盤台哲雄 2
「それじゃあ、行こうか。カエデ」
「はい、あなた様」
狩場へ移動する前に、実体化させた紅葉切と触れ合うのが日課になっている。寝起きと、寝る前。MPが尽きるまで彼女に触れるわずかなひと時が、僕にとって無上の喜びをもたらしていた。
まだ、体を交えてはいない。
紅葉切を実体化させているだけで一時間に120ものMPを消費する上に、戦闘などの激しい運動を行うと消費はさらに増えるので、今の僕では長いこと彼女を実体化させておくことができないのだ。
一時間に必要なMP120に対して今の僕の最大MPは40というところで、MPを0になるまで使い切ってから最大値まで回復するのに、40分かかる。これは特典スキルである魔力回復スキル――MPの自然回復量が五割増しになる――を考慮した上でのことで、普通はMPを100%回復させるのに一時間かかるようだ。
MPの自然回復分を考慮したとしても、カエデと触れ合っていられるのは30分少々というところで、つまり今の僕に、長いこと彼女と触れ合っていられるだけの魔力はない。
(しばらくは、行為はお預けか。レベル上げ、頑張らないとな)
どちらからともなく、唇を合わせる。性急に強く求めることなく、静かにお互いを確かめ合う。ゆっくりと唇を離し、お互いを見詰め合う。朝の静かな時間を、二人で静かに過ごす。充足したひと時だ。
「あなた様、お召し物を」
僕が手に取るよりも早く、紅葉切が一枚の布を取り出して、僕の身体に巻きつけ始める。普段着にしているのは、転生してきた直後に身に着けていたワイシャツではなく、この世界の男性が着ている一般的なトーガだ。
この世界でのトーガというものは、いわゆるサラリーマンにとってのスーツのようなもので、公的な場所ではほとんどの男性がこれを着る。貴族、兵士、商人や農夫、教会の牧師など、国民としての階級に応じた色に染めたものを着るため、トーガの色を見ればその人がどういう人物なのかが大体わかるようになっているらしい。他にも喪服専用の色があったり、女性は一般的に着ることはないが、公的な役職に就いている場合は女性でもトーガを着たり、娼婦は客を取るときのみ専用の色のトーガを着るなど、実に規定は細かい。
なお余談だが、僕が着ている白のトーガ、言い換えれば無色のトーガが表す職業は、無職である。定職に付いていない人間が公的な場で着る衣服がこれで、冒険者などもトーガを着るときはこの色だ。どうも冒険者というのは、この世界では傭兵に近い扱われ方をしていて、実入りはいいが危険で日雇いの仕事をする人、という感じである。
あまり社会的な地位は高くないようだが、一方で街の利益になることを命がけで行う人々と認識されているようで、身分の低さに反してそれなりに敬われているらしい。
大きくてまっさらな一枚布を、ゆったりと身体に巻きつけるこの衣服を、僕は嫌いではなかった。多くの男性は、単なる階級によって許された色のトーガをまとうだけではなく、羽織のようなものを重ねて着たり、アクセサリーを各所に着けて自分のファッションを誇示するようだが、そんなものに興味のない僕はトーガ一枚を身にまとうだけでいつも済ませていた。
「走りにくいんだけどね、この服」
足元まで布が垂れている上に、履いている靴はサンダルである。お世辞にも動きやすい服ではない。
「あなた様のところまで敵を近づけたり致しませぬもの。大丈夫ですわ」
幼さの残る顔立ちをほんのりと朱に染めながら、紅葉切は堂々と宣言した。
僕が「放蕩息子の里帰り亭」に宿泊を始めてから、一週間が経っていた。
宿代をツケにしたのは最初の一日のみで、二日目からは魔物を狩って生計を立て始めた。初日は、冒険者ギルドへの登録と、付近の地理を調べることに費やした。
魔物を狩り、素材や戦利品の魔石を売るには、冒険者ギルドへの登録が必須であるらしく、その登録や戸籍の作成、宿の女将にこの街で生きていくための情報を聞いたり、魔物が出没する地域の情報と行き方を調べたりで、初日は潰れてしまったのである。
余談ではあるが、手元に現金ができたために、「放蕩息子の里帰り亭」の主人であるパルマ夫人に宿代を払い、貴族だと偽っていたことを告白して詫びると、微笑みながら夫人は許してくれた。
何でも、ほぼ初めて会った段階で、貴族ではないということは見抜かれていたらしい。理由を聞いたが、何となくですよ、とやわらかに笑うのみである。
さて、魔物を狩る方法ではあるが――基本的に、僕はほとんどすることがない。紅葉切がすべてやってくれるのだ。
魔物を狩るにあたり、はてどのようにしたものかと、紅葉切を可視化させて相談をすると、彼女は自信満々に言い切ったものだ。
「実体化の魔力を頂ければ、わたくしがあなた様のために戦います」
もちろん僕は驚き、そして止めた。剣の精霊とはいえ、見た目は少女である。そんな彼女に戦わせるなんてとんでもない、と。
「いえ、わたくしは武器であり、その本分は戦うことにあります。あなた様のためにこの身を振るえるのなら、これに勝る喜びはございませぬ」
古風な喋り方をする彼女は、一度言い出したことは引かぬ頑固者でもあった。芯は強く、外見は可憐である。
「そも、わたくしは精霊でございますので、傷ついたところで短刀の状態に戻れば癒えます。もちろん、最充填でしたか? 一度短刀に戻ってしまえば、二分もの間、あなた様をお守りできなくなってしまうのですから、わたくし自身も傷付くつもりはございませぬが」
説得する言葉も尽きたので、ともかくも一度、魔物を狩ってみてから決めようという僕の提案には、素直に頷く彼女である。
「あなた様、いまひとつ、お願いしたい儀がございます。名前を頂戴できませぬか?」
「名前?」
「はい。紅葉切という名は、私を鍛え上げた父である藤四郎殿――吉光が、出来映えを野外で確認している際に、私の刀身の上に落ちてきた枯葉が自身の重みだけで二つに斬れたことから名付けてくださいました。されど、それは刀としての銘であり、人としての名前ではありませぬ。精霊としてではなく、わたくしは人としてあなた様と共に生きたいと願うております。そのための名前を、頂けませぬでしょうか」
「わかった。ちょっと考える時間を貰えるかい?」
「はい。いつまででも、お待ち申し上げております」
「そこまで大袈裟には考えなくていいさ」
じっと、彼女を見つめた。紅葉色の小袖と、袖口の広い黒の羽織。蝶々結びにした大き目の帯と相まって、全体的にふわりとした印象を受ける。現代人ではないせいか、彼女は平均的な日本人よりも一回り小さい。身長も、骨格も、発育のいい小学生と大差ないぐらいだった。それでいて、立派な成人女性だと本人は主張する。
蝶々結びにした黄色い帯には、真っ赤な楓の葉が縫い取られていた。
深まる秋の季節に、そよと吹いた風に乗って、一枚の葉がひらひらと舞う光景が瞼に浮かぶ。
「――楓。カエデという名前を、受け取ってもらえるかい?」
にこりと彼女は微笑んで、何かを押し頂くように胸に手を当てた。
以来、僕の妻の名は楓となった。盤台楓、それが彼女のフルネームである。
剣の精霊である彼女の戦い方は、独特だった。実体化させているとき、彼女の本体である短刀は、僕の懐を離れて彼女の手に握られる。ふわふわとした袖に隠されて、彼女の腕の先は見えない。
「ブホゥ」
いま、僕たちの目の前には、二体の魔物がいる。狂猪と呼ばれる、猪の魔物の番いだ。たった今の鳴き声は、二十メートルほど離れた木陰にいた僕たちに気づいて警戒している声である。
狂猪は、マナを取り込んで通常の猪よりも硬化した頭部と牙で、障害物にぶつかるのもお構いなしに突っ込んでくる、気性の荒い魔物である。僕たちが今いる、草原の街グラスラードから東に少し移動した山の中が主な出没域らしい。
「さて。盤台楓、参ります」
ふわふわとした着物を風になびかせて、彼女は狂猪に近づく。
先ほどまでの間の抜けた鳴き声ではなく、さかりのついた猫が鼻を詰まらせたような唸り声をあげ、二体の狂猪は地を蹴り、カエデに向かって突進するが――カエデは、猪に触れるか触れないかというぎりぎりで、ふわりと頭上を跳び越した。
獲物であるカエデを通り過ぎたために、狂猪はブレーキをかけるように突進をやめたが――首の後ろに紅葉切を生やしていたメスの狂猪は、そのまま横に倒れこんだ。
「まず、一匹」
すれ違う一瞬で、カエデは硬い頭部を避け、首の急所、延髄あたりに短刀を突きたてたのだろう。後ろから見ていた僕にも、いつ攻撃をしたのかわからなかった。
伴侶を殺され、ますます猛り狂った狂猪のオスは、大地を蹴る。もちろん、襲う対象はカエデだ。対するカエデの手には、メスの狂猪に刺さっていたはずの短刀がいつの間にか握られている。
「呪詛」
前に突き出した僕の左手から、漆黒のマナが狂猪にまとわりつく。
闇属性、色級の魔法である呪詛は、相手のステータスを一時的に下げる効果がある。狂猪はいまごろ、全身が急に重くなったことにうろたえているだろう。
特典によって闇属性魔法をマスターしている僕の呪詛は、相手の全ステータスを10%低下させる。数字にすると大したことがないように感じるが、これが実際にかけてみると、驚くほど相手の動きが鈍くなるのだ。
「援護、かたじけのうございます」
動きを鈍らせた狂猪の突進など、カエデにとって避けることなどたやすい。
空に跳んで逃げることすらせず、ゆるやかに狂猪に向かって歩いていったカエデは、ぶつかる直前にわずかに身体をひねってやり過ごした。
「お疲れ様、カエデ」
オスの狂猪は、地面に倒れこんでもがいている。すれ違った瞬間に、首筋を斬られたのだ。頚動脈から血をあふれさせている。
「今夜は、牡丹鍋ですね」
嬉しそうにカエデは微笑んだ。精霊とはいえ、実体化させているときは、共に食事を取ることができる。日本人に食肉の習慣が付いたのは明治のころからで、それまでは薬食いなどと呼ばれて一般人にはあまり浸透していなかったはずだが、カエデは獣肉が嫌いではないようだった。
(また一つ、レベルが上がったな)
自分のステータス画面を見ながら、順調な成長に僕は満足する。
ここ一週間の狩りで、僕のレベルはそれなりに上がった。元は30だったものが、今は52である。一日に二、三時間の狩りしかしていないにしては、良い上がりだと言えるだろう。生活費を捻出しなければいけないという事情もあり、売れる素材が手に入ったときは、一度街に持ち帰る。そうでない魔物を倒したときは、死体が魔石を生むのを待ち、再び狩りへと戻るのだ。
「二頭分は、とても食べれないね。一頭は魔石にしようか」
勝手な思い込みだが、メスの方が肉がやわらかいのではないかと考え、そちらをアイテムボックスに放り込む。動かなくなった狂猪の死体に触れながら、アイテムボックスと念じると、死体は煙のように消えた。
オスの死体には手を出さず、野ざらしにしている。
つまり、食肉として使うのがメス、魔石にするのがオス、ということになる。
なぜわざわざこのように分けるかというと、両立できないからだ。
魔物は死後二分ほど、死体からマナを発散する。これがいわゆる経験値であり、死体のそばにいれば自動的に身体が吸収してくれる。二分ほど経つと死体が一瞬だけ光り、大地に溶けるように消えてなくなり、後には薄紫色の小さな石が残る。
魔物の体内に残留していたマナが凝固したこの結晶が、魔石だ。
この魔石はそのままでは使えないので、冒険者ギルドに売る。僕の主な収入源だ。冒険者ギルドの方で、魔石は加工して様々なことに使われるらしい。
今回のように食べるためだとか、皮革や鱗などを防具に使うなどの理由で死体に用がある場合は、光って消えてなくなる前に触れればいい。その場合、死体は魔石を産まないが、死体が大地に吸収されることもない。
「待ち時間がちょっと手持ち無沙汰だね、カエデ」
「それもまた、良いものですよ。このあたりの山々は風景に素朴な味わいがありまする。異世界の景色もまた、侘びでございますね」
カエデは感受性が豊かで、風情というものに敏感であった。
僕からすると、人や獣が踏みしめた腐葉土の山道や、名前もよく分からない枯れ草や茂み、それに巨木を生い茂らせる鬱蒼とした森山にしか見えないのだが、彼女には何か感じるものがあるらしい。
「僕は鈍いから、風情はあまりわからないんだけど。僕らが命を奪った獲物なんだし、待ち時間で文句を言うのは確かによくないね。経験値も入るんだし」
「ふふ。かなりレベルも上がりましたものね。わたくしも調子が良うございます」
一般人の冒険者が一年かけて、ようやくレベルを倍にできるかどうかが目安だという。たった一週間で30から52へと、ほぼ倍近くのレベルになった僕は、一般人の基準で考えるとすさまじく成長が早いと言えた。
(まあ、無理もない)
いくらレベル成長促進スキルを取得していたとはいえ、これは早すぎるのではないかと当初は思ったが、よくよく考えてみたら不思議でも何でもなかった。
まず、普通の冒険者は、戦闘スキルが育っていない。何とか剣の振り方が様になってきた程度では、さきほどの狂猪を倒すことなどできはしない。ただの猪であったとしても野生動物の突進は恐ろしい武器である。それが大地のマナによって強化され、運動能力が向上した上に頭部と牙が硬化した魔物が狂猪なのである。
そんな狂猪を何人もの集団で囲み、ようやく討伐できる一般人に対して、僕は闇属性魔法と精霊契約のマスターである。先述の通り、狂猪を二頭相手取ったとしても余裕を持って討伐できるし、カエデは経験値を吸わないので、術者である僕一人にすべて経験値が入ってくるため、当然ながら成長は段違いに早い。
僕ぐらいのレベルの一般人だと、もっと弱い魔物を苦労して倒すのが普通なのだから、身の丈に合わない強敵をあっさりと倒せる僕の成長が早いのは自然なことだった。それに加えて経験値が五割増しになるレベル成長促進スキルがあるのだ。
(本当にすごいよ、神様がくれた特典は)
一般人が一年をかけてレベルを倍にするといっても、二十四時間三百六十五日戦うわけではない。休日だって取るだろうし、一日のうち戦闘ができるのはせいぜい数時間といったところだろう。僕が、たった一週間そこらで彼らの一年分を追い越すほど成長が早いのは、当たり前といえば当たり前だった。
要するに――転生者は、一般人とは別格なのだ。
「それじゃあ、帰ろうか。処畜人のところへ寄らないとな」
処畜人は、食肉加工の職人である。彼らのほとんどは、魔物が出没しない西門を出た先の草原で牧畜を営んでいたり、あるいはそういう蓄農家と取引する店を構えていたりする。
ただ、それだと解体が必要な獣や魔物を捕らえたときに、わざわざ街の逆側まで歩いていかねばならず、獲物の鮮度を落とすことに繋がるため、手間を減らす目的も兼ねて、何人かの処畜人が各城門にほど近い肉屋へ出張してきていた。
血抜きの処理さえしっかりしていれば、彼らは毛皮のついた獣の死体そのままを持っていっても、食肉と交換してくれる。熟成の進んだ美味い肉が食べたいならば、彼らとの取引は必須だった。およそ、持っていった死体の三分の一ほどの量の肉と取り替えてくれるのだ。
彼らは毛皮や肉の量で得をする、冒険者はすぐに食べられる肉と交換できる、いわゆる両者得をする関係である。もちろん食肉ではなく、現金とも交換することだって可能だ。僕たちも、食べきれない分は現金に換える。初日こそ手間取って肉の価値を落としてしまったが、僕たちも今ではすっかり血抜きも慣れたものだ。
なお、アイテムボックスの中に放り込んだ死体は、時が止まる。
殺したばかりの死体を入れたならば、何日経っていようとも、殺した直後の状態で取り出せるのだ。もっとも、アイテムボックスの容量を圧迫するので、入れたものはなるべく素早く取り出したいところだ。
「では、あなた様。残りの道も、お気を付け下さい」
「ああ。また夜に――物質化」
帰り道も半ばを過ぎ、圧倒的に格下の魔物しか出没しなくなったあたりで、マナの消費を抑えるべくカエデを紅葉切の状態に戻す。便宜上、人型のときはカエデ、短刀のときは紅葉切と呼称を使い分けていた。
今の魔力量だと、カエデを実体化させておけるのは、一時間に満たない。少し狩りをして、マナが少なくなってきたら紅葉切へと戻して一休みし、マナに余裕ができたらまたカエデを実体化させる。戦利品を溜めたアイテムボックスが満タンになったら、街へと帰る。この繰り返しだった。
今日の狩りは、良い成果だった。狂猪の前にも、何体か魔物を倒している。
レベルが上がったことにより、最大MPやアイテムボックスの容量も少しずつ上昇し、長時間の狩りに耐えられるようになってきていた。このペースで行けば、そう遠くないうちに、一日中カエデを実体化させていられるようになるだろう。
今日の狩場は、山であり、森である。森といっても、木々の間隔が開けていて、足場には困らない。常緑樹の森であるため、地面は腐葉土である。踏み固められているのか、しっかりした土壌を踏みしめつつ、街へ帰ろうとして――
「――?」
ふと、視線を感じたような気がして、首を回した。
僕たち以外の物音も気配も何一つしなかったため、視線を感じたのは気のせいであり、誰もいないだろうと半ば確信しつつ気軽に振り返ったのだが、予想とは違い、第三者の存在がそこにあった。
「――忍者?」
思わず僕がそう呟いてしまったのも、無理はないだろう。
坂の上の林、そのうち一本の樹木の梢に、全身黒ずくめの人物が立っており、じっと僕を見おろしていた。
忍び装束でこそないものの、首から腰までの男性用上着――ツヤを消した黒のダブレットと、黒のタイツ。首から上は、これまた真っ黒な一枚布で目元以外を覆い隠しており、そんな彼が樹木の枝に立っているのである。念の入ったことに両手にも黒の手袋を嵌めていて、目元のわずかな肌色以外は真っ黒であった。
その異様な出で立ちは否応なく忍者を連想させ、それは同じ日本出身の転生者なのではないかという疑問に繋がった。
【種族】人間(転生者)
【名前】ルンヌ
【レベル】264
【カケラ】2
とっさにステータス画面を開くと、果たして彼は転生者だった。一週間目にして、初めて他の転生者と邂逅したことになる。
恐らくは、僕が彼の存在に気づくもっと前から、彼は僕のステータスを見、転生者であることに気づいていただろう。
しかも、その佇まいから、間違いなく僕に用があるのだと推察される。
(一体、僕にどんな用が――?)
全身黒ずくめの忍び装束は、忍者にとっての戦闘服である。平服で他者と交じって行うスパイ活動とは違い、忍び装束を身に纏う以上、何らかの実力行使の予定があるということだった。
(例えば潜入や、暗殺といった――)
僕は、彼の持っているカケラの数に気がついた。
彼の持っているカケラは、二つ。
(もう一つのカケラを、どうやってこいつは手に入れた?)
ごく自然な連想として、他人から奪ったのではないかという推察に至る。
他の転生者を殺害すれば、カケラは奪えるからだ。
さらに驚くべきは、そのレベルの高さだった。一週間かけて僕がレベルを30から52まで上げたというのに、同じ期間で彼は十倍近いレベルアップを果たしている。
(戦闘になったら、勝てないだろう)
レベルアップにより、劇的に身体能力が向上することは身をもって体験済みだ。
ほんの少しレベルが上がっただけでかなりの差を感じるぐらいだから、52と264というレベル差は、絶望的な戦力差と言える。
いっそのこと、先手を取って闇属性魔法で攻撃するという選択肢もあるが、相手の害意が明確でない以上、それも躊躇われた。避けられた戦闘に突入してしまうかもしれないからだ。
僕が固唾を飲んで動向を見守っている中――黒い布に覆われた彼の口元が動いた。
「無罪」
くぐもった低い声でぼそりと呟いた一言が、風下の僕の耳に届いた。
「――なんだって?」
聞き返した僕の言葉に彼は反応せず、かわりに黒の手袋を嵌めた手を開き、僕の方へと向けた。
(――攻撃魔法か!?)
とっさに身構える僕の動きに反して、彼は微動だにしなかった。
「受け取れ」
彼の言葉とともに、七色に光り輝く何かが、彼の手のひらから現れた。
それはふわふわとゆっくり宙を飛びながら、僕の方へと飛んでくる。
害意のある物体には見えなかったので、その光に向かって僕は手を伸ばした。
それが、「受け取る」という意志表示としてみなされたのか――七色に輝く光は、僕の手のひらにすうっと吸い込まれていった。
「あっ、待て――」
僕の手のひらに光が吸い込まれるのを見届けた彼は、もはや用はないと言わんばかりに、踵を返し、去っていった。
すうっと空気に溶けるように姿を消し、恐らくは木から木へと飛び移りながら。
「何だったんだ、一体?」
彼のやりたかったことは不明だが、恐らく僕は、命の危機を脱したのだろう。
張り詰めていた緊張を解き、大きく息を吐いてから、彼は一体何の用事があり、受け取った七色に光り輝く物体は果たして何だったのか――
そこまで考えて、僕はとあることに思い至った。
「さっき受け取った七色の光、もしかして――」
急いで僕は自分のステータス画面を呼び出す。
僕の予想は、当たっていた。
僕の持っているカケラの数が、一つ増えて、二個になっていた。