなみに、人斬りの欲求が暗い発見だとしたら、明るい発見もあった。
性癖という言葉、そして今の状況で思い出したのだが――紅葉切という刀身の状態だけではなく、どうやら、僕は実体化状態で人型になっているカエデに欲情できるらしい。
もし他人が聞けば、当たり前のことだと言うに違いないが、僕にとっては当たり前のことではない。日本で住み暮らしていた頃から、僕は生身の女性に性的な興奮を覚えたことは一度もない。
刃物。そう、美しい刃にしか、僕の下半身は反応しなかった。自慰行為の際も、美しい刃のきらめきに興奮していたものだ。
それが今、僕は人間の姿かたちをしているカエデに欲情している。これは、僕にとって大発見である。
初めは、転生の際に神様が何かいじってくれたのかとも思ったが、カエデ以外の女性には相変わらず興味がないので、恐らくは関係がない。ただ、カエデのみに僕の下半身は反応するのだ。
「何でもないさ。愛しているよ、カエデ」
「なら、よろしゅうございますけど」
何かを誤魔化されたと思ったのか、腑に落ちない声色ではあったものの、カエデは黙って僕の抱擁を受け入れてくれた。
抱きしめたカエデの華奢な肉体は、締まっていて弾力が少ない。人によっては、女性らしくない、やわらかみに欠けた固い身体だと思うかもしれない。
しかし、極限まで鍛え抜かれ、無駄を削ぎ落とされた彼女の身体は、砥ぎ磨かれた紅葉切の刃のように美しい。
その肌は艶やかに輝いていて、立ち居振る舞いに何ともいえない気品がある。
(擬人化っていうんだっけな、こういうの)
カエデとは、紅葉切なのだ。
彼女の肉体は、あの美しい短刀そのものだ。余計な装飾をせず、ただ鉄を鍛えぬき、もっとも自然で美しい肌に仕上げる。
まだ見たことのない彼女の裸身は、きっと紅葉切の刀身のようになめらかで美しいことだろう。
「わたくしも、いつまでもこうしていとうございます。でもあなた様、日が暮れてしまいますわ」
「そうだね。また夜に、かな」
軽くキスをすると、初々しくカエデは頬を染めた。その様はとても可愛く、ともすれば再び抱きしめそうになるが、自分をぐっと抑えて僕は再び山の中を歩き出した。
「残念だけど、レベルを上げないといけないからね」
先日、ルンヌという忍者めいた転生者にカケラを二つも譲渡されてからというもの、僕たちの胸の内には警戒心が芽生えていた。
あのルンヌという転生者のレベルは、264だった。
特典の初期レベル増加を取ったのか、あるいは魔物を狩り続けてレベルを上げたのかはわからないが、すでに圧倒的なまでのレベルを所持している転生者がいるというのは、精神衛生上よろしくない。
もしルンヌという男が、カケラの収集のために他者の殺害も厭わない、いわゆる「やる気」の転生者だった場合、僕は抵抗する術もなく殺されていたかもしれないのだ。それはイコール、僕たちの幸せな生活を奪われることを意味する。
(それに、カケラの問題もある)
僕は、カケラを二つ持っている。一つは元々持っていたもので、残り一つはあの忍者から渡されたものだ。
僕個人としては、これに関してやましいことは何もない。カケラだと知らずに受け取ったのだし、くれたからもらっただけなのだから。
(しかし、他人から見ればどう映るか?)
こんな序盤なのに、二つ目のカケラを所持している転生者――アウトである。
どう考えても、賜を得るべくカケラを集めている、しかも恐らくは暴力によって――そう思われるのは明白だ。
その疑いが濃厚な転生者を目の前にしたとき、果たして友好的に接してくれる人物がどれだけいるだろう?
手元にあるこのカケラは、カケラロイヤルを勝ち抜くために必要なパズルのピースであると同時に、揉め事を呼び込んでしまうジョーカーのようなものでもある。そもそも率先してカケラロイヤルに参加しているわけではないので、僕にとっては邪魔な札でしかない。
あのルンヌという転生者も、それを見越して僕にカケラを譲渡したのかもしれなかった。
(レベル上げ、急がないとな)
こちらから手を出すことはないとはいえ、僕を危険人物とみなして襲ってくる転生者がいないとも限らない。自衛のための力を確保しておくことは、急務と言えた。